『……どうして？』
蒼い瞳がじっとこちらを見すえる。
『どうして、そんなこと聞くの？』
予想外の、まるで咎めるような強いまなざしに、僕は思わず息を呑んだ。
彼女は僕から顔を背けるように窓辺に向かうと、白い指をガラスにそっと押し当てた。
『それを聞いて……どうするの？』
前を向いたまま、彼女は低い声で尋ねた。
華奢な肩が小さく震え、微かにマフラーが揺れている。

―――どうする？
どうもしない。僕は、ただ知りたかっただけだ。
００１３のように、僕たちもお互いの名前すら知らないで、このままいつか……
いやだ！！そうなる前にせめて…
せめて……？
せめて本当の名前を知って、それでどうなる？
僕はいったい、どうするつもりだったんだろう。

突然、くすっと小さな笑い声がした。
彼女の背中を呆然と見つめて立ちすくんでいた僕は、その声で我に返った。
『…フランソワーズ』
『え…？』
振り返った大きな瞳。春の陽だまりのような優しい微笑みが浮かんでいた。
『フランソワーズ・アルヌール』
『フランソワーズ……』
鸚鵡返しに呟いた僕に、彼女は笑顔のまま頷いた。
『そう。それが私の名前よ』

フランソワーズ
それが、君の本当の名前

『００９、あなたって…不思議な人ね』
彼女は笑ってそう言った。
不思議な人？どういう意味だろう？
僕は黙ったまま、窓辺に立つ彼女の隣にそっと並んだ。
『ずっと誰にも聞けなかったの。聞いてはいけないのだと思い込んでたわ』
闇にぼんやりと白く浮かぶ雲を見上げ、彼女はかすかに吐息をついた。
『避けてたのよ、私たち。無意識のうちに、そのことに触れるのを。だって……名前を聞いたりしたら、思い出してしまうでしょう？』
自分がまだ改造される前のこと。
でも、もうあの頃の自分には戻れない。
時間も、場所も、あの頃の自分と今の自分は、何のつながりもない。
ずっとずっと昔に、そう呼ばれていた本当の名前。
それは、２度と取り戻せない昔の自分そのもの。
思い出せば悲しくなるだけ。
『だから、聞かないようにしてたの。００２にも００４にも。彼らも、１度もそんなこと口にしなかったわ。なのにあなたったら、いきなり聞くんですもの。あんまり唐突で、ちょっと面食らっちゃった』
彼女のどこかぎこちない笑顔に、僕はようやく気づいた。
自分の問いが、どれほど無神経だったかということに。
重く冷たいものが、胸にずしりとのしかかって来る。
僕は……いったい……
『……００９？』
急に顔色を失った僕を見つめ、彼女は小首を傾げた。
『あ、でも……聞かない方が不自然よね。こんなにずっと一緒にいるのに。闘っている最中はともかく、いつも番号で呼びあってるなんておかしいわ』
きっと彼女は気づいてしまったに違いない。
その問いを無造作に口にしたことを、僕が今、たまらなく後悔していることに。
『ほんと言うとね、ずっと誰かに知ってほしかったの』
ふんわりと優しい微笑が、いたわるように僕を包みこむ。
『前に言ったでしょ？数字で呼ばれるなんて、モノみたいだって。だから―――誰かに尋ねてもらいたかった。「００３、君の本当の名前は？」って。さっきあなたが聞いてくれたように……』
『００３…』

忘れてしまった方が、辛い思いをしなくていいとわかっている。
でも、忘れられるはずがないわ。
だって私は私のままだもの。
００３なんて番号で呼ばれても、こうして防護服を着て、銃を持って……こんな身体にされても、私の心はあの頃と何も変わっていない。
本当の名前―――私が私だった証。
それを誰かが知りたいと思ってくれるのは、嬉しいことだから。

『ねえ、００９』
『……うん』
消え入るような声で答えた僕の目を、じっと覗き込んで彼女は言った。
『あなただけなの』
『……僕……だけ？』
『そう！何十億もの人が生きてるこの世界で、今、私がフランソワーズだって知っている人は、たったひとり。あなただけなのよ』
すごいでしょ？と彼女は笑った。
『００３……』
『たぶん、もう誰もいないわ。私が私だということを知っている人は。少なくとも今の私を見て、私だとわかる人はいないでしょ？……まさか、今も「あの時」と変わらない姿でいるなんて……思いも寄らないはずよ』
苦しいほどの胸の痛み。
全身の感覚が麻痺してしまったような気がした。
『フランソワーズ……僕は……』
窓の外には、細い三日月。雨はもうすっかり上がっていた。
薄く蒼い雲が纏わりつくように流れる。
冷たい光の源をじっと見つめ、彼女は小さく呟いた。
『もう何年ぶり……ううん、何十年ぶりになるのかしら。その名前で呼ばれたのは』
白い横顔に浮かぶ静かな微笑が、また僕の胸を鋭く刺し貫く。
どうして君の瞳は、そんなにも澄み切っているの？
なぜそんなに優しく、僕を見つめることが出来るの？
なのに、なぜ僕は……こんなにも……愚かなんだろう。

しばらくの間、ドルフィン号のエンジン音だけが苛立ったように低く響き続けていた。
何を言えばいいか、どうすればいいのかわからない。
でも僕のつたない言葉では、かえって彼女を傷つけてしまう。それだけはわかっていた。
『ねえ、００９』
吐息のような、微かな声。
『……何だい？』
『いつか……終わると思う？』
ぼんやりと彼女は言った。
『終わる……って……？』
『いつか私たちが、００９とか００３とか、そんな名前で呼び合わなくても良くなる時が来ると思う？』
もう、元の自分に戻ることはかなわないとしても。
『闘いに明け暮れるこんな日々は、本当に終わるかしら？』
碧の瞳が哀しげに揺れ、ゆっくりと伏せられた。

その時、僕は思った。
今の僕には、君の悲しみをちゃんと受け止められないかもしれない。
でも―――それでも僕が君のために、何かできるとすれば。
それは、この望まない闘いの日々に、一日も早く終止符を打つこと。
００１３のような犠牲を、これ以上出さないためにも。
そのために、僕には誰よりも優れた戦闘力（ちから）が与えられたのだと。

『必ず……来るよ。僕はそう信じてる』
『００９……』
『正直に言うと……ぐらつくこともある。今回みたいなことがあると、辛くてたまらない。でも……それでも信じたいと思う。いつかきっと、闘いのない穏やかな毎日を取り戻せるって』
まだ不安げな瞳に、僕は微笑みを返した。
『終わらせよう。一日も早く。こうして闘うのは苦しくて虚しいけれど、でも……今のままじゃダメだ。だから……』
未来のために。
闘いの日々が必ず終わると信じて。
望まぬ闘いにせよ、僕たちは今ここから逃げることはできない。

彼女は、ふうっと大きく肩で息をつき、それからまっすぐに僕を見つめて頷いた。
『そうね。信じなきゃね……』
未来。
いつか、幸せな未来がきっと来る。
そう信じることが、未来への１歩。

『ねえ、００９』
突然、耳元で甘く囁く声がした。
僕の心臓は、思わずドキンと音を立てた。
『あなたの、本当の名前を教えて』
ハッとして見つめた僕を、彼女の飛び切りの笑顔が包んだ。


その直後のパリ。
幻影に惑わされていた君を、元に戻したくて、僕は君の名前を大声で叫んだ。
僕を撃ってしまったと思った君は、半狂乱になって僕の名前を呼んだ。

それからだったと思う。
２人でいる時には、お互い名前で呼び合うようになったのは。
そうしようと約束をしたわけじゃない。いつのまにか、自然に。
苦しい闘いが続いていたけれど、そうやって名前を呼び合っていると、未来を信じることが容易くなるような気がしていた。

ようやくＢＧを倒した後、仲間たちはそれぞれに新しい生活を始めることになった。
故郷に帰る者。新しい土地で再起を期す者。
でも彼女は迷っているようだった。
―――残って欲しい。
その一言が、僕にはなかなか言えなかった。
ここに残って、博士や僕と一緒に生活することが彼女にとって幸せなのかどうか。
元いた場所に、本来いるべき場所に戻りたいと彼女は思っているのかもしれない。
そんな迷いが、引き止めたい思いを言葉にさせずにいた。
でも……

博士のログハウスで、夢のように穏やかな時間が過ぎていく。
茜色に染まる空と海を眺めながら、家に戻る。
ドアを開けると、いつもの微笑みが迎えてくれる。
「お帰りなさい」
幼い頃から、望んでも仕方がないと諦めていた光景が、今、ここにある。
「ジョー、ちょっと待ってね。００１にミルクを上げたら、夕ご飯にしましょ」
００１を抱いた君が、僕を見上げて微笑む。
平凡な、だからこそ幸せな毎日の中で、君をフランソワーズと呼び、君にジョーと呼ばれることは当たり前になっていた。

なのに―――どうしたんだろう？
あの日から、彼女は僕を「００９」としか呼ばなくなった。
今はすっかり元の笑顔を取り戻している。だけど呼び方はそのままだ。
彼女が泣いていたことに気づかなかった僕。ずっと一緒にいたのに。
けれど００２はちゃんと気づいていた。
ぶっきらぼうで、どこか不器用な彼。気の強いところもある彼女を時々怒らせているけれど、本当はいつも彼女のことをとても気遣っている。

彼は、僕の知らない彼女を知っている。
改造された直後。
そして永い眠りの果て。目覚めた彼女が、どれほど辛い思いをしたのか。
引き裂かれた時の中で、どんなに苦しんできたのかを。
彼と００４は、その時間も悲しみもずっと彼女と共有してきたのだから。
どんなにあがいても、僕にはわかってあげられない。
僕が、たったひとり別の時代に飛ばされるなんてことでもない限り。
だから……。
でも……

そして昨日。
コズミ博士の家から戻った僕は、そのまま２階の自分の部屋に閉じこもった。
リビングで彼女や仲間たちが心配しているのを知りながら。
でも誰とも顔をあわせたくなかった。
僕は混乱していた。混乱している自分にもっと動揺していた。
やがて、ノックの音がした。
『００９、コーヒーが入ったわ。ケーキもあるのよ。降りてこない？』
彼女だった。
だけど―――どんな顔をして行けばいい？
浮かない顔を見せたら、それこそ心配をかけてしまう。
でも、だからどうなんだ？
別に僕は……
ベッドに横たわり、組んだ腕で頭を抱え込んだまま、天井を見つめる。
『……００９、眠ってるの？』
君には見えるだろう？僕が今、どうしているか。
いいんだ、かまわないで放っておいて！
心の中で叫びながら、僕はドアに背中を向けるように寝返りを打った。
『……ジョー……どうしたの？何かあったの？』
心配そうな声が聞こえる。けれど僕は何も答えなかった。いや、答えられなかった。
しばらくして、ゆっくりと足音が遠ざかっていった。
僕はベッドにうつ伏せになって、枕に顔を押し付けた。
何も考えたくない。
けれど脳裏には、さっき見た光景が鮮やかに蘇る。
耳を塞ぎ、固く目を瞑り、僕はベッドの中で身じろぎもせず横たわっていた。
そして―――気がついた時、空は一面、菫色に染まっていた。
もうすぐ夜明けだ。
僕は足音を忍ばせて階下へ降りると、ひとり家を出て、岬へと向かった。
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