| 軋んだ音を立てて、電車がホームに滑り込んでくる。 そのたびに、ジョーの目の前を慌しく通り抜けていく群集。 そして、ほんのしばらくの間、駅に静寂が戻る。 だが、またすぐに電車が入ってきて、静けさは打ち破られる。 何度も、何度も繰り返される、潮の満ち引きのような人の動き。 それをぼんやりと眺めているうちに、壁にかかった時計の針はとっくに７時を回っていた。 （遅い・・・） イライラしていると、つい目が売店横のタバコの自動販売機に向いてしまう。 けれど、すぐ前の交番で暇そうに座っている警察官が、さっきから胡散臭そうに、ジョーをちらちらと見ていた。 ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、ドン、と壁にもたれると、大きく息を吐いて天井を仰いだ。 ６時半を過ぎても、彼女は姿を見せなかった。 外はもう真っ暗。アパートの周辺は人通りも多くない。 心配になって、外に出て様子を覗っているうちに、気がついたら駅まで来てしまっていた。 今夜は特に風が冷たい。 本当は、今、部屋から出るのは、かなりまずいタイミングだったと思う。 昨日、教師連中は誰も姿を見せなかった―――つまり、今日あたりやって来るということだ。 伊達に今まで何度も謹慎を食らっているわけではない。もう教師たちの行動パターンは読めている。 でも、と心の中でジョーは嘲った。 こんな生徒、ほっときゃいいのに。 ただ「家庭訪問した」というアリバイを残すため。そのためだけに、わざわざ１日おきに様子を覗きに来るなんて。ったく、ご苦労さんなことだ。 どうせ自分がまともに謹慎しているとは、誰も信じていないだろうし。 とはいうものの、奴らが来た時に部屋にいなければ、話は俄然ややこしくなる。 １日や２日、謹慎が伸びるのは一向に構わないが、余計な説教は、ご免被りたい。 しかし、今はそんなことは言っている場合ではなかった。 ―――いったいどうしたんだろう？何が・・・あった？ ジョーはまた時計を見上げて、きつく唇を噛んだ。 この腕の中に確かに彼女がいた。 柔らかなぬくもり。穏やかな寝息。そして――― あの時のことは全部夢だった。そんな気がしてならない。 日がたつにつれ、現実味はどんどん薄れていく。 あれ以来、彼女と言葉さえ交していない。 この２週間、仕事が立て込んでいて、授業が終わると同時に学校を飛び出す毎日だったから。 同じ教室に半日以上一緒にいるのに。 でも、だからどうだというんだ？ どうしようがある？ 教室で彼女に話しかけるなんて、できるわけない。 休み時間、フランソワーズの周りには、いつも女の子たちの賑やかな輪が出来ていた。 柔らかな微笑を浮かべ、楽しげにお喋りに興じている彼女は、輝くばかりに美しかった。 とても自分の手など届かない、女神さながらで。 机に突っ伏したまま、時折前髪越しに様子を窺う。 それが、ジョーにできる精一杯のことだった。 みんなにも、彼女にも、気づかれないように、そっと。 どうしてこんなに落ち着かないんだろう。 彼女を見ていると、いや、彼女のことを考えているだけで。 それでいて、とても優しい気持ちになってしまう。 優しい気持ち？ ありえない。 そんな感情が自分自身の中に存在しているなんて。今までの自分からは、とても考えられない。 でも――― 再び、人の波がどっと改札へ向かって押し寄せてきた。 その中で、何かがきらりと光る。階段を駆け降りてくる亜麻色の髪。 （フランソワーズ！！） 彼女はジョーには気づかず、改札をそのまま走り抜けていった。 慌てて後を追う。 最悪のタイミングで、交差点の信号が黄色から赤に変わった。 かまわず突っ込もうとして、派手にクラクションを鳴らされ、ジョーは大きく舌打ちをした。 「フランソワーズ！！」 周りがびっくりして振り返るほどの大声で叫ぶ。 けれど、彼女の姿はもう見えなくなっていた。 暗い海沿いの坂道で、ようやくほっそりした後ろ姿をとらえた。 闇の中に、まばらな外灯を受けて、明るい色の髪が揺れ、すんなりした脚がぼんやりと白く浮かんで見える。 （なんてすばしっこいやつ！） 全速力で追いかけているのに、なかなか追いつけない。 胸が熱くなる。 あんなに一生懸命走って、彼女が行こうとしている場所。それは――― 少し遅れてジョーがアパートに着いた時、フランソワーズは階段の下で手すりにつかまり、うつむき加減で呼吸を整えていた。 はあ、はあ、と細い肩が、大きく上下に揺れている。 彼が近づいてきたことには、全く気づいていないようだ。 ジョーはそっと背後から忍び寄って、いきなり抱きしめた。 「・・・っ？！！」 華奢な体が息を呑み、瞬時に強張る。 「・・・心配・・・した・・・」 柔らかな髪に顔を埋める。 「・・・・・・？！」 「あんまり・・・遅いから・・・」 フランソワーズは、怯えた表情を浮かべて肩越しに振り返った。 「・・・ジョー・・・？！」 抱きしめる腕に力をこめ、震える声に無言で答える。 「ああ・・・びっくり・・・した・・・」 ほっとして全身から力が抜けたのか、彼女の体がぐらりと揺れた。 慌てて抱きとめた。 「ひどい・・・わ。びっくり・・・させないで・・・。心臓が止まるかと・・・」 まだ息を弾ませながら、彼女は涙声でそう言った。 「ごめん・・・。でも・・・」 「・・・もしかして・・・迎えに・・・来てくれたの？」 潤んだ瞳が、じっとジョーを見つめる。 「ごめんなさい、遅くなって・・・」 ジョーは黙ったまま、冷たく凍えた彼女の手をとって、階段を上り始めた。 玄関で少し躊躇しているフランソワーズをうながし、部屋に入る。 いつもは開けっ放しだ。だが、なんとなく気になって鍵をかけた。 でも・・・これって・・・誤解・・・されるだろうか？ こっそり彼女の表情をうかがう。 フランソワーズは全く気にとめる風もなく、所在なげに小さなテーブルの上に散らかった教科書やノートを眺めていたが、やがて自分のカバンの中からノートを取り出し、その上にそっと載せた。 「数学は全部写したの。でも・・・ちょっと時間なくて、英語はこのノートおいていくわ。授業中書きなぐったままだから・・・見づらいかもしれないけど」 「いいよ、別になくても。お前が、困るだろ？」 「明日は英語、授業ないし・・・私は、大丈夫。こんなテスト前に学校休んだら・・・ほんと大変だもの。だから、ね・・・」 ジョーは困惑したような微笑を浮かべて、フランソワーズを見つめた。 「ほんと、お前って・・・」 少し紅潮した柔らかな頬に、そっと手を伸ばす。 「ジョー・・・」 ゆっくりと顔を近づけた。微かに震える長いまつげが、伏せられていく。 唇がほんのわずか触れた。その時――― ガチャ、とドアのノブが乱暴に回された。２度、３度。 続いて、 ドンドン、と戸を激しく叩く音。 ２人は、ハッと体を離し、顔を見合わせた。 「ま、まさか？」 ジョーはフランソワーズの手を強引に引っ張って畳の部屋に連れて行くと、押入れを開けて布団を引きずり出した。 「暗いけど・・・しばらく・・・ここで・・・我慢して」 ジョーの囁くような声に、フランソワーズは黙って頷いた。そっと抱き上げて彼女を中に入れると、急いでふすまを閉めた。 なんてタイミングなんだろう。どうして、こんな時に。 いや、自分の読みどおりじゃないか。何とかこの場をやり過ごすしかない。 ドンドンドン！！！ 「おい、島村！早く開けろ！」 あの声は、予想通り指導部長の山田だ。 ジョーは彼女の靴を流しの下に隠し、ぐずぐずとドアを開けた。 ３０分後―――鬱陶しい連中は、ようやく姿を消した。 ジョーは、慎重に玄関に鍵をかけてから、一気に息を吐き出した。 急いで、押入れのふすまを開ける。 「フランソワーズ・・・もう、・・・・・・ん？」 彼女は、蹲るように座り、両手で顔を覆って泣いていた。 「フランソワーズ？！どうしたんだよ？」 慌てて抱きおろす。彼女は布団の上に座り込んだまま、激しく泣きじゃくり始めた。 こんなに真っ暗で、かび臭いところに３０分以上も閉じ込められていたんだから、無理もないか。 彼女は、大事に大事に育てられたお嬢さんなのに。 この間といい、今夜といい、自分と一緒にいるとほんとにロクなことにならない。 泣かせてばかりだ。 ジョーはため息をつきながら、彼女の両肩にそっと手を置いて、優しく言った。 「もう・・・大丈夫だから・・・泣くな」 「ごめんなさい・・・」 「え？」 「私のせいで・・・」 「何でお前が謝るんだよ。ごめん、こんな場所に押し込めて・・・」 それに、アイツらが来るのはわかってたんだから、とジョーは明るく言った。 違うわ！と、彼女は激しくかぶりを振った。 「あの・・・ノートのせいで・・・うぅ・・・」 なんだ、そんなことか、とジョーは声をあげて笑った。 「違うよ。アイツら、いつもあんなんだ。今日はたまたまお前のノートを見つけたから・・・それをネタにしただけ。気にすんな」 「でも・・・でも・・・酷すぎるわ！あんな言い方！どうして・・・」 信じられなかった。 あの指導部長の山田は、廊下ですれ違うたび、よう！と機嫌よく声をかけてくる。 ものわかりのいい、陽気なおじさんだと思っていた。 それが・・・ジョーに対してはあんな・・・酷いことを・・・。 どうして泥棒呼ばわりなんかするんだろう。ジョーがそんなことするわけないのに。 山根のことも。 謹慎してるジョーが、入院中の彼を脅したりできるわけないじゃないの！ 長谷川先生が、ちゃんとほんとのことを話すように言ってくれたに違いない。 なのに・・・ そして、元帥。 何て人！！信じられない！ 自分には、あんな猫なで声を出すくせに。 酷すぎる。あそこまで、裏表のある人だったなんて！ エリカの言っていたことは本当だった。ううん、それ以上だった。 自分は何も知らなかった。全然わかってなかった。 ジョーは今まで、ずっと・・・あんなふうに・・・ 泣きじゃくるフランソワーズの肩を、ジョーはそっと抱きしめた。 「俺は・・・気にしてない。もう、慣れてる」 「だめよ！！そんなの・・・慣れちゃダメ！！」 ジョーは、彼女の剣幕に驚いて、蒼い瞳を見つめた。 「・・・フランソワーズ？」 「だめ！許さない！絶対・・・あんな・・・」 頬を怒りで真っ赤に染めて、ぽろぽろ涙をこぼしながら、フランソワーズは叫んだ。 「あんな・・・先生たち・・・絶対・・・絶対許さない！ジョーもそんなの、許しちゃダメ！慣れちゃ、ダメよ！！」 「フランソワーズ・・・」 その激しい口調に、ジョーは完全に圧倒されていた。 そうだ。 彼女は、ただ綺麗でおとなしいだけのお嬢さんじゃない。 そんなこと、最初からわかっていた。だからこそ、自分は・・・ まともに彼女と喧嘩したら―――たぶん俺は、いや、絶対、負ける。 １６年間生きてきて、コイツには敵わないと思った人間など、一人もいなかった。 でも、彼女は―――違う。 今まで感じたことのない熱い何かに心が満たされていくのを感じながら、ジョーは、涙に濡れた頬をそっと両手で優しく包んだ。 はっと泣き止んだ彼女が、おずおずとジョーを見上げた。 「でも、大丈夫」 「ジョー・・・？」 ―――俺には・・・お前がいるから。 潤んだ蒼い瞳から、また涙がどっと溢れた。 「ほんとに・・・そう・・・思ってくれるの？」 この上なく柔らかな微笑み。 茶色の瞳から放たれる優しい光が、今、彼女を包んでいる。 「ジョー・・・」 頬の涙をゆっくりと指が拭う。 小さく頷いたジョーの首に両手をまわすと、フランソワーズはぎゅっと彼に抱きついた。 |
| → ☆illustration☆ |