潮風に混じる、湿った土の匂い。波の音も、ここまでは届かない。
柔らかな落ち葉を踏みしめながら、００９は真っ暗な山道を登っていった。
葉の落ちた木々の間から、細い月が見える。
小さな石を立てただけの、大切な”その場所”。
「来たよ」
声をかけながら、ゆっくりとしゃがみこんだ。
ここに静かに眠っている小さな命を思うと、今も胸が痛む。
と、意外なものをそこに見つけて、００９は思わず声をあげた。
「これは・・・？」
石の前に、何か白いものが浮かんで見える。
「なんだろう？」
じっと目を凝らす。覚えのある甘い匂い。
「・・・花？」
ガラスの瓶に、淡いピンクの薔薇が２本挿してある。
今日の昼間、いつもの花屋で彼女が買ったものだ。
リビングの大きな花瓶に、たくさん活けられているものと同じ。
「フランソワーズ？わざわざ・・・ここにも？」
でも、いったいいつここへ来たんだろう？
買い物から戻って、夕食の準備をして・・・さっき後片付けが終わるまで、ずっと一緒にいたのに。
「僕が、００２と海岸にいた間に？」
どうして？
なぜこんな時間に、こんな場所に一人で？
いったい何があった？
どうして彼女は・・・？
今日一日を振り返ってみると、腑に落ちないことばかりだ。
もしかしたら―――やっぱり００２の言ったとおりなのかもしれない、と００９は小さく溜息をついた。


『泣いていた？どうして・・・・いつ、そんなこと？』
びっくりする自分に、００２は言った。
車から降りてきた時の、彼女の目が真っ赤だったから。
その言葉に、思わずホッとした。
『違うんだよ、００２。帰り道、フランソワーズは目に埃が入ったって言って・・・』
とても痛がっていた。途中で車を止めようとしたけれど、大丈夫、と彼女は首を横に振った。涙と一緒にそのうち流れ出てしまうから、と。
そう言って・・・

自分の説明に、彼が本当に納得したのかどうかはわからない。
だが、「ふうん」と気のない返事をしたきり、００２はそれ以上何も尋ねようとはしなかった。
会話が途切れたまま、しばらく時間が過ぎていった。
波の打ち寄せる音だけが、ひたすらゆっくりと繰り返される。
（何を、どう言えばいいのかわからない。でも、このままこうしていても・・・）
そう思って声をかけようとしたとき、勢いよく立ち上がった００２は、いつもの明るい声で言った。
『さてと、そろそろ帰るとするか。寝る前に、一杯付き合わねえか？』
くい、と右手でグラスを傾ける仕草をする。
『いや、僕はいいよ』
『なんでだよ？付き合いが悪いな！』
予想外の反応だったのか、彼はがっかりした声を出した。
『お前・・・まさか、今さら未成年だってのか？』
あきれ返ったように、両手を大袈裟に広げ、肩をすぼめて言った。
『おいおい、あれから、どれだけ時間がたってると思う？お前だって、もうとっくにハタチすぎてるんだろ？』
『それはそうだけど・・・』
君と飲むと、ちょっと一杯じゃすまないもの。
特に、今日はそんな気分にはなれない。
でも、面と向かってそう言えば、彼も気を悪くするだろう。
返答に窮していると、００２は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
『ったく、同い年だってのに、お前はいつまでたってもガキだな。ま、実際の年齢から言えば、オレはお前より、はるかにオッサンだけどよ』
言い終わった瞬間、なぜか彼の笑顔は凍りついた。
『まさか・・・』
『００２？どうしたんだい？』
『実際の年齢、か。もしかして、聞こえちまったのか？』
『聞こえる？何が？』
『あ、いや。何でもない』
小さく頭を振り、前方の海をじっと見つめたまま、独り言のように００２は呟いた。
『あの話題が出たのは、お前たちが行ってすぐだったんだ。だから・・・』
『どういうこと？』
『買い物に行く時には、いつもと変わらなかったんだろ？だから・・・』
『００２、いったい何のこと言ってるんだい？僕にはさっぱり・・・』
いったい彼は何を言おうとしているのか。全く想像がつかない。
『ふん。大したことじゃない。だいたい、そんなことを気にする奴じゃねえしな』
大したことじゃない、という言葉とは裏腹に、彼の表情は冴えないままだ。
『００２！ちゃんと説明してくれよ』
しばらくじっと自分を見つめた後、００２は大きく息を吐き、つっと視線をそらした。
『００７のオッサンが、実際の年齢から言えば、お前なんてアイツの孫みたいなもんだ、って言ったんだ』
彼にしては、珍しく歯切れの悪い物言いだった。
『・・・孫？』
『だから、外見と、実際の年齢は違うってことだよ』
ようやく少し話の筋が見えてきた。
『アイツって・・・まさか？』
『そうさ。００３のこと』
『どうして、そんなこと・・・！』
思わず語気を強めた自分に、００２は慌てたように首を振った。
『おいおい、オレが言ったんじゃないぜ。そんな怖い顔して睨むなよ』
『でも・・・どうして？そんなこと言われて、誰だっていい気持ちなわけないじゃないか！』
『そのくらいわかってるぜ、オレだって』
なだめるように００２は言った。
『だったら・・・！！』
『だから、俺が言ったんじゃねえ、って言ってるだろうが！』
自分の非難めいた眼差しに、彼は苛ついた声を上げた。
『そもそも、お前なんかより、俺の方がよっぽどよくわかってるんだよ』
―――００２？
そうだった。彼も、００４も同じだ。でも・・・
『オレ達には、あの空白の時間なんて、はじめから存在していないのと同じなんだ。本当の年齢、なんて言われてもピンと来ない。それに他のヤツラが考えるほど、”今”に違和感を感じてるわけじゃない。睡眠学習とやらも、たっぷり施されてたようだし』
ましてや、過去に未練があるわけじゃない。
『俺なんか綺麗さっぱり捨ててきちまった。すぱっと縁が切れて、かえってせいせいしてるぜ』
―――でも、彼女は・・・
『心配するなって。アイツはそんなことでメソメソするようなヤツじゃないさ。前の時だって、ケロっとしてたんだろ？』
『前の時？』
『ほら、クリスマスだったっけか。お前がアイツを送っていってる時だよ』
『クリスマス・・・に？』
『アイツを一人で行かせることを、００６は最後までエラく心配してた。お前たちが出かけた後もな。そん時にも、００７が同じようなことを言ったんだ。でも、アイツがそれを聞いて笑ってたって、００６に言ったのは・・・確かお前だったんじゃねえのか？』
僕が送っていっている時？笑ってた？
『ま、アイツの能力からすれば、聞こえてて当然だよな』
００２は、大きな溜息をついた。

確かにあの時、ドルフィン号の中でみんなが心配しているのが聞こえるといって、彼女は笑っていた。
でも・・・

実際の年齢、か。
００７に他意はないのはわかる。
でも・・・

００１０との戦いの後、意識を取り戻した僕の眼に最初に映ったのは、心配そうに覗き込んでいる美しい瞳だった。
澄み切った、優しい眼差しに心が温かくなった。
一番最後に仲間と出会ったせいもあって、まだあの頃の僕は、みんなとの間に、どこかぎこちない距離を感じていた。
だけど彼女は、傷ついた僕を励ますように、親しげにいろんなことを話してくれた。
それを聞きながら、僕も、つい彼女に話していた。
今まで、決して誰にも話そうとなどど思いもしなかった、自分のことを。
そして、僕も彼女を励ますつもりで、何気なく言った。
『フランスに帰ったら、お兄さんに会えるね』
一瞬浮かんだ当惑の表情。そして、彼女はさらりと言った。
『私たちは、過去から来たサイボーグ』
『私たちの時間は止められたの』
もし生きていたとしても、逢うつもりはない。

僕は、ただびっくりして、言葉を失った。
彼女が無くしたものは、生身の体だけじゃなかったんだ。
自分の生きていた時間からも無理やり切り離されて、ここにいるなんて。
そんな彼女の悲しみと比べたら、自分の背負っているものなど、どれほどの重みがあるというのだろう？
でも、彼女は笑顔で言葉を続けた。
『とんだおばあちゃんで、びっくりしたでしょ？』
ついこちらまでつりこまれてしまうような、あたたかな微笑。
その笑顔に、僕は強く惹きつけられた。

それ以来、僕たちはいろんな話をするようになった。
次々と襲い掛かるＢＧの追っ手。とても勝つ望みのない戦いの日々を、必死に生き延びてきた。
そんな中で、彼女ととりとめもない会話をする時が、僕にとって唯一、心安らぐ瞬間だったかもしれない。
彼女は「そのこと」について、もう一言も触れようとはしなかった。
もちろん僕も、何も聞かなかった。
僕にとっては、今、目の前にいる彼女が全てだと思うから。
他に何を気にする必要がある？
彼女は、仲間の中でただ一人の女性。
毅然としていて、それでいてとても優しくて。
本当に強い人だと思う。
あの口の悪い００２でさえ、彼女には一目おいていた。
ぽんぽんと軽口を叩きながらも、他の時には滅多に見せない優しい目で００２は彼女を見ている。

でも僕は、肝心なことを、ちっともわかっていなかったんだ。
彼女の優しい微笑に、すっかり安心しきって、気づこうとしなかった。
とても大切なことに。

今日も、きっと聞こえていたはずだ。例のみんなの会話。
でも００７に悪気なんかないことは、彼女にはちゃんとわかってる。
だから、今日のことは、それが原因だとはとても思えない。
理由は、何か、もっと別のこと。
だとしたら・・・やっぱり・・・？
００２の言うように、ずっと一緒にいた僕に、原因があるのだろうか？
でも―――僕には、本当に思い当たることはない。

突然、ゴオオッと低い音が響いた。
木々の間から、夜空を見上げた。点滅しながら移動する人工の灯り。
それを目で追いながら、ふと例の複葉機を思い出した。
パリでのクリスマス。
あの時、僕らは―――
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