| Ⅳ |
| 着陸体勢に入る、とのアナウンスが、まずフランス語で、続いて日本語で機内に流れた。 １ヶ月ぶりの日本。窓の外にはどんよりと灰色の空が垂れ込めている。 フランソワーズは、肘掛に頬杖をつきながら、重い吐息を漏らした。 夏休みに入ってすぐ、兄からパリにかかってきた電話。 「え？島村君が？」 『そうだよ・・・。ちょうど空港から戻ってきたら、彼が来てた』 どういうこと？ 『渡して欲しいって頼まれたものがあるんだけど・・・。紙袋に入ってる。開けてみようか？』 「え？」 渡して欲しい？何を？ まさか・・・。 「だ、だめよ！！勝手に開けちゃダメ！！！」 フランソワーズは受話器に向かって叫んだ。 きっと・・・彼の部屋に忘れてきた制服のリボンだ。 もうっ！！ どうして・・・そんなもの・・・わざわざ・・・お兄ちゃんに渡すのよ！ 誤解するかも知れないのに。無神経だわ！ 『それから・・・』 兄は何か言いかけて、急に黙りこんだ。 「なあに？どうかしたの？」 『いや、いいんだ。じゃあ・・・来月になったら僕も行くから』 どこか歯切れの悪いジャンの声。 いぶかしく思いながら、受話器を置いたのはもう１ヶ月も前のこと。 それから何度、枕に顔を埋めて同じことを呟いただろう。 嫌い！大キライ！ 私、どうして・・・あんな人のこと・・・。 他に付き合っている人がいるのに・・・キスするなんて！ 信じられないわ！ 「大丈夫だよ。あんなヤツラに・・・お前を・・・好きにさせたりしないから・・・」 あの時、彼の顔に浮かんだ、柔らかな微笑み。 電車の中でかばってくれたときと同じだった。 「泣くなよ・・・お前が泣いたら・・・俺は・・・」 そう言って彼は・・・。 違うわ！適当なことを言わないで！ 俺はどうだって言うのよ！ でも、でも・・・もし彼が本当に・・・そう思っていたのなら・・・。 ううん、そんなはずない。 あの公園にいた２人。アキのあの陶酔したような表情。 そして翌日のジェットの話。 全部、ちゃんと辻褄が合ってる。 何も知らなかったのは私だけ。ホント、馬鹿みたいだわ！ なのに―――。 行かずにはいられなかった。 そう。私は・・・とてもあなたに会いたかった。 会って聞きたかったの。 ホントなの？あの話・・・。 こんな中途半端な気持ちのまま、１ヶ月以上も会えないなんて、我慢できなかった。 だから・・・。 でも顔を見ると余計に苦しくなって、何も言えずに彼の前で泣いてしまった。 びっくりするくらい彼は優しくて・・・。 なのに、あんな強引なことするなんて。 もう考えない。全部、全部忘れたい。 あんな人、大キライ！ 夏休み中そう思って、何度も泣いた。 今思い出しても・・・悔しくて、腹立たしくて、涙が出そうになる。 ―――ほんとに嫌いなの？ もう一人の自分が、疑わしそうにたずねる。 ほんとよ！ ―――憤慨してるふりして、しょっちゅう彼のこと考えてたじゃない？ しょっちゅうじゃないわ。時々思い出して、怒ってたただけよ。 ――うふふっ！ほら！強がりばっかり言ってるわ。ウ・ソ・ツ・キ！ 「違うわ！！ホントに会いたくないの！！」 思わず声に出して叫んだフランソワーズを、隣の席の哲哉が驚いたように見つめた。 ＊ 夏休みの終わりとあって、空港の到着ロービーは大変な混雑だった。 飛行機が到着するたびに、夥しい数の人間が吐き出されていく。 冷房が効いているはずなのに、人いきれでムッとしていた。 「大丈夫？顔色悪いけど・・・」 「あ・・・ううん。大丈夫よ」 無理に作った笑顔を向ける。 彼―――鮎川哲哉は、この夏中、一緒にレッスンを受けていたバレエダンサーだった。 さらさらした黒い髪。整った目鼻立ち。甘いマスクながら、きらりと光を放つ意志の強そうな瞳。日本人離れした抜群のプロポーション。 今、最も注目されている若手ダンサーの一人。 来年からパリのバレエ団に入ることが決まっている。 彼は、一時帰国の予定を少し繰り上げ、フランソワーズと一緒に日本に戻ってきたのだった。 「あ・・・僕が持つよ」 さりげなく彼女の荷物を取り上げる。 一つ一つの動作が、流れるように優雅だ。 その洗練された物腰は、とても１０代には見えない。 ヨーロッパでの生活が長いせいか、女性に対するマナーも完璧だった。 ―――島村君とは大違い。 そうよ。哲哉なら、女の子が嫌がるようなことは絶対にしない。 また、無意識のうちに彼のことを考えている自分に気づき、フランソワーズはため息をついた。 「大丈夫。自分で持てるわ」 いや、と首を振って哲哉は、2つのトランクを軽々と取り上げると、また心配そうな表情で彼女を見つめた。 「ほんとに顔色・・・真っ青だけど・・・大丈夫？」 ちょっとフラフラするの、と言おうとした時、突然、世界が黄色く染まった。 ジーンと耳に不快な音が鳴り響く。 気がつくと、床が目の前に迫っていた。 「フランソワーズ！大丈夫？」 哲哉は肩を抱くようにして、彼女を支え、顔を覗き込む。 「あ・・・私・・・」 はっと我に返る。脳貧血を起こしたようだ。 ずっと、夜・・・ぐっすり眠れなかった。ましてや飛行機では、うとうとするのがやっとだったから。 「・・・？」 ふと気配を感じて、フランソワーズは、突然顔を上げた。 ―――島村君？ 彼が近くにいるような気がした。何の根拠もない。ただそんな気がしただけ。でも・・・。 「あっ！！だめだよ、急に立ったりしたら！」 「ううん、もう大丈夫よ」 哲哉に支えられて立ち上がり、周りを見渡す。 そんなはずはない。 いるはずなんかないとわかっているのに、落胆している自分。 ふうっと肩で息をつく。 どうして彼がそこにいるなんて思ったのかしら？ 私がいつ帰ってくるか知らないのよ。 彼がこんなところにいるはずないのに。 何を考えてるの、私？ どうして・・・あんな人のことばかり思い出すの？ 慌てて頭を振る。 またふらっとした。意識が遠のきそうになった時、哲哉がそっと肘を支えた。 「フランソワーズ・・・大丈夫かい？」 黙って頷く。 体は大したことないわ。でも・・・気分は最悪、と心の中で呟いた。 「家まで送っていくよ。どうせ・・・途中だし・・・」 タクシーに乗り込み、シートにぐったりともたれかかる。 目をつぶると、彼の笑顔がふっと浮かんだ。 ――あの時。 初めて彼は、私の名前をちゃんと呼んでくれた。 ずっと・・・「おまえ」ばかりだったから。 あのことを、アキの事を何も知らないままだったら、どんなに嬉しかっただろう。 そしていきなり抱きしめられて・・・ドキドキして・・・。 でも―――。 ダメよ！やっぱり・・・ダメ！！ あんなのは絶対、嫌！！ 全然ロマンチックじゃないわ！ いつかは・・・って私が思ってたのは・・・そんなのじゃない。 ―――いつかは？ そうよ・・・。いつかは・・・って。 でも、彼はそんなふうに私のこと、思ってくれてたんじゃないんだもの。 私が勝手に・・・いい気になっていただけ。 馬鹿みたい。 ぎゅっと唇を噛みしめ、何度もため息をつく彼女を、哲哉が不思議そうにじっと見つめていた。 ＊ 「フランソワーズ！早く起きないと・・・。今日から学校なんだろ？」 ジャンの心配そうな声が、ドアの向こうから聞こえた。 起きなければ・・・と思うのに、身体が動かない。 ようやく上半身を起こすが、それだけで眩暈がする。 あれからずっと調子が悪いままだった。 「あ！！もうこんな時間！」 枕元の時計に目をやり、初日から遅刻だわ、とため息をつく。 制服に着替え、最後にリボンを結ぼうとして、また彼のことを思い出した。 もし彼が持ってきてくれていなければ――。 こんなものを学校で渡されたりしたら。 そんな場面をみんなに見られでもしたら――それこそとんでもない噂になっていただろう。 彼は今日、ちゃんと学校に来るかしら？ どんな顔をして会えばいいの？ 「フランソワーズ！」 再びノックの音と共にジャンの声がした。 「あ・・・今行くわ！」 鞄を持って部屋を出た。 「朝ご飯は？」 テーブルの上にはカフェオレとクロワッサン。そしてサラダ。いつものメニューだ。 「もう時間がないわ。食べたくないし・・・」 「顔色が悪いな・・・。送っていこうか？」 「ううん・・・。大丈夫」 「大丈夫って感じじゃないぞ。今日は授業もないんだろ？」 ええ、と力なく頷いた彼女を、ジャンは心配そうに見つめた。 「あんまり調子悪いんだったら・・・休んだら？」 休む？そんなことしたら・・・。 「ううん・・・遅れてでも行かなきゃ。２学期の最初だし、宿題出さなきゃいけないの」 歯を磨こうと洗面所へ向かう。 （ひどい顔してる・・・） 鏡に映る自分の顔色の悪さに、びっくりする。 １ヶ月ぶりなのに、こんな顔でみんなに会いたくないな、と小さな声で呟いた。 「フランソワーズ、大丈夫かい？」 ぐずぐずしている彼女を心配して、ジャンが洗面所を覗き込んだ。 「ええ・・・もう大丈夫」 ジャンはジャケットを羽織ると、テーブルの上のキーを取り上げた。 「やっぱり、送っていくよ。そう遠回りでもないんだから。さあ、行こう」 黙って頷いて鞄を持つと、フランソワーズは兄のあとに続いた。 ４０日ぶりに入る校舎は、ひっそりとしていた。 始業式の最中だから、みんなは体育館にいるはずだ。 がらんとした廊下を、重い体を引きずるようにして、フランソワーズは保健室に向かった。 「あら・・・どうしたの、フランソワーズ？珍しいわね・・・」 保健室の長谷川先生が、にっこりして彼女を迎え入れた。 まだ若い先生は、気さくで優しくて、生徒たちにとても人気があった。 でも、保健室で休んで授業をサボろうなんて考えてると、たちまち見抜かれて叩き出される。 「朝から・・・少し気分が悪くて・・・。今、来たんです」 「ホント、顔色が良くないわね。いいわ、式が終わるまで、休んでなさいね」 消毒液の匂いがぷんぷんするベッドに横になる。 少しも眠くない。でも頭がぼんやりしていた。 この後、教室に入ることを考えると、気が重かった。 しばらくして、ノックの音がした。 ドアが開き、誰かが入って来た。少し引きずるような足音。 「あら・・・今日は珍しい人ばかり来るのね。どうしたの、島村君？」 島村君？ どきり、と心臓が大きく弾んで音をたてた。 どうしよう。こんなところで会うなんて。 彼はちゃんと学校に来ていたのだ。 思わず息をひそめ、身を縮める。 カーテンが閉まっているから、彼には自分がここにいることはわからないはずなのに。 ドキドキする胸の鼓動が、彼に筒抜けになっているような気がした。 「ちょっと・・・足を・・・。湿布もらえますか？」 低い、ぶっきらぼうな声。 胸が苦しくなる。 やっぱりこの声を聞きたかったんだわ、ずっと。 「あら、どうしたの？あ、足、引きずってるのね？」 「ちょっと・・・」 「見せてごらんなさい」 ―――怪我・・・をしたの？どうして？ 「あらら・・・これは、本格的にやったわね。折れたんでしょう？」 折れた？どういうこと？ 「ちゃんと・・・病院に行ったの？全治１ヶ月ってところね？」 まさか入院したの？ そんなすごい怪我を？どうして？ 「そう・・・。ギブス、取ったところなのね？いつ退院したの？」 ぼそぼそと言う彼の声がはっきり聞き取れなくて、もどかしい。 思わずベッドの上に起き上がる。 「・・・もしかして・・・バイクで事故ったの？」 「違います。あ、どうも・・・」 突き放すような言葉と同時に、椅子から立ち上がる音がした。 「今から体育館に行くの？その脚じゃ、立ってるの大変よ。式が終わるまでここにいなさい。ここなら、冷房も効いてるし・・・」 長谷川先生が部屋の隅のほうへ歩いていくのが、カーテンの隙間から見えた。 「お茶、入れてあげるわ。さあ、足が痛いんだから、立ってないで、座りなさい」 ガチャっと椅子を引く音がした。 「でも・・・大変だったわね。あなたは、アルバイトしなきゃいけないんでしょ？夏休みは稼ぎ時なのにね」 先生がトレイをもって、また彼のほうへ戻っていく。 「ひき逃げだったから・・・でも相手が捕まって・・・」 「ひき逃げ？！はねられたの？珍しいじゃない。あなた、運動神経いいはずなのに・・・」 はねられた？車に？ 思わず声が出そうになる。 彼は―――今、どんな顔をして先生と話しているんだろう。 「それって、いつの話？いったいどこで・・・何時ごろのこと？ちゃんと担任の先生に連絡した？」 まさか！彼があの元帥――田中先生に、言うわけないわ。 「夜のバイトの帰りに・・・」 「ちょ、ちょっと！！あなたね、高校生なんだから、夜なんか働いちゃダメじゃない！」 先生はあきれたように叫んだ。 「そんなに稼いで・・・やっぱりバイクでも買おうと思ってたんでしょ？」 彼は何も言わない。 「あ・・・ごめん、ごめん。そんな恐い顔、しないで」 今きっと、彼はあの目で先生を睨んだに違いない。 フランソワーズは、くすっと笑いそうになるのを必死でこらえた。 「冗談よ。でも・・・君たちの年頃なら、きっとそういうのに憧れてるだろうな、って思って・・・」 それでも、彼はすっかり長谷川先生のペースにのせられている。 もちろん、口調はそっけなくてぶっきらぼうだ。 でも彼が、こんなふうに他の人と話しているのを聞くなんて、初めて。 なんだか幸せな気持ち。 でも――彼が１ヶ月も入院してたなんて。 ひとりぼっちで、病院のベッドに縛り付けられていたのだ。 そんなことちっとも知らずにいた私が・・・枕に向かって、彼の悪口をぶつけている間中、ずっと。 胸がきゅんと痛む。思わず涙がこぼれた。 「行きたいところが・・・あったから」 ぼそりと彼が呟く。 「行きたいところ？」 ちょうどその時、チャイムが鳴った。 「式も時間通り終わったようね。階段、大丈夫？ゆっくり行ったほうがいいわよ」 彼が椅子から立ち上がる音がした。 「あ、そうだ！・・・もう一人、いたのをすっかり忘れてたわ」 ベッドに近づき、そっとカーテンに手をかけ、先生が覗き込む。 「フランソワーズ、どう？気分は？」 私がここにいること、彼にわかってしまった・・・。 どうせなら、彼が部屋を出てから思い出してくれればよかったのに。 まるで盗み聞きしていたようでバツが悪い。 でも、もう後の祭り。 「はい・・・」 先生がカーテンを大きく開ける。 ドアの前に立った彼が、じっとこちらを見つめているのと、一瞬目が合った。 「まだ・・・あまり調子よくなさそうね。どうする？もう少し休んでる？」 首を振って、ベッドから降りる。まだ少しふらふらするが、さっきよりはずいぶんマシだ。 「もう、大丈夫です。ありがとうございました」 「そう？無理しちゃダメよ。あ・・・」 ドアを開けて出て行こうとした彼に、長谷川先生が声をかけた。 「島村君、ちょっと待って！あなたたち、同じクラスよね？心配だから、一緒に教室まで行ってあげて。途中で倒れたりしたら・・・困るから」 「いえ・・・大丈夫です」 フランソワーズは慌てた。 どうしよう。なんて言えばいいかしら？ 彼は何も言わずに、半分部屋の外に出て、とてつもなく不機嫌な表情で、ドアを体で押さえて立っている。 仕方なく、俯いたまま外に出た。 「ホントに無理しちゃダメよ」 長谷川先生の声を背中で聞きながら、二人は黙って教室への階段を登りはじめた。 ＊ ２階まで上ったところで、ジョーの足が異議を唱え始めた。 壁にもたれてちょっと休む。ジンジン痺れて、感覚がない。 「足・・・痛いの？」 前を行くフランソワーズが彼を振り返る。 「いや・・・痺れてるだけ」 ふうっと息をついて、彼女の顔をまっすぐに見た。 にらむような視線を受け止める青い瞳は、哀しいほど澄んでいる。 そして――あの柔らかな薄紅色の唇。 頭の中で描いていた彼女よりも、本物のほうがずっとずっと綺麗だった。 だが彼女の顔色は、長谷川先生が心配したとおり、本当に真っ青。 前より痩せたみたいに見える。 もともと華奢だったのに、今ならちょっと強く抱きしめただけで折れてしまいそうだ。 一瞬、あの時の感触が蘇る。 あわててそれを振り払おうと、、ジョーはまた彼女を睨みつけた。 「さっさと・・・行けよ！」 自分でもびっくりするほど冷たい声。 ―――これがホントの俺だ。 でも、彼女は目をそらさずに、まだじっと自分を見つめている。 恐くないのか？ せっかく――。 ちゃんと誤解を解いて、自分の気持ちを伝えて、そして、今度こそちゃんと・・・。 そう思ってがむしゃらに働いて・・・ようやく航空券が買えるくらいのバイト代がたまったのに。 どうしてこんなにタイミングが悪いんだろう。 あっと思った時には跳ね飛ばされ、気がついたら病院のベッドの上だった。 薄汚れた白い天井を見つめ、一言も発しないうちに、時間が過ぎていく。 最悪の夏休み。 入院当初はうるさく付きまとってきた看護婦たちも、彼に無言で睨みつけられてからはまったく近寄らなくなった。 ――誰も、俺がここにいることさえ知らない。 淋しい？ まさか！そんな感情は俺の中にはない。 一人でいるのが当たり前。 今までずっとそうだった。誰とも話さず、自分がどこにいて何をしようと、誰も俺のことなんか気にかけなどしてなかった。 むしろ気にかけられたくなかった。よけいな詮索などごめんこうむりたい。 俺も、他人には一切関心がないから。 なのに――。 彼女と出会ってから、調子は狂いっぱなしだ。 俺より強情なヤツに初めて会った。 無視し続けても、睨みつけても、アイツは・・・。 親しげな、優しい笑顔を浮かべて、いつも楽しそうに話しかけて来る。 俺は、ほとんど相槌ともつかないような、かすかな頷きでしか応えなかったのに。 教室で。駅までの帰り道で。彼女はいつも無邪気に笑っていた。 安心しきった目をしていた。 俺の隣にいるのに？ どうしてそんな顔が出来る？ ほんとに恐くないのか？ ―――俺の視線から、目をそらさなかったのは、お前だけだ。 「でも・・・」 彼女の心配そうな目。 あなたをそこにおいていくわけにはいかない、と彼女の顔に書いてある。 ちぇっ。立場、逆転、か。 今度会ったら、自分の気持ちをちゃんと伝えようと思っていたのに。 空港で一緒にいたあの男―――。いったい何者だ？ パリまで行こうとしていた自分がバカバカしく思えた。 もう関係ない。 なのに、こうして彼女を目の前にしたら、やっぱり・・・平静ではいられない。 どうなってるんだ、俺は。 「いいから、行けよ！」 きつい口調で鋭く叫び、ぷいと顔をそらした。 フランソワーズは俯き加減で、階段を登っていく。 しばらく休んでから行くことに決めた。壁にもたれ、肩で大きく息をついた。 ―――と、その時。 「きゃああああ！フランソワーズ、大丈夫？」 頭上から黄色い悲鳴が聞こえた。 あわてて階段を駆け上がろうと焦る。だが脚が思うように動かない。 ようやく踊り場を回ると、階段を上りきったところにフランソワーズがしゃがみこんでいるのが見えた。 「大丈夫？ちょっと・・・ちょっと待ってね！」 シンディーが教室に飛び込んで、ハインリヒを連れてきた。 「どうした？気分悪いのか？」 「あ・・・ちょっと貧血起こしただけよ。大丈夫」 ハインリヒに支えられるようにして立ち上がった彼女は、青白い顔に小さく微笑を浮かべた。 だが、足を引きずるように上がってきたジョーの姿を認めて、視線を落とす。 「ねえ・・・保健室に行ったほうがいいんじゃないの？」 「ううん・・・大丈夫。ごめんなさい・・・」 そのまま、腕を取って教室へ向かおうとしたハインリヒを優しく振りほどくようにして、フランソワーズは首を振った。 「もう、ほんとに大丈夫。ありがとう。」 「あら？」 シンディは急に後ろを振り返った。 「島村君、足どうしたの？」 ジョーは前髪で顔を隠したまま、何も聞こえなかったかのように彼女たちの横を通り越した。 「ねえ・・・怪我したの？いったい何が・・・」 沈黙する背中。 無言の拒絶に圧倒されるように、シンディーは口をつぐんだ。 ジョーが足を引きずりながら教室に入るのを見届けると、肩をすくめた。 「何だか、前より・・・恐い感じね」 相槌を求めるようにフランソワーズを見る。 だが彼女は、島村ジョーが姿を消した教室の入り口を、哀しげな目でじっと見つめていた。 |