| ＸIIII． |
| 「あ・・・んっ！！！」 激しい息遣いの合間に切れ切れに響く、切なく甘い声。壁越しとは思えない臨場感に、聞かされているほうが恥ずかしくなるほどだ。だが、生々しい二重奏（デュエット）はどんどんクレッシェンドしていく。 そして―――ついにクライマックスに達したその時。腹の底から搾り出すような野獣の咆哮とともに、甲高く細い悲鳴が闇を裂いた。 『……勘弁してくれよ……』 意味不明の言葉を呟いたあと、苦しげに目を瞑って黙り込んでしまったジョー。 怒っているのではない、と彼は言ったけれど、何を考え込んでいるのかさっぱりわからない。途方に暮れたフランソワーズが項垂れて小さな溜息をついた時、耳に熱い吐息がかかった。 『え……？』 隣室のカラオケがうるさくて、声が聞き取れない。慌てて彼の顔を覗き込むと、熱を帯びた強いまなざしが、じっと彼女を見つめていた。そこには、最近別れ際にいつもジョーが見せたのと同じ、苦悶の表情が浮かんでいる。 『ジョー、どうしたの？どこか苦しいの？』 肩を掴んでいる両手にぎゅっと力がこめられた。あまりに強くて、痛いほどに。 『……たいんだ』 『え？』 突然、身体がふわりと浮いた。 あっと思った次の瞬間、柔らかな前髪がフランソワーズの額に覆いかぶさっていた。 『んっ……？！』 目の眩むような長く甘いキス。布団の上に無造作に投げ出した状態の両手にジョーの手が重ねられ、しっかりと指が絡められた。金縛りにあったように身体の自由がきかない。 しばらくして本当に呼吸が苦しくなったフランソワーズが眉根を寄せて小さくもがくと、ようやくジョーは唇を離した。 『……か？』 調子のはずれた「いとしのエリー」が、かすれた彼の声を掻き消した。だが、茶色の瞳に湛えられた深く切ない翳りに、そしてどこか飢えたような乾いた光に引き込まれるように、フランソワーズはほとんど無意識に首を横に振った。 『あ……？』 熱いものが耳朶に触れた。何か短い言葉を囁いた唇が、そのままゆっくりと首筋をたどっていく。 （それって……それって……） 耳にじんじんと響く激しい鼓動は、自分の心臓の音なのか、それともジョーのものなのかわからなかった。 （もしかして……そういうこと……なの？） 『あっ……！！』 柔らかな茶色の髪が喉元をくすぐった。 と、その時、本物とは似ても似つかぬ野太い声の平井堅が隣の部屋で絶叫した。 『……らかい……』 どこか遠いところからジョーの声が聞こえる。身体を動かすことはおろか、頭の芯まで甘く痺れて、声を出すことすらままならなかった。 （で、でも……） そんなこと、考えてみたこともなかった。 （だって……） ―――だって？ よく考えてみれば、考えてみないほうがおかしかったのかもしれない。自分の周囲でも、とっくに「そう」なっているカップルだって少なくないのだから。クラスの女の子たちは、誰と誰がそうなった、というような話題で持ち切りだったし。 なのに、「そのこと」を自分たちに重ね合わせて考えたことはなかったのだ。本当に、たったの一度も。 （だって……） ジョーも今までそんな素振りは一度も見せなかった。忘れられないあの日―――体育祭の夜も、夢に魘されて怯えていた自分を朝まで抱きしめてくれた。家族でない男の人と同じベッドで眠るなんて、勿論生まれて初めてだったけれど、少しも不安じゃなかった。彼に抱きしめられてさえいれば、何も怖くない。抱きしめられて、優しくキスされたら、それ以上何も望むものがないくらい幸せだったのだもの。 （でも……） ジョーのことがこんなにも大好きで、ジョーも自分のことをどうしていいかわからないぐらい大切だと言ってくれた。これからもずっと一緒にいたい。そう想い合っている二人が、いつか自然に「そう」なることは、考えてみなくても当然ではないか。 いつの間にか両肩が剥きだしになっていた。けれど寒さは全く感じない。 『……っ！』 ためらいがちに彼の指と唇が動いていく。優しく触れられたはずなのに、まるで火傷をしたように熱い。いや―――躊躇ってなどいない。ずいぶんぎこちないけれど、きっぱりとした意志を持って動いている。その目指すところは…… そこまでぼんやりと考えて、フランソワーズはハッと我に帰った。 『待って！あ……だめよ……ああっ……』 ジョーの右手を必死に掴んで叫ぶ。 『もう……待てないよ』 切羽詰った悲しげな瞳に胸がきゅんと苦しくなる。でも…… 『だって……お願い！！駄目なの！』 懸命に首を横に振り、フランソワーズは叫んだ。 だって今日は… 『…え？！』 ぴくりとジョーの動きが止まった。フランソワーズは顔を真っ赤にして、彼の耳元に唇を近づけた。 しばらく２人は固まったまま、息がかかるほどの至近距離で見つめ合っていた。声を出すことも、身動きすることもできず、まるで重い沈黙の中に封じ込められてしまったかのように。 『ジョー…？』 唇が微かに動く。その瞬間、さっきから壊れたオルゴールの音のように、ぐるぐると頭の中を空回りしていた彼女の言葉が、何を意味していたのかようやく理解できた。 ジョーはフランソワーズからそっと身体を離すと、布団脇の畳の上にごろりと仰向けに転がった。全身に充満していた煮えたぎるエネルギーを全て放出するかのように、ふうううと長い息を吐き、両手両足を無造作に投げ出して天井をぼんやりと見上げた。 （何やってるんだ、俺は……） 毛布を胸まで引き上げて、ゆっくりとフランソワーズは半身を起こした。 『ごめんね……私……』 声が震えている。顔を見なくてもわかる。蒼い瞳には涙がいっぱい溢れている。 （ほんとに、何やってるんだ、俺は……） もう決して彼女を泣かせたりしないと、自分に誓ったはずなのに。 『……お前が謝ること、ないだろう』 なのに今は、ぶっきらぼうにそう答えるのが精一杯。彼女の顔を見ることもできなかった。 『……でも……私……』 完全な涙声。観念したジョーが視線を向けると、真っ白な肩が小刻みに震えていた。それが寒さのせいだけでないことはぐらい、誰にだってわかる。 でも今、何をどうすればいい？どうやったらこの場を切り抜けられるのか？ ―――切り抜ける、だって？ これまでの自分の人生に、「この場を何とか切り抜ける」なんて、軟弱で受身の選択肢は存在しなかったはずだ。 （不様すぎる） 激しい脱力感と疲労感に支配され、ジョーの思考は完全に停止していた。 『……っ』 突然、フランソワーズが呻いた。 『どうした？！』 両手で自分の腹部を抱え込むように、彼女は身体を小さくよじった。 『痛いのか？！』 ジョーは慌てて跳ね起きた。 『少しだけ。大丈夫よ。ちょっと冷えちゃったみたい』 蒼白い顔に無理に浮かべた微笑が、次の瞬間、また苦痛に歪む。 『ちゃんと布団に入れよ。そんな格好してちゃ駄目だ』 ―――そんな格好に「した」のは、お前だろうが！ 心の中で誰かが冷たく嗤う。反射的に頬がカッと熱くなった。 （何とでも言え！嗤いたければ嗤え！） 今は自分のことより彼女だ。布団の上で膝を抱えるように小さく丸まっているフランソワーズを横にならせると、肩まで布団でしっかりくるんだ。 まだ一本一本が脈打っているような自分の指。その指で触れた滑らかな肌は、氷のように冷たい。 『寒いか？』 『ううん、大丈夫。おこたで足はとってもあたたかいもの』 そうは言うけれど、まだ時折苦痛が襲ってくるのだろう。目を瞑り、眉を小さく寄せて、懸命に痛みをやり過ごそうとしている。布団脇の畳の上で膝を抱え、ジョーはただぼんやりと彼女の様子を見つめていた。 それから５分ほど過ぎた頃だろうか。彼女は本当に辛そうな呻き声を上げ、横向きになって身体を小さく丸めた。 『お、おい！大丈夫か？』 女の子の身体のことなんて全然わからない。今、どうしてやれば彼女が楽になるのか見当もつかない。ただ、今、自分にできることがあるとすれば、それは―――。 ジョーの温もりが自分を包んでくれている。胸に回された両手にしっかりと抱きしめられて。肩も背中も腰も、さらには太腿から軽く曲げたひざの裏、そしてふくらはぎまで、自分の身体の背面にはジョーの温かい身体が密着していた。まるで母親の袋に入ったカンガルーの子どもか、孵化を待つ卵になったように、背後からしっかりと抱きしめられていた。 まだ、波のように痛みが襲ってくる。けれど身体を強張らせるたびに、ジョーの腕に優しく力が篭る。何度かそんなことを繰り返しているうちに、やがて痛みは薄らぎ、フランソワーズはとろとろと浅い眠りに落ちていった。 「いやあああんんっ！ああんっ！！！」 突然の嬌声にフランソワーズは目を覚ました。 あられもない喘ぎ声。絹を裂くような悲鳴。そういえば、さっきから低いうめき声と、鼻にかかった甘い声が、どこからかぼんやりと聞こえ続けていたような気もする。 彼女の身体に再び緊張が走ったことに気づいたのか、ジョーは背後から抱きしめる両腕に力をこめると、耳元で優しく囁いた。 「……まだ、痛い？」 ううん、と首を振ると、フランソワーズは身体の向きを１８０度変えて、汗ばんだ逞しい胸に顔を埋めた。 「こうしてると、とっても温かいわ」 ここが、世界中で自分の一番安らげる場所。心からそう思える。 「ありがとう、ジョー……」 「何言ってるんだよ。そんなこといいから、ちゃんと寝ろ。お前、疲れてるんだから」 今日のジョーの口調は、まるで出会ったばかりの頃のように、とてもぶっきら棒だ。 公園での雨宿り。教室で泣いていた自分に声をかけてくれた彼。そして電車の中で身を盾にして守ってくれた時。まだあれから半年ぐらいしかたっていないのに、ずいぶん懐かしい思い出のような気がする。 「いやあああああ！！！」 また、悲鳴と絶叫、そしてしばらくは鼻にかかった甘え声が響いた。あられもない嬌声の果てに、悲鳴と絶叫。野獣の咆哮、雄叫び。15分ほどのサイクルで、これが幾度となく繰り返されている。 友達からはかなりの奥手だと思われているフランソワーズにだって、これだけ延々と聞かされれば、あの声が何なのかぐらい推測がついていた。 もしかしたら――― （私たちも、あんなふうに……） いや、もしかしなくても、タイミングがタイミングなら、隣の部屋と立場が逆になっていても不思議ではなかった。そんなことを考えると、ますます恥ずかしさが募る。フランソワーズは壁の向こうの視線から顔を背けるように、ジョーの胸に真っ赤に染まった頬をそっと寄せた。 でも―――ジョーが望むことなら、そしてそれを自分が叶えられるのなら、どんなことでもしてあげたい。たった今すぐには、できないとしても。 だって、ジョーは…… 「アイツら、よく飽きないな」 ぽつりとジョーが言った。 「飽きる、って？」 蒼い瞳が不思議そうに見上げる。 「あのビデオ」 「え？ビデオ？」 きょとんとした顔で見上げる白い頬にそっと手を伸ばすと、ジョーは小さく笑った。 「だから、そういうビデオ。隣はしょっちゅうだ。酒飲んで馬鹿騒ぎしたあと、いつもお決まりのコースだよ」 「そういうって………？」 どうやらフランソワーズには全く通じていないらしい。 確かに、「そういう」カテゴリーのビデオなんて、彼女には全く縁がないだろう。 だからってこれ以上どう説明すればいい？どう言えば彼女にわかる？いや、わからせる必要があるのか？ 「だから！！男ばっかり集まって見てるんだよ、男と女の、そういうビデオ」 恥ずかしさを誤魔化すように、ジョーは少し乱暴に言った。 「隣の連中は、野郎でばかり集まって、しょっちゅうああいうの見てるんだ」 「あれって……ビデオなの？」 てっきり壁越しに生中継されているのだと思っていたフランソワーズは、自分の思い込みが恥ずかしくて頬をさらに真っ赤に染めた。 「男なんてそんなもんだよ。ぼろアパートだから、壁は薄いし音は筒抜け。もう聞きなれたよ」 さらりとジョーは言った。 その時―――フランソワーズの胸にふと浮かんだ疑問。 彼女が自分で深く考える前に、それは思わず口をついて出ていた。 「男の人って、そんなのもの・・・なの？じゃあ、ジョーも……そういうの……見るの？」 言ってしまってから後悔する。けれど後の祭りだ。 「え？！」 心底ぎょっとした顔をしたジョーは、次の瞬間耳まで朱に染めると、吐き捨てるように呟いた。 「見るかよ、そんなもの」 そう言っている自分の顔を見られないように、そしてその答えがなぜなのか、彼女にもちゃんとわかるように、ジョーは両腕でフランソワーズを力いっぱい胸に抱き寄せた。 |