VII
がらんとした、放課後の教室。大きな夕陽が、白い壁を茜色に染めている。
電気もつけず、ひとりポツンと机に向かっていたフランソワーズに、突然後ろのドアから入ってきた少女が声をかけた。
「あ、フランソワーズ！まだいたのね？ちょうど良かった！」
「エリカこそ、今日はずいぶん遅いのね」
「うん。今日はピュンマが図書当番だからさ。５時まで待ってなきゃいけなくて」
エリカはそう言いながら、フランソワーズの肩越しに机の上を覗き込んだ。
「何してるの？まさか・・・勉強？」
「え、ええ・・・」
さすが綺麗な字ね、と感心したように呟きつつ、エリカは首をかしげた。
「でも、どうしてわざわざ写し直してるの？このノートで十分完璧なのに」
「あ・・・で、でも・・・復習したかったの。ほら、もうすぐテストだし・・・だから・・・」
「ふうん。勉強できる人はやっぱり違うのね」
エリカは１つ前の席に後ろ向きにまたがって座ると、あのさ、と一段声をひそめた。
「ちょっと・・・話があるんだけど、いい？」
「え？いいわよ。どうしたの？」
フランソワーズは鉛筆を置いて、急に真剣な表情になったエリカに微笑みながら頷いた。
「実はね、２年３組の稲川先輩のことなんだけど・・・」
「稲川先輩？」
「あのヒトが、あなたと付き合いたいんですって」
「だあれ、その人？」
首をかしげるフランソワーズに、エリカはイライラした声を上げた。
「なに言ってるの？サッカー部の、超美形のヒトじゃない！！知らないはずないでしょ？」
「でも・・・私・・・そんな人と話したことないし・・・」
「だからあ、彼、私に頼んできたんじゃん。中学の先輩なのよ。ね、１回だけでもデートしてあげてよ。私の顔、立てると思って！お願い！」
拝むように両手を合わせるエリカに、フランソワーズは困惑した顔で首を振った。
「でも・・・」
「お願い！１回だけでいいの。それでいやなら、断ればいいのよ」
「だめよ、そんなの。お願い！エリカ、断って」
まさかそんなこと、できるわけがない。だって・・・
「どおして？どこが嫌なの？彼には学校中の女の子が憧れてるのよ！そりゃあ、ピュンマはともかく、ハインリヒだってジェットだって良いけどさあ」
だんだんエリカの声が大きくなっていく。どうやら彼女は憤慨しているらしい。
「稲川先輩なんて、スポーツ万能だし、カッコいいし、おまけにすんごいお金持ちだし。稲川コンツェルンの後継ぎなのよ！見るからにクールだけど、女の子にはとっても優しいし、頭だっていいし。文句のつけようがないじゃないの！」
「そんなこと言われても・・・私、全然知らない人とデートだなんて、困るわ」
「心配ないわよ！２人きりで逢ったら、きっとあなただって気に入ると思うわ！」
「でも・・・私・・・そんな・・・そんなつもり・・・全然ないの」
「つもりがなくても、デートすれば、きっとその気になるわよ！」
「ならないわ、そんなの・・・。ねえ、エリカ！お願い、断って！」
逆に両手を合わせるフランソワーズに、エリカは、はああ、と大きく溜息をついた。
「ねえ、フランソワーズ！前から気になってたんだけど、あなた、男の子に興味ないの？」
「え？」
「どうして誰とも付き合わないの？そんなの、変よ！いい年して」
「変・・・ってそんなこといわれても・・・」
「あなた、あの鮎川さんだって、振っちゃったんでしょ？」
「待ってよ。哲哉はただのバレエ仲間なのよ。振るも何も、最初から何もないわ」
「でも向こうはそうは思ってなかったはずよ！あんなに熱心に毎日迎えに来てたのに、どうして急にあきらめちゃったのかしら。美男美女で、すごくお似合いだったのに。そのうち芸能レポーターがわんさか来るんじゃないかって、楽しみにしてたのにさ〜」
「哲哉は今、舞台がすごく忙しいの。それどころじゃないわ」
「まあ、それはそういうことにしておいてあげるわ。でもあなた、ほんっとに好きな人、いないの？」
「エリカ・・・」
いる、と言ったらどうなるかしら？でも・・・
「いい？あなたが早く誰かとくっついてくれないと、みんな困るのよ！」
「困る？どういうこと？」
目を丸くするフランソワーズに、エリカは説教じみた口調で言葉を続ける。
「知ってる？あなたのファンクラブやら親衛隊やら、そうそう、『フランちゃんの純潔を守る会』まであるらしいわよっ！ふふ、会長は誰だか、大体想像がつくけどね」
「何なの、それ？」
「とにかくぅ、みんな大騒ぎなんだから。最近ますます綺麗になったって評判なのよ！誰か好きな人でも出来たんじゃないかって。なのに当の本人はこんなにのんびりしてて・・・ほんと、イライラしちゃうわ！」
「そんなこと言われても・・・私・・・何も・・・」
呆気にとられているフランソワーズをよそに、エリカは興奮した様子でまくし立てた。
「いい加減に誰かに決めなさいよ！でないと、他の子が迷惑しちゃうのよ！私もやりにくくてしかたないんだから。つまりね、ちょっとカッコよくて素敵な人は、みんなあなたを狙って、いつまでたってもひとりでいるのよ。だから他の女の子が必死になって告っても、『好きな人がいるんだ』で終わっちゃうのよ。わかる？彼らの好きな人って、あなたのことなのよ！」
身を乗り出して詰め寄るエリカの迫力に、今やフランソワーズは完全に圧倒されていた。
「そんな・・・だって・・・私・・・知らないわ」
「あなたってそういうとこ、ほっんとにボーっとしてるのね。いい？今までも、身の程知らずな連中が私にいろいろ頼んできたけど、あなたにはふさわしくないと思って、私の一存で断ってたのよ」
「断ってた？」
「そうよ。でも、稲川先輩なら絶対お勧めだわ。この私が自信を持って言ってるの。だから、ね！」
「でも・・・私は・・・」
エリカは、縁結びをするのが大好きなのだ。今までも、恋のキューピッド役を何度となく務めている。目立たないけれど誠実そのもののピュンマに、入学早々強引に迫り見事陥落させた実績もあって、彼女の男を見る目は確かだと女の子の間ではもっぱらの評判だった。少々思い込みは激しいけれど、さばさばとして気さくな人柄のエリカと、慎重で冷静なようで実は情熱家だというピュンマの組み合わせはなかなかうまくいっているらしい。
「じゃあ、聞くけど、この人なら付き合ってもいいと思う人はいないの？」
「え・・・？」
「どうなのよ？！あ・・・それともあなた、もしかして私たちに内緒で、もうハインリヒと付き合ってるとか？」
「ちょ、ちょっと待って！どうしてそんな話になるの？違うわ。ハインリヒはそんなこと、全然思ってないわよ。彼に迷惑かけちゃうから、冗談でも言わないで」
「じゃあ、あなたは彼のこと、好きなのね？」
「エリカ！そういう話じゃないのよ！もう・・・違うのよ」
フランソワーズは泣きそうな顔で首を振った。
「じゃあ、誰ならいいのよ？あなたなら選り取りみどりじゃない」
エリカは、めぼしい男子の名前を次々と挙げる。
だが、はかばかしい反応を示さないフランソワーズ。
「もうっ！！いったいどういうタイプがいいの？稲川先輩も鮎川さんも、ハインリヒもダメ・・・って、あなた、よっぽど男の趣味が悪いのかしら？いい？フランソワーズ！何の取り柄もない、つまんない男に引っかからないようにしなきゃだめよ！こういう完璧な女の子ほど、ダメダメ男に母性本能くすぐられて、ついほだされちゃったりするんだから！」
「エリカったら・・・そんな・・・」
―――もし今、本当のことを言ったら・・・
「じゃあ誰ならいいのよ？はっきりしなさいよ〜！あ・・・いっそのこと、一番意外な組み合わせ・・・で、そうそう、あの島村くんなんかどお？」
「え？」
どくん。
フランソワーズの心臓が、脈を一つ飛ばして打つ。
思わず顔を上げてエリカを見つめる。自分の心の中を覗かれてしまった？
「なーんてね。さすがに、それはありえないか」
だが、エリカは自分の突拍子もない思いつきに呆れるように、小さく肩をすくめて笑った。
「実はね、一時はそういうのもありかな、って思ったんだけど。ほら、夏休み前とか、結構あなたたち、仲良さそうに話してたでしょ？でも、どう考えても無理があるわよね。接点なさ過ぎで。いわゆる身分違いってやつ？でも、ここだけの話なんだけど―――実は彼、今、隠れ人気ナンバーワンなのよ」
「え・・・？」
隠れ人気？ジョーが？・・・どういうこと？
フランソワーズの心臓が、また大きな音を立てる。
「ほら、あの体育祭のリレーで凄くカッコよかったじゃん！しかも、いつもは長い前髪で隠してる顔が、丸見えになったでしょ？彼、すっごいハンサムだったのね！だもんで、特に３年生の年増・・・あ、お姉さまたちが、ぎゃあぎゃあ言ってるらしいわよ。どうせ島村くんになんか、相手にされっこないのにさ」
頬が燃えるように熱い。きっと真っ赤になっているだろう。
あれ以来、誰かがジョーのことを口にするたび、こんな風に胸がどきどきしてしまう。
まだ、誰も気づいていないはず。でも―――
（もし、エリカが知ったら、きっと・・・）
エリカだけじゃない。みんなが知ったら、大騒ぎになることは間違いない。
（私は構わない。そうよ。知られた方がいいかもしれない。でも・・・）
フランソワーズは小さくため息をついて俯いた。
「うふふ。あなたと島村くんの組み合わせって、まるで『愛と誠』だもんね。ドラマチックだけど。あ・・・わかる？『愛と誠』って？かなり古い話だから、わかんないか。とにかく、つりあわな過ぎるわね。だいたいあのお兄さんが、島村くんみたいな不良があなたに近づくのを、絶対に許すはずないし」
（お兄ちゃん・・・）
お兄ちゃんは、ジョーのことを不良だなんて思ってない。だけど・・・。
「あんなに喧嘩ばっかりしてる乱暴な人なんて、あなたの相手にはふさわしくないし。彼、カッコいいけど、やっぱりすごく怖いわ。あの冷たい目―――魅力といえば魅力なんだけど、ちょっと何考えてるかわからないっていうか、得体が知れないっていうか。ああいうタイプって、女の子にも絶対優しくないわよ。っていうか、女嫌いだと思う。近寄らないに越したことはないわね」

そんなことない！あんな優しい人、いないわ。みんな知らないだけなの。
（あの時だって、ジョーは・・・ずっと一晩中・・・）

ぐさり、とナイフの刺さる音。
自分の悲鳴で目が覚める。激しい動悸。冷や汗。体の震えがとまらなかった。
と、温かい手がそっと自分の手を握る。
『・・・どうした？』
耳元で優しい声がした。
『ジョー・・・？』
あの目がじっと自分を見つめている。柔らかな茶色の瞳。
『大丈夫だ。心配するな』
大きな手が頬を包む。そして・・・
『もう・・・絶対にあんな目に・・・あわせたりしないから』

１日のうちに、めまぐるしくいろんなことが起った、あの日。
体育祭。リレーのこと。そのあとの恐ろしい出来事。
そして―――優しい２度目のキス。
ホッとした途端、ふらふらになってしまった自分を、ジョーは抱えるように部屋に連れて帰ってくれた。
彼が、乱暴？
そんなことない。抱き上げてくれた時の、あの繊細な仕草。
確かに、学校で見せる彼の表情からは想像も出来ないかもしれない。
でも、あれがほんとのジョー。
強くて、優しくて・・・
彼は、大切な壊れやすいものを扱うように自分を抱き上げて、そっとベッドに寝かせてくれて・・・そして・・・

あの時、なんて大胆なことを言ってしまったんだろう。
いろいろあったから、気が高ぶっていた。
でも、どうしてあんなこと言う勇気があったんだろう。
『お願い・・・帰らないで。・・・もう少し・・・一緒にいて』
自分がそんなことを口にしたなんて、今はとても信じられない。
ジョーも困った顔をしていた。
朝になってそのことを思い出して、恥ずかしくてたまらなかった。
でも、彼はちゃんと・・・
そして・・・

「ねえ・・・」
・・・初めて・・・の・・・
「・・・ってる？」
でも・・・・怖くなかった・・・
「お兄さんが・・・・ねえフランソワーズ、聞いてるの？！」
彼は・・・とっても・・・優しくて・・・
「ねえってば！」
でも・・・お兄ちゃん・・・さすがのお兄ちゃんでも、あのことを知ったら怒るわね・・・
「いったいどうしたのよ？フランソワーズ！！」
「あ・・・お兄ちゃんが・・・何？」
我に返ったフランソワーズは、あわててエリカの顔を見つめた。
「もうっ！人の話、全然聞いてなかったのね？どうしちゃったのよ？そんなに頬を赤らめたりして」
「え・・・あ、ごめん・・・なんだっけ？」
頬が真っ赤になってる？エリカにもわかってしまうぐらい？
「あのねえ、そりゃあ、あのお兄さんは素敵よ！ブラコンになるのもわかるけど、お兄さんはお兄さんなのよ。結婚なんて出来ないのよ！お兄さんの話でそんなに照れちゃうなんて・・・あなた、変よ！」
ほとほと呆れたように、エリカはまた大きな溜息をついた。
「ち、ちがうわよ！そんなんじゃないわ」
「あまりにもいい男がすぐそばにいるっていうのも、考えもんね。不幸なのかもしれないわ。あのお兄さんより素敵な人を探すなんて、無理だもの。でも・・・人生には妥協も必要よ、フランソワーズ。でも稲川先輩なら、きっとあと１０年もすればかなりいい線行くと思う。だから、ね！お願い！」
「エリカ・・・・・・待って！」
また振り出しに戻ってしまった。
しかも、エリカ的には話はまとまったことになっているようだ。そんなつもり、全くないのに。
どう言えば断れるんだろう。気が重い・・・。
「あ、そうそう！島村くんって言えば・・・」
突然、エリカは話題を変えた。
「大丈夫なのかしらね」
「大丈夫って・・・どういうこと？」
声が震える。こんなにあからさまな態度じゃ、きっとみんなにすぐばれてしまうだろう。でも・・・
（今、みんなにわかってしまったら・・・それこそ・・・）
手で首を切るゼスチャーをしてみせると、エリカはふうっと大袈裟に溜息をついた。
「まったく酷い話よね。あの５組の山根って奴、サイテー！！島村くんに喧嘩売るなんて、身のほど知らずもいいとこ！溝に落っこちてじたばたしてるところ見たけど、すっごく無様だった！ったく馬鹿よね。島村くんもいい迷惑だわね。あんな小者のせいで、学校やめなきゃいけなくなったりしたら・・・。でも島村くんも、何であんなつまんない奴、相手にしたのかしら？また虫の居所が悪かったのかしらね。気が短そうだし。やっぱり、そろそろホントに危ないんじゃないかしら、彼？」
「・・・・」
「元帥は、辞めさせようと必死になってるでしょ？中間考査の前に、島村くんが謹慎になって、アイツ喜んでるわよ、絶対！ほら、テスト前に休むと、いろいろ困るから。いくら彼が頭がいいっていっても、全然授業受けなかったら、テスト出来るわけないしねえ。くやしいけど、元帥の思うツボね。でもアイツって、ほんっとに嫌な奴！！」
ほら、体育祭の時だって、と、エリカは何かに取り付かれたように喋り続けている。
「覚えてる？あの島村くんの大活躍に、『逃げ足だけは速いからな』なんて、吐き捨てるように言ったのよ！！彼のおかげで、わが１年９組が優勝したってのに、担任のくせに何てこと言うのよね！信じらんない！！」
こっそりと教卓の後ろの時計を見上げる。５時を過ぎたところだ。
「でも・・・島村くんだって、もう学校に執着ないんだろうな。彼だって、いい加減やめたいって思ってるんじゃないの？教室にいてもつまらなそうにしてるしさ、誰とも全く話しないし。そもそもどうして彼がこの高校に入ってきたのか、ずっと不思議だったのよね。実は彼、すっごいお金持ちの隠し子だって噂もあるのよ。何かメチャメチャ複雑な家庭環境らしいけど・・・それであんな変な性格になっちゃったのね」
みんな何もわからないくせに、好きな勝手なことを言ってる。
わからないからこそ、こんな無責任なことを言えるのだろうけど・・・
さっきとは全く質の違う気の重さに押しつぶされそうになって、フランソワーズはまたこっそり溜息をついた。
このままでは、エリカのおしゃべりは当分終わりそうにない。
でも、もうこれ以上、聞きたくない。
それに、約束の時間が・・。
思い切って会話を遮った。
「あの・・・エリカ、時間・・・大丈夫？」
え？とエリカは慌てて背後を振り返った。
「いっけない！！ピュンマが待ってるわ！じゃあ、フランソワーズ、確かに頼んだわよ」
「え？何のこと？」
「だからあ、稲川先輩のことよ！じゃあね！」
「ちょ、ちょっと待って！お願いよ、断って！」
慌しく立ち上がると、カバンを引っつかんでエリカは階段を駆け降りていった。
後に残されたフランソワーズは深い溜息をつくと、気を取り直して鉛筆を取り上げ、大急ぎでノートの続きを写し始めた。


back 　　　　　next