軽やかな小鳥達のさえずりが、澄んだ朝の空気に響きわたる。
コズミは手にしていた木箱の埃を拭って静かに床に置くと、開け放した扉の向こうにふっと目をやった。
「今日もいい天気じゃ。陽ざしはすっかり春じゃな」
換気用の小さな窓しかない土蔵の中が薄暗いせいか、外の光が目に眩しい。
柔らかな風がそよぎ、ぷっくりとふくらんだ梅の花を優しく揺らしている。
「う〜んん。まさしく春の匂いじゃ。なあ、…ん…？」
黴臭い空気と一緒に、ほのかに漂う甘い香りを満足そうに吸い込んだコズミは、自分の言葉に全く反応しようとしない００９を怪訝な顔で振り返った。
彼は、人間が２、３人は入れるほどの大きな長持の中から、年代ものの漆器や陶磁器を取り出し、１つ１つ新しい紙で包み直す作業を、朝から黙々と続けている。
「どうしたんじゃ、００９？」
「え…？あ……？」
名前を呼ばれて初めて気づいたのか、彼は俯いていた顔をようやく上げた。
「今朝は、えらく元気がないじゃないか。どうかしたのかね？」
コズミは小首をかしげ、どこか表情の冴えない００９を見つめた。


―――確か、蔵のどこかにしまってあるはずだ。
３日ほど前に、ふとそのことを思い出して探してみる気になった。
もっとも、もう１０年以上、いやもっと長い間、この蔵は閉めきったままにしていたから、今どんな状態になっているのか少々不安ではあったが。
そうだ。探すついでに、蔵の中も整理しておこう。
しかし、年寄りのこの腰の状態では、重いものを持ち上げたり運んだりすることはできない。どうしたものか。
思案した結果、コズミはギルモア邸を訪れた時に、００９に頼んでみた。
彼が快く引き受けてくれたので、さっそく昨日から作業にとりかかったのだった。
ところが、蔵の中には予想以上に様々なものが雑然と詰まっていて、２人で１日やそこら、かき回したぐらいでは埒があかない。
結局、肝心のものを見つけることさえできなかった。
幸い、００９は全部片付くまで手伝うと言ってくれたから、焦らずぼちぼちとやっていれば、そのうちに何とかなるだろう。
「あの日」までには、まだしばらく時間もあることだし。
そういうわけで、今日も午前中から００９に来てもらうことになっていた。
ところが。
彼がやって来たのは、午前中というにはあまりに早い時間――まだ早朝と言っていい―――だった。
朝食を済ませ、庭の掃除をしようと外に出たコズミは、海にせり出した岬の先に見慣れた人影を認めて驚いた。
あれは、００９だ。
どうしたというのだろう？
いくら生真面目な青年だからといって、こんなにも朝早くから？
だが彼はコズミには気づかず、ぼんやりと海を見つめ続けていた。
まるで、あの頃と同じように。

あの頃―――初めて彼らと出会った頃のことだ。
ひとりぽつんとあの場所に立って、海を眺めている００９の姿をよく目にした。
一番年下で、一番最後に仲間に加わったせいもあって、彼にはまだ自分の置かれている状況がうまく飲み込めていないのだろう。そうギルモアが言っていたが、確かに、あの頃の彼はどこか所在なげで、まわりの人間との距離感が掴めず、いつも戸惑っているように見えた。
ある時、ふと不思議に思った。
他のメンバーはともかく、彼は日本人なのだから、帰ろうと思えば自分の家に帰ることだも出来る。なのに、なぜそうしないのだろう？
もちろん彼らの置かれている状況が、切迫したものであることは承知している。
でも、せめて家族に消息を知らせたいとは思わないのだろうか？
穏やかで、優しい目をした好青年。
けれど、整ったその横顔に時折浮かぶ淋しげな表情。
彼は、今までどんな生活をしてきたのだろうか？あまり幸せではなかったのか？
なぜか気になって仕方がなかった。
だいたい、彼はまだ１０代なのだ。
自分の孫といってもいい位の年齢でしかない。
そんな彼が、９人の中で最も優れた身体を持つ最強の戦闘用サイボーグだなんて。
人を傷つけることなど、彼には出来そうにないのに。
これからずっと、彼はそんなサイボーグとして生きていかねばならないのか？
運命というのはなんて残酷なことか。
多少の波乱はあったとはいえ、概ね穏やかな生活を送ってきた自分とは大違いだ。
闘いに身を投じるために旅立つ彼らを、岬の先端から見送りながら、コズミはただ無事を祈ることしかできなかった。

しかし、幸いにも彼らは戻ってきた。
再会の喜びを分かち合いながら、コズミはあることに気づいた。
彼は、ずいぶん変わった。
彼の表情からは、あの頃のぎこちなさや躊躇が消えていた。
陳腐な表現だが、ひとまわり逞しくなったような気がする。
でも―――それは、この僅か数ヶ月がどれほど彼らにとって重く辛いものであったか、の証拠でなくて何だろう？
人は、生きている時間の長さに比例して成長するのではない。
深く、密度の濃い時間は、それがたった１日ほどの短いものであったとしても、無為に過ごす時間の数年分の成長を、人にもたらすことがある。
耐えがたいほどの苦痛や悲しみと引き換えにして。
誰も、何も言わなかった。
彼らが、どんな闘いをくぐりぬけ、どれだけ苦しく辛い思いをしたのか。
どうやって敵を倒したのか。
語ろうとしないだけに、余計にその痛みが伝わってくる。
とても普通ではない極限の状況下で、成長していかざるを得ない彼が不憫でならなかった。
けれど、もう終わったのだ。
闘いは終わった。
だから。
せめて、これからは穏やかな日々が続きますように。
彼らが人間らしく生きていけるように。
人としての喜びや悲しみを、ゆっくりと味わいながら。
最初は目新しかったギルモア邸が、すでにあの海岸の風景に馴染んでいるように、彼らが「家族」として生活していることも、もうごく自然なことのように思える。
実際、あそこの居間は、とても居心地がいい。
一人でこの屋敷にいるよりも、ずっと快適だ。賑やかで、いつも笑い声がして。
だからギルモアの言葉に甘えて、自分もしょっちゅう入り浸ってしまっている。
そんな平和な日々の中で、コズミがもう１つ気づいたこと。それは……


「あ……いえ。別に…何も…」
長い前髪が、俯き加減の彼の表情を隠している。
でも、取り繕うように口元に浮かべた微笑が、とてもぎこちない。
やっぱりどこかおかしい。
「どこか具合でも悪いのか？それとも…」
心配気に問うコズミ。だが、その次の瞬間、ふっと表情を緩めて笑った。
「ああ、そうじゃったのか。もしかして……まだ、喧嘩したままなのかの？」
「…喧嘩…？」
赤みを帯びた大きな茶色の瞳が、不思議そうにコズミを見つめた。
「喧嘩って……誰…が…ですか？」
「誰がって、決まっとるだろうが。『君たち』が、じゃよ」
コズミのおどけた口調に首をかしげ、彼は真面目な顔をしたまま瞳をいっそう大きく見開いた。
「…君たち…？」
本当に、全然見当がついていないのだろうか？
だが、彼の表情を見る限り、わざととぼけているのではないらしい。
コズミは吹き出しそうになるのを堪えて、言葉を続けた。
「この間は『君たち』の美味しい料理をご馳走になったが、肝心のあの子が随分沈んでおったじゃろう？」
「え……？」
「てっきり、買い物の最中にでも君らが喧嘩したのだと思っておったが…違うのかな？」
フフフ、とコズミは楽しげに声を立てて笑った。
「まあ、喧嘩するほど仲がいい、というからな。若いというのは羨ましいことじゃ」
「博士……」
００９は、困惑しきった表情を浮かべ、またつっと視線を手元に落とした。
「喧嘩…なんて。そんな…」
そう口篭ると、彼は小さくため息をついた。


―――喧嘩、か。
何かで僕が彼女を怒らせて、それで喧嘩になったのなら、まだいい。
だけど結局、なぜ彼女が沈んでいたのかはわからずじまいだった。
翌朝にはすっかり元気になっていて、いつもと変わらない笑顔で階下に降りてきた僕を迎えてくれた。
何があったんだろう？
やっぱり僕が君を傷つけたのだろうか？僕はいったい何を言った？
一晩中ろくに眠らずにあれこれ考えていたのに、なんだか拍子抜けしてしまった。
でも。
でも、やっぱり何かあったんだ。
たぶん、いや、きっと僕のせいで。
だって……相変わらず、彼女は僕を「００９」としか呼ぼうとしない。
そして―――
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