| ＸII． |
| 「お疲れさま！」 「お疲れさまでした。ありがとうございました！」 頭を下げながら、人の波を掻き分けていく。楽屋を訪れる関係者に挨拶したり、雑誌社の取材まで受ける羽目になって、予定よりもずいぶん遅くなってしまった。 幕が下りてからもう１時間になる。今さら走っても３０秒も早く行けるわけじゃない。わかってはいるけれど、駆け出さずにはいられなかった。途中で誰かに名前を呼ばれたような気がした。けれどフランソワーズは振り向きもせず、息を弾ませながら長い廊下を走りぬけ、通用口のドアを勢いよく開けた。 「あ！！！」 昼間とは全く違う光景がそこにはあった。ホールの外壁をライトアップしている照明が、真っ白な地面に虹のような影を映し出していた。 「雪……？！」 久しぶりのホワイトクリスマスだわ！と幸せな気持ちになったのもつかの間。 ―――こんな雪の中、まさかジョーは……ずっと外で？ 公園の木々に包まれた静かな闇に目を凝らす。ぽつんぽつんと点在する街灯の周りだけ、まるで舞台の上にスポットライトが当たったように、雪と風の激しいダンスが浮かび上がって見えた。 その光の輪の真ん中に、佇む黒い人影―――それを見つけた時、胸が苦しいほど熱くなった。 （ジョー！！） 両手に抱えた荷物を振り落としそうな勢いで、フランソワーズは雪の中に駆け出していった。 （どうしたのかしら？） まだ彼女に気づかずに腕組みをして街灯にもたれていたジョーの横顔。なぜかとても辛そうで、どこか暗く冷たい翳りを帯びていた。 「ごめんなさい！遅くなって…」 けれど、きっとそれは気のせいだったのだろう。今、フランソワーズをじっと見下ろしているまなざしは、いつもと変わらない柔らかな光だけを湛えていたから。そしていつもと変わらない声で「バイクを取ってくる」と言って、ジョーは髪をなびかせながら駆けて行った。 荷物をバス停のベンチに置くと、フランソワーズはかじかんだ両手にふうっと何度も息を吹きかけた。外に出てからまだほんの数分なのに、指先は感覚がない。こんな寒い所で１時間以上も待っていてくれたジョー！今のうちにこの手を温めて、氷のように冷え切った頬を包んであげたい。 （ジョー、早く戻ってきて！） 降りしきる雪に煙る駐車場の出口をじっと見つめていたフランソワーズの前に、夜目にも鮮やかな赤いスポーツカーが滑り込んできた。乾いた高いエンジン音が軽快に響く。それが誰の車なのか、窓を開けて顔を覗かせたドライバーを確かめるまでもなかった。 「哲哉……？！どうしたの？」 「ずいぶん急いでたみたいだったけど、バスで帰るつもりなの？なあんだ、それならそうと言ってくれればよかったのに」 「あ、あの……」 もしかしたらさっき自分を呼んだのは彼だったのかもしれない。何か大事な用事があったのだろうか？ 「あわてんぼうのお姫様の忘れ物を届けようと思って、サンタクロースの役を買って出てたんだ」 「……忘れ物？」 哲哉の言葉に、フランソワーズは首をかしげた。 「そうさ。ほら、助手席の荷物は全部キミのだよ」 「私の？私…忘れ物なんてしてないと思うけど……」 きょとんとするフランソワーズに優しく微笑みかけると、哲哉はドアを開け車から降りた。そしてさりげなく優雅に彼女の右手をとった。 「なんて冷たい手をしてるの？駄目じゃないか、こんな寒いところで立ってるなんて。さあ、荷物ごとキミも家まで送るよ」 この上なく洗練された仕草で、哲哉は助手席のドアを開けた。 「荷物はトランクに移すから。ちょっと待っててね」 「ちょ、ちょっと待って！そんな……送ってもらうなんて……駄目よ。あなたに……迷惑かけちゃうもの。それにこの荷物……？」 思わぬ展開にうろたえながら車の中を覗き込んだフランソワーズは、目を丸くした。 薫り高いカサブランカ。燃えるような赤いバラ。メッセージカードを抱えたふわふわの大きなティディベアと、どこか寂しげな目をした仔犬のぬいぐるみが、すました顔でフェラーリの助手席に座っている。そして洒落たリボンのかかったいくつもの箱には、どうやらお菓子がつまっているようだった。 「受付に届いてたキミへのプレゼントだよ」 「……プレゼント？って……これ、全部……私に？誰が……どうして……？」 哲哉は声をたてて爽やかに笑った。 「キミのファンが贈ってくれたんだから、ちゃんと持って帰らなきゃ」 「……ファン？哲哉のじゃないの？私、そんな……」 「ボクの分はマネージャーに持って帰ってもらったから」 手際よく荷物がトランクに積み込まれていく。 「さて、これで終わりだ。ベンチの荷物もキミのだね？さあ早く乗って。ほら……こんなに冷たくなってる……」 すらりと伸びた形のよい指が、フランソワーズの頬にそっと触れた。 「こんなところでキミを凍えさせるわけにはいかないよ」 「あ……あの……私…」 「そうだ。今日は朝からばたばたしてて、大事なこと言うの忘れてた」 フランソワーズの細い顎をそっと持ち上げると、「メリークリスマス！」と囁いて、哲哉は頬に軽くキスをした。 「哲哉……？！」 「せっかくのイブだし、このまま帰っちゃうのもったいないと思わないかい？２人でクリスマスパーティっていうのはどうかな？」 王子様のキスは逆効果だったらしい。金縛りになっていた心と身体の呪縛が解けてしまったのか、フランソワーズはまっすぐに哲哉を見つめると、少し躊躇いつつもきっぱりと言った。 「あの……ごめんなさい。……私、ここで人と待ち合わせしてるの。だからせっかくだけど……」 「……待ち合わせ？」 深い漆黒の瞳が微かに揺れ、フランソワーズの頬を包んでいた手がそっと下ろされる。けれど微笑みを崩さずに、哲哉はなめらかに言葉を続けた。 「そう……か。じゃあ仕方ないね」 断りはしたものの、この荷物はどうすればいい？ジョーのバイクの後ろに、クマやイヌを抱えて跨るなんてどう考えても無理だ。どうしよう……。 そんなフランソワーズの心の中を見透かしたかのように、哲哉は優しく言った。 「いいよ、荷物だけ家に届けてあげるから」 「そんなの……だめよ……！！」 荷物だけ押しつけて、はいサヨナラなんて身勝手すぎる。でも―――でも、送ってもらうわけにもいかない。いったいどうすれば…… 「どうせ通り道なんだし、ここでキミに逢わなくても荷物は運ぶつもりだったんだから。お兄さんはもう帰ってるんだろう？」 ううん、とフラソワーズは力なく首を横に振った。 「今日はいないの」 彼女の舞台が終わるやいなや、ジャンはタクシーに飛び乗ったはずだ。ちょうど今頃、空港に着いた頃だろうか。クリスマスだというのに、パリへの出張。明日の夜の便でフランソワーズもパリへ向い、年末・新年といつもどおりカンヌの別荘で過ごす予定になっていた。 （どうしよう……ジョー、早く戻ってきて！） と、その時。 困り果てうなだれていたフランソワーズの視界の隅を、何かが猛スピードで横切った。はっと顔を上げたフランソワーズは、わが目を疑った。 「ジョー？！！！」 （どうして？！！どこへ行くの？！待って！！！） 車道の真ん中をそのまま走った。シャーベット状になった雪が跳ね上がり、真っ白なコートの裾を濡らしたが、構わずにフランソワーズはジョーのバイクを追いかけた。 「ねえ、ジョー、待って！！どうしたの？」 幸い、ホール前のロータリーから国道に出る信号は赤だった。バイクは停止線を跨ぐように急停止した。はあ、はあと息を切らせ、ようやく追いついたジョーの背中に声をかける。 「ねえ、ジョー！」 けれど彼は肩をいからせたまま、こちらを振り返ろうとしなかった。 「ジョー……？」 思考が完全に停まる。感覚も感情も、寒さの中凍りついてしまったような気がした。 ―――ジョーを怒らせてしまった？……どうしよう？どうしたらいい？ 呆然と立ち尽くす彼女の耳に、低く冷淡な声が飛び込んできた。 「バイト、抜けてきたから戻る。もう時間ないんだ。今、一番忙しい時だから」 「あ…ごめんなさい……あの…あの」 （どうしたらいいの？何て言えばジョーは……？） 焦れば焦るほど、何を言えばいいのかわからなくなる。ただ涙だけが無意識のうちにぽろぽろと頬を伝い落ちた。 「ねえ、終わるのは何時？私……・」 その時、無情にも信号が変わった。 「待ってるわ、ね、だから……！」 ブブブー！！！！！と、後続車のけたたましいクラクションが、彼女の悲痛な声を掻き消した。 「わからない」 吐き捨てるような鋭い声に、フランソワーズは言葉を失った。 「……ジョー……」 ブルンブルンブルンブルンブルン！！！！！！！ 急発進したバイク。そして立ち込める排気ガスの臭い。凄まじい音を立ててジョーのバイクは大通りに出ると、最初の交差点を猛スピードで左折した。 テールランプの赤い光は、あっという間に闇に溶けてしまった。 「……ジョー……」 どうしよう……。彼を……怒らせてしまった……。 １時間も待たせてしまったのだもの。怒っても仕方がない。 ううん、でもそんなことで怒るようなジョーじゃないわ。 だったら―――何が彼を？ 「フランソワーズ……大丈夫？」 気遣わしげな声に、彼女はのろのろと背後を振り返った。 ……哲哉……？ 『誰がどう見たって恋人同士よ！』 『舞台の上のキスも、さっきのキスも、ほんとの恋人同士じゃなきゃできないわよ！んもう、水臭いんだから！ちゃんとアナタの恋人を紹介して！』 楽屋に押しかけてきたシンディとメグは大はしゃぎだった。どんなに否定しても、彼女たちはフランソワーズの弁解に耳を貸そうとしなかった。 『だって、鮎川さんじゃないなんて、ありえないじゃない！』 『ありえないって言っても、ないんだもの。ほんとよ。信じて！』 『ふうんん。まあいいけど。でも、鮎川さんが相手じゃないならないで、かえって大変かもよ』 シンディはしたり顔で言った。 『……大変？どうして？』 『こんなぴちぴちスケスケの衣装を着てよ、ぎゅうっと抱きしめられたり、持ち上げられたり、あんなにセクシーに全身触られたり。おまけに舞台の上でぶちゅっとキスまで……。他に恋人がいて、あなた他の男とそんなことできる？いくらバレエが虚構の世界だとわかってても、目の前で他の男といちゃいちゃしてるの見せつけられて、我慢できる男の方がおかしいわよ』 『そうよ〜。男って、女よりずうっと嫉妬深いんだから。そんなの許せないって思うのが当然よ。しかもさ、相手が鮎川さんみたいな超いいオトコだったりしたら、たまらないわよね〜！！へこむどころじゃすまないわよ』 メグも力強く相槌を打った。 『ダンサー同士のカップルなら、お互い様で割り切れるのかもしれないけど、一般人には無理だと思う！打ちのめされちゃうわ』 『いい、フランソワーズ？もしあなたに恋人がいたとしたら、あの舞台観て平静でいろっていうのが酷な話よ。だからそういう意味ではよかったのかもね。まだ誰ともつきあってなくて』 『でも守る会の会長は相当ショックだったみたいよ。うふふ……。あなたが鮎川さんに抱き寄せられるたびに鼻息荒くなっちゃって、おかしかったわよね。実際、あちこち興奮してたみたいだし』 『でも……ハインリヒは見てて可哀想だった……。あの人、ほんとにフランソワーズのこと、好きなのね。悲壮感が漂ってたわ。鮎川さんがキスした時、かああっと真っ赤になったと思ったら、次の瞬間蒼白になって……あのまま失神しちゃうんじゃないかって心配しちゃった』 ……我慢できるほうがおかしい？ 許せないと思うのが……当然？ 今まで、そんなこと考えてみたこともなかった。 だけど……。 ジョーも……そうなの？ 「フランソワーズ！」 哲也は、ポンと優しく肩に手を置き、呆然と立ちすくむ彼女をそっと抱き寄せた。 恋人がいるのに、他の男と…… 「さあ、送っていくよ。ここで立ってても仕方ないだろう？」 目の前で他の男といちゃいちゃしてるの見せつけられて…… 我慢できる男の方がおかしい…… じゃあ、私、今日の舞台のせいで……ジョーにいやな思いをさせてしまったの？ そんなこと……全然……思ってもみなかった…… 悲しくて涙がとまらない。 いや、悲しみよりも、何も考えていなかった自分への怒りが、胸の奥から突き上げてきた。 フランソワーズは哲哉の手を振りほどくと、大声で叫んだ。 「お願い、私に構わないで！！！」 「……フランソワーズ？」 「放っておいて！！タクシーで帰るから！だから……お願い、荷物、全部降ろして！！！自分で持って帰るわ！！」 横断歩道の赤信号を無視してロータリーを飛び出す。大通りで闇雲に手を振ると、空車のランプを灯したタクシーがすぐに停まった。 「お願いします。あそこのバス停まで入って来てもらえますか？荷物がたくさんあるんです」 哲哉はそんな彼女の様子を穏やかな目で見つめていたが、Ｕターンしたタクシーがフェラーリの横に停まると、運転手と窓越しに短く言葉を交わし、荷物を積み替え始めた。 雪と風はますます激しさを増していた。興奮して紅潮したフランソワーズの頬を、粉雪がぱらぱらと音を立てて叩いた。その冷たさに彼女はようやく我に帰った。 （私……どうして……哲哉に、あんな言い方……） 誰かに向かって、こんなにきつい言葉を吐いたのは初めてかもしれない。なんて嫌な言い方をしたんだろう。哲哉には何も関係ないのに。 後悔のあまり眩暈がした。ふらふらとその場にしゃがみこんでしまいそうになる。でももう取り返しはつかない。 恥ずかしさに震えながらバス停まで戻ったフランソワーズを、彼は「荷物は降ろしたよ」と優しく微笑んで迎えた。 哲哉のせいじゃない。なのに、彼に八つ当たりをしてしまった。あまりにみっともなくて惨めでたまらない。 「ごめんなさい……私……あなたに……」 こみ上げる嗚咽を必死にこらえ、フランソワーズは唇を強く噛み締めた。 「そんなつもりじゃなかったの……でも……」 いつもと変わらない穏やかな黒い瞳が見つめる。けれど今はその優しさがかえって辛い。 「さあ、早く乗って」 哲哉はふらつくフランソワーズの身体を支え、抱えるようにしてタクシーの後部座席に座らせた。 「はい、これが最後の荷物だよ」 差し出されたのは、あのふわふわのティディベア。虚ろな瞳で見つめ返したフランソワーズの胸にそっと押しつけるようにして抱かせると、哲哉はタクシーのドアを閉めた。 「……哲哉……」 じゃあね、というように彼は軽く手を上げた。 タクシーは静かに走り出し、次第にスピードを上げた。外との温度差で白く曇った窓の向こうを、眩いばかりのイルミネーションが流れていく。タクシーの中は暑いぐらいだったけれど、凍えきった身体の震えはとまらなかった。 （ジョー……） 腕の中のティディベアをぎゅっと抱きしめて、柔らかな毛並みに顔を埋め、フランソワーズは声を殺して泣いた。 |