| ＸI． |
| 夕闇の色が次第に濃くなっていく中、雪は音もなく降り続けていた。街灯の光の届く範囲だけ、白い綿のような一片一片の舞いが浮かび上がる。 そんな光景を、もうかれこれ１時間近く、ジョーは一人でぼんやりと見つめて立っていた。 このまま降り続けば、明日の朝には一面の銀世界になっているかもしれない。 フランソワーズはきっと喜ぶはずだ。クリスマスに雪が降るといいな、と最近、口癖のように言っていたから。 『日本に来てから、ホワイトクリスマスだったこと１度もないんだもの。やっぱり雪が降らなきゃ、ほんとのクリスマスとは言えないわ』 １年３６５日。ただ淡々と過ぎていく毎日の時間。どの日にどんな行事があって、その日が晴れようが雨になろうが、ジョーは今まで全く気にしたことはなかった。だけど…… 『そんなもんかな』 『そんなものよ』 つないだ手をぎゅっと握りしめて、彼女はきっぱりと言った。 『ふうん……』 クリスマスも正月も、いつもと何も変わらない。何か変化があるとすれば、そういった世間のイベントの前は、バイトがやたらと忙しくなることぐらいか。 だが、フランソワーズは頬を薄く紅に染め、瞳を輝かせながら言葉を続けた。 『それに……今年はジョーと一緒の初めてのクリスマスでしょ？だから！』 『だから、って？』 わざとそっけなく尋ねるジョーに、もうっ、とフランソワーズは小さく頬を膨らませた。 『今までで一番素敵なクリスマスにしたいの。ジョーはそう思わない？』 しごく真剣な彼女のまなざしに、つい微笑みが零れる。 クリスマスでなくても、彼女と一緒だというだけで毎日がどれほど眩しく過ぎていくことだろう。 陽の光も風も、空も星も、そして冷たい雨でさえ、２人を取り巻くすべてのものが愛しく思える。 苦痛でしかなかった学校での時間も同じ。 なぜかわかるのだ。 机の上にぐったりとうつ伏せになっていてもちゃんとわかる。 ふと何かを感じて顔を上げると、彼女が自分を見つめている。いつものあの優しい微笑みを浮かべて。 ジョーが彼女の背中に向かって心の中で名前を呼ぶときも同じ。まるでその声が聞こえたかのように、必ずフランソワーズはこちらを振り返った。 授業中、ほんの一瞬交わす視線と微笑み。 たったそれだけのことで、心は真っ芯から満たされていく。 今まで感じたことのない柔らかなぬくもりに包まれていく。 自分の世界は変わった。彼女と出会ってから。 いつも一緒にいたい。一緒にいて、ずっと抱きしめていたい。 そして、あの柔らかな唇にキスして…… 一緒にいたい―――？ 誰かを、何かを求めたりするような、そんな飢えた感情とは全く無縁だと思っていたのに。 どう考えたって、自分はもう以前の自分とは違ってしまった。 そう、変わったのは世界じゃなくて自分だ。それを潔く認められること自体が、自分の変化を如実に物語っている。 そして彼女への思いはどんどん募っていく。逢えば逢うほど、一緒にいればいるほどに。 だからこそ―――。 いや、今はまだ”何とか”なる。でもいつか、とんでもない衝動に突き動かされてしまうだろう。 それはもはや時間の問題だった。 そうなった時……彼女は……？ フランソワーズは……そのことを……どう……思っているのだろう？ ―――どう、って？ ジョーは思わずため息をつき、小さく舌打ちをした。 かじかんだ両手をポケットの中でぎゅっと握り締めると、気持ちを切り替えるようにジョーは視線を通りの向こうに移した。 街も通りも、クリスマスらしい色とりどりのイルミネーションで華やかに輝いていた。 ザザザ、ザザザ、と路上で融けた雪をはねかしながら、車のヘッドライトが慌しく行き来している。 今年もあと少しで終わり。アルバイト先の配送センターは、師走に入ってから目が回るほどの忙しさだった。年末までそんな戦場のような状態が続くだろう。 だから今日の午後に休みを取るのは少し気が引けた。でも、そのためにこの１週間は、毎日かなり遅くまで働いてカバーしたつもりだった。彼女のレッスンが終わるのも遅かったから、迎えに行くまでの時間つぶしにもなって、まさに一石二鳥だったのだけれど。 フランソワーズの舞台。 今までバレエなんて見たこともなかった。当然興味もなかった。でもこの数ヶ月間、彼女がどれほどの努力を積み重ねてきたかを、一番よく知っているのは自分だ。 毎日遅くまでレッスンに励みながら、彼女は学校の勉強も絶対に手を抜こうとはしなかった。 自分とは違って、遅刻はもちろん授業中の居眠りもしない。 芯の強いヤツだ。あの華奢な体のどこに、それだけのパワーが潜んでいるのか、と思う。 レッスンの終わる時間にバイクで迎えに行くと、フランソワーズは稽古場から息を切らせて駆け出して来た。そしてマンションまでの２０分ほどの道中、少し興奮気味に、そしてとても楽しそうに、その日のレッスンの話を聞かせてくれる。だがハードなスケジュールが続いて、さすがに疲れがたまっていたのだろう。あれはおとといだったか。ついさっきまで笑っていた彼女が急に静かになった。心配したジョーが振り向くと、背中にぎゅっとしがみついたまま、フランソワーズはすやすやと眠っていた。 口元に天使のような無垢な微笑を浮かべ、安心しきった寝顔で。すべてをジョーに委ねて。 無防備すぎる。 このまま俺がお前をおかしなところへ連れ込むかもしれない、なんて考えないのか？ 俺だって男なんだぜ。何するかわからないのに。 なぜそんなに信じていられる？こんな俺を？ 実際、ぎゅっと押しつけられた柔らかな身体の感触に、ジョーの神経はこれ以上ないほど昂っていたのに。 でも、こんなこと初めてだ。 誰かをこんなにも信じられて、誰かにこんなにも信じられるなんて。 きっとフランソワーズは、舞い降りてきた天使。 誰の救いも、どんな祝福もいらないと意地を張り続けていた俺に、優しい手を差し伸べるために。 その天使が夢中になって打ち込んできたバレエ。ちゃんとその晴れ姿を見届けてやりたいと思った。 だから、何とか午前中の仕事を片付けて、急いで駆けつけた。隣の公園の地下駐車場にバイクを停め、ホールに飛び込んだのは開演時間ぎりぎりだった。ジョーが席に着くと同時に、ドラマチックな序曲が鳴り響き、するすると幕が上がった。 そして現れたのは、霞のような衣装を身に纏い、優雅に、軽やかに舞台を舞う妖精。 ただただ美しかった。この世のものではないと思えるほどに。 昨夜、確かにこの腕に抱きしめたはずのに、その彼女がとても遠い存在のような気がした。 このまま、もう二度と自分のところには戻ってこないのではないか？ そんな不安がふっと胸をよぎる。 やがて場面は変わり、ドラマが進むにつれて、見ているのがだんだんと苦しくなってきた。握り締めた手にも額にも、いつの間にかじっとりと汗が滲む。 そしてクライマックスで客席は大きくどよめき、ジョーは思わず唇を強く噛み締めた。 あのステージの上は現実の世界じゃない。仮想のおとぎ話なんだ。 彼女は、彼女とあの男は、そういう役を演じているに過ぎない。 そんな当たり前のことを強く自分に言い聞かせても、どす黒い感情が心を覆い尽くしていく。 だって―――自分でさえ触れたことのない場所に、あの優美な身体のラインに、アイツはさんざん触れて、ああやって抱きしめている。 しかも、唇さえ堂々と奪って！！ それでも平気でいろ、というのか？！ あの男、鮎川哲哉。 もちろん彼が相手役だということはフランソワーズから聞いていた。 どれだけ素晴らしいダンサーであるかということも。 『まるで踊りが変わっちゃうのよ。私はいつもと同じように踊ってるつもりなのに、哲哉と一緒だと、自分でも信じられないぐらい自然に踊れるの』 そう屈託なく話しててくれたフランソワーズは、まさか自分がこんなドロドロした思いに捉われているなんて、想像もしていないだろう。あんなぴったりと身体に張り付いた透けるような衣装で、ああやって男女のペアが踊るのがバレエなのだろうから。 だけど……許せない。 自分だって触れようと思えば、いつだって触れることはできた。 もっと激しく抱きしめて、全てを奪ってしまうチャンスだって何度だってあった。 ただ自分はそれをしなかっただけなのだ。彼女を大切に思うあまりに。 あの最初の夜―――鉄パイプを振り回し、倒れていた自分にすがりついてきたフランソワーズ。 凍えきった身体が腕の中で震えていた。 『お願い、もう少し……いて』 ベッドの中で握り締めた細い指。 『お兄ちゃん、今日は帰ってこないの』 彼女の言葉の１つ１つが、ジョーに強烈なカウンターパンチを食らわせる。。 『ジョー……』 薔薇のような唇が優しく自分の名を呼んだとき、たまらなくなって覆い被さるようにキスしてしまった。でも彼女は少しも抗わなかった。 指に柔らかな髪を絡め、むさぼるように唇を求めた。あの夏の日とは比べものにならない、長く、激しいキス。 頭には血が上り、どんどん息が苦しくなる。その息苦しさは今まで味わったことのない快感へとつながっていった。 ようやく唇を離すと、彼女は潤んだ瞳でじっとジョーを見つめて、囁くように言った。 『お願い……ジョー、シャワー浴びてきて』 予想を超えた彼女の言葉に、どきんと心臓が跳ね上がる。 『……フランソワーズ……？』 『だって、このままじゃ……泥だらけでしょ？ちゃんと綺麗にしなきゃ』 全身がかっかと火照り、耳が、頭がじんじんと痺れて完全に機能を停止した。 それって―――つまり？ 『……フランソ……ワーズ……？』 ――――そういうこと……なのか？ 『……ほんとに……いいのか？』 かすれた自分の声が、ずいぶん遠くから聞こえる。 一方で、破裂しそうなほどの自分の心臓の鼓動は、その音が、どくんどくんと部屋中に鳴り響くほどの強さに思えた。 彼女は恥らうような微笑を浮かべて、静かに頷いた。 『廊下の右の、ゲストルームを使って』 『フランソワーズ……』 たまらなくなって、またそっと唇を重ねる。 キスってなんて便利なんだろう。 言葉にするには難しいことを、何も言わずにちゃんと伝えられるから。 ”本当にいいのか？” そう尋ねるつもりだった。だが彼女の唇に触れた瞬間、その蕩けるような甘さに眩暈がした。 高圧電流のような鋭い刺激が脳天を突き抜けていく。 もう限界。制御不能だ。 今のキスで、かろうじて残っていたジョーの理性は完全に粉々に砕け散った。 こうなったら、このまま突っ走るしかない。 『じゃあ……』 それでも懸命に平静を装いながら、ジョーは立ち上がってバスルームに向かった。 怯えに似た感覚が背筋を走り、歯を食いしばらなければ全身の震えを止められない。 怯え？ 俺はいったい、何に怯えている？何に怯える必要がある？ 沸騰寸前の頭と体を冷やそうと、頭から何度も水をかぶった。 そして丹念に身体を洗い、バスルームから出る。 脱衣籠に入れていた自分の衣類の上に、白いタオルと真新しいＴシャツが置いてあった。 それをすばやく身に着けると、大きく何度か深呼吸し、震える手でジョーは彼女の部屋のドアを開けた。 部屋の灯りは消えていた。 ベッドサイドで小さなランプがオレンジ色の暖かな光を放っている。 『フラン……ソワーズ……？』 返答はない。 ベッドに近づき、そっと跪いた。 彼女の長い髪から、甘いソープの匂いが漂ってくる。 やっぱり恥ずかしいのだろうか？ でもそれは俺だって同じだ。 勇気を振り絞って、もう一度耳元でそっと囁いた。 『フランソワーズ……』 けれど返事はなかった。 彼女は、軽い寝息を立てて、もう眠っていた。子猫のように小さく丸くなって。 全身から一気に力が抜ける。 俺は……いったい……何を期待していた？ 完全な独り相撲？ 全身が火照りすぎて、痺れて感覚がないほどだというのに。 もしかして、”ゲストルームを使って”というのは、そこで寝ろってことなのか？ じゃあ…… ベッドの横の床に崩れるようにぐったりと座りこむと、ジョーは呆然とランプの黄色い光を見つめた。 それからどのぐらい時間がたったのだろう。 薄闇の中でじっと固まっていたジョーがようやく自分を取り戻し、ゆっくりと立ち上がろうとした時だった。 『んん……ああっ！！』 突然、苦しげな呻き声が上がった。 『ん……？どうした？苦しいのか？』 『ああっ……！！危ない！！』 小さな悲鳴。フランソワーズが突然上半身を起こした。 『フランソワーズ、どうした？！』 慌てて駆け寄り、両腕をそっと掴む。 『ああっ！！……あ……島村……くん？……ああ……よかった……私……』 彼女はジョーにしがみつくと、子供のように泣きじゃくり始めた。 『こわかったの……ナイフが……あなたに刺さって……ああっ……』 『心配するな。俺はこの通りぴんぴんしてる』 ベッドに腰を下ろし、震える身体をすっぽりと抱きしめた。 薄いネグリジェ一枚を通して、ダイレクトに伝わってくる彼女の温もり。 なんて華奢な身体。それでいて信じられないほど柔らかい。 火照りが再び凄まじい勢いで襲ってくる。けれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。 『あなたが死んじゃったかと……思って……私……私……』 『大丈夫。俺はここにいるから。さあ、ちゃんと横になるんだ』 『いやっ！……いや！……もうあんな思い、したくないの……お願い……ジョー……』 涙を流しながら、ますます強くしがみつく彼女を抱きしめて、ジョーは途方にくれた。 この姿勢がぎりぎり限界。 抱きしめたまま一緒に横になって、何もしないでいられる自信など、全くない。 でも、彼女は自分のせいで夢で魘されたのだ。 自分が刺されたときのことを思い出して、怯えて震えている。 あの時は気丈に振舞っていたけれど、よほどショックを受けたのだろう。 当たり前だ。普通の女子高生が、得体の知れない連中に浚われて、襲われて、あんな鉄パイプ振り回す羽目に陥るなんて、絶対にあり得ないことなのだから。 ましてや彼女はとびっきりのお嬢さんなのに。 そんなとんでもない状況に追い込んだのは、自分。こんなにも怯えさせてしまったのは自分なのだ。 ジョーは覚悟を決め、心頭を滅却するために深く深く息を吐き出すと、腕の中の彼女の髪をそっと撫でた。 『ジョー……？』 濡れた蒼い瞳が、不安げに見つめる。 『安心しろ。朝まで、こうしてるから』 彼女を腕に抱いたまま、ジョーは毛布を引っ張り上げてベッドにそっと身を横たえた。 『ジョー……』 胸に柔らかな頬が押しつけられた。 『ん？』 『ありがと……』 頬の涙を拭い、乱れた前髪をそっと直してやると、ジョーはぐっと胸にフランソワーズを強く抱き寄せた。 しばらく小さく震えていたフランソワーズは、やがて彼の腕の中で穏やかな寝息を立て始めた。 そのあと、朝までどうやって我慢できたのか、自分でもわからない。 信じられないほど幸せで、一方で耐え難い拷問のような一晩だった。もちろんほとんど眠ることなどできなかった。 けれど無邪気な寝顔を見ていると、ほんのちょっとした刺激にも敏感に反応してしまう自分の身体が、おぞましいケダモノに思えてならなかった。 朝はただでさえヤバイのに。 そのことには気づかれたくなくて、夜が明けて彼女が目を覚ますと、ジョーは逃げるようにアパートに帰ったのだった。 でも―――あれはあれでよかった。 そのあと、彼女がアパートに来た時だってそうだ。 家庭訪問の教師たちが帰った後、抱きついてきたフランソワーズをそのまま押し倒してしまうことだってできた。 でも、自分はそうはしなかった。 その場の勢いだけで、そうはなりたくないから。 だから、今まで何もないことに後悔はしていない。 後悔していない？ 本当に？ だったら、なぜ最近こんなことばかり考えている？ 今日だってバレエを見ている間中、そんなことばかり考えていたんだろ？ お前は恐れているだけさ。 俺が恐れるだって？ まさか！なぜ、恐れる必要がある？！ 彼女に嫌われたくないからに決まってる。 そりゃあ、もう何度も何度もキスして、いつも抱きしめてはいる。 でも、それ以上のことを求めて、もし、拒まれたら……って。お前はそれが怖いんだろ？ 怖い？そんなじゃない！ 本当は臆病なだけのくせに、いい格好して。 俺は臆病じゃない！ただ、彼女が…… そんなことじゃ、あの男にさっさと奪われてしまうのがオチだぜ。 絶対にそんなことはさせない！！！ だいたい、あの男に何の関係がある？ 関係？今だって、胸の中で醜い嫉妬をふつふつと滾らせているくせに。 嫉妬、だと？ 違う！！なぜ俺があんな奴に嫉妬しなきゃいけない？馬鹿げたことを言うな！ 馬鹿げてる？それはどうかな。 さっき客席のみんなも言っていただろう？２人はとてもお似合いだって。 彼女はバレエに打ち込んでいて、その才能をあの男はちゃんと伸ばすことができるんだ。 舞台の上で、あんなにも輝いていたじゃないか。 彼女だって言ってた。アイツと踊れて幸せだって。 それにひきかえ、誰がどう見たって、お前と彼女がお似合いのわけがないじゃないか。 お前は彼女を危険な目に合わせるのが関の山だ。 そのことは、お前自身が一番よくわかってるはずだろ？ うるさい！！それがどうだって言うんだ！俺は…… 突然聞こえた自分の大声に、ジョーはびっくりして我に返った。 幸い、あたりに人の姿はない。風がだんだんと強くなり、ひゅうひゅうとうなりながら吹き抜けていく。雪は、いつしかぱらぱらと音を立てて落ちる粉雪に変わっていた。 ふううっと大きなため息をつくと、ジョーは電灯の支柱にぐったりともたれかかった。 どうかしている。今日の俺は。 あの舞台はただの夢の世界で、彼女はもうすぐ現実に帰ってくる。 そう、この腕の中に。 なのにどうしたというんだ？何を血迷っている？ この俺が、あの男に嫉妬、だと？ まさか！ アイツはアイツ。俺は俺だ。 誰かをうらやましがったり妬んだりするなんて、ありえない。 人と自分を比べることに、何の意味がある？ そう、俺は俺だ。誰にも何の関係もない。 ジョーは重苦しい妄想を吐き出すように、また長いため息をついた。 と、その時。 ホールの脇の通用口から小さな影が走り出してきた。 彼女だ！ 大きな荷物を両腕に抱えて、フランソワーズは息を切らせてこちらへ駆け寄ってくる。 今度は、安堵の大きなため息をついて、ジョーは１歩、２歩と彼女に向かって歩き始めた。 「ごめんなさい！遅くなって……」 彼女の吐く息が白い。 「挨拶するだけで、ものすごく時間がかかってしまったの。ほんとごめんなさい」 天使がやっと帰ってきた。自分のところへ。 瞳を輝かせて見上げるフランソワーズ。やっぱりステージの上より、こうして自分のそばにいる彼女が一番美しい。 何か言おうとした。けれど急にいろいろな思いがこみ上げて、ジョーは言葉に詰まった。 もともと自分の思いを言葉にするのは大の苦手。それに今までは言葉にする必要もなかった。 誰かに自分の思いを伝えたいなどとは微塵も思わなかったから。でも…… 「こんなところで、長い時間、寒かったでしょ？どこか暖かいところで待っててもらえばよかった……ごめんね」 今、すぐここで、人目もはばからず抱きしめたい。 でも通用口から、公演の関係者と思われる人々がぱらぱらと姿を現し、駅へと向かっている。 さすがに今はまずいだろう。 懸命に衝動を抑えようと、ジョーはぶっきらぼうな口調で言った。 「バイクとって来る。ここで待ってろ」 「あ、私も一緒に行くわ！」 「いいよ。そこのバス停で待ってろ。あそこなら屋根があるから」 そう言うと、ジョーは一目散に駆け出した。 駐輪場に止めたバイクにエンジンをかけて、ふと気づく。 吹雪の中のツーリングは、どう考えても快適とはいえない。 こんなことなら待っている間にアパートにおいてくればよかった。自分の手際の悪さにうんざりする。 でも、もう今さら、だ。少しの間寒いけれど、彼女には我慢してもらおう。 ジョーは急いで駐車場を出て、ホール前のロータリーに入ろうとした。 「！！」 バス停には、見慣れた車が停まっていた。 真っ赤なフェラーリの運転席の窓は開いていて、あの男が身を乗り出すように熱心に彼女に話しかけている。 今、車から降りてきた！そして助手席のドアを開けた。 フランソワーズはエスコートされるように助手席側に回り、車の中を覗き込んだ。 まさか？！ どういうことだ？ あの野郎！舞台と同じような優雅な仕草で、彼女の頬に手を伸ばしやがった！ やめろ！！！！ここはおとぎの世界じゃない。 ステージの上の彼女にはとても手は届かないけれど、でもこの現実の世界ではフランソワーズは俺のものだ！ でも……そうだろ？ ちゃんと考えてみろ。 どっちが幸せだと思う？お前とアイツとどっちと一緒にいるほうが彼女にとって。 どっちが……幸せ……なのだろう？ 誰が、どう考えたって……いや！違う！！！ 目の前が真っ暗になり、頭にどんどん血が上っていく。 今、何か言ったら、とんでもないことを叫んでしまいそうだ。 彼女を酷く傷つけてしまうようなことを……。 横殴りの北風が雪を頬に強く叩きつける。でも痛さも冷たさも全く感じない。 だめだ。抑えなきゃ。 こんな……得体の知れない感情に、振り回されてどうする？ その時、あの男が彼女の頬にそっとキスをした。 ジョーの中で、ぶちん、何かが音を立ててはじけ、目の前が真っ白に反転した。 音も色も、一瞬にして失われた。 再び視界がはっきりした時、バイクはすでにバス停を通り越していた。 ロータリーから大通りへ出る赤信号で停まっている自分にジョーは気づいた。 「ジョー！！」 何が起こったのかわからない、という表情でフランソワーズが追いかけてきた。 「ねえ、ジョー、待って！！どうしたの？」 「バイト、抜けてきたから戻る。もう時間ないんだ。今、一番忙しい時だから」 自分で自分が何を言っているのかわからない。でまかせが、こんなにすらすら口から出るなんて。 「あ……ごめんなさい……あの……」 今にも泣き出しそうな顔のフランソワーズに、胸が掻き毟られる。 いったい何をやっているのだろう。彼女になぜこんなことを言ってる？頭が完全に混乱している。 と、信号が青に変わった。 「ねえ、終わるのは何時？私……」 後ろの車がけたたましくクラクションを鳴らす。 「わからない」 信じられないほど、つっけんどんな言い方だった。同時に、思いっきりアクセルを回した。 バックミラーの中の彼女の顔が悲しげに歪み、たちまち小さくなる。 その姿を振り切るように乱暴に交差点を曲がろうとして、ふとアイツと目が合った気がした。 落ち着いた、それでいて勝ち誇ったような、あの黒い瞳。 くっそう！！！ ジョーは唇を思いっきり噛んでアクセルを全開すると、すさまじいスピードで国道を駆け抜けていった。 |
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