XV．

　小さな衣擦れの音がした。本来、この部屋にはありえないもの―――自分以外の存在の気配を感じ、ジョーは反射的に毛布を跳ね飛ばして、半身を起こした。
　氾濫する光の真ん中にほっそりとした影が佇んでいる。ジョーが安堵と落胆の入り混じったかすかな溜息を漏らすと、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
「おはよう、ジョー」
「ん……」
　右手で無造作に前髪をかき上げ、そのまま上体をそらせて大きく伸びをする。甘い拷問に耐えて強張っていた背骨が、パキリと虚しく乾いた音を立てた。
「ねえ、見て！真っ白なの！」
　窓辺に跪き、カーテンの隙間から外を覗いていたフランソワーズは、はしゃぐ気持ちを懸命に抑えるように声を潜めて言った。
「真っ白？」
「そう、たくさん積もってて、すごく綺麗！」
　薄い布越しの光は道理で眩しすぎた。外は不思議なくらい静まりかえっていて、車の往来の気配がない。今朝の冷え込みがそれほど厳しくないのも、積もった雪のせいだったのか。
　風に舞う雪が激しく窓を叩いていた間、ジョーは一睡もできずにいた。外が白み始めた頃、ほんの一瞬意識が途切れたと思ったら、部屋中に朝の光が溢れていた。
　明るさに目が馴染んでくると、逆光だったフランソワーズの姿がはっきりした。丈も袖も長すぎるカーディガンのせいで、いっそう華奢に見える。キラキラと輝く髪と、無防備に投げ出された白い素足が眩しい。急に蘇った昨夜の記憶。ジョーは脱ぎ捨てていたＴシャツを頭からかぶり、立ち上がって窓辺に近づいた。
「ね、見て！ほんとのホワイトクリスマスだわ！」
　屈託ない笑顔で振り返ったフランソワーズを、無言のまま、ジョーは背中から抱きしめた。
「あ……ジョー？」
亜麻色の髪に顔を埋め、冷たい耳朶にそっとキスを落とす。両腕を柔らかな胸の前でクロスさせ、細い身体を折れるほど抱きしめた。
「ジョー？」
肩越しに表情を窺おうとした彼女の唇を強引に奪った。そのまま胸に抱き寄せる。柔らかな隆起をダイレクトに肌に感じた途端、甘い快感が脳天を貫き意識が飛びそうになった。その衝動をどうにか堪えて、ジョーは耳元で囁いた。
「もう……」
誤魔化したりしない。
「やめた」
「え…？」
乱暴な抱擁に少し戸惑いながら、信じきった瞳が真っ直ぐにジョーを見上げている。
彼女を全身で温めながら過ごした苦悶の時間に、ジョーはひたすら考えていた。考えることで、意識をそらせようとしていた。
こんなに大切だから。こんなにも愛しているから。
「無理だよ……」
２度もこんなかたちで夜を過ごすなんて。だから―――
「決めたんだ」
とはいえ、心で何度も呟いたあのあからさまな言葉は、朝の光の中では生々しすぎるような気がした。でもちゃんと今伝えなければ、いつかまた、昨夜のようにただ衝動の虜になって、勢いで彼女を傷つけてしまうだろう。そんな自分は許せないから。
「ジョー？やめた…ってどういうこと？」
歯切れの悪い曖昧な言葉が続いたせいか、瞳の蒼が微かに翳った。それに気づいたジョーは、ようやく最後の躊躇いを吹っ切った。そっと胸に抱き寄せると、朝陽に輝く髪に頬を寄せながら、耳元で低く囁いた。
「……！」
ぴったりと合わさった身体。トク、トクと早鐘のように打つ鼓動を感じる。それは自分のものなのか、彼女のものなのかわからなかった。彼の胸に顔を埋めたフランソワーズの頬も耳朶も、はっきりとした紅色に染まる。
もう一度同じ言葉を囁く。そして小さく震えている両肩を優しく抱いて、ほんの少し身体を離すとジョーは尋ねた。
「嫌か？」
恥らうように俯いていたフランソワーズは、ハッと顔を上げた。そして小さく首を横に振った。


＊



　昨日から降り続いた雪で、窓の外は真っ白だった。見慣れたはずの校庭は一面の雪野原。交通機関は朝から麻痺していて、授業の開始は遅れていた。どうにか学校にたどり着いた生徒たちは、教室で談笑したり、元気者の男の子たち――たとえばジェットたちのような――は、威勢よくグランドで雪合戦に興じるなど、思い思いに過ごしていた。
　あの日と同じ、眩しい雪の朝。フランソワーズは硝子の曇りをそっと拭うと、薄く染まった頬に冷えたその手を押し当てた。
　ジョーの言葉がずっと頭から離れない。思い出すだけで全身がカッと熱くなる。真っ直ぐで熱い茶色の瞳に魔法をかけられてしまったみたい。
　きっと顔が真っ赤になっているだろう。並んで楽しそうにお喋りしているシンディたちに怪しまれたらどうしよう。そんなフランソワーズの動揺を笑うように、左のポケットの中で、チャリ、と金属がかちあう小さな音がした。

『もう外で待ってなくていいから』
　アパートを出る時、彼は自分の鍵の束から１つはずして、フランソワーズの手のひらに無造作にのせた。

（それって……やっぱり、そういうことよね？）
　まだ一度も使ったことはない。まだ……？そんなことを考えると、また頬が熱くなる。ポケットの中の鍵を握り締めたままそっと取り出し、ほんの少し掌を開いた。パスポートと日の丸を手にしたキティが、きょとんとした顔で見上げている。大切な宝物。抱きしめるように、左手ごと右手で包み込んだ。
　その右手が左手の薬指の付け根に触れた時、今朝まで―――金曜の夜からずっと―――そこにあったはずのものがない違和感を感じた。そして次の瞬間、フランソワーズは本当に真っ赤になって俯いてしまった。成田限定キティのキーホルダーならともかく、さすがに”それ”を学校に持ってくるわけにはいかない。みんなが気軽につけているアクセサリとはわけが違うのだから。
『決めたんだ』
―――そう言ったジョーの、決心の証。
イヴのあの夜からちょうど一ヵ月。誕生日に渡された約束の指輪。
『あの時も言っただろう？本当にお前が……お前の心と身体の準備ができるまで待つから。でも……』


「ねえ、フランソワーズってば！！！どうしちゃったの？」
はっと顔を上げると、シンディとメグが唇を尖らせて自分を見つめていた。
「え……？」
「ほんと、おかしいわ！ぼんやりして、さっきから黙り込んじゃって」
「頬っぺが真っ赤よ。調子悪いの？」
「あ、ううん、何でもないの。ごめんなさい」
「うふふ、もしかして誰かに見とれてた、とか？」
そう言いながら、シンディは窓の外を走り回っているジェットに手を振った。
「え？ち、ちがうわ！ちょっと考えごとしてただけよ」
「それはそうと、もうすぐバレンタインデーよ。あなた、どうするの？さっきから私たち、その話で盛り上がってたのよ。全然聞いてなかったでしょ？」
「あ…どうするって？」
「チョコレートよ！！チョコレート！」
「もう〜っ！！今日はどうしちゃったの？」と、話の噛み合わないフランソワーズに、メグが大げさに身悶えした。
「あ……チョコレート？」
「やっぱりハインリヒに渡すの？それとも……うふ、鮎川さん？」
「え？どうして……？」
「もしかして、両方にあげちゃう？」
詰め寄ってくる２人に、フランソワーズは目を丸くして首を横に振った。
「まさか、そんなこと……。どっちにもあげないわ」
どうして〜〜？と不満げに、鼻にかかった甘ったるい声でシンディは言った。
「だって義理チョコなんてあげたら、迷惑でしょ？」
「義理チョコ……・？」
「え……？」
メグはシンディと顔を見合わせる。
「それって……」
「もしかして……」
「義理じゃないチョコレートは渡すってこと？！」
２人は声を揃えた。
「あ……あの……それは」
「ちょ、ちょっと待って！！」とシンディは大声を上げた。
「フランソワーズ！！ってことは、本命の人がいるってこと？好きな人が出来たの？？いったい誰？ねえ、誰よ！！」
「シンディったら！やめて！お願い……そんなに大きな声出さないで」
真っ赤になったフランソワーズは、慌てて周りを見渡した。教室には何人か他の生徒の姿も見受けられたが、誰も自分たちのお喋りなど気に留めていないようだった。ホッと胸をなでおろしながら、溜息をつく。義理チョコと言っただけで、「好きな人ができた」に飛躍してしまうシンディたちの思考回路にはついていけない。でも２人の会話は突拍子がないようで、突然、核心を突いてくることがあるから油断できない。超高性能の恋愛センサーが装備されているのかと思うほどだ。
　２人はちら、と目配せをし合うと、フランソワーズの両手を引っ張って教室から連れ出した。人気のないピロティーのベンチに座らせ、がっちりと両脇を固める。
「鮎川さんもハインリヒも違うって、じゃあ、いったい誰なのよ？」と声をひそめて、シンディは問い質した。
「もしかして、さっきあなたが見てた山田先輩とか？」
「見てないわ！」
「じゃあ、稲川先輩？」
「ち、ちがうわ！」
今、あの人はどこかですれ違っても、目も合わせようとしない。
「じゃあ、あの東大合格間違いなしの花田先輩？」
メグとシンディは次々と名前をあげていくが、フランソワーズの反応は鈍い。
「う〜〜んん。いったい誰なのよ！！教えてくれてもいいじゃない〜！！」
「もしかしたら、意外な人物だったりして……ねえ♪」
「意外な人物って……まさか、島村君？」
「まっさかああ！あ、でも夏休み前はもしかしたら、あなた、島村君に気があるんじゃないかって思ったことあったけどさ」
「そうそう。何て言うか、お互い持ってないものに惹かれあう典型かなってね。でも今は全然接点なさそうだし」
「ね、前から思ってたんだけど、島村君って」と、メグは急に声を落として言った。
「もしかしたら……ほら……その今はやりの……かもよ！！！あの手の不良って、絶対女の影がつきものなのに、ず〜っと女っ気なしでしょ？しかも肉感アキを振ったっていうし……女の子に興味なくて……うふ♪♪」
「いやあん！それって、まさかっ！！えええ！」
もうフランソワーズのことなどそっちのけで、メグとシンディは大はしゃぎ。
話題がそれてほっとする。でもフランソワーズはひどく憤慨していた。
　何てこと言うの！失礼しちゃうわ！ジョーのこと何にも知らないくせに、と声に出しそうになって慌て口を押さえる。
　笑い転げて大きく身をよじったメグが、突然「あっ！」と声を上げた。
噂の人物が、ブレザーのポケットに手を突っ込んだままこちらに向かってくる。長い前髪のせいで、俯き加減の彼の表情は見えないが、賑やかな会話は瞬時にフリーズした。あまりのタイミングに、さすがにバツが悪かったのだろう。ジョーが前を通り過ぎる間、シンディとメグは顔を伏せていた。
　ほんの一瞬、ジョーはフランソワーズを見た。肩から滑り落ちたマフラーの片端を、ふわっと巻き直す。栗色の髪によく映える鮮やかな赤。
”帰りに駅で待ってるから”
　フランソワーズは微かに頷いた。また頬が火照った。赤くなった顔を見られたくなくて俯いた。
　上目遣いに彼の姿が見えなくなったことを確認すると、シンディはふ〜〜っと息を吐いた。
「焦った〜〜！！！まずかったわね……」
「見た？彼、すごく怒ってたわよ！きつい目で睨まれて、背筋がゾクッとしちゃった」
「でも島村君、こんなに雪降ってるのに学校サボらなかったんだ。なんかイメージ違う〜」
「そう言えば……彼、数学の欠席がヤバイらしいのよ」
「え？そうなの？」
「うん、保健室の長谷川先生が島村君に話してるの、ジェットが偶然聞いちゃったの」
「え？」
「ほんとはさ、そういうのって担任が教えてくれるはずでしょ？私、この間元帥に言われたもん」
シンディは、元帥、という言葉を口にしながら顔をしかめた。
「『体育ばっかサボって保健室にいると駄目だよ、シンディちゃ〜ん。でも腰が痛いんならしかたないけどね、ふふふっ』、な〜んて涎たらしそうな顔でニヤニヤしたのよ」
どーせ、やらしいこと考えながら言ってたに決まってるし、とシンディは毒づいた。
「や〜んっ！！気持ちワルイ〜！！」
「なのに島村君のことは知らん振りしてるの。もしかしたら、わざと留年させようとしてるんじゃないかってジェットが言ってたわ」
「えええ？あんなに成績いいのに留年するの？元帥じゃない方の数学は、島村君、満点だったじゃん」
「よくわかんないけど、成績良くても休んじゃだめなんだって」
「ふ〜ん、そうなの。あら？？フランソワーズ、どうしたの？」
身を縮めるように俯いていたフランソワーズに、メグがまた詰め寄った。
「そうだ、さっきの話！！ねえ、いったい相手は誰なのよ！！島村君のせいで話題がそれちゃったけどさ」
シンディも攻撃を再開する。
「いったい誰にチョコレートあげるの？ハインリヒでも鮎川さんでもない…って」
「そんなこと…言えないわ…だって……」
２人の勢いに押されて、つい流れを肯定するような言葉を呟いてしまった。
「まさか、まさか、あなたが片思いなの？！！」
「え？……あ…あの……」
「そっかああ！じゃあバレンタインデーに告白するのね？？いやあん！どうしてもっと早く教えてくれなかったの？」
「ホント、水臭いわ！！でも清純派のフランソワーズにはぴったりのシチュエーションよね♪」
また２人の思考回路が暴走を始めたようだ。新たな筋書きが捏造されていく。
「それにしてもいったい誰なのよ？あなたが思いを寄せてるのに気づかないような鈍感な奴って！！そんな男、信じられないわ！！」
興奮する２人に、お願い、もっと小さな声で、とフランソワーズは哀願するように言った。
「とにかく、容姿端麗、才色兼備、ほっそりとしてるのに超ナイスバディのフランソワーズが、ついに男のものになる日が来るのね？きゃ！！ビッグニュースだわ！！！」
「さあ、相手は誰なのか、教えて頂戴！」
「だ、だめよ！！お願い……内緒にしてて」
　カチッと恋愛センサーが作動した。本気でフランソワーズが困惑している様子に、２人はしばらく顔を見合わせていたが、やがてほとんど同時に頷いた。
「わかった！親友だもの。見守るわ！そのかわり上手くいったら、ちゃんと紹介してね」
「きっとよ！！ああっ、誰かに喋りたい〜！！永遠の処女フランソワーズに、ついに男ができるなんて！！」
「もうシンディったら、せっかくのバレンタインデーが台無しになっちゃうじゃん！私たちがへたに手出しなんかしないほうがいいよ。邪魔することになっちゃうかもよ。大丈夫、あなたが普通に告白して、うん、と言わない男なんていないもの！あ、シンディ、ジェットにも絶対絶対、内緒よ！」
わかってるわよ、とシンディは少し不満気に頷いた。
「そのかわり、うまくいったら、絶対私たちに最初に教えてね」
　シンディーはフランソワーズの手をとり、一方的に指切りをした。
　その時、廊下の奥の職員室から教師たちがぞろぞろと姿を現した。
「あ、始まるみたい。今からってことは、２時間目？いやん、元帥の授業じゃん！最悪〜！！！」
「あああ、サボりたいなあ〜。数学なんてわけわかんないし、きっとまたあちこちにタッチしてくるわよ、ア・イ・ツ！気持ち悪い〜！！」
２人はオエエエ、と大げさに嘔吐する身振りをして、しぶしぶ立ち上がる。
　そう―――そうなのだ。ベンチに座ったまま、フランソワーズは唇を噛んだ。最近、元帥はますます馴れ馴れしく肩や髪に触れてくる。それどころか、窓際の一番後ろの席に座っている自分の背後に立って、覆いかぶさるようにして身体を密着させてくることさえある。メグの言うように、本当に気持ち悪くてたまらない。月の後半からまた席替えをする、と元帥は言っていたから、今度は一番後ろの席にならないことを祈るしかない。でも自分のことはどうでもいい。我慢さえすればいいから。それよりも心配なのは―――ジョーのこと。
　最近、彼は元帥の授業に毎時間出席している。このままの調子でサボると出席時間が足りなくなる、と長谷川先生に忠告されたから。授業に出ているとはいえ、窓際の一番前でうつ伏せになって熟睡している彼は、元帥の卑劣な行為には気づいていないはずだ。もし気づいたら、ジョーは絶対、元帥を許さないだろう。体育館の裏で、あの稲川を叩きのめした時の剣幕を考えると、絶望的な気持ちになる。だって、そんなことをしたら、今度こそジョーは……。
「フランソワーズ？」
「大丈夫？」
両側から２人の目が心配そうに見下ろしていた。
「あ、ううん、大丈夫」
　そうよ、今日は久しぶりの待ち合わせじゃないの！嫌なこと考えるのやめよう。モヤモヤする暗い気持ちを振りきって、フランソワーズは立ち上がった。
　久しぶり―――誕生日以来の待ち合わせ。詳しいことは言わないけれど、ジョーはいくつかアルバイトを掛け持ちしていたらしい。３学期に入ってからは、放課後になると姿を消し、朝もチャイムぎりぎりに駆け込んでくる毎日だった。仕事が忙しい、という彼の言葉を信じながらも、フランソワーズは寂しくてたまらなかった。まさかそれが自分に指輪をプレゼントするためだったなんて。
　新しいアルバイト先に気に入られたから、急にはやめられないんだ、とジョーは言っていた。間の悪いことに、多忙を極めていたジャンの仕事もひと段落ついていて、来週からの長期出張までは家でゆっくりできるという。それはそれで嬉しいことだったけれど、毎日夕食までに帰らなければならないから、ジョーと２人で過ごせる時間は以前と比べて激減していた。
『……待つから。でも……』
とても熱くて、それでいてどこか寂しげな、そして初めて見せた甘えるような瞳。
そのジョーの眼差しに応えるには、やっぱり……。
「あ！元帥が来たわよ！」
「早く行こう！」
ええ、と明るく頷いて、フランソワーズはシンディとメグとともに駆け出した。


＊



　ガタン、と椅子が激しく蹴り倒された。
「何だ、お前！！！」
いきなり元帥の平手がジョーの頬に飛んだ。
次の瞬間、ぐえっというカエルがつぶれるような呻き声を発して、元帥は床に倒れていた。
「！！！」
クラス全員が息を呑む中、真っ先に我に返ったハインリヒは、なおも元帥に殴りかかろうとするジョーに背後から飛びかかり、羽交い絞めにした。
「は、離せ！！」
いつもの冷たい目とは全く違っていた。怒りの炎が茶色の瞳を真っ赤に見せていた。ハインリヒを一瞬で突き飛ばすと、ジョーは元帥の上に馬乗りになった。
「ジョー！」
今度はジェットが飛びついた。再び起き上がったハインリヒと２人がかりでようやくジョーを抱え込む。
「うぐ・・・」
鼻血で顔を真っ赤に染めた元帥は腰を抜かしたまま、怯えきった眼でジョーを睨むと、震える声で小さく叫んだ。
「お、お、お、お前・・・た、たたたた退学だ！！すぐに、退学だ！！」
腰を落としたまま後ずさりし、教室を出ようとして躓いて、元帥は廊下に仰向けに大の字に転がった。廊下側の生徒たちは一斉に窓を開けた。元帥はあわあわと意味不明の言葉を叫びながら、廊下を這いずって逃げていった。
　下手に動けば皮膚が切れてしまうような、張りつめた沈黙が９組の教室を支配した。誰も一言も発せず、微動だにしない。隣のクラスは体育の授業中だったようで、ボールを蹴る音とにぎやかな掛け声がグランドから聞こえてきた。
　ふううう、と息をつき、ようやくハインリヒとジェットは全身の力を緩めた。
「お、お前・・・な、何で・・・」
　ジェットはそう問いかけようとしたが、声にはならなかった。瞳の炎はもう凍りついていた。ジョーはきっと前を見据えたまま、後ろのドアへと向かって歩き出した。
（アイツ、マジで怒ってやがる。怒ってるなんて生優しいもんじゃない。あれは殺気、だった）
ジェットは、思わず身震いした。
（何にあんなに腹を立てたんだ？なぜあんな野郎の挑発に乗ったりしたんだ？！）
ハインリヒは唇を噛んだ。
　とうとう―――彼はやってしまった。これで元帥の目論見どおりだ。それにはまってしまうほど、ジョーは馬鹿ではないはずのに。
　永遠に続くかと思われた沈黙を、小さなすすり泣きが破った。ハインリヒは、ジョーのひとつ前の席に座ったフランソワーズをハッと見やった。彼女は細い肩を震わせて嗚咽を堪えていた。
　だが、ジョーが廊下に出た途端、立ち上がって彼女は叫んだ。
「待って！ジョー！」
ジョー？
クラスの連中は、まだ無言だった。だが、視線だけはみな一斉に廊下側の窓に向けた。
「待って！！お願い……！！」
長い髪をなびかせて、フランソワーズは教室を飛び出し、階段を下りようとしていたジョーの背中にすがりついた。
「！！！！！」
ごくり、と３８人がいっせいに息を呑んだ。立ち止まり、ゆっくりと体の向きを変えたジョーは、哀しげな目で一瞬フランソワーズを見つめ、呼吸を整えるように静かに息を吐き、そして口元を微かに緩めた。そして先ほどと同じ人物とはとても思えない繊細な仕草で、彼女の頬を両手で包んだ。
「ジョー……」
見上げるフランソワーズにゆっくりと顔を近づけると、ジョーは当り前のように唇を重ねた。
（うっわあああああああああああ！！つ、ついにやっちまったぜ！！）
ジェットは心の中で叫んだ。だが金縛りにあったように、声が全く出せない。他の連中もみな同じだった。ぽかんと口を開けて、ただその美しい光景を眺めているだけ。
　長い長い濃厚なキス。見ているほうが窒息しそうなほどだった。やがてジョーはそっと唇を離すと、両腕でフランソワーズをしっかりと胸に抱き寄せた。目を伏せ、耳元で優しく何か呟いている。その柔らかな表情と言ったら！誰もが仰天していた。ハインリヒとジェットを除いたクラス全員が。
　ジョーの言葉に頷いたフランソワーズが甘えるようにジョーを見上げると、彼は細い肩を抱き寄せ、２人は並んでゆっくりと階段を降りていった。
　その姿が視界から消えた途端、クラスは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「うっそ〜〜！！！！！」
「今の何よっ！！！！！」
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおお！！！」
「なんでええええええええええええええええええええ？？？」
　悲鳴、雄叫び、怒号。興奮のあまり、過呼吸を起こす生徒まで現れた。突っ立ったままだったジェットは舌打ちをし、ハインリヒを振り返った。同じように立ち尽くしていたハインリヒが苦りきった表情のまま、小さく頷き、自分の席に着いた。
　ジェットはわざと大きな足音を立てて教壇に駆け上がると、バン！バン！！と力任せに両掌を教卓に叩きつけた。
「？？？？」
教室に沈黙が戻った。ジェットは大きく深呼吸しながら、そこに並んだ３７人ひとりひとりの顔を確認するように見渡し、そしておもむろに言った。
「お前らを……仲間と見込んで、話がある。聞いてくれ！！」


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