| ＸIII． |
| 雪はますます激しく降っていた。歩道ぎりぎりの路肩を１台の車が猛スピードで走り抜けていく。と同時に、パシャッと音を立ててシャーベット状の雪が跳ね上がった。 うつむいたまま自分のブーツのつま先を呆然と見つめ、人の流れに押されるように歩いていたフランソワーズは、頬を濡らした冷たいしぶきに、我に帰ったように顔を上げた。色とりどりのイルミネーションが、雪と涙の白いスクリーン越しにぼんやりと滲んで闇に浮かんでいた。 「島村？ああ、今日はもう帰ったよ」 「帰った？」 終わるまで待ってるって言ったのに、間に合わなかった。家を出るのが遅すぎたから。 涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、消え入りそうな声でフランソワーズは尋ねた。 「あの……何時頃に？」 「何時も何も、島村は午後から休みだよ」 「午後から……休み？」 後頭部をガツンと殴られたような気がした。眩暈がして脚がふらついた。 「猫の手も借りたいって時期なのに、明日も来られないって…あ、どうかした？顔色真っ青だけど、大丈夫？」 忙しい中、手を止められてイラついていたのか、どこかぶっきらぼうな応対だった配送センターの男が、心配そうにフランソワーズの顔を覗き込んだ。 「いえ……大丈夫です。どうもありがとうございました」 頭を下げて通りに駆け出した。冷たい風が吹きつけた途端、我慢していた涙がぽろぽろと頬を伝い落ちた。 そのあとは、どこをどう歩いて今自分のいる場所にたどりついたのか、全く覚えがない。 『バイト、抜けてきたから戻る。もう時間ないんだ。今、一番忙しい時だから』 『島村は午後から休みだよ』 ジョーが嘘ついた―――？ ―――どうして？ 頭の中で、同じ言葉が何度もぐるぐると回る。 ―――どうして？ その時、ドン、と誰かが背中にぶつかった。慌てて振り返ると、男の腕に両手でぶら下がるようにして歩いていた同じ年頃の女の子が、進路を塞ぐフランソワーズを忌々しげに睨みつけた。けれど男が怪訝そうにこちらを向くと、彼女はとろけるような笑顔を彼に返して、そのまま通り過ぎていった。 見れば、街はカップルで溢れている。ディナーを終えて、ほろ酔い加減の幸せそうな恋人たちの姿が目についた。活気のある人々の流れに溺れそうになって、フランソワーズは歩道の端に寄り、まばゆい光を放つ高級ブティックのウィンドウの前でほっと息をついた。 明るいところに立って初めて気づいた。ジャンがクリスマスにと贈ってくれた真新しい白いコートに、点々と茶色の飛沫が散っている。ぼんやり歩いているときに車に撥ねかけられたのだろうか。いつもならこんな不注意はしないのに。 （今の私は、何をやっても駄目みたい） 笑おうとした。でも無理だった。強張っていた顔の表情を無理に弛ませた途端、また涙が溢れてきて止まらなくなった。両手で顔を覆って大声で泣き出してしまいたい。けれど、通り過ぎていく人たちがちらちらとこちらを見ている。涙ぐんでいる自分をみんなが笑っているようだった。惨めで、寒くて、居たたまれなかった。 フランソワーズは唇を噛んでうつむくと、駅へ向かって早足で歩き始めた。 （どうしてこんなことになっちゃったんだろう） 電車に揺られながら、フランソワーズは何度も溜息をついた。 『今までで一番素敵なクリスマスにしたいの』 心からそう思っていたのに、ぶち壊し。 （一番素敵どころか、最悪だわ） よりによってこんな日に、ジョーを怒らせてしまうなんて。 『いくらバレエが虚構の世界だとわかってても、目の前で他の男といちゃいちゃしてるの見せつけられて、我慢できる男の方がおかしいわよ』 でも、バレエはバレエ。そうとしか思っていなかったもの。それに、ジョーはわかってくれている。どれだけ自分がバレエを、そしてジョーのことを大切に思っているかということを。 どんなにレッスンが終わるのが遅くなっても、必ず迎えに来てくれるジョー。 「無理しないで。遠回りになるでしょう？」 そう言っても、待っている間アルバイトしていれば一石二鳥だから、と彼は笑った。帰り道、レッスンの興奮そのままにバレエの話ばかりしても、きっと退屈だろうに、嫌な顔も見せず黙って聞いてくれる。 おとといなんて、ひとりで喋っているうちに、ジョーの背中にしがみついたままうとうとと眠ってしまった。ちょうど今、体調的には最悪の時期だから。頭はぼおっとしていて眠くてたまらなくて、お腹も痛い。そんなコンディションでも今日の舞台を精一杯頑張れたのは、ジョーが応援してくれてたから。なのに…… 『舞台の上でぶちゅっとキスまで……。他に恋人がいて、あなた他の男とそんなことできる？』 そう言われたら返す言葉がない。でも―――ジョーは…… そういえば最近のジョーはちょっと変だったかもしれない。マンションの前で別れるとき、なぜかとても苦しげな目をしていることがあった。どうしたの？と尋ねても、何も言わず、いきなりぎゅっと抱きしめられた。 「ねえ、苦しいわ。どうしたの？ねえ、ジョーったら！」 あんまり強く、壊れてしまいそうなほど固く抱きしめられて、フランソワーズが小さくもがくと、今度はむさぼるような激しいキスの嵐。誰かがマンションの入り口に近づいてくる足音に、ようやく彼女を解放する。「何があったの？」と尋ねても、ジョーはどこか哀しげな微笑を浮かべて首を振り、、そのままバイクのエンジンを噴かして帰っていった。そんなことが、この１ヶ月の間に何度かあった。 でも、それは……。 いいえ、もしかしたら…… その時、聞きなれた駅名がアナウンスされた。ハッと顔を上げてフランソワーズは席を立った。もう遅い時間のせいか、かなり混み合った酒臭い車内には忘年会帰りの会社員の姿ばかりが目立っている。 ドアのそばで酔っ払いが２人、大声で上司の悪口を言い合っていた。フランソワーズが近づいていくと、とろんとした目で嘗め回すように彼女を見つめ、だらしなく口元を緩めた。身を固くし、目を合わさないように下を向いて扉が開くのを待つ。電車が止まると真っ先に飛び出して、フランソワーズは駅の階段を駆け下りていった。 『今どのあたりなの？』 『まだシベリア上空にさしかかったばかりだよ』 忙しい中、自分の舞台を見終えてから空港に駆け込んだ兄は、今もまだ飛行機の中だ。予定より遅い９時半を回った頃、ようやく電話がかかってきた。 『２６日は空港まで迎えにいけるから。じゃあ、ゆっくりおやすみ』 『ええ、おやすみなさい』 苛々しながら待っていた電話を切ると、すぐにマンションを飛び出して配送センターへ向かった。 だけど、ジョーはいなかった。ホールの前で別れたあと、アルバイトには行ってはいなかった。 最初の予定どおり、午後の休みを取ったまま。 ―――なぜ……？ そんなの、きまってるじゃないの！ 怒らせてしまったから。 私と一緒にいたくないから。 だから、ジョーは…… 駅前の信号を渡って通りを一本抜けると、街は静まり返っていた。 灯りもまばらで、ほとんど真っ暗闇。風は冷たく、気温はどんどん下がり、雪は本格的に積もり始めていた。車の轍は氷のようになって青く光っている。海沿いの急な坂道で、何度も転びそうになりながら、フランソワーズは懸命に走った。 普段なら、人通りのない暗い夜道を怖いと思ったかもしれない。時折、どこかで犬が不気味に遠吠えした。でも今は、怖さよりもすすり泣きながら駆けていく自分を、誰にも見られたくない気持ちの方がずっと強かった。 （夏休みみたいに気持ちがすれ違ったまま、離れ離れになりたくないの） 明後日にはパリに帰らなければならない。だからちゃんと謝って…… 謝る？何を？ バレエをしてることを？―――違うわ。そんなの、謝りようがないじゃない。 じゃあ、何を？哲哉とキスしてしまったこと？―――それだって、わざとじゃないわ。それはジョーだってわかってる。 なら、何を？―――それは……ジョーの気持ちを……傷つけたことを…… 何が彼を傷つけたのか、ほんとにわかってるの？ ―――それは…… 走って走って、さすがに息が切れ始めた頃、坂の頂上にやっと目指す建物が見えた。 １階は、ほとんどの部屋の明かりがついていた。カン、カン、と大げさな音を立てる鉄の階段をそっと登る。騒々しい音楽と、若い男たちのはしゃぐ声がすぐそばで聞こえた。廊下を足音を忍ばせるように通って、一番奥のジョーの部屋の前に立つ。だが、電気は消えていた。 （もう……寝てるのかしら？） そっとノックする。返事はない。隣の部屋で誰かが怒鳴り、そして大きな笑い声が上がった。もう一度、今度は少し大きくノックした。けれど反応はなかった。 （眠ってしまったの？それとも……） 階段を降り、裏側に回ってみると、いつもの場所にバイクはなかった。彼はまだここに戻ってきていないのだ。 （どこへ行ったの、ジョー？） あのまま、どこかに行ってしまった？いったいどこへ？ （どこ行ったの？私……どうしたらいいの？） 力が抜けてふらふらする身体を引きずるように２階へ戻った。中に主のいない、冷たく閉ざされたままのドアを見つめ、フランソワーズは両手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。 ＊ 今までは、嫌なことがあっても走れば忘れられた。バイクで飛ばして、誰もいない海岸でしばらく波の音を聞いていれば、それで自分を取り戻せた。けれど―――今度は違う。走っても走っても胸の痛みは消えない。時間がたつにつれてますます苦しく重くなってくる。 （俺はいったい、何やってるんだ） また彼女を泣かせてしまった。そして―――あの場から逃げてしまった。自分がこんな弱虫の卑怯者だったなんて。その事実がずしりとのしかかってくる。松林を通り抜けた海岸の急な岩場に座り込み、ヘルメットを脱ぎ捨てたジョーは髪を掻き毟った。 せっかくの舞台の成功を、ぶち壊しにしてしまった。あんなに彼女は頑張ってきたのに。わかっていた。彼女の気持ちはちゃんとわかっていた。なのに、どうしてもコントロールできなかった。あの時、あの男を前にして、自分の感情の混乱を。 今まで後悔なんて１度もしたことがなかった。やるだけやって、自分の失敗は自分で償うしかないという覚悟をしながら生きてきたから。だから後悔なんて絶対にしない。そう思っていたけれど、それは今まで自分がひとりだったからだ。 （俺はいったい、何やってるんだ） 波は荒く冷たい。風はいっそう激しく吹きつけ、体温を奪っていく。白い息を大きく吐くと、ジョーは唇を噛んでゆっくりと立ち上がった。 明かりは消えていた。ぐるりとマンションの周りを回ってみたけれど、北側の部屋も電気はついていなかった。もう眠ってしまっているのかもしれない。迷いつつ、インターホーンを押した。返答はなかった。 マンションの前庭に大きなツリーが飾られているのを見て、ジョーは肩を落とした。せっかくの晴れ舞台の日だっただけじゃない。今日はクリスマスイヴだったんだ。 『今までで一番素敵なクリスマスにしたいの。ジョーはそう思わない？』 彼女はとても楽しみにしていたのに。 『今年はジョーと一緒の初めてのクリスマスでしょ？だから！』 そう言って頬を薄く紅に染め、瞳を輝かせていたのに。 「２５日もお休みとれるのね！じゃあ、イヴにいろいろとお買い物して、クリスマス当日はジョーのところでパーティするの！ね、いいでしょう？」 いいけど、と言葉を濁したジョーの本当の気持ちが彼女に伝わったとは思えない。 「ご近所に迷惑になるほど、子供みたいに騒がしくしたりしないわ。それに、いるものは何でもうちからもって行けばいいでしょう？……だめ？」 「だめじゃないけどさ……」 はあっとジョーは溜息をついた。そういう心配をしてるんじゃない。そうじゃなくて……。 「そう……ジョーが乗り気じゃないならあきらめるわ。ごめんなさい、勝手に決めちゃおうとして」 歯切れの悪い返事に、フランソワーズは少ししょんぼりして言った。 「いいよ。お前がそうしたいんなら」 仕方がない。せっかく色々と考えているフランソワーズを『そんな心配』でがっかりさせることはないのだ。自分がちゃんと自分を律することが出来さえすればいいだけのことなのだから。ジョーは覚悟を決めることにした。 「どうみても、クリスマスにふさわしい部屋じゃないけどな」 「ほんと？無理してない？」 まだ心配そうにフランソワーズはジョーの顔を覗き込んだ。 「あ、ジョーが嫌じゃなかったら、うちに来てもらってもいいのよ。でも……」 「いいよ。ちょっとは片付けておくから。変わり映えはしないと思うけど」 場所の問題じゃない。彼女の部屋でも自分のアパートでも同じことだ、とジョーは心の中で溜息と共に呟いた。 「じゃあ、決まりね！でも……夜には空港に行かなきゃけないし、イヴの晩もあんまりゆっくりできないの。たぶん夜の９時過ぎに電話がかかってくると思うから。心配性なのよ、お兄ちゃん」 わざわざ飛行機の中からかけてくるなんて、とちょっと呆れたようにフランソワーズは肩をすくめた。 「どうせ、すぐパリに行くのに」 けれど兄貴の気持ちはよくわかる。こんな妹をひとり残して始終出張しなければならないなんて、気が気じゃないだろう。 「じゃあその時間までに帰ればいいんだな」 「ええ。でも……その時にジョーが一緒にいても、お兄ちゃんにはわからないわよ。テレビ電話じゃないから」 フランソワーズはいたずらっぽく笑った。 ―――どこまで、考えてるんだ？ 自分が必死に抑えようとしているのに、時々、彼女は「そう」としか思えないようなことを口にする。でも彼女の笑顔はあまりに無邪気すぎて、その言葉とのギャップにジョーは翻弄され放しだった。マンションでの一夜と同じように。 細い身体をぎゅっと抱きしめるだけで熱くなる。柔らかい唇にキスしたら無我夢中になってしまう。それでも自分が触れることが出来るのは、まだ彼女のごく一部なのだ。 いつ―――？ いつになったらすべてを自分のものに出来る？ 彼女もそう望む時がきたら。 じゃあ、それはいったいいつなんだ？ そんなことで悶々としてきたのに、あの男は！！ いや、それは違うじゃないか。バレエは別の次元のことだ。 わかっている。ちゃんとわかっていたのに…… アパートへと続く道は、ところどころ凍って青白く光っていた。スピードを落とさないとスリップしそうだったが、ジョーは敢えて猛スピードで駆け抜けていった。バイクを停め、重い足取りで階段を登る。隣の部屋の大学生が派手に騒いでいる声が聞こえてきた。 クリスマス、か。みんなどうしてこんなに浮かれているんだろう。今夜は喧しくて眠れないかもしれない。一晩中外を走り回っている方がましだったか、ジョーは小さく舌打ちをして、鍵を握り締めた。 「……！」 我が目を疑った。闇の中にぼんやりと白っぽい影がうずくまっている。 「フランソワーズ！！」 ジョーの叫びに、ドアにもたれるように膝を抱えて丸くなっていた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。 「何やってるんだよ！？こんなところで…！！」 「……ジョー……？」 蒼白な顔。泣き腫らした目からぽろぽろと涙がこぼれた。 「ったく！！こんなことしてたら死んじまうじゃないか！！」 「……よかった。帰ってきてくれて……」 思わず掴んだ腕も冷え切っていた。 「ごめんね、ジョー……。私…ちっとも……あなたの気持ち……」 氷のような指がジョーの頬におずおずと触れた。 「いいからっ！いつから……こんなところに……お前……」 思わず抱き寄せた。頬を合わせ、凍えて震える身体を折れるほど強く抱きしめた。 自分がぐずぐずしている間、フランソワーズはずっとここにいたのだ。もし朝までこうしていたら、どうなっていたか。 「……ジョー……？」 ぐったりとして、抱きしめられるままジョーの胸に顔をうずめていたフランソワーズが面を上げた。 氷のように冷えた頬に、自分のものではない熱い涙の雫が、ぽたりぽたりと落ちてくる。 「お前が……こんなことで……もし……」 ジョーは懸命に嗚咽をこらえた。荒い息が闇の中で白く凍りついた。 「ジョー……私……」 「とにかく、中に入ろう」 蒼い瞳から溢れる涙をそっと拭いながら、ジョーはかすれた声で呟くように言った。震えながら小さく頷いたフランソワーズの身体を、ジョーはゆっくりと抱き上げた。 ＊ 部屋には小さな石油ストーブとホーム炬燵しかない。とりあえず雪に濡れたコートを脱がせた。しなやかな手触りから、相当な高級品だとジョーにもわかった。けれど、どんな上質のコートでもあの状況では寒さを防ぐことなんて無理だ。 案の定、中に着ているふわふわしたモヘアのセーターも冷たく湿っている。髪は凍っていたのではないかと思うほどだった。このままだと絶対に風邪を引いてしまう。まだ震えているフランソワーズを、慌てて敷いた布団の上に座らせ、コートのかわりに毛布でくるむと、ジョーはバスタオルを取り出し髪の水滴を丁寧に拭った。 「っ……」 フランソワーズが小さく顔をしかめた。 「どうした？大丈夫か？」 蒼白い顔に無理に微笑を浮かべてフランソワーズは小さく頷いた。 「大丈夫。ちょっとお腹が痛いだけ。でも……たいしたことないわ。冷えただけよ」 「今、何か温かいものつくるから。そうだ、コタツにそのまま身体をつっこめばいい。このストーブじゃなかなか部屋は暖まらないから」 抱きかかえようとしてフランソワーズの脚に触れた。ドキリとするほど冷たかった。濡れたものを脱がなければ、埒が明かない。 （かといって……） 溜息をついて思案ばかりしていても仕方がない。ジョーは意を決して言った。 「俺は隣の部屋にいるから、その……靴下とか……その……と、とにかくっ、濡れてるものを脱ぐんだ。それをコタツの中に入れて乾かせ。タオルならそこの引き出しにたくさんあるから、身体をよく拭いて、直接毛布に包まったほうがいい」 （……直接だなんて、俺は……何言ってんだ！） 自分の言葉の意味を考えたら、とんでもないことになりそうだった。頭の中に余計な映像が浮かんでしまう前に、ジョーは急いで立ち上がり、台所に逃げ込んで襖を後ろ手に閉めた。 「ジョー……」 ぼんやりと放心状態でケトルの口から吹き出す湯気を見ていたジョーの耳に、蒸気の音に混じって微かな声が聞こえた。 「ねえ、ジョー……」 慌てて振り返る。ふすまには手も触れずに「どうした？」と声だけをかけた。 「あの……ごめんなさい。……お手洗いに行きたいの」 「え？！」 しまった！トイレは台所のすぐ前だ。毛布をかぶっただけの姿で、こっちに来させるわけにもいかない。それじゃあ何のために自分がここにいるのかわからないじゃないか。 （なんて間が悪いんだ！） どうにかして心の平静を保ち、最善を尽くそうと必死だった。なのに―――どんどん形勢は不利になり、いつの間にかのっぴきならない羽目に追い込まれている。 （ったく、何でこうなるんだよ！） 舌打ちの一つもしたくなる。だが彼女の立場に立てば、今はもたもたと躊躇している場合ではなかった。 「ちょっと……そっちへ行くから、電気消して、毛布をちゃんとかぶってろ」 「え？……電気？」 しばらくして細い隙間から零れていた光が消えたのを確認し、入るぞ、と低い声で呟くように言ってジョーはふすまを開けた。そのまま自分の目線を前方正面だけに固定し、たんすの前に立った。 （確か……この辺にしまっておいたはずだ） あの夜、フランソワーズが着替えにと用意してくれた真新しいＴシャツ。洗って返そうとしたら、彼女は「パリのお土産のつもりだから気にしないで」と首を振った。確かに、自分が一度着てしまった男物のＴシャツを返されても困るだけだろう。そう納得して持って帰ってはきたが、もったいなくてそのまましまいこんでいたのだった。 （……あった！） 同じ綿でも、自分がいつも身につけている洗いざらしのＴシャツとは手触りが全く違う。 （あとは……） 生憎、セーター類で彼女に着せられるようなものはない。思案した挙句思い出したのが、まだ一度も袖を通していない制服のカーディガンだった。 「ちょっと……ごめん」 引き出しを閉め、立ち上がった。彼女に背中を向けたまま部屋を横切り、押入れを開けた。手探りでセロファンに包まれたままの紺のカーディガンの入った箱を取り出すと、ジョーはＴシャツと一緒に畳の上においた。 「これ……まだ新しいんだ……。ここにおいとく。しばらく……外でタバコ吸ってるから」 強張った背中を向けたまま、ぶっきらぼうにそう言うと部屋を出てふすまを閉めた。 （ふうううううう……） とてつもなく大きな仕事を終えた後のような気がして、思わず肩で大きく息を吐いた。シンクの前の小窓に映る自分の顔は憔悴しきっていた。上着も羽織らず、雪の激しく舞う廊下に出ると、ジョーはぐったりとドアにもたれ、荒れ狂う暗い空をぼんやりと見上げた。 ＊ 毛布をかぶったまま、そろそろと押入れの前までにじった。ＴシャツとＶネックのカーディガンを手早く羽織る。華奢なフランソワーズにはどちらもずいぶん大きかった。丈はお尻が十分隠れるほどだったが、襟ぐりが開きすぎて胸元が何だか心もとない気がした。 裸足のまま立ち上がり、ふすまをそっと開ける。ジョーの姿はなかった。コンロの上のケトルが忙しげに蒸気を吐いていた。火を消そうと一歩踏み出して、台所の床のあまりの冷たさにフランソワーズは身をすくめた。 （外はもっと寒いはずだわ） 手早く用を足すと、外に向かって小窓のガラスをノックした。反応はない。しばらくドアを見つめていたが、あきらめて和室に戻った。脚をコタツに入れて毛布に包まり、ちらちらと揺れる石油ストーブの炎を見ていると、まだ歯の根が合わないほど体が震えていることに気づいた。 （なんて馬鹿なことしたのかしら） 雪の降るこんな寒い夜に外で座り込むなんて、正気の沙汰とは言えない。 でも―――逢いたかった。どうしても今夜のうちにジョーに逢いたい。それだけしか考えていなかった。 待っている間、バイクが通るたびにジョーが戻ってきたのではないかと思い、そして落胆することを何度も繰り返した。だんだん頭がぼんやりして寒さも感じなくなった頃、突然、ジョーの声が間近で聞こえた。 『フランソワーズ！！』 顔を見た途端、全身から完全に力が抜けた。 （逢えて……よかった……） ただそれだけを思った。でも…… 初めて見た。 ジョーの涙……。 あんなに辛そうな、苦しそうな顔をしたジョーは初めてだった。 けれど頬に零れ落ちたジョーの涙は、とても温かった。何も言わずに抱きしめてくれた。そのことを思うと、また声を上げて泣いてしまいそうになる。 きっと今、彼は呆れ果てているに違いない。自分を抱き上げて中に入り、手際よく部屋を暖め、優しく濡れた髪を拭いてくれた。でもそのあとは、ふすまを閉めて向こうに行ってしまった。着替えを用意してくれた時も、何だかとてもよそよそしい態度だった。 何もいらないから、そばにいて欲しい。どんな暖かい炎よりも、ジョーのぬくもりが欲しい。でも、そんなこと言ったら我儘すぎるわね、とフランソワーズはぽつんと呟いた。耳の辺りまですっぽりと毛布に包まり、自分の膝に顔を埋めた。そうしていれば、少しはジョーに抱きしめられているような気持ちになれたから。 どっと笑い声が起こった。隣室はクリスマスパーティーの真っ最中らしい。騒々しい声や食器のカチャカチャいう音まで壁越しにはっきりと聞こえてきた。やがて―――ドアがばたんと閉まった。 「そこを開けてちゃ、部屋があったまらないだろう」 少しいらついたような声でジョーはそう言うと、ふすまを閉めようとした。 「でも……そっちの部屋が寒いでしょう。ここはもう十分暖かいわ。だから……」 「いいから」 彼は、すがるように見つめるフランソワーズに視線も合わせようとせず、ふすまをぴしゃりと閉めた。 （怒ってるのね……。当然だけど……） 毛布の上に、冷たい涙の粒がぽたぽたと落ちた。 ふと、初めてここに来た夏の日のことを思い出す。あの時は海岸で気を失って、目を覚ましたらここに寝かされていた。今と同じようにジョーはふすまの向こうにいて―――そして部屋中に、ちょうど今と同じように香ばしいコーヒーの薫りが漂っていた。 学校にいるときよりずっと優しい目で見つめられて、切なくて苦しくて、彼の前で泣いてしまった。帰り際、いきなり抱きしめられて、そして、そして……。突然のことにびっくりして部屋を飛び出した。アキとのことを誤解していたから、なんていい加減な人なんだろうと腹を立てていた。 それから２ヶ月ほどたった体育祭の夜、やっとジョーと気持ちが通じ合って、それからは毎日がずっと夢のように幸せで。 なのに―――今はあの時と同じように、彼の心が遠いところにいるような気がしてならない。数時間前まではそんなこと考えもしていなかったのに。 しばらくして、ふすまが開く音がした。 顔を上げるのが何だか怖い。俯いたままのフランソワーズの前に、あの時と同じ白いカップがことりと音を立てて置かれた。 「あ、ありがとう……」 慌てて顔を上げた時には、ジョーはもう立ち上がってこちらに背中を向けていた。 「毛布だけじゃ寒いだろう」 「ううん、大丈夫」 だが、押入れを開けてさっさと掛け布団を取り出すと、ジョーは毛布に包まったフランソワーズの背中にふわりとかぶせた。 「ねえ……ジョー…」 勇気を振り絞って声をかける。 「ん？」 そっけない返事だった。だがフランソワーズは懸命に言葉を続けた。 「……そっちへ行っちゃうの？よかったら……ジョーもおこたに入ったら…」 「大丈夫。寒くないよ」 振り返りもせず台所へ向かおうとするジョーに、フランソワーズは追いすがるように言った。 「でも……ジョーの手、とっても冷たいわ。そっちは寒いでしょう？だったら……」 掛け布団をかぶせられた時、首筋に触れた冷たい指。あの寒い台所にいるせいで凍えてしまったのだと思うと、辛い。 「いいって」 振り切るようにジョーがふすまを開けたとき、消え入りそうな声でフランソワーズは呟いた。 「……怒ってる…の？」 「え？」 思わぬ言葉にジョーは振り返った。蒼い瞳から今にも涙が溢れそうだ。 違う。フランソワーズは完全に誤解している。でも自分のこのぎこちない態度は、彼女にそう思わせても仕方ない。 「ごめんなさい。私……」 そうじゃない。ただ……。 「怒ってなんか……ないよ」 まっすぐな眼差しを受け止めきれず、ジョーはつっと視線を畳に落とした。 「だったら……どうして？」 「フランソワーズ……」 「どうして…ちゃんと……私の眼を見て話をしてくれないの？！」 涙声で彼女は小さく叫んだ。 「それは……」 今、こんなしどけない姿のフランソワーズを抱きしめてしまったら。 （……俺は何するかわからない！だから……） ―――また逃げる気か？ どこからかそんな声が聞こえた。 ―――お前が逃げたから、彼女をこんな目にあわせることになったんだろうが！ ふうう、と大きく息を吐き、後ろ手にふすまを閉めると、ジョーはフランソワーズのそばに静かに跪いた。 「違うんだ。お前が……悪いんじゃない」 柔らかな頬をそっと両手で包む。彼女は震えていた。 「ジョー……？」 「そうじゃない。そうじゃなくて……俺が……」 すべての原因は、自分が意気地なしだから。 「お前が大切すぎて…どうしていいか…わからなくなる」 大切だから、大切でたまらないから……！！ 「でも…」 「ジョー！！」 胸にどん、と身体ごと飛び込んできたフランソワーズを無我夢中で抱きしめた。 鼻腔を満たすいつもの甘く優しい匂い。眩暈がする。しかも薄い布地越しに伝わる柔らかな肌の温もり。心臓が破裂しそうだった。 もう限界。なのに彼女は自分の背中に両腕を回し、いっそう強く身体を押し付けてくる。ああ、この感触ときたら……！！ 「……勘弁してくれよ……」 これ以上我慢したら、本当に気が狂ってしまいそうだ。 「……え？」 腕の中でフランソワーズが怪訝そうにジョーを見上げた。 「……なあに？」 「な、何でもないっ！」 ジョーは真っ赤になって大きく頭を振った。口に出して言ったつもりはなかったのに、彼女には聞こえてしまったらしい。 「……勘弁って……なにを？」 不安げに蒼い瞳が揺れる。 （頼むから……） 「ジョー……？」 抱きついたままそうして彼女が顔を上げると、体の密着度がますます高まるだけなのに。どんどん激しくなる動悸と、身体のある一箇所に全ての血液がどくんどくんと送り込まれていく脈動に、なぜ彼女は気づかないんだ！いや―――気づかれても困るのだけど。 （……頼むから、もうじっとしててくれ！） 目を瞑って苦しげに黙り込んでしまったジョーを、フランソワーズは困惑しきった表情で見つめた。 |