VIII.
霧のような細かい雨が、やり場のない怒りと悲しみに震える肩を静かに打つ。
ついさっきまで、雲の切れ目から太陽が顔を覗かせていたのに、今、空はどんよりと重く暗い。
時折、強い風が行く手を阻むように吹き付け、濡れた体からぬくもりを残酷に奪っていく。
かまわない。もっと強く吹けばいい。
唇を噛み締め、敢えて風に晒すように面を上げる。
もっともっと強く吹いて、この頬をしたたかに打て。
凍えさせてくれ。痛みも何も感じないほどに。
いっそ、粉微塵に砕けてしまった心を、散り散りバラバラに吹き飛ばしてくれたら。
どうして・・・？
なぜなんだ？
いったい・・・いつの間に？
じんじんと耳鳴りがして、周囲の音が何も聞こえない。
目の前が真っ暗になる、というのはこういうことだったのか。
生まれて初めて味わう、強烈な挫折感。完全なる敗北。
なぜだ？
なぜ、よりによって・・・？
無駄と知りながら、幾度も自問せずにはいられない。
絶望に表情を強張らせながら、ハインリヒは呆然と駅へと向かう道を歩いていた。

６時間目の授業が終わったあと、フランソワーズは１０日ほど前のちょっとしたハプニングのことで、元帥に呼び出されていた。
なんでも、夕方のラッシュの電車の中で脳貧血を起こした老婦人を、偶然乗り合わせた彼女が介抱したのだという。彼女はわざわざ次の駅で電車を降りて、駅の医務室まで付き添っていった。名前も名乗らずに立ち去った彼女を、老婦人は学校の制服を頼りにようやく探しあてたということらしい。
その女性からのお礼の手紙を預かっているので、あとで準備室にとりに来るように、と元帥は言った。
嫌な予感がした。
手紙ぐらい勿体つけずに、教室に持って来ればすむことなのに。
アイツはいちいち、彼女を呼びつけようとする。それも職員室じゃなくて、準備室に。
最近、だんだん露骨になってきたような気がする。
決して表情には出さないけれど、彼女はとても嫌がっているのだ
夏休みの宿題を自分が代わりに行くと言った時、どれほど彼女はホッとした顔をしただろう。
まだ誰も気づいていない。だから、自分がさりげなく気をつけてやらなければ。
あんな奴に手出しされるぐらいなら・・・
居ても立ってもいられなくなったハインリヒの足は、いつの間にか準備室のある２階に向かっていた。

珍しく準備室のドアは開いていた。
しかし、中に彼女の姿はない。
―――と、教科書とプリントの山の向こうから、不機嫌極まりない鋭い視線がハインリヒに投げつけられた。
ぎょろりとした元帥の目と一瞬ぶつかる。だが、すぐに元帥は視線をそらした。
（嫌な奴！）
彼女がいないのなら、こんなところに用はない。
舌打ちをしつつ、そそくさとその場を離れた。
階段を登り、教室の前まで戻ったその時、後方のドアから彼女が勢いよく飛び出して来た。
（フランソワーズ・・・？）
ひどく慌てているようだ。
声をかける間もなく、彼女の姿は廊下の向こうに消えた。
いったい何があったのだろう？あんなに取り乱して。
まさか―――さっき、元帥に呼び出されたことと関係があるのだろうか？
どこへ行く気だろう？廊下の向こう側は、屋上へ続く階段があるだけなのに。
屋上といえば、伝統的に「そういう連中」の休憩場所になっている。
今は島村ジョーの指定席。トラブルに巻き込まれるのを恐れ、誰も決して近づこうとしない。
（まさか？！・・・呼び出された・・・のか？・・・アイツに？！）
待て。
落ち着け、とハインリヒは自分に言い聞かせた。
屋上、というだけでなぜ短絡的にアイツと結び付けようとする？
６時間目が元帥の数学の授業だったから、島村ジョーはとっくに学校から姿を消している。
（俺はいったい何を考えてるんだ？）
ただ、血相を変えて飛び出していった彼女の様子は尋常ではなかった。
何かあったに違いない、とハインリヒは慌てて後を追った。
３段飛ばしで階段を駆け上がる。
途中の踊り場にたどり着いた時、頭の上で、ギイイ、と蝶番が軋んだ音を立てた。
ハッと見上げた瞬間、ガシャン、と重い響きを残して鉄の扉がきっぱりと閉まった。
数秒遅れてその前に立ったハインリヒは、一瞬躊躇した。
ノブを握る手が無意識のうちに震える。
何かが、自分に忠告している。ここを開けてはいけない、と。
しばらくその場に立ち尽くす。
そして―――何分たっただろう。
誰も出てくる気配はない。
開かないドアをじっと睨みつけていたハインリヒは、躊躇を振り切るように大きく息を吐くと、ゆっくりとノブを回した。

ドアを開けた途端、ひゅうう、と風の音が強く鳴った。銀色の髪がさあっと吹き上げられる。
眩しい。思わず目を細める。
速いスピードで流れていく雲の切れ目から、柔らかな黄金色の太陽の光が零れていた。
慎重にドアを閉め、そっとあたりの気配を探る。
―――と、話し声がした。
貯水タンクの向こうだ。
誰かが笑っている。
男の声？
いったい誰が？
あの声は―――誰だ？
破裂しそうな胸の鼓動を懸命に抑えながら、ハインリヒは足音を忍ばせて、ゆっくりとタンクに近づいていった。

タンクの角からそっと覗いた屋上の隅に、男が一人、栗色の髪を強い風になびかせ、柵にもたれるようにして立っていた。
予想通り、島村ジョーだった。
（・・・ひとり、か？）
奇妙な安堵感がハインリヒの胸に満ちた。全身の強張りが一瞬にして脱力に変わる。
（俺はいったい、何を心配していた？）
だが―――
だが、よく考えると、やっぱりおかしい。
（・・・コイツが・・・ひとりで・・・笑ってた？そんな、まさか！）
ありえない。だいたいコイツの笑顔など、想像すら出来ないのに。声を上げて笑うなんて。
それに、確かに彼女は・・・
と、その時―――
ハインリヒの疑問に答えるように、くしゅん、と可愛いくしゃみの音がした。
「寒い？」
穏やかな、優しい声が尋ねた。
今のは・・・まさか・・・あれが・・・島村・・・ジョー・・・の声？
少し体を起こしたジョーの肩の向こうに、もう一人誰かがいる。
真横に見るこの場所からは、ジョーの隣はちょうど死角になっていたのだ。
また強い風が吹きぬけた。
と、亜麻色の髪がジョーに纏わりつくようにふわりと広がる。
（ま、まさかっ？）
突然、激しい耳鳴りが襲う。動悸がとんでもなく速くなっていく。呼吸が出来ない。
まさか・・・？やっぱり、じゃないのか？
「ううん、大丈夫・・・」
あの宝石のような蒼い瞳が、甘えるようにジョーを見上げている。
（・・・フラン・・・ソワーズ？！）
彼女はジョーの腕にすがり、そっと頬を寄せた。
「こうしてたら・・・ちっとも寒くない」
ジョーはもう一方の手で、風に乱れた亜麻色の髪を優しくゆっくりとかき上げた。


「なあ、どうしたんだよ、さっきからため息ばかりついて」
ジェットは、ずっと黙り込んだままのハインリヒを心配そうに覗き込んだ。
「お前、顔色悪いぞ」
頼むから、放っておいてくれ！
これ以上かまわれたら、何を言い出すか自分でもわからない。
だが、完璧に打ちのめされた今のハインリヒには、ジェットに向かってその言葉を口にする気力さえなかった。
「しっかし、今日は寒いな〜。この風、うっとおしくてたまらねえぜ。ばっちり決めたセットが乱れちまう」
ジェットはジェットなりに、自分に気を使ってくれている。それはわかる。
だが、今は―――誰とも話したくない。
特に、彼の大らかさがとにかく神経を苛立たせる。
「そうだ！駅まで走ろうぜ！勝ったほうがたこ焼きおごるってことで、どうだ？」
ま、どう見たって俺の勝ちだけどよ、とけらけらとジェットは笑った。
（もう・・・キレそうだ・・・）
爆発寸前のマグマの突き上げを、ハインリヒはぎゅと唇を噛んで堪えた。


いったい、いつの間に２人はあんなことになっていたのだろう？
全く何も知らなかった。
一時は―――夏休み前は、気になったこともあった。
でも最近、２人が話しているところなど、見たことがなかった。
むしろ、以前より自分との距離が縮まったような気さえしていたのに。
勉強のこと、読んだ本のこと、将来のこと。
クラスでまともにそんな深い話が出来るのは、彼女だけだった。
いつも、フランソワーズはあの瞳を輝かせて、自分の話を聞いてくれたのに。
ジョーが彼女に思いを寄せるのはともかく、どうしてフランソワーズが？
彼女は、クラスの中で孤立して何かと悪者にされがちなアイツに同情していただけじゃないのか？
でも、あんな場面に遭遇すれば―――ジョーが一方的に彼女に迫っていたのではないことは一目瞭然だった―――彼女もジョーのことを・・・そうとしか思えない。
２人は幸せそうに見つめあっていた。
まるで世界中には２人きりしか存在していないみたいに。
あの男が、あんな顔するなんて。あんな声で。島村ジョーは全くいつもと別人だった。
いったいいつの間に？いつから？どうして？
口に出すこともできないほど大切な思いだった。
彼女は、そう、自分にとって永遠の女性だ。
今の自分は、まだ彼女にふさわしい男ではない。
でも、いつかきっと・・・
そう思って、そっと心の中で育んできたものを、いきなり目の前で踏みにじられた。
しかも、よりによって・・・あんな奴に。

「・・・なぜなんだ？なんで、よりによって・・・」
「よりによって、何でたこ焼きなんだってか？ついこの間、駅前においしい店が出来ただろ？あ・・・お前、たこ焼き嫌いか？じゃあ、ラーメンでもいいぜ」
ずっと黙っていたハインリヒがようやく口をきいたことで、ジェットはホッとしたらしい。
「カワイ子ちゃんのいっぱい居るケーキ屋でもいいしよ」
調子づいてぺらぺらと軽口を叩いては、一人楽しそうに笑っている。
（笑ってる場合じゃないんだぜ、ジェット！）
お前はファンクラブの会長のくせに、何にも知らないで暢気にしてやがって。
よりによって、相手は・・・
「そうそう！おまえがブスっとしてたから、肝心の話を忘れるところだったぜ！飛び切りのネタ、教えてやろうか？」
「・・・・」
「ちぇ、今日は相当機嫌悪いな、お前。だが、お前だって愕くぜ！！不機嫌だって吹っ飛んじまうぞ。アイツがどうしてこの頃ちゃんと学校に来てるか不思議だったんだが・・・いっぺんに謎が解けたんだ」
「アイツ？」
ハインリヒは初めて顔を上げてジェットを見つめた。
「女がいたんだ」
「・・・女？」
そうさ、とジェットは大げさに肩をそびやかし、にやりと笑った。
「金曜の夜にさ、ばったり出くわしちまったんだよ。アイツに・・・」
「アイツって・・・ジョーのことか？」
かすれた声でハインリヒは尋ねた。聞くまでもないことだとわかっていたのに。
おう、そうよ、とジェットは早足で歩きながら、勢い込んで話し始めた。
「７時ちょっと前だったかな、隣町の坂下公園でさ、ばったり、って言うか、向こうは気づいてなかったはずだがな」
ハインリヒの顔がさっと蒼ざめる。
「お前・・・なんでそんなところに？」
確か、その近くに彼女の通っているバレエ教室がある。
だが、ハインリヒの変化には全く気づかないジェットは、「野暮なこと聞くなよ」とおどけた調子でウィンクした。

まさか、島村ジョーが女の子とキスしてるところに出くわすなんて。
びっくりして咄嗟に木の陰に身を隠した。
あれは―――間違いない。ジョーだった。
なのに肝心の相手の顔が暗くて見えなかった。
だが、ここでおめおめと引っ込めるか！
確かめないわけにはいかない。こんな特ダネ、このまま放置できるはずがない。
息を殺して様子を窺いながら、木の陰からそおっと顔を出そうとした時、足音が近づいてきた。
慌ててまた身を隠す。
潜んでいるジェットには気づかず、ジョーはすたすたと駅のほうへ歩いていった。
（ありゃ？ひとり？じゃ・・・相手は・・・？）
反対方向を振り返ったジェットの目に、見慣れた制服のスカートを履いた白い脚がちらりと映った。
（え？？？って、ことは・・・うちの学校の生徒？誰だ、いったい？）
だが、その影はあっという間に公園の反対側に走り去ってしまった。

いったい誰だったんだろう？
この土日、そのことばかり考えていた。
むっつりスケベ・ハインリヒ――密かにジェットはこう呼んでいた――に、この飛び切りのネタを振ろうと、週明けの今日一日、ジェットはうずうずしながら放課後を待っていたのだった。
勉強以外のことには興味なさそうな顔をしていて、ハインリヒは案外その手の噂話に通じていた。
「おい！！相手は・・・誰だろう？お前・・・誰だと思う？」
無言でハインリヒはため息をつき、つっと目をそらした。  
しかしな、相当お熱いキスだったぜ、とジェットは肩をすくめた。
「ジョーのやつ、相当入れ込んでるな」
ジョーの相手。思いつかない。少なくとも１年生には居ない。
誰だろう？あのジョーが、溺れるくらいの女・・・とは。
待てよ。てことは、やっぱりフランソワーズとは、何でもなかったんだな。
夏休み前は、珍しくあのジョーがずいぶんと彼女にだけは打ち解けていたから、ひょっとしたら、なんて思ったこともあったのだが。
最近、２人には何の接点もないようだし。
大きな声ではいえないような秘密結社――まあいちおう表向きはファンクラブということになっているが――の会長を務めるジェットとしては、余計な男が近づかないに越したことはない。
どう考えたって、フランソワーズのような清らかでけがれを知らない乙女にジョーのような男は全く釣り合わない。それに彼女が相手にするはずがない。
あのジョーには、少しぶっ飛んだくらいの女がお似合いだ。
だから、とジェットは残念そうに呟いた。
アキなんか、ピッタリだと思ったんだけどな。
だが、その目論見は大失敗に終わった。ジョーとアキの取り巻きとの間で何かトラブルがあったらしいが、詳しいことはわからない。
もっとも―――その件でジョーから逆恨みされても仕方がない、と周りからさんざん脅されていたジェットは、そんな様子は億尾にも見せないジョーに、強い男気を感じていた。
（アイツは、ただの不良じゃない。なかなか見所があるぜ！）
普通の女じゃ、ジョーの相手は務まらない。
となると―――やっぱり上級生か。
「そうか！！！」
思わず大声を出して、周りを見渡し、慌てて声をひそめた。
「この間から、朝・・・学校来るときにアイツにちょっかい出していたあの・・・巨乳の２年生か？」
なるほどね、と一人ごちたジェットは、大きく舌打ちした。
「ちぇっ！！うまいことやりやがったな。しかしアイツ、ああいうのが好みだったのか。巨乳ね・・・そうかもな」
ハインリヒが振り切るように歩くスピードを上げたのにも気づかず、ジェットは一人喋り続けていた。
「あの女が相手なら、そりゃあ、もういつもいい思いしてんだろうな。道理であんな激しいラブシーンになるわけだ。あん時だって、どっちかって言うと女の子のほうが迫ってるって感じだったもんな。くうううう、羨ましいぜ、全くよう。確かに、後ろ姿だけでも色っぽいって言うか、もうむんむんと淫乱な雰囲気が漂って・・・」
突然、前を歩いていたハインリヒがキッと振り返り、ジェットの胸倉を乱暴に掴むと、吐き捨てるように叫んだ。
「黙れ！！大馬鹿野郎！！！」
一瞬呆気に取られて息を呑んだジェットは、次の瞬間真っ赤になって叫び返した。
　「な、何だよ！！！てめえ、この俺に向かってケンカ売る気か？何に落ち込んでるのか知らねが、このジェット様がこれほど気を使ってやってるのに、その言い方はねえだろうが！！！！」
「誰が気を使ってくれといった？余計なお世話だ！！！気を使うような神経なんかないくせに、馬鹿がよく言うぜ。え？馬鹿に馬鹿だといって何が悪い？お前の脳味噌、ピンク色に沸騰してるだろうが！」
ブチッ。
今、確かにジェットの頭で血管が切れる音がした。
「この野郎〜〜〜〜！！！！！！！！！！」
カバンをバシッと地面に叩きつけ、ブレザーを脱ぎ捨てると、ジェットは凄まじい勢いでハインリヒに殴りかかった。


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