すでに陽は沈み、遠くの山々が茜色の残照に染まる空に、影絵のように浮かんでいる。
校舎から息を切らせながら駆け出してきたフランソワーズは、校門を出たところで誰かに声をかけられ、あわてて立ち止まった。
「え？・・・・っと・・・」
「ねえ、一緒に帰らない？」
背の高い、涼しげな顔立ちの少年。でも―――誰だろう？
あたりにたむろしていた数人の女の子たちが、彼をうっとり見つめている。
「あの・・・私・・・ちょっと急いでるんです。ごめんなさい」
とりあえず笑顔を浮かべてそう言うと、フランソワーズはさっさと歩き出した。
「早足なら、僕も大丈夫。駅まで一緒に行こうよ」
肩を並べて歩こうとする彼に気づかれないように、心の中で小さくため息をつく。
もしかしたら、この人は・・・・３年生の松田とかいう人だったかもしれない。
声には聞き覚えがある。そう。たぶん―――昨日の電話の主だ。

最近、とみに頻繁にかかってくる男の子達からの電話。
フランソワーズが当惑しているのに気づいたジャンは、まだ新しい家の電話を、さっさとナンバーディスプレイつきの留守番電話に変えてしまった。
『まだ、あの電話、１年も使ってないのよ。もったいないわ』
『それくらい安いもんだよ。いいか、僕がいない時は、ずっと留守録にして、変な電話には出るな』
番号が表示されるから、友達からの電話にだけ出ればいい。もう見ず知らずのしつこい相手に応対する必要もない。
しかも留守番電話の応答メッセージは、ジャンの流暢なフランス語だ。
たいていの男の子はこれにびびって、ろくにメッセージさえ残さずに切ってしまう。
新しい電話機に変えてから、鬱陶しい電話は激減した。
（お兄ちゃん、ほんとに心配性なんだから・・・）
外務省きっての切れ者だと言われているのに、妹の自分のこととなると、大切な仕事も放り出して駆けつけてくれるような兄。
優しくて、頭が良くて、ハンサムで。昔から、スポーツでも何でも万能だった。
エリカの話じゃないけれど、ジャンは、妹の自分から見ても、とても素敵な男性（ひと）だと思う。
今まで、世界で一番好きなのは誰？と聞かれたら、迷わず、それはジャンだと答えていた。
―――でも、今は・・・
ジャンは、自分にボーイフレンドが出来ることに反対しているわけじゃない。
その証拠に、夏休み前に訪ねてきたジョーには、わざわざパリの住所まで教えていたもの。
でも、もし・・・あんなことを知ったら・・・

街灯が次々と点灯していく。冷たい蛍光灯の光。
薄闇の中、何組かの仲睦まじそうなカップルが肩を寄せ合って歩いている。
松田は、一人で懸命に何か喋っているようだ。
「昨日さ、電話したとき、まさか君が出てくれると思わなかったら、すごく嬉しかったんだ。お兄さんだったらどうしようかと思って・・・。でも、キミに電話するために、外大生の姉貴にフランス語、教えてもらってたんだよ」
昨日は、出ないわけにはいかなかった。
だって、松田は公衆電話からかけてきたから、てっきり・・・
「でさ、今度の日曜なんだけど・・・」
どこからか漂ってくる美味しい匂い。
（あの時は、カレーだったけど、これは・・・すき焼きかしら？）
２人でこの道を一緒に帰ったのは、たった１度だけ。
思いが通じたはずのあの日からも、彼は少しも変わらなかった。
もしかしたら、あの日のことは夢だったのかもしれない、と思ってしまうほど。
その翌日―――体育祭の次の日も、せっかくの代休なのに、朝早くからアルバイトがあるからといって、彼はさっさと帰ってしまった。朝ごはんも食べないで。
学校ではもちろん今までどおりだ。休み時間にも、言葉を交わすどころか、彼は自分のほうをちらりとも見ようとしない。
そしていつも６時間目が終わると、ホームルームをすっぽかしてさっさと帰ってしまう。
あの時、確かに彼は言ってくれた。そして・・・
でも―――それはもう３週間近くも前のこと。本当に、あれは夢だったのかもしれない。
日がたつにつれ、そう思わずにはいられなくなっている。
（だって、あれから、全く・・・何も・・・）

「・・・え？マジ？」
「じゃあ、つき合ってるってこと？うっそお！」
さっき校門にいた３人ほどの女の子のグループが、松田と自分を意味ありげに見ながら、何やらひそひそと言葉を交わしている。
―――違うわ！そうじゃないの！
大声で叫びたかった。
ジョーとこんな風に一緒に帰ったり、休み時間にも一緒にいられたら。
そしたら、もう変な誤解もされないし、余計な気遣いもしなくていいのに。
でも、きっとそれは無理。
ジョーは、そういうこと、きっと好きじゃない。
他のカップルたちのように、手をつないで一緒に帰ったりするなんて、ありえない。
あのジョーが、女の子と・・・なんて、やっぱり想像できないもの。

そんな彼が、おとといは、珍しくホームルームの最後まで教室に残っていた。
席に座ったまま、帰る用意をしていると、ふと強い視線を感じた。
顔を上げると、教室を出ようとしている彼と、ほんの一瞬、目が合った。
何か言いたげな、茶色の瞳。ただ、それだけで嬉しくて。
すたすたと歩いていくジョーの後を、あわてて追いかけた。
校舎を出たところで、また彼が振り返った。
と、その時、あの５組の山根が、急にジョーに突っかかってきた。
ジェットの話によれば、山根は、本当は気の小さなお調子者だという。
おそらく、自分で手出しをしても、ジョーにこてんぱんにやられるとわかっている２年生の不良グループに、何だかんだとそそのかされたのだろう。
当然、ジョーは全く相手にせず、さっと身をかわしてパンチをよけた。
勢い余った山根は、そのまま通路脇の側溝に落ちていった。
自分で仕掛けて、自分で怪我していれば世話はない。
けれど、間が悪いことに、それを元帥が２階の数学準備室から見ていた。
―――島村ジョーが暴力をふるって、山根を突き飛ばした。
元帥は他の教師達にそう言いふらして、帰ろうとするジョーを無理やり生徒指導室に連れて行った。
自分は、ただ呆然とそれを見ていた。どうすることも出来ないで・・・。
仕方なく、中庭のベンチに座って待っていた。
でも、５時になっても、６時になっても、ジョーは出てこない。
７時を過ぎると、職員室と生徒指導室以外の部屋の明かりが消された。
急にあたりは真っ暗になる。風も震え上がるほど冷たい。
心細くてたまらなかったけれど、でもその場から動くことは出来なかった。
あまりの寒さに、風のあたらない場所を探そうと立ち上がった、その時―――
「あら？どうしたの、フランソワーズ？こんな時間まで・・・」
保健室の長谷川先生だった。
「早く帰らないと。もう真っ暗じゃないの。いったい、どうしたの？」
「あ・・・いえ、ちょっと忘れ物して取りに戻ってたんです・・・今、帰ろうと・・・」
「最近、おかしな人がこのあたり、うろうろしているって話もあるのよ。ダメよ、こんな遅い時間に、女の子一人で帰るなんて。・・・しかたないわ。駅まで送ってあげるから、早く帰りましょう」
「はい・・・でも・・・」
それ以上言い訳が見つからなくて、しかたなく長谷川先生の車に乗った。
「今日はすごく寒いわね。暖房入れようか」
車の中は十分暖かかった。でも手も足も冷え切っていて、感覚が失くなっている。
「今日は、バレエのレッスン、なかったの？」
「え・・・ええ」
本当は、今日はとても大事なレッスンだったのに。連絡もしないで休んでしまった。
「どうしたの？元気ないわね」
「いえ・・・そんなことないです。先生も・・・いつもこんな時間まで？」
ううん、今日は特別よ、と先生は肩をすくめた。
「１年５組の山根君を病院に連れて行ってたからね。さっき学校に戻ってきたところなの」
山根・・・？じゃあ・・・？
先生は、ハッと表情を強張らせたフランソワーズの変化には、まったく気づいていない。
「怪我、ひどいんですか？」
「うん・・・。折れちゃったのよ。大腿骨。２ヶ月ぐらいかかるわね」
「そんなに・・・」
やっぱり先生も、ジョーのせいだと思っているのだろうか？
「でも・・・ホントに島村くんが怪我させたのかしら？どうも腑に落ちないのよね」
ぽそっと長谷川先生は呟いた。
「あの、先生、私・・・」
この先生なら、きっと話を聞いてくれる。だから、ちゃんと説明しなきゃ。
ジョーは山根には指一本触れていない。
「あ・・・余計なこと、言っちゃったわね。内緒よ、今の話」
信号が赤に変わった。
「あ、あの・・・先生」
と、その時、携帯のベルが鳴った。
「あ、ちょっとごめんね。もしもし・・・？」
今日は誰かと約束があったのだろう。
「急なアクシデントだったのよ、ごめんね、今すぐ行くから」と謝ると、彼女は手短に電話を切った。
「えっと、なんだっけ？」
「あ・・・あの・・・」
駅の明かりがもう目の前に見えてきた。今、全部説明している時間はない。先生も何か用事があって急いでいるようだし。明日、また学校で話そう。
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
「じゃあ、気をつけてね。また明日」
駅のロータリーでフランソワーズを降ろすと、赤いヴィッツは猛スピードで走り去った。

結局、ジョーは、また謹慎処分になってしまった。
ポツンとあいた席を何度も眺めては、フランソワーズは重い溜息をついた。
昼休み、保健室に行って、長谷川先生に例のことを話した。先生は指導部長の先生に話す、と言ってはくれたけれど、どうなるかはわからない。ただ、何人かの他の生徒も、あのときの状況をちゃんと見ていて、今回の処分について憤慨しているらしかった。彼らも、保健室に来ては、ぶつぶつと愚痴をこぼしていたという。
いっそのこと―――元帥のところへ言いに行こうかと思った。
でも、一人で数学準備室に行ったりしたら・・・どうなることか。
この頃、授業中もずっと憂鬱だった。 問題を解いていると、急にノートに陰がさす。 はっと顔を上げると、あの男が覆い被さるように覗き込んでいる。
別に質問などないのに、あの男はさりげなく肩に手をおいて顔をすり寄せ、「それはね・・・」と勿体つけて解説しようとする。寒気がした。
でも、あまりにさりげなくやるから、誰も気づいていない。 そう、彼も・・・。
だいたい数学の時間、彼は屋上かどこかで昼寝している。たまに気が向いて教室にいたとしても、机に突っ伏して熟睡しているのが関の山。
先生もジョーのことを嫌っている。それは何となくわかる。
でも、まさか学校をやめさせようとしてるなんて。担任の先生が？そんなこと・・・
エリカの言っていることが本当だとは思いたくなかった。

そして昨日の夜―――
『もしもし・・・』
そんな気がしてた。期待しちゃダメだと思っていたけど、でも何か予感があった。
家に帰るとすぐ留守番電話を解除して、電話が鳴るたびに番号を確認して。
知らない番号が表示されるたびにがっかりして、「ただいま電話に出られません」のメッセージを即座に流した。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、ジャンが戻ってきた。
と、また電話のベルがなった。
『コウシュウデンワ』
ディスプレイにそうはっきり表示されている。
飛びつくように受話器をとったら・・・
松田―――この人からだった。
逢ったこともない人だったけど、猛烈に八つ当たりしてやりたくなって、ついついつっけんどんな応対になる。
そんな自分を見て、テーブルの向こうで、ジャンがくすくす笑っていた。
受話器を置いたとたん、溜息が声になって出てしまった。
と、しばらくして、また電話が鳴った。
切りっぱなしにしていた留守録のスイッチを入れようと、ぐずぐずと受話器に近づく。
「・・・！」
『コウシュウデンワ』
また・・・さっきの人がしつこくかけてきたの？もうっ！いい加減にして！
そう思いながらも、手が震える。
祈るように目を閉じて、受話器をとった。
『もしもし・・・』
『・・・・・・・』
無言。背後で、踏み切りの音がしている。
『もしもし？・・・・・・ジョー・・・？』
声が震えてしまう。
「さてと・・・シャワーでも浴びてくるかな」
ジャンは読みかけの新聞をテーブルの上に置いて、ダイニングを出て行った。
『ジョー・・・でしょ？』
『・・・なんで・・・わかった？』
わかるわ！どうしてかって言われても・・・それは・・・わからないけど。でもわかったの。
『どこから・・・かけてるの？』
『公衆電話』
わかってる。そうじゃなくて・・・
『あの・・・大丈夫？』
『・・・何が？』
何がって、いろいろよ。全部。何もかも。
心配でたまらないのに・・・
『ねえ、ジョー、私・・・私・・・明日・・・帰りに行ってもいい？』
また、私ったら・・・どうしちゃったんだろう？何を言ってるんだろう？
『何言ってんだよ。ダメ』
『どうして？授業のノート持っていくわ。テスト前でしょ？だから・・・』
『でも・・・』
『ノート渡したら、すぐ帰るから。だから・・・』
じゃあ６時。
それより早いと先生が様子を見に来るかもしれないから、とジョーは言った。
たぶん、話したのはそれだけだ。
記憶がぼんやりとしてて、よく覚えていない。
でも、また―――わがままを言ってしまった。
どうしたのかしら、私。
後で考えると恥ずかしくなるようなことを、平気でジョーに言ってしまう。
きっと彼は自分がわがままをいうのを聞いて、あの時みたいにとても困った顔をしていたんだろう。
でも、どうしても逢いたかった。だから・・・

「ねえ、フランソワーズ。今度の日曜なんだけど・・・」
いつの間にか、駅についていた。
ほとんど上の空で、松田の言葉に相槌を打っていたフラソワーズは、ホームに滑り込んでくる電車を見て、ハッと我に返った。
「あ・・・電車が来たわ！ごめんなさい・・・じゃ、また・・・」
改札を急いで通り抜け、ホームへの階段を駆け降りた。
電車に飛び乗った瞬間、背中のすぐ後ろでドアがぴしゃりと閉まる。
手すりにもたれて目をつぶり、カバンを両腕で胸に抱きしめながら、フランソワーズはほおっと大きく息を吐いた。


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