イギリスかフランスに停泊して燃料や食糧を補給する、と博士が皆に伝えたのは、南極を出てまもなくのことだった。 博士の言葉にハッと振り返った彼女は、何か言おうとして、結局口をつぐんでしまった。 その後も、時折一人で、じっと考え込んでいるようだった。 『どうかしたのかい？何か気になることが？』 他のみんながコックピットを離れた隙に、僕はそっと彼女に近づいて尋ねた。 『あ、ううん、そうじゃないわ』 唇の端に、無理に浮かべた小さな微笑。 『大したことじゃないの。気にしないで』 だが、しばらくして、今度は彼女の方が僕に近づいてきた。 『ねえ、００９。もし・・・急がないのなら』 『？』 『フランスに立ち寄る時間があるのなら、私、パリに行ってはいけないかしら？』 パリに行く？ 僕は、そういわれて初めて、彼女がフランスの出身だったことを思い出した。 『わがままだってわかってる。でも、もう二度とこんなチャンスないと思うの。でも・・・きっと、みんなには反対されるわね』 『００３・・・』 僕は、何と答えたらよいかわからなかった。 当然、どこにいても僕たちはＢＧに狙われている。 今、ここでこうしている事も、すっかり彼らにはお見通しかもしれない。 単独行動なんて危険すぎる。 だけど・・・ すぐに返答できない僕を見て、彼女は自分が僕を困らせてしまったと思ったようだった。 『あ、ごめんなさい！ちょっと言ってみたかっただけ。そんなの無理だってわかってたの』と笑った。 『貴方に聞いてもらえただけで、すっきりしたわ。でも、もういいの。忘れてね』 彼女はすっと僕から離れると、コックピットから出て行こうとした。 『００３！』 思わず大声を出して呼び止めた。彼女は怪訝な表情で僕を振り返った。 『わかるよ。そんなの、わがままじゃない。僕だって、きっと同じこと、考える。いや、考えたんだ』 『考えた？』 彼女は目を丸くした。 『僕も日本にいたとき、同じことを思った。そして―――今まで誰にも言わなかったけど、行ってきたんだ』 自分がいた場所に。 ある日、突然、変わってしまった自分の世界。 ずっとその状況が、うまく飲み込めないでいた。 元の居場所を確かめることで、一度そこへ戻ることで、少しは納得できるかもしれない。そう思った。 『だから・・・君の気持ちはよくわかる。我慢しなくていいと思うよ。せっかくすぐ近くまで来たんだもの。もったいないよ、このチャンス』 『００９・・・』 ありがとう、と彼女はホッとしたような微笑を浮かべた。 『話すだけ、話してみるわ』 そう言って、彼女は博士のキャビンへ向かった。 案の定、仲間たちはあまり賛成しなかった。 でも、僕が強引に押し切る形でみんなを説得し、たった半日だけ彼女はパリに行くことになった。 神様の配慮なのか、いたずらなのか。その日のパリは、クリスマスイブだった。 セーヌのエスチュアリに面した古い港町の沖合いに、ドルフィン号はひっそりと停泊した。 どうせ送っていくのなら、パリにも一緒に行けばいい、と００６は何度も僕に言った。 『心配アル。ＢＧがいるかもしれないし・・・女の子一人というのは感心しないネ』 確かにそれには一理ある。でも――― 『もし、心配なら・・・僕も・・・』 そう言った僕に、彼女は首を横に振った。 『ありがとう。でも一人で行きたいの。わざわざ来てもらったりしたら、気をつかっちゃうわ。だから、お願い。一人で行かせて』 真っ直ぐな強い瞳に、僕はただ頷くほかなかった。 『ここには、小さい頃に来たことがあるわ。夏のヴァカンスシーズンは人でいっぱい。でも冬の海岸には誰もいないから、ちょうどよかった』 近づいてくる海岸線を見つめながら、彼女は懐かしそうに言った。 人目を避けて無事上陸すると、僕は君をポーパスから抱き下ろした。 『楽しんでくるといいよ』 そう言った僕に、君は爽やかに笑って頷いた。 まさかあの時に、ドルフィン号でみんながそんな話をしてたなんて。 きっと聞こえてたはずだ。 でも、彼女は笑ってた。 なつかしい故郷に帰れたことを、心から喜んでいる笑顔だと、僕は勝手に思い込んでた。 ―――けれど、彼女は戻ってこなかった。 約束の時間になっても姿を見せない。連絡もない。 『まだ遊び足らんのじゃろうか？』 暢気すぎる博士の言葉。 まさか！そんなはずはない。 君が、僕との約束を破るなんて考えられない。 心配で、不安で、パリの街中を必死に探し回った。 だが手がかりは何もない。 その時、突然現れた複葉機。 まるで、僕について来いといわんばかりに、不審なアクロバット飛行をしてみせた。 あとを追って、たどりついたのは朽ちかけた教会だった。 薔薇窓の下で、君はひとりで踊っていた。 まるで、月の妖精のように、軽やかに。 僕は、しばらくの間、言葉も出せず、ただその美しい姿に見とれていた。 でも、彼女の様子は尋常ではなかった。 『００３！』 ようやく我に返った僕は、何度も呼びかけた。 気づいて！僕に！ そんな思いを込めて。 でも、彼女は、ただ狂ったように踊り続けていた。 怖かった。 このままにしていたら、彼女は、もう僕の手の届かないところに行ってしまいそうだった。 自分の意志では、決してここには戻ってきてくれないような気がした。 だから、僕は無理やり彼女を夢から覚めさせようとした。 なぜ？なぜ僕に気づかない？ そうだ。彼女の名前。 せめてこの街にいる間は、あの素っ気無い番号で呼ぶべきじゃない。 『フランソワーズ！！』 僕は必死に彼女の名前を呼んで、正気に戻そうとした。 でも、それは大きな間違いだったかもしれない。 この現実に、何があるというのだろう？ 幸せも、希望も、そして時さえも。何もかも奪われてしまった、抜け殻のような現実に。 いや、抜け殻じゃない。奪われた空白を満たすのは、血と殺戮。 あの幻影の中で、とても幸せそうだったのに。 あんな幸せそうな顔した彼女を見たのは、初めてだったのに。 なのに僕は、無理に彼女を、この醜い現実に呼び戻した。 そんな無慈悲な僕に、彼女は必死で抵抗した。ついにはスーパーガンを抜いて・・・ そうまでして、彼女は幻覚の中にとどまろうとした。 ショックだった。 彼女が僕を撃ったからじゃない。 その時、初めて気づいたからだ。 僕たちと、僕と一緒にいても、彼女はちっとも幸せじゃないってことに。 僕たちと一緒にいる限り、彼女は幸せにはなれない。 初めて気づいたその事実は、僕を打ちのめした。 日付の変わった１２時。 花火の音とともに、彼女は正気に返った。 『メリー・クリスマス！』 声をかけた僕を、彼女は訝し気に見つめた。 『どうして、ここが？』 その時、不思議なあの複葉機が再び現れた。 『あの複葉機が教えてくれたんだ』 白い頬を、涙が伝う。 薔薇色の小さな唇がゆっくりと動き、かすかな呟きが漏れた。 『兄さん・・・』 僕にも見えた。彼女に手を振る人の姿が。 そうだ。あの人が、僕を君のところに連れてきてくれたんだ。 ちゃんと君のところへ僕がたどり着いたのを見届けると、安心したように複葉機は姿を消した。 あれは何だったのだろう。 彼女の幻影に、僕も引き込まれたのだろうか。 それとも、クリスマスだけに見える真実だったのか。 でもその時、僕は密かに心に誓っていた。 たとえ君が、僕たちと一緒にいて、幸せでないとしても。 僕たちが一緒にいなければならない運命なら、僕は・・・ 花火が終わり、町はようやく静寂を取り戻した。 『ごめんなさい、心配かけて。もう日付が変わってしまったのね』 彼女は僕をじっと見つめた。 静かな穏やかな表情。でも、いつもよりずっと深い瞳の色。 海岸で別れてから今までの時間が、彼女にとってどんなものだったか、僕にも容易に想像がついた。 なのに、あの時―――僕は、何て浅はかなことを言ったんだろう。 楽しんでくる？ どうやって楽しむというんだ？ もう誰もいないのに。 彼女がこのままの姿でここにいるなどとは、誰も思っていない。 自分がいたはずの場所。そこは、もう今の姿でいてはならない場所になっていたのに。 でも、そんなことはわかった上で、彼女はここに来た。 だからこそ、一人で行くと言った。 この数十年の時の流れに、自分と目の前の故郷との間に横たわる大きな時間の断層に、ひとりで立ち向かおうとした。 ひとりぼっちで眺める懐かしい風景が、どれほど悲しいものか僕にはわかる。 悲しい、辛い思い出ばかりしかない風景であっても、そうなのに。 ましてや、幸せなぬくもりに満ちた時間を過ごした場所なら・・・ 『どうして・・・こんなことになってしまったのかしら・・・』 彼女はしょんぼりと肩を落とした。 誰かに追われてるような気がしたの。やみくもに逃げ惑って。 いるはずのない人の影に怯えて。 夢だってわかってた。私の願望だとしか思えない情景だった。 そんなこと望んでも仕方ないのに。 なのに、私はそこから抜け出したくなくて。 そして、とうとうあなたまで撃ってしまった。 『フランソワーズ！』 違うんだ、と言おうとした僕をじっと見つめ、彼女はかすかに首を振った。 『私の心に隙があったから。だからこんなふうに混乱して・・・』 悔しい。 彼女はそう言って唇を噛んだ。 伏せられた長い睫が震えていた。 わかっていたはずなのに。 だから、あんな強がり言ったのに。 でも・・・やっぱりダメだった。 いつも気丈な君。 だけど、今目の前にいる君は、白い月の光に溶けてしまいそうなほど、儚げだった。 そんなに我慢しなくていいのに。 もっと弱音を吐けばいいのに。 そう言って、震える細い肩を抱きしめたいと思った。 僕はちっともわかっていなかった。 彼女がこれまで、その笑顔の影に、どれだけの思いを封じ込めてきたか。 せっかくの故郷でのひと時を、こんなままで終わらせてしまうなんて。 せめて今から、しばらくの間だけでも・・・。 だけど、どうすればいい？ 僕に何ができる？ 考えた末に出たのは、結局ありきたりの言葉だけだった。 『帰ろうか』 彼女はかすかに、ええ、と頷いた。 消え入りそうな声に、僕の心はやっと決まった。 深呼吸してから、僕は彼女をいきなり抱き上げた。 『きゃっ・・・』 何するの？と彼女は叫んだ。 トクン・・・。トクン・・・。 心臓の音が、僕の胸のすぐそばで鳴っている。 『お願い・・・降ろして！』 彼女は身を固くした。 『でも、こうしないと、君と一緒に帰れない』 彼女を抱きあげたまま、僕は走り出した。 こんな目立つ格好で、普通の道を歩くわけにはいかない。 もう時間も遅すぎる。早く帰らなくては。 かと言って、防護服を着ていない彼女を抱えて、加速装置は使えない。 だから、と勢いよく屋根の上に飛び上がった。 『あ・・・あ、ジョー！！ま、待って！！』 屋根から屋根へ。そしてまた別の建物の上へと飛ぶように走る。 せめて、あの景色を君に見せてあげたい。 エッフェル塔真正面の、橋のてっぺんに飛び上がる。 両手がふさがった状態の僕は、着地の時に、一瞬バランスを崩してよろめいた。 『きゃあ！』 彼女は小さな悲鳴をあげて、僕の首にしがみついた。 『うん、そうやってつかまってて。落ちると危ないから』 亜麻色の髪が鼻をくすぐる。甘くて、優しい匂い。なぜか懐かしい。 僕の心臓の鼓動も、いつもよりずっと早くなる。 『ほら、見てごらん！』 僕は彼女を抱いたまま、後ろを振り返った。 月を背に、エッフェル塔が輝きながらそびえ立っている。 『ああ、なんて綺麗なの！』 彼女は感嘆の声を上げた。 セーヌに映るイルミネーションが、川面の漣にゆらゆらと揺れている。 『ここからだと、こんなに綺麗に見えるのね』 彼女の体から、ふっと力が抜けた。 『あなた、今までにパリに来たことあるの？』 『まさか。初めてだよ』 これは、ドビリィー歩道橋。 そう彼女は教えてくれた。 セーヌには、装飾を凝らした美しい橋がいくつも架かっている。 そんな中、この橋は無粋な幾何学的デザインだから、あまり有名ではない。 でもエッフェル塔を眺めるには、一番いい場所なのよ、と彼女は笑った。 もっとゆっくり見ていたかった。でも長い時間ここにいたら、下を歩いている人に見つかってしまう。 思いを振り切って、僕はまた走り始めた。 『大丈夫？ホントにずっと、こうして行くの？海まで、まだまだ遠いわ』 『大丈夫。僕を信用して』 教会の塔。古いアパルトマンの屋根。次々と飛び移る。 『ねえ、すごい音がしてるんじゃない？屋根から聞こえる足音に、住んでる人はびっくりしてないかしら？』 『かもしれないね』 『今夜は、子供たち、寝ないでドキドキしてるのに。サンタさんの足音と勘違いしちゃって大変ね』 彼女はくすくす笑った。 ある高層ビルの屋上にあるアンテナ塔のてっぺんで、僕は立ち止まった。 時折、彼女が僕の肩越しに、懸命に遠ざかっていく街の景色を振り返っていることに気づいていたから。 パリの中心部を眺められるのは、ここが最後。この先には、もうこれ以上高い建物はない。 冷えて澄み切った空気の向こう。 エッフェル塔。ノートルダムの薔薇窓。凱旋門。シャンゼリゼのイルミネーション。それらは、一つの光のかたまりになって、ぼんやり遠くに輝いていた。 『ねえ、降ろして』 『え？でも・・・』 『お願い。ちゃんと自分の足で立ちたいの。自分の足で立って、最後に見たいの』 アンテナ塔の上には、２人が同時に立つスペースはなかった。まして、ヒールのあるブーツで、ここに立つのはとても危ない。僕はほとんどつま先立ちになって、彼女の立つ場所を確保した。 『昔は、もちろんこんな高いビルはなかったわ。中心部は以前のままだけど、このあたりはすっかり変わってしまった。こんな方角から街を眺めるなんて、初めてよ』 そう言うと、彼女はしばらく黙り込んだ。 星々が、青く、あるいは白く瞬く。流れ星もいくつか流れた。 次第に強くなっていく風に、亜麻色の髪をなびかせながら、彼女はいとおしむように街の灯を眺めていた。 突然、白くふわふわしたものが、目の前の闇を舞い始めた。 『雪・・・？』 彼女は大きな雪のひとひらに、そっと手を伸ばした。 『ホワイトクリスマスね』 動くと危ないよ。 そう言いながら、落ちないように、背後からそっと抱きしめようとした。 だが、それより一瞬早く、彼女はバランスを崩して、前のめりになった。 『ああっ！！』 慌てた僕は、とっさにスカーフを掴んだ。 ところが、手の中に残ったのはスカーフだけだった。 肝心の彼女は、目の前を真っさかさまに落ちていった。 『フランソワーズ！！』 加速装置で彼女に追いつくと、スイッチを切ってから彼女を抱きとめ、真下にあった大きな木の上めがけてダイブした。 僕たちを受け止めて、広がった枝が大きく揺れる。シャランシャランと音を立てて、何かが次々と地面に落ちた。 『大丈夫？！怪我してない？』 僕が慌てているのに、彼女はなぜか笑っていた。 『ごめんなさい。だって、あんなに狭い場所だって思わなかったんですもの。うふふ・・・でもびっくりしたわ』 あんな高いところから落ちたのに、彼女はちっとも怖がっていなかった。 不思議そうに見つめる僕の眼差しの意味がわかったのか、「あなたが一緒だから大丈夫だと思ってた」と、くすっと笑った。 僕たちが不時着したのは、大きな樅の木の上だった。 ビルの狭間の、小さな教会の前庭に、堂々とそびえ立っていた。 樹齢何年ぐらいだろう？見事な枝振りの、古い大きな木。 僕は彼女を抱えたまま、木から飛び降りた。 枝から垂れ落ちた電飾。 それが、チカチカと点滅するたび、闇の中にツリーが浮かびあがる。 まるで夢のような光景だった。 雪が積もり始めた地面には、不時着の衝撃で落ちた、赤や青や金銀のボールやモールがいっぱい散らばっていた。 『大変！ちゃんと直さなきゃね』 小さな声で呟くと、彼女は屈んで、落ちた飾りを１つ１つ拾い集め始めた。 『上のほうが淋しいわ。これは、あのあたりにつけて』 『赤いのばかり右にかたまってるわ。１つはずして、そっちに銀色のモールを絡ませると、きっと綺麗よ』 普通なら、高いはしごを使わなければ、とても届かない。 僕は何度もジャンプして、彼女の指示通りに枝を飾っていった。 『はい、これで最後よ』 頂上につける大きな金の星を、彼女はそっと僕に差し出した。 『このてっぺんの星をつけるのは、いつも一番最後って決まってたわ。神聖な儀式みたいに、家族みんなが見ててくれる中で、私が飾ったの。でも私は小さくて、背が届かなくて・・・。そんな時、いつも・・・』 彼女はゆっくりと、ツリーを見上げた。 君はきっと、いつも幸せなクリスマスを過ごしていたんだね。 だけど、今はもう、全部時のかなたに過ぎ去ってしまった。君だけをここに残して。 ここにあるのは、こんな最悪のクリスマス。 僕と一緒にいても、辛い思いをするだけだ。 なのに君は今、とても楽しそうに笑ってる。 幼い女の子みたいに、はしゃいだ声を上げて。 『じゃあ、それはやっぱり君がつけて』 『え？』 僕は星を彼女の手に握らせると、後ろから抱きかかえて木の上に飛び上がった。 星の冠を両手で木の頂にうやうやしく被せると、彼女は僕を振り返って、にっこりした。 ２人で完成させたクリスマスツリー。 僕たちは、何も言わずに、しばらくそれを眺めていた。 雪は次第に激しくなり、世界を白く変えていく。 　　　きよしこの夜 　　　星は光り　 　　　救いの御子は　 　　　御母の胸に 　　　眠りたもう 　　　夢やすく 柔らかな声が、夜のしじまに響いた。 どこからか、荘厳なオルガンの音が聞こえてくるような気がした。 突然、僕は、懐かしい幻を見た。 眩い光に包まれた君の姿。 包み込むような優しい微笑を浮かべて、幼子を腕に抱いている。 これは・・・どうして、こんな情景が？ ずっと心の中に封印してきたのに。 幻が姿を消した後も、僕は放心状態で、彼女の白い横顔を見つめていた。 歌い終わると、彼女はゆっくりと僕に向き直った。 『メリークリスマス、ジョー』 『フランソワーズ』 １歩。２歩。ゆっくりと近づく。 真正面に立つと、彼女は背伸びして僕の頬にそっとキスをした。 『・・・！』 あまりにも自然で、あまりにも美しく優雅な仕草。 柔らかな唇の感触に、僕は息を呑み、何も言えずにただ突っ立っていた。 頬が、かあっと熱くなるのだけはわかった。 『ありがとう。とっても素敵なクリスマスだった』 『フランソワーズ・・・』 やっとの思いで、僕は声を絞り出した。 けれど、彼女は真っ直ぐに僕を見つめ、首を横に振った。 『もう、戻らなきゃ』 『フランソワーズ？』 『ありがとう。この街にいる間だけは、フランソワーズでいたかったの』 だから、あなたが名前で呼んでくれてとても嬉しかった、と彼女は微笑んだ。 『でも、もう戻らなきゃいけない。００３に』 『フランソワーズ・・・』 『あなたが来てくれて、ほんとによかった・・・』 目を伏せて小さく呟いたあと、さあ、と彼女は明るい声で言った。 『帰りましょう。きっとみんな心配してるわ。００２なんて、きっとカンカンに怒ってるわよ。「たく、何やってたんだよ、アイツらは！」ってね』 その言い方が本当に００２そっくりで、僕は思わず吹き出した。 『じゃあ急ごう。加速は出来ないけど、ぎりぎりまで飛ばすよ』 腕の中で、彼女は黙って頷いた。 そして僕は、ひたすら海まで走り続けた。 無事に戻って、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。 ポーパスに乗り込んだ途端、彼女は眠ってしまった。 沖合いのドルフィン号に着艦し、眠っている細い体を抱きあげようとして、初めて気づいた。 明るい照明の下。彼女の白い首筋に、何かついていることに。 醜い金属のボタン。 博士は、このマシンのせいで彼女は混乱したのだ、と言った。 その説明は、もちろん理に叶っている。 でも、それなら、あの複葉機はどうなんだ？ 僕を、彼女のところに連れて行った人。 それが彼女の幻影なら、なぜ僕にも見えたのだろう？ そして僕が見た懐かしい幻。 謎は、結局謎のままだった。 博士たちに簡単に事情を話した後、僕は再び彼女のキャビンに向かった。 小さくドアをノックする。だが反応はない。 躊躇いながら、僕はそっとドアをあけて中に入った。 彼女は、かすかな寝息を立てて、眠っていた。 僕はベッドサイドの椅子に座ると、美しい寝顔をしばらく見つめていた。 時折、苦しげに眉が動く。 僕の前では、あんなに明るく振舞っていたけれど、本当は彼女はとても傷ついていた。あの酷い機械のせいで。 なのに、心の弱さが幻影を見せたと、彼女は自分を責めていた。 『そうじゃない。これが、君の気持ちをかき乱したんだ』 そう告げたかった。他の誰でもなく、僕から。そして・・・ 彼女の心を弄んだＢＧに、僕は、今まで以上に激しい怒りを感じていた。 しばらくして、彼女は目を覚ました。 『００９・・・？』 僕を見て、不思議そうな顔をした。 『大丈夫？』 『ここは・・・？』 『ドルフィン号だよ。もう何も心配要らない』 あたりを見回し、そこが自分のキャビンだと気づいた彼女は、慌てて起き上がろうとした。 『起きなくていいよ。休んでなきゃ』 『でも・・・あっ？・・・コートも、あなたが脱がせてくれたの？』 『う、うん・・・勝手にごめん』 口ごもる僕に、ありがとう、と彼女は少し頬を染めて呟いた。 『これ・・・』 壊れたメカを、彼女の手のひらに載せる。 『何なの、これ？』 これのせいだったんだ。君が混乱したのは、この機械のせいなんだ。 心の弱さなんかじゃない。 そう言う僕をじっと見つめ、そして彼女は首を横に振った。 『そうかもしれない。でも・・・やっぱり、それだけじゃないのよ』 『フランソワーズ？』 ふうっと息を吐いて、淋しそうにかすかに笑うと、言葉を続けた。 『私ね、パリで、どうしても行けない所があったの。一番最初に行かなきゃいけない場所だったのに。でも―――』 確かめるのが怖かった。勇気がなかった。 『だから・・・もし、その機械がついてなくても、きっと・・・同じように・・・』 目を伏せて溜息をついた彼女に、僕は言った。 『フランソワーズ、頼みがあるんだ』 『なあに？』 ゆっくりと面を上げて、彼女は僕を見つめた。 『今度、ちゃんとパリを案内してくれないかな？』 『ジョー・・・？』 『あんなふうに駆け抜けただけじゃ、行ったうちには入らないし・・・』 彼女は小さく笑った。 『そうね。とても慌しかったものね。勿論、喜んで案内するわ』 『約束だよ』 君が行きたくても行けなかった場所に、今度は僕も一緒に行くから。 それがどんなところなのかは、わからないけれど。 『ええ。約束ね。いつか、きっと・・・』 彼女は頷き、視線をふっと遠くに向けた。 『じゃあ、お休み』 立ち上がった僕に、彼女は微笑みかけた。 『今日は、ほんとにありがとう。とっても素敵なクリスマスだったわ』 『僕の方こそ、楽しかった』 そして―――言おうか言うまいか迷っていた言葉が、つい口をついて出た。 『こんな風に、ちゃんとクリスマスを楽しんだのは、生まれて初めてなんだ』 『・・・ジョー？』 『誰かと一緒にツリーを飾って・・・聖歌をうたって・・・なんて、一度もなかった。だから、ありがとう、フランソワーズ』 彼女は何も尋ねようとはしなかった。 ただ、あの光の中の幻と同じ微笑を浮かべて、じっと僕を見つめた。 もうあれから、ずいぶんになる。 あのあと、いろんなことがあった。 そのたびに、僕と仲間たちのとの距離は縮まっていった。 そして、彼女の笑顔がいつも僕を勇気づけてくれた。 なのに。 どうして僕は気づかなかったんだろう？彼女がすぐ隣で泣いていたことに。 僕は馬鹿だ。 子供でもわかりそうな言い訳を、真に受けていた。 その前から、少しずつ彼女の元気がなくなったような気がしていたのに。 石の前に座り込んでいた００９はゆっくりと立ち上がった。 こんな時間に、お前のところに花を持ってきたのはなぜだろう？ 彼女は、何かお前に言っていたかい？ 一緒にいる僕には、僕たちには言えないことを、お前はかわりに聞いてくれたのか？ 何もなかったはずがない。 自分では気づいていない何かで、僕は彼女を傷つけた。 本当にわからない。 けれど、何かあったことは確実だ。 なぜなら、家に戻ってから、彼女は僕のことを「００９」としか呼ばなくなったから。
	back　　　　　next
	Contents　　　　　　　　X'mas index