「すまんな、００２」
「どうせ暇だったし、００６の店でも覗こうかと思ってたところだったから」
蒼い海。柔らかな白い雲。窓の外には、春を予感させるおだやかな景色が広がっている。ギルモア博士を助手席に乗せ、００２は空港に向けて車を走らせていた。
「キャンセル待ちのチケットが取れたでな。何とか、今夜の会議にも間に合いそうじゃ」
「学会とは、ご苦労さんなこった。しっかし博士も、忙しすぎるんじゃないんですか？いい年なんだから、もう少しのんびり・・・」
「こらっ！何を言うんじゃ！ワシはまだまだ、現役じゃ！」
年寄りの冷・・・と言いかけた００２は、ギルモア博士の剣幕に、言葉を飲み込んだ。
「今日は、珍しくみんな忙しいようじゃな」
００６と００７は、いつものように店にかかりっきりだ。００４と００５と００８は、調べものをしに図書館に行くとか言っていた。自分も誘われたが、かび臭い本の山には全く興味がない。００９も、朝早くからコズミ博士に呼ばれて、古い倉庫の大掃除を手伝わされているらしい。
家に残っているのは００３と００１だけ。その００１は例によって例のごとく眠りこけている。
「ったく、ほんとによく寝る奴だな。そのくせ、いつまでたっても身体は大きくならないんだから。変な赤ん坊だぜ」
「それにしても、あのコが行き届いた世話をしてくれるから、全く助かっておるよ。００３はイワンの優しいママじゃからのう」
優しいママか。
俺には結構おっかないけどな、と００２は肩をすくめた。

ギルモア博士を出発ロビーまで送ったあと、００２は中華街に向かった。いよいよ実行に移すことにした、小さな企み。今日がその初日になるはずだった。
だが、目指す張々湖飯店は、午前中から大盛況。店の前には、かなりの行列が出来ている。
「よお！００６、今日は・・・」
「悪いね、００２！今日はアナタの面倒見てる暇、全然ナイね」
００６は口の何倍もの速さで手を動かし、瞬く間に料理を仕上げていく。厨房の向こうでは、００７も汗だくになって鍋と格闘していた。
「どうやら、そのようだな。じゃあ、餃子だけでも食って帰るか」
「駄目アル！仲間といっても、順番抜かしはいけないネ！ちゃんと列に並ぶアルヨロシ」
「ちぇっ。かたいこと言うなよな」
だが、店の外はすでに長蛇の列になっていて、とてもこのまま店に入って座ってしまえるような雰囲気ではなかった。
（腹が減ってる連中は、殺気立ってるからな）
仕方がない。今日は真っ直ぐ帰るとするか。
００２は、チャイナドレスを着たバイトの女の子に、軽くウィンクを１つ投げると、さっさと車に乗り込んだ。
（チャイナドレス、か）
あの女の子のチャイナ服も、一般客にはかなり評判のようだが、００７に言わせれば「月とスッポン」らしい。
結局、彼女の極上のチャイナ姿を拝めた仲間は、００６、００７、００９、そしてなぜかギルモア博士の４人だけ。
自分はそれを見られなかったばかりか、あのあと００６にこってり絞られたのだ。
『せっかく機嫌よく、あれ着て手伝ってくれてたのに、アナタが余計なこと言うから、もう着ないって、また怒っちゃったヨ！』
『おいおい、また俺のせいかよ』
『そうヨ！アナタと００４が余計なこと言うから・・・。きっとアナタ、下心見え見えだったに違いないネ！』
あああ。何でそうなるんだよ。どうせ、最初から下心見え見えで、着せたくせに。ま、いいけどさ。どうも俺は、相性が悪いというか、間が悪いというか。同じことを言っても、相手が００９なら、彼女の反応は全く違うに決まってる。なあ、おい！馬鹿馬鹿しくて、やってられっかよ！
フロントガラスからぶら下がった小さな青いマスコットに向かって、００２はつい愚痴をこぼした。ドルフィン号のコックピットに吊るしていた、例の蒼いイルカ。今は陸に上がって、ここにぶら下がっている。それが、００２の言葉にくすくす笑うかのように小さく揺れた。

しかし、おとといは、いったい何があったんだろう？
００９も全く心当たりがないようだったし。
・・・というより、アイツの目は節穴か？絶妙の気配りが出来る奴かと思えば、横で彼女が泣いていても全然気がつかないなんて。ったく、天然の大ボケ野郎だぜ。
結局、何が何だかわからないうちに、彼女の機嫌は直ってしまった。
翌朝、寝不足の目を擦りながら階下に降りていくと、明るい笑い声がキッチンから聞こえてきた。
「うふふ、おかしいわ。００４がそんなこと言うとは思わなかった」
でも確かにそうね、と、また彼女の笑う声がした。
コーヒーのいい香りがぷんと漂う。
チラッと顔を覗かせた自分に気づいて、彼女は笑顔でおはよう、と言った。その横で、００４がなれた手つきでコーヒーを入れていた。
「何だ００２、その寝ぼけた顔は？ほら、濃いのを入れてやったぜ。しゃきっと目を覚ませよ」
トレイの上には、焼きたてのクロワッサンが並んでいる。
朝起きる時間は皆まちまちだったから、朝食は、起きた者から勝手に自分で食べることになっていた。まだ降りてこない連中は放っておいて、３人はダイニングのテーブルについた。
彼女は、いつもと全く変わりなかった。前夜の、あの憂い顔はどこにもない。屈託のない明るい微笑が浮かんでいる。
００４が、いつもより多少饒舌な気はした。きっと、この男も彼女に気を遣っているのだろう。当然、彼女の様子がおかしかったことには気づいていたようだし。
（ま、機嫌が直ったんなら、それはそれでいいけどよ）
めそめそされるのはご免だぜ、と００２は心の中で呟いた。

初めて、この３人が顔を合わせたのは、もう半世紀近く前のことになる。
明るい日差しを浴びて、こんな穏やかな時間を一緒に過ごせる日が来るなどとは、想像すらできない状況で、３人は出会った。
得体の知れない森の中。何もわからぬまま、追われ、攻撃されていた。お互い、何者なのかもわからない。でも、必死になって一緒に逃げた。そんな時、誰かが頭の中に語りかけてきた。『生き延びるために、君たちは闘うしかない』と。
けれど、結局捕らえられ、カプセルに入れられ、眠らされた。
３人が再び目を覚まし、ギルモア博士から事の次第を告げられたのは、それから４０年後のことだった。
テストと改造を何度か繰り返されていた００２は、他の２人よりも状況を把握していた。少なくとも、自分が戦闘用サイボーグに改造された、ということだけは、「冷凍」される以前にわかっていた。
でも、そんな時間を与えられないまま、「保存」され「解凍」された彼女は、目覚めた時、とても混乱し、打ちひしがれた。
今が、自分の生きていた時代ではないことに。そして、サイボーグに改造されたことに。
「泣くなよ。泣いたって、今さら、もうどうしようもないだろうが」
どうやって慰めればいいのかわからなかった。ただ、女の子に泣かれるのは苦手だったから、つい乱暴な口調になってしまった。そんな００２に向かって、彼女は叫んだ。
「あなたにはわからないわ。わからない。私の気持ちなんて、わからない！」
「わからないって・・・俺だって一緒じゃねえか。今さら、泣いたからって元には戻れないんだぜ。諦めろよ！」
なおも言葉を続けようとする００２を、００４が遮った。
「もういい。お前は余計なことを言うな」
そう言って、泣きじゃくる彼女の肩をそっと抱きしめた。
「ちぇっ！」
美味しいところ、横取りしやがって。
思えば、あの頃から、自分の気遣いは彼女には全く通じなかった。
きっと、ボタンを掛け違えてしまったのだろう。
たぶん、一番最初に言葉を交わした時に。

ふうう、と００２は大きな溜息をついた。
蒼いイルカが、また微かに揺れた。

信号が赤に変わる。
ふと、交差点の角の小さな店が目にとまる。華やかな装飾で有名なこの通りには、どこか場違いなほど、地味な構えの古ぼけた店。太った気難しげなオヤジが、一人切り盛りしているようだ。だが、奥のショーウィンドウに並んでいるのは、いかにも美味そうなケーキだった。
（ふ・・・ん。たまにはいいか。なんか、俺らしくないけどよ）
歩道の脇の小さな駐車スペースに、さっと車を乗りつけると、００２は肩をそびやかして店の中に入っていった。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


昼下がりの陽射しが眩しい。相変わらず、いい天気だった。
海に面した最高のロケーションに立つログハウス。デッキには、爽やかな潮風が吹きぬけている。
白い大きな箱を抱えた００２は、中へ入ろうとドアのノブに手をかけ、ふっと立ち止まった。

　このドアを開ける。
　僕が「ただいま」と言うと、必ず誰かが「お帰り｣って応えてくれる。
　ただ、それだけのことなんだけど、ほっとするんだ。
　そして、それが当たり前になっているこの毎日が、何だか夢みたいで。

ずいぶん前に、ここで００９がしみじみと言っていた言葉。それを、突然思い出した。
（アイツは素直だな。俺と違って）
同じことを思っているのに、自分は絶対にそんな言葉を口にできない。それが性分なのだ。あの時も、しんみりした話をする気分ではなかったから、ついスカすようなことを言ってしまった。
『ったく、訳のわからないこと言ってないで、さっさとあけろよ！荷物、重いんだぜ！』
ごめん、と言って００９は慌ててドアをあけた。
『あ、お帰りなさい』
ベンチに座って００１を抱き、ミルクを飲ませていた００３がこちらを振り返った。
『遅かったのね。お腹すいたでしょ？』
リビングを満たす、食欲をそそるいい匂い。
『ああ、もう死にそうだ』
テーブルの上に荷物を置くと、００２は彼女の向かい側のソファにどっかりと腰をおろした。
『少しだけ待ってね。００１がミルク飲み終わるまで。もう用意は出来てるから』
そう言いながら、００３は首を傾げた。
『どうしたの、００９？』
戸口のところに突っ立ったまま、００９はぼんやりと彼女を見つめていたが、その声に、はっと我に返ったように小さく首を振った。
『あ・・・何でもないんだ』
そして、はにかんだような表情を浮かべて、低く呟いた。
『ただいま』
００３は優しいまなざしで見つめ返すと、『お帰りなさい』と、さっき言ったばかりの言葉を、またさりげなく繰り返した。
００９の瞳の、柔らかな茶色の光に、明るさが増した。

　必ず誰かが「お帰り」って応えてくれる。
　ここは、自分たちの家。　そう思う瞬間。

ドアを開けながら、０２は「帰ったぜ」と、中に向かって声をかけた。
けれど返答はなかった。
がらんとしたリビングに、人影は見えない。
あるべきものがそこにない。そんな感じだった。
と、思わず落胆している自分に気づいて、００２はひとり苦笑いした。
「おい、００３？」
キッチンも、しんと静まり返っている。
「何だ。２階か・・・」
とりあえず、冷蔵庫の中にケーキの箱をしまった。
ふと目にとまる。
整然と片付けられたカウンターの上に、薄いピンクの薔薇が一輪。確か、リビングの花瓶にも、同じものがたくさん活けられていた。
（花を飾るなんて、昔の俺んちじゃ、とても考えられなかった）
何気ないこと。
なのに、その淡い色を見つめているだけで、心が和む。

と、その時、頭の上から奇妙な音が聞こえた。
コツコツと、小刻みに木を叩くような音。
「何だ、ありゃ？」
時折、トン・・・、トン・・・と、何か軽いものが、床に落ちるような音。
そんな音が、妙にリズミカルに、絶え間なく続いている。
不審に思って階段を昇った。
音は、廊下の奥の、彼女の部屋から聞こえてくる。
ゆるやかな、美しい調べとともに。

部屋のドアは、僅かに開いていた。
一瞬、躊躇しながら、つい覗いてしまった００２は、思わず息を呑んだ。

燦燦と差し込む明るい陽ざし。
レースのカーテンが優しく揺れる。
その部屋の真ん中で、彼女は踊っていた。
柔らかな光を全身に纏った、風の妖精のように。
白い手が、優雅な軌跡を描く。
とまどい。恥じらい。そして喜びの感情を、雄弁に語る繊細な指先。
すんなりと伸びた脚が、軽やかにステップを踏む。
たおやかな、細く長い首のラインが眩しい。
黒いレオタードに包まれた華奢な身体が、ふわりと宙に浮かび、音もなく着地した。
それは、空気と戯れる美しい舞姫の姿。
重力も、時間も、そこには存在していなかった。

気がついた時には、音楽は終わっていた。
だが、その場から動くことも、声を立てることも出来ず、００２は息を止めて、ただ呆然と彼女を見つめていた。
と、その時、亜麻色の髪が揺れた。
ほんのりと紅に染まった頬が、こちらを振り返る。
「０・・・０２？」
きらきらと輝く碧の瞳が大きく見開かれ、ぎょっとしたように彼を見つめた。
「うそ・・・！！いつから・・・？ずっと見てたの？」
「え？い、いや・・・」
彼女は、頬を真っ赤に染めると、次の瞬間、ドアに飛びつくように駆け寄った。
「酷いわ！こっそり覗くなんて！！あっちへ行って！！！」
ドアは、００２の鼻先をかすめ、バタン、と烈しい音を立てて閉じられた。

一瞬にして、覚めてしまった儚い夢。
予想通りの、そして当然の、彼女の反応。後悔先に立たず、だ。
「ったく、相変わらず、気の強い女だぜ」
肩をすくめて、ジェットは自分の部屋に戻ると、ベッドにごろんと仰向けに転がった。
また、怒らせてしまった。
無意識のうちに、何度も溜息をついていた。
でも――――そうだったのか。
踊っていた、というのは、こういうことか。
崩壊しかかったバルコニーをステージだと思い込んで、彼女は踊り続けていた、と００９は言った。
やっとその言葉の意味がわかった。
(えらく本格的じゃねえか。アイツ、プロだったのか？）
まだ、胸の動悸がおさまらない。
おかしな意味じゃない。天から舞い降りてきたような、あの可憐な姿は、馬鹿げた邪念など抱きようがないほど、神々しく輝いていた。
（でも、彼女は、俺がそんなふうに見てたとは思ってないだろうな）
天井を見つめて、００２は、また深いため息をついた。

しばらくして、小さなノックの音がした。
「００２、コーヒー入れたわ。飲まない？」
彼女だった。
「下で待ってるわね」
足音が去っていく。
どういうつもりだろう？さっきは、あんな剣幕だったのに。
００２は首をかしげた。
(ったく、お姫様の気まぐれには苦労するぜ）
けれど、心のどこかでホッとしていた。
またこれで彼女の元気がなくなったりしたら、今度は自分が００９に突っ込まれそうだ。００４にだって、何を言われるかわかったもんじゃない。
ましてや彼女の部屋をこっそり覗いて怒らせた、なんて言ったら。
（あのネンネ坊やと堅物オヤジ、マジになって怒って、俺を軽蔑しそうだし）
ここはお姫様のご機嫌を取っておくか、と言い訳がましく呟きながら、００２はゆっくりと身体を起こし、部屋を出ていった。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


階段を下りてきた００２を振り返り、コーヒーをカップに注ぎながら、００３はいつもと変わらない調子で言った。
「あ、ごめんなさい、冷蔵庫からミルク出してくれる？」
彼女は、普段着に着替えて、テーブルについていた。
華奢な体を包むピンクのワンピース。両手ですっぽり掴めてしまうほど細いウェスト。
レオタード姿を見てしまったせいか、今まで意識しなかった彼女の柔らかな体の線に、つい目が行ってしまう。
そんな自分に、００２は心の中で激しく悪態をついた。
（ったく、そんなこと考えるから、覗きだって言われるんじゃねえか！）
慌てて目をそらし、キッチンに入り、冷蔵庫を開ける。
（ちょうどいい。これを持っていこう）
ミルクと一緒に、皿とフォークと例の箱を抱えて、リビングに戻った。
「ありがとう。あら・・・？それ何なの？」
「ケーキ」
できるだけさりげなく―――つまりは、とてもぶっきらぼうに、００２は言った。
「あなたが買って来てくれたの？」
彼女は目を丸くした。
「ああ。食おうぜ」
「００２って、甘いもの好きだったのね。知らなかったわ」
「別に好きってほどじゃないけどよ。たまたま通りかかったケーキ屋の姉ちゃんが、びっくりするほど可愛くて、ついつい店に足を踏み入れちまって・・・」
くどくどと嘘を並べている自分が、本当に馬鹿らしい。けれど彼女は屈託なく笑った。
「フフフ。なあんだ。そういうことだったの。でも嬉しいわ」
箱を開けて、彼女は歓声を上げた。
「すごいわ！こんなにたくさん・・・」
ケーキのことなど全くわからない。名前も知らない。だから、箱の中には、ショーウィンドにあった全種類のケーキが１つずつおさまっていた。
「どれでも好きなの、取れよ」
「う・・・ん。どれも綺麗で、美味しそうね。どうしよう・・・迷ってしまって、選べないわ」
まるで小さな女の子のように、彼女はフォークを握り締めたまま、真剣に品定めをしている。
光の中で踊っていた時の、あの女神のような表情とは全く違う。
とても無邪気で可愛い。
つい彼女の顔に見とれそうになっている自分に気づき、００２はイライラした声をあげた。
「さっさと選べよ。たくさんあるんだから、１個でも２個でも好きなだけ取ればいいだろ」
「じゃあ・・・どうしようかな。・・・これにするわ」
彼女は、カシスのタルトをそっと取り上げて、皿にのせた。
「あなたは？」
００２は、とりあえず一番近くにあった、イチゴののった白いケーキを選んだ。
自分でこんなものを買って食べるなんて。
あの頃は、そんな経済的な余裕などなかった。その日その日を食べていくのが、精一杯の生活だったから。
甘いクリームが、舌の上でとけていく。今の時代にいなければ、決して口にすることはなかった贅沢な味。
「とっても、おいしい！ありがとう、００２」
幸せそうにケーキを頬張っている彼女の顔を見ていると、なぜか溜息が出た。
「どうしたの？」
彼女は首をかしげた。
「いや、なんでもない」
突然、オルゴールが鳴り始めた。時計はちょうど２時を指している。
白いチュチュを纏った踊り子がくるくる回って、時を告げる。
００３は微笑を浮かべたまま、その人形の踊りを、じっと見ていた。

そのまま会話はぷつりと途切れてしまった。
ケーキを食べ終わった彼女は、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
カチ、カチ、と時計が時を刻む音だけが響く。
彼女は今、何を考えているのだろう？
あの時、何を考えながら踊っていたのだろう？
ずっと昔の、でも自分たちにとっては、つい昨日の事のようなあの頃。
未来を夢見ていた幸せな時間を、思い出しているのか？
『帰して！元の場所に！元の時代に！私を元の身体に戻して！！』
そう言って、彼女は泣いた。
今はもう、そんな事は口にしない。
強くなったのか。諦めてしまったのか。
何にせよ、もう元に戻ることは出来ない。それだけははっきりしている。

いつまでも黙っているのが苦しくなって、００２は口を開いた。
「なあ、さっきの曲・・・」
「曲？」
彼女は、はっとして、視線を００２に向けた。
「あれ、なんて曲だったんだ？」
「さっき、かけていた曲のこと？あれは、チャイコフスキーの『眠りの森の美女』よ」
「ふうん」
「その中の、アダージオ―――ローズ・アダージオってよばれている曲なの。眠り姫のお話は、あなたも知ってるでしょ？」
曖昧に首をかしげた００２に向かって、彼女は熱心に解説を始めた。

オーロラ姫は、将来の幸せを約束されたお姫さま。けれど、洗礼式に招かれなかったことを恨んだ魔物に、１６歳になったら糸紡ぎの針に刺されて死ぬ、と呪いをかけられたの。でも、リラの妖精が、死ではなく100年の長い眠りが彼女に訪れるよう、呪いをかけ直してくれた。父王は、国中の糸紡ぎの針を没収して、何とかその事故を防ごうとするの。

「ああ、聞いたことあるな」
「でしょ？」
彼女は静かに立ち上がると、壁のニッチに飾った花瓶の薔薇にそっと手を伸ばした。

１６歳のお誕生日。姫は４人の貴公子からプロポーズされる。求婚者たちは、１人ずつ薔薇の花を手渡して、彼女に愛を誓うの。

「それが、さっきの場面よ」
少し恥ずかしそうに笑って、彼女は言った。
さっきの場面―――あの時、彼女が踊っていた？
「薔薇か。だから・・・？」
「ええ、そう。だから、ローズ・アダージオ。でもその直後、魔物の呪いは現実になり、彼女は深い眠りに落ちてしまった」
白く細い指が、愛しげに、柔らかな花びらを撫でた。

時は過ぎ、１００年の年月が流れた。ひとりの勇敢な王子に、リラの精はオーロラ姫の幻を見せるの。彼は美しい姫に恋をして、彼女を救い出すために魔物を倒し、姫に永遠の愛を誓うキスをした。

「こうして姫は長い眠りから目覚め、２人は結婚して、いつまでも幸せに暮らしました。そういうお話よ」
もとの席に座り、彼女は冷めたコーヒーを飲み干した。
「めでたし、めでたし、か。おとぎ話には、ありがちな話だな」
００２は、フンと鼻先で笑った。
「そうね。確かに、現実にはありえないわね」
彼女は、かすかに溜息をつき、睫を少し伏せて、テーブルの上に組んだ自分の手をじっと見つめた。

素晴らしい未来が待っている。幸せいっぱいで、そう信じていた少女は、次の瞬間、永い眠りについた。
魔物や幽霊は、確かに現実の世界にもいる。恐ろしい呪いもあるわ。
けれど、王子さまが登場するのは、おとぎ話の中だけね。
長い眠りの終わりに、唇に触れたのは、優しいキスじゃない。
それは、冷たい金属のマスクだった。
王子は来ないから、姫は幸せにはなれない。
何かの間違いで、おとぎの世界から王子が迷い込んで来たとしても、時の壁は簡単には崩せない。
それは、高くて厚い、決して乗り越えられない時の壁。

―――時の壁？
なぜそんなことを言う？
何が彼女に、時の壁を越えられないと思わせている？
俺たちは、否が応でも、この時代に生きていかなければならないのに。

だが００２は何も言わず、彼女のかすかに呟くような言葉を、ただ黙って聞いていた。

「ねえ、考えたことある？」
顔を上げ、優しいしみじみとした声で、００３は言った。
「何を？」
「もし、あの時、捕まってなかったら、私たち、今頃何してたかしら？」
そう言って、彼女は小さく笑った。
「あれから４０年もたってるのよ。本当の私たちは、今頃、どうなってたと思う？」
「さあね。全く想像がつかないな。だいたい、そんなこと考える気にもならねえ。意味ないだろ？」
００２は、関心なさそうに、わざと素気無く言った。
「そうね。意味はないわ。でも、おととい、ふと思ったの。もし、あのままだったら、今頃、どうなっていたのかしらって」
―――おととい？
おとといって、それは・・・
「あの頃抱いていた夢の、どれぐらいがかなっていたのかしら？ずっとバレエを続けていたかしら？でも、もう、いいおばあちゃんになってるわね」
口元に微笑みを浮かべたまま、彼女は目を伏せた。
「そうね、ちょうど・・・００９くらいの年の孫がいたかもしれない」
やっぱり、聞こえていたんだ。あの禿オヤジの余計な一言。
彼女が沈んでいたのは、やっぱりそのせい、だったのか。
００２は心の中で、ありったけの呪いの言葉を００７に浴びせ掛けた。
「でも、４０年って、そんな長さなのね」

あの時間はどこに行ってしまったのかしら。
自分では眠っていることにも気づかない間に、過ぎ去ってしまった時間。
長い長い時間なのに。
それがどれだけ長いのか、わからないのは辛いと思っていたけれど、はっきりと見えてしまうと、もっと辛いわね。

「はっきり見える？どういうことだ？」
「あ、大したことじゃないの」
彼女は、困ったような表情を浮かべ、ちょっとそう思っただけ、と首を振った。
そして、明るい声で、じっと彼を見つめて言った。
「ね、００２。さっきのこと、誰にも言わないで」
（さっきのこと？踊っていたことか？）
そう問いたげな００２に、彼女は頷いた。
「わかってるよ。誰にどういうんだよ？お前の部屋を覗いたって、俺が自分で触れて回るって思ってたのか？」
「そうね、そんなわけないわね」
くすくす彼女は笑った。
「でも、みんなに知られても・・・恥ずかしがるようなことじゃないだろ？その・・・なんて言うか・・・びっくりしたぜ。お前を見直した・・・ていうか・・・」
照れたように言う００２の言葉を、彼女は優しく遮った。
「違うの。恥ずかしいからじゃないのよ。そんなじゃないの」
「え？」
「私が踊っていたっていえば・・・昔のことを・・・私がまだ昔に帰りたがってるって思うでしょ？そのことで、悲しい思いをさせたくないの」
（悲しませる？誰を？どういうことだ？）
でも、おぼろげながら、彼女の考えていることが見えてきたような気がする。
―――やっぱり、犯人はアイツだ。
潤んだ瞳が、かすかに揺れている。
けれど、穏やかな笑みを浮かべて、彼女は立ち上がった。
「ごめんなさい。何だか変な話になっちゃった。コーヒー入れ直すわね」
００３は２つのカップを取り上げてトレイに載せると、キッチンに向かった。

突然、きゃああ！という叫び声がした。
「００３？」
慌ててキッチンに駆け込む。
「どうした？」
「・・・blatte！」
「え？」
彼女はおびえた表情で、壁の一角を指さした。
木の壁に、光沢のある大きな黒い斑点がとまっている。
「何だよ！お前、あれだけ気が強いくせに、虫の１匹や２匹にぎゃあぎゃあ言うなんて！ったく、情けないやつだな」
「だって・・・大嫌いなのよ！」
突然、茶色がかった、その黒い物体は、羽を広げ、挑発するように彼女の顔をかすめて飛んだ。
「きゃああ！嫌ッ！！」
彼女は咄嗟に００２にしがみついた。
胸に押しつけられた、柔らかい体。
―――初めて出会った時にも、こうして・・・
思い出す。あのときの感触を。
細い肩が震えている。
次の瞬間、その華奢な体を強く抱き寄せていた。
そっと亜麻色の髪に顔を埋める。
うっとりするほどいい匂い。甘い薔薇の香り。
胸の動悸がどんどん激しくなる。
でも―――
「００２？」
彼女はきょとんとした顔で、彼を見上げた。
濡れたように艶やかな唇が、誘うように小さく開く。
「どうしたの？」
碧の大きな瞳が真っ直ぐに見つめる。
（どうしたの、はないだろうが。俺だって、男なんだぜ）
熱い目で見つめ返したつもりだった。
だが、あどけない表情で、彼女は首をかしげた。
「なあに？」
（一緒に眠ってた王子様には、目もくれないってか）
しかたなく両腕の力を緩める。
「何でもねえよ」
そう言いながら、カウンタの上の果物ナイフをさっと取り上げ、天井に向かって投げつけた。
「００２？」
見事に命中。天井にはblatteの見事な標本が張り付いた。
彼女は息を呑んで、その場に固まっている。
「・・・何てことするの？！」
「馬鹿、可哀想だなんていうなよ！あのままにしてたら、一年でどれだけ増えるか知ってんのか？」
「だからって・・・あんなところに・・・もういやっ！！」
キッチンを飛び出して行った彼女の背中に向かって、溜息を１つ。
そして００２は飛び上がり、天井のblatteの串刺しを引き抜いた。
「ちぇっ！お前がもっとちゃんとキューピット役を果たしてたら、見逃してやったのに」
黒い死骸をキッチンペーパーに包むと、００２はゴミ箱にポイッと投げ捨てた。

その時、表で声がした。
「ただいま」｢帰ったぜ」
００８と００４だ。図書館に行っていた連中が戻ってきたらしい。
「お帰りなさい」
テーブルの上を片付けながら、彼女はいつものようにそう言った。
「よう、遅かったな」
「ああ、でもいろいろと収穫はあったぜ」
「ふ・・・ん。勉強熱心なこった」
「美味しいケーキがあるのよ。お茶にしましょ」
そして、００５の大きな背に隠れるように、もう１人。
だが、彼は何も言わずに、そのまま玄関脇の階段を昇り始めた。
「おい、００９、どうした？」
ちら、とこちらを振り向いた顔には、生気がない。
「いや・・・何でもないんだ」
ボソッとそう言うと、００９は俯いたまま、階段を昇っていった。
「・・・００９？・・・どうしたのかしら？」
００３も、心配そうに首を傾げた。
「アイツ、どうしたんだ？」
「さあね。僕たちが戻ってきた時、外のデッキに座って、あんな感じでボケっとしてたが。コズミ博士のところで、何かあったんだろうか？」
００８は、あまり関心なさそうに肩をすくめたが、テーブルの上を見てぱっと目を輝かせた。
「へえ！ホントにうまそうなケーキだね」
「でしょう？すぐにコーヒー入れるわね」
「いいよ、００３。コーヒーは、俺に任せな」
「あ、じゃあ、００４、お願いするわ」
リビングに、仲間たちの明るい声が響く。
だが、００２は腕組みをしたまま、じっと考え込んでいた。
（アイツ・・・なぜ？）
黙って入ってくるなんて、アイツらしくない。どういうことだ？
（待てよ。外のデッキに座ってた？・・・ということは・・・？）
なるほど。そういうことか。
アイツ、どんぴしゃのタイミングだったというわけか？
（馬鹿な奴！ま、いい。間抜けな王子は、しばらくそうやって勝手にへこんでろ！）
００２は階段を見上げ、呆れ果てたように舌打ちをした。
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