Ⅲ
海沿いの白い道。
半島まで真っ直ぐな海岸線が続いている。
髪をなびかせる強い潮風。
（この辺りに来たのは・・・初めてだわ。こんな素敵なところがあるなんて）
一人旅をしているような解放感。
どうしよう、とさんざん迷ったあげく、結局、フランソワーズはその道を歩いていた。
学生鞄の他に、彼の住所のメモと宿題の入った紙袋を手にして。
「また・・・お節介だって言われるだろうな・・・きっと」
道端の大きな向日葵に向かって呟く。
風に揺られた花の、黄色い笑い声が聞こえてくるような気がした。

―――でも、あのまま放っておけなかった。
彼の机の上に、この冊子やプリントが置きっぱなしになってるなんて。
１ヶ月もたてば、きっと強い日差しで変色してしまうだろう。
誰も来ない教室に、ぽつんとそこに取り残されたまま、少しずつ色褪せていく。
（そんなの、淋し過ぎるもの）
まるで、行き場を失った自分の気持ちみたいだ。
せめて、夏休みの宿題くらい、ちゃんとした場所に届けたかった。
少しずつ西に傾いた日ざしは、まだじりじりと照りつける。

「ここで・・・いいのかしら？」
古ぼけた小さなアパートだった。
プランターかわりに並べられたトロ箱から、朝顔のつるがすくすくと伸びて２階のベランダまで届いている。
蒼い花はもうしぼんでいるが、明るい緑の葉っぱが涼しげな蔭を作っていた。
「あ・・・これ・・・ヘブンリー・ブルー・・・ね」
朝だったらどんなに綺麗だったろう。
ここは朝日を眺めるのによさそうな場所だった。
――目の前の青い海から金色の光が少しずつ昇る。
朝顔はそれを受けて少しずつ固い蕾を開いて・・・天上の蒼になる――
そんな景色が目に浮かぶ。
しばらくぼんやりと海を見つめていたフランソワーズは、我に返って郵便受けを探した。
集合ポストはない。
一瞬躊躇して上の階を見つめた。
にぎやかなセミの声に背中を押されるように、意を決して鉄の階段を登る。
カーン、カーンと音が大きく響き、彼女はびくっとした。
２階の一番東の端の部屋。
「島村」とマジックで書いた表札代わりのボール紙。

　急に――見てはいけないものを見たような気がした。
してはいけないことを、しようとしているのだ。
彼が教室で自分を睨みつけた時のことを思い出す。
冷たい目は、俺に構うな、と言っていた。余計なことをするな、と。
彼は、誰にも干渉されたくないのだ。
「お前に何がわかる？」
そんな突き放した孤独な目。
宿題を届けたい、という善意にせよ、彼には迷惑なだけだ。
みんなの噂では、彼の家庭環境は非常に複雑らしい。
こんなプライベートな部分に・・・触れようとするなんて、最も彼が嫌がりそうなことなのに。
浅はかだった。
勝手な思い込みで、軽はずみなことをしようとした自分が情けなくて、涙があふれた。
そのまま階段を駆け降りて、フランソワーズはもと来た道を帰りはじめた。

（ホントは・・・）
顔が見たかっただけなのだ。
「また、お前か・・・」
呆れたような、でも照れくさそうな顔をした彼。
「お前・・・見かけによらず、食い意地張ってるんだな」
珍しい彼の笑顔。
そして―――
「大丈夫か？」
彼があんな優しい目をして、自分を見下ろしていたなんて。
今でも信じられない。
でも、混雑した電車の中であの逞しい腕が、自分を守ってくれた。
みんなは彼のこと恐がっている。――とんでもない不良だ、と。
彼女は一度もそんな風に思ったことはなかった。
自分の感情を表に出さない彼。でもあの茶色の瞳は、決してそんな――。

なぜか・・・いつも彼のことを考えている自分がいる。
どうしてこんなに彼に惹かれるのかわからない。
彼の顔を見ていると、優しい気持ちになれる。
直接会って聞きたかった。
――どうして今日、学校に来なかったの？
あの話は・・・本当なの？
ジェットが声高にいろいろと喋っていたこと。
彼らは同じ中学校の出身で、あの番長と喧嘩したのも彼女をめぐってだった。
当然・・・彼らはその頃からオトナの関係にだったにきまってる、と。
他の人についてなら、そんな噂、絶対に信じたりしなかったろう。
でも・・・。
あの時、確かに２人は公園にいた。二人の間の親密な空気。
アキのあのすがるようなまなざし・・・。
思い出しただけで胸がずきんと痛んだ。

逢いたかった。そっけない、ぶっきらぼうな彼の声を聞きたかった。
宿題なんて・・・ただの口実に過ぎない。
こんな気持ちのまま、１ヶ月も会えなくなるなんて。
会ったからといって、何も聞けないことはわかっているのに。
（でも、ここに来ては・・・いけなかったんだわ）
砂浜に降りてぼんやり海を眺めていた。
瞼に浮かぶのは彼の茶色の瞳。
胸が張り裂けそうだった。
苦しくて切なくて・・・。
　
黄金色に染まった空――あの時と同じ色。
彼は、自分が泣いていたことに気づいていた。
でも、何があった、とも、どうしたとも聞かなかった。
だた一言、「帰るぞ」と。
つっけんどんで、乱暴な口調だったけれど、彼が心配してくれてるのがわかった。

まさか・・・先生に好きだと言われて、抱きしめられるなんて。
それも、あの先生に、だなんて。苦手なのに・・・。恐かった。
同じようにされても、彼の胸なら、あんなに幸せな気持ちになれたのに。
もちろん、彼はそんなつもり・・・ではなかったのだけれど。
『こんなこと・・・周りに知られたら・・・僕はクビだ。破滅だよ。でも・・・キミのことが好きでたまらないんだ』
どうして？
私・・・先生のことなんか・・・全然好きじゃないのに。
思い出しただけでも寒気がする。
でも・・・誰にもいえない。それがよけいに心を重くする。

東の空には細い月。
いつの間にか、日はとっくに沈んでいる。
（帰らなきゃ・・・）
砂浜から階段を上がって道路に出た。
ブルンブルン！！
音をたてててバイクが３台近づき、彼女を取り囲むようにして停まった。
「あれっ？カワイコちゃん、一人でどうしたのさ？」
「ひょおおお！すっごい可愛いじゃん！茶髪の姉ちゃんかと思えば・・・ガイジンか！」
（どうしよう・・・）
恐怖で体が震えた。
そう言えば・・・このあたりは暴走族の溜まり場だと聞いたことがある。
「なあ・・・俺達と一緒に遊ぼうよ！」
「これ、どこの制服だ？ぴちぴちの高校生ってやつ？」
少年達はにやにやしながら、彼女に近づく。
「さあ、行こうぜ！」
１人の少年がぐっと彼女の手を掴んだ。
「何するの？いやっ！離して・・・」
必死に振りほどこうとするが、力では完全にかなわない。
「何言ってんだよ！こんなところに１人でいるってことは・・・男を捜してたんだろ？」
「こんな可愛い顔して・・・俺達が相手してやるからな！」
「いや！やめて」
乱暴に腕をつかまれ、そのままさっきの階段を引きずり降ろされた。
「さあ！いいことしようぜ！」
「いやっ！離して！」
強引に一人の少年が彼女を抱きしめようとする。
「いやっ！離して！」
（島村くん・・・たすけて・・・）
必死に突き飛ばそうとすると、足を引っ掛けられ、どさっと砂の上に突き倒された。
「きゃあああ！」
１人がそのまま彼女の上にのしかかると、あとの２人も周りを取り囲んだ。
「いや・・・やめて・・・お願い・・・」
涙混じりの哀願が、余計に彼らの興奮に油を注ぐ。
「へヘッ！そのうち・・・嫌じゃなくなるさ！」
彼女にのしかかった少年は、彼女を押さえつけ、ブラウスのボタンに手を伸ばした。
「いやああっ！やめて・・・」
と、突然、うぐっ、と少年が呻き、そのまま仰向けにひっぱられるようにして後ろに倒れた。
「ん？」
振り返ったもう１人がそのまま砂浜にころがる。
「う、うわああああああ！」
残りの１人はわめき声を上げてじりじりと後ずさりする。それを鉄拳が追う。
バシュッ！
唇でも切れたのか、血しぶきが舞う。
何が起こったのかわからない。フランソワーズはじっと目を閉じ、身をすくめて震えていた。
「ふざけんな！」
最後の一人をぶちのめすと、ジョーはぐったりとしている彼女を抱き起こした。
「おいっ！・・・大丈夫か？」
腕を掴んでゆさぶって声をかける。
怯えた蒼い瞳が、彼の姿を認めてたちまち涙で一杯になる。
「・・島村・・・くん・・？」
ほっとしたのか、またフランソワーズの体から力が抜けた。　　


　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　＊


香ばしいコーヒーの薫り。
（いい匂い・・・）
フランソワーズはゆっくりと目を開けた。
見慣れない古ぼけた天井。
布団の上に寝かされていて、薄いタオルケットがかけてある。
（ここは？）
はっと、さっきのことを思い出し、一瞬身構えた。
（私・・・私・・・まさか・・・）
胸元をさぐるが、ボタンは一つはずれているだけだ。
慌てて一番上までとめる。
ゆっくりと上半身を起こし、周囲を見回す。
机と本棚と小さなタンス。びっくりするほど物が少ない質素な部屋。
（ここは・・・どこなの？）
隣の部屋で、がさっと音がした。どきんと胸が鳴る。
誰かがこちらに近づいてくる。
（どうしよう、いったい・・・ここは・・・）
ふすまがすっと開いた。
栗色の髪。白いTシャツにジーンズ。制服じゃないと別な人みたいだった。
「・・・気がついたか？」
「島村・・・くん・・・・。どうして・・・？」
フランソワーズは目を丸くした。
彼は、布団の横に膝を抱えるようにして座った。
（そうだ・・・。やっと思い出したわ。さっき・・・。じゃあ・・・ここは彼の部屋？）
思わず頬が熱くなる。
そんな彼女に、彼は無造作に、ほらよ、と何かを差し出した。
「あ・・・ありがとう・・・」
熱いコーヒーの入った白いマグカップ。
フランソワーズが受け取った時、２人の視線がぶつかる。
（ああ・・・この目だわ）
いつもは長い前髪に隠されている、あたたかい瞳。
（私はこの彼の目を勝手に・・・誤解してた。バカみたい・・・）
無性に悲しくなって俯く。
「お前・・・何で・・・？」
フランソワーズは何も答えず、両手で握りしめたカップをじっと見つめた。

ぽた、ぽたと沈黙を破る音がした。
膝の上に落ちる大粒の雫。
訝しげにジョーは、彼女の顔を覗き込むと、沈んだ顔の彼女に微笑を向けた。
「大丈夫だよ。あんなヤツラに・・・お前を・・・好きにさせたりしないから・・・」
「え？」
（それは・・・どういう意味なの？）
フランソワーズはハッと顔を上げた。
包み込むような優しいまなざし。
(・・・だめよ。私・・・また・・・いいように解釈しようとしてるわ・・・）
彼の顔を見ると辛くなって、ますます涙があふれる。
（そんなに・・・優しくしないで・・・私・・・）
「う・・・」
突然泣きじゃくり始めたフランソワーズを、ジョーは当惑した顔で見つめる。
目の前で小刻みに震えている細い肩に、彼はそっと右手を伸ばした。
「どこか・・・痛いのか？」
ううん、と彼女は顔を覆ったまま首を振る。
「・・・なら・・・どうして泣くんだよ？」
思わず肩を抱く手に力がこもる。
濡れた蒼い瞳がじっと彼を見つめる。
ジョーの心臓がドキンと音をたてた。

ふっと思い出した、さっきの感触。
意識を失った彼女を抱き上げた時、あまりに軽くて柔らかくてびっくりした。
甘い匂いが彼の鼻腔を満たす。
頭がぼおっとしそうで、慌てて彼女から顔をそむけた。
何とか息を整えて、そのまま彼女を部屋まで抱いて帰った。
細くてあたたかい身体をそっと布団に横たえる。
膝を抱えて座り、しばらく寝顔を見入っていた。
夢みるような表情。広がる亜麻色の髪。
大きくはだけたブラウスからのぞく白く胸元。
ごくっと唾を飲み込み、胸元のボタンをいくつかとめて、タオルケットを肩までかけた。
ほどけたリボンは枕元に置いた。
まだ胸がドキドキしている。
このままここにいたら・・・何をしでかすかわからない。
立ち上がると彼女を残し、隣の部屋に逃げ込んだ。
気持ちを落ち着けようと、コーヒーを入れる。
ゆっくりとカップの中身を飲み干した時、彼女が起きる気配がした。
ようやく彼も、自分をコントロールできる状態に戻っている。
（もう・・・大丈夫だ）
そう思って・・・部屋に入った。
だが――。　　
　　
（こんな目で見つめられたら・・・俺は・・・）
ジョーは肩から手を離し、視線をそらしてつっけんどんに言う。
「早く・・・飲めよ。冷めちまうぞ・・・」
小さく頷き、フランソワーズは指で涙をぬぐうと、カップをゆっくりと口元に運んだ。
「とっても・・・おいしい・・・」
彼女はほっと溜息をつき、俯いたまま、ポツリと呟く。
「また・・・あなたに助けてもらったのね・・・」
哀しげな横顔。
なぜ・・・彼女はこんなに寂しそうなんだ？儚げで、頼りなげで・・・。
しっかり支えてやらないと、その場から消えてしまいそうな、そんな感じだった。
こんな表情の彼女は見たことが・・・いや、一度だけ・・・ある。
いつだったか、とジョーが記憶をたどろうとした時、彼女の震える声が聞こえた。
「ごちそうさま・・・。もう・・・帰らなきゃ」
彼は黙って、空になったカップを彼女の手から取る。
タオルケットをたたもうとしたフランソワーズに、ジョーはぶっきらぼうに言う。
「そんなことしなくていいから・・・」
「でも・・・砂だらけになってない？」
「・・・大丈夫だ。もう・・・遅いから・・・」
黙って頷いた彼女は立ち上がり、一瞬彼の目を見つめた。
張り裂けそうな青い瞳が、涙で潤んでいる。
（何で、お前・・・そんな顔するんだ？どうして・・・いつもと・・・違う？）
玄関へ向かう彼女の背中を見つめてジョーは呟く。
「フランソワーズ・・・」
「えっ？」
名前を呼ばれてびっくりしたように、彼女は振り返る。
茶色の目が映る大きな瞳から、ポロリと涙がこぼれた。

―――次の瞬間、思わず彼女を腕に抱きしめていた。
「泣くなよ・・・お前が泣いたら・・・俺は・・・」
「あ・・・し、しまむら・・・くん」
華奢な体が震えている。
手にした鞄がパサッと床に落ちた。
「俺は・・・」
少し体を離すと、細い顎を掴んで上を向かせ、そっと自分の唇を重ねた。
「ん・・・」
なんて柔らかいんだろう。
甘くて頭の芯まで痺れてしまいそうだ。
びっくりして見開かれていた蒼い瞳が、ふっと閉じる。
唇を合わせたまま、ジョーはぎゅっと細い体を抱きしめた。
「いやっ！」
彼女が急にもがいた。
「やめてっ！・・・ひどいわ・・・」
必死に両腕で彼を突き飛ばそうとする。
「フランソワーズ！」
「私のこと・・・好きでもないのに・・・どうしてそんなことできるの？」
思っても見なかった言葉に、ジョーはびっくりして体を離した。
「フランソワーズ！俺は・・・」
「あなたが・・・そんな人だと・・・思ってなかった。ちゃんとした人が・・・いるのに・・・」
涙でいっぱいの瞳。
「ちょ・・・ちょっと・・・待ってくれ」
鞄を拾い上げ、靴を履いてドアを開けた彼女は、一瞬振り返り小さく叫んだ。
「島村くんなんか・・・大嫌い！」
カンカンと音をたてて階段を駆け下りていく。
外はもう真っ暗だ。
また、あんなヤツラがうろうろしていたら・・・。
ジョーは慌てて後を追いかけた。

　思っていたより彼女の足は早かった。なかなか追いつけない。
とにかく、駅まで行こう。途中で、また何かあったら・・・。
ジョーは動揺しつつ、彼女のあとを追う。
どういう意味だろう、あの言葉。
『私のこと・・・好きでもないのに』『ちゃんとした人が・・・いるのに』
強引にキスしてしまった。怒らせてしまった。
でもそれ以上に、彼女は何か別のことに腹を立てているようだった。
どちらにしても、フランソワーズは彼を拒絶した。
「大嫌い・・・か・・・」
誰かに何か言われて、こんなに落ち込んだことは初めてだ。
今まで、他人がどう思おうと、何を言われようと、全く気にならなかった。
でも、あの一言。後頭部を強打されたような衝撃だった。
　駅のホームに電車が入ってくる。
改札を俯いて駆け抜けていく亜麻色の髪が見えた。
ふうっとため息をついて肩を落とすと、ジョーはもと来た道を戻りはじめた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊

坂の上の古ぼけたアパート。慌てて飛び出してきたから、鍵は開けっ放し、明かりはつけっ放し。
「ん？」
部屋の前に立ち、ドアを開けようとして、ジョーは怪訝な顔をした。
人の気配がする。嫌な予感がした。
「まさか・・・」
土間には厚底の妙な靴。
ったく、とジョーは舌打ちをした。
「はあい、ジョー！」
「なんで・・・こんなとこにいるんだ？」
アキはニコニコしながら、椅子から立ち上がる。
「どうやって・・・ここを知った？」
「うふっ！ジェットから聞いたの。中学の時とは住所、違ってたから・・・」
「勝手に人の部屋に入るなよ！」
「だってえ・・・戸が開いてたんだもん～！」
「帰れよ！」
「なんで・・・そんな恐い顔、するの？」
「帰れって言ってるんだ。そうでないと・・・放り出すぞ！とっとと出て行けよ！」
アキはジョーにしなだれかかり、甘い声でささやく。
「ねえ・・・私、ほんとにあなたと付き合いたいの。昔から憧れてたのよ。一度も話したことなかったけどね・・・。だ・か・ら・・・ジェットに頼んだの」
棒立ちになっているジョーの両手を取ると、むぎゅっと自分の豊かな胸に押し当てた。
即座に彼はそれを振り払い、低い声で、俺につき纏うな、とゆっくりと言った。
「も～ううう！照れなくていいのよ～！あ・・」
アキの顔が急に強ばる。ジョーの冷ややかなまなざし。
「そ、そんな・・・目で・・・睨まないでよ」
「ジェットに・・・何を言われたのか知らないが・・・俺はお前とつき合う気なんかない。それは昨日言ったとおりだ」
きっぱりと言い放ったジョーを、アキはふん、っとすねた目で見つめた。
「ねえ・・・さっき・・・あの『マドンナ』を近くで見かけたんだけど・・・彼女、ここに来てたの？」
アキは挑発するようにジョーを上目遣いに見つめた。
「あのコ・・・めちゃくちゃ可愛いわね！ちょっとむかつくわ。まさか・・・あなた達？」
（こいつ・・・何が言いたい？）
思わせぶりなアキの言い方に、ジョーは不愉快でたまらないといった目を向ける。
「・・・つき合ってるの？まさかね・・・。学校一の模範生と最悪の不良じゃあ・・・釣り合うわけないものね。それに・・・この私を振って、そんな子と付き合ったりしたら、ぜえったいに許さないから！！私・・・あきらめないわよ！」
アキは捨て台詞を残すと、バタンと勢いよくドアを閉めて出て行った。

ふううっとため息をつき、ジョーは鍵を閉めた。
畳の部屋に戻り、ごろりと横になる。
ほのかに漂う甘い匂い。さっきまで彼女がここにいた証拠。
まだ、そのぬくもりが布団に残っているような気がした。
彼をまたあの奇妙な感覚が襲う。
今までよりずっと生々しい妄想。
この手で、彼女を抱き上げたのだから。
あのとろけそうな柔らかい唇。
手を伸ばせばすべてに触れられるところに彼女はいた・・・。
だめだ。
俺は・・・いったい何を考えてるんだろう。
何でこんな風になってしまうんだ？
必死で振り払おうとすればするほど、妄想が彼を襲う。
悶々として、眠ったのか眠らないのかわからないうちに、外が明るくなった。
部屋に朝日が差し込む。
そのままぼんやりと、天井にうつる光を見つめていた。
どのくらいそうしていただろう。
外は次第に日差しが強くなっているようだった。

　ぐるりと自分の部屋を見回す。殺風景な光景。
――あれは？
彼女が持っていた紙袋。忘れて帰ったんだ。
ゆっくりと起き上がり、手にとった。
手提げになった袋は口が開いていて、中が見える。
問題集やプリントの束。夏休みの宿題だろう。
英語の本に薄いピンクのメモ用紙がはさんである。
どきっとした。
『島村くんへ
　英語の副読本以外は始業式の日に提出です。２日には、英・数・国の課題テストがあります。また９月にね』
わざわざ、持って来てくれたのか？
自分が留守にしていたから、あそこで時間をつぶしていて、あんなヤツラに？
『島村くん・・・どうして休んだの？』
彼女の声が聞こえた気がした。
肩で１つ大きく息をつくと、本棚をごそごそとかき回し始めた。
取り出した薄い冊子をめくり、ピンクの紙の裏にメモする。
枕元に置いたままだったリボンを、プリントの入っていた紙袋に入れて小さくたたむと、急いで部屋を出た。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


まだ新しい白亜のマンション。メモした住所はここだ。間違いない。
だが、入り口はオートロックになっていた。
面倒くさそうだな、と彼が躊躇した時、ふいに背後から声をかけられた。
「あれ？君は・・・もしかして・・えっと・・・そうそう、島村くんだな」
「え？」
聞いたことのない声だった。穏やかでやさしい、澄んだ声。
ジョーが驚いて振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
美しい顔立ちの若い外国人。初めて見る顔だ。
なのに、なぜかよく知っている人のような気がした。
亜麻色の髪に蒼い瞳。そうだ、彼女に良く似ている。――と言うことは？
「妹は・・・しばらくフランスへ帰ったんだ。たった今、空港まで送ってきたところ。ちょうど入れ違いだね」
彼は申し訳なさそうに言った。
「フランスに・・・？」
急に心がしぼむ。
自分の気持ちをちゃんと伝えようと決心してきただけに落胆は大きかった。
だが、しかたがない。
「そうですか。あの・・・これを・・・彼女に渡してください」
折りたたんだ紙袋を手渡す。
「これは？・・・」
問いには答えず、ジョーは逆に彼に尋ねた。
「あの・・・どうして・・・僕・・・の名前が・・・」
「なぜ君が島村君だとわかったのか、ってこと？」
ええ、とジョーは頷いた。
「おとといの昼過ぎ、学校の近くの公園にいただろ？」
「えっ？」
「ちらっとだけど、見かけたんだ。妹の様子で、それが君だったんだと思ってね。その時の髪の色を覚えてたから」
まさか、あの場面を彼女は見ていたのか？
『ちゃんとした人がいるのに・・・』
まさか！！
「ホントは・・・明日帰る予定だったのに、急に昨日の夜になって１日早く帰りたいって言い出して。僕は仕事で遅かったから・・・勝手に自分で飛行機の便も変更して・・・。まったく、風みたいに気まぐれなんだ。お姫様にはかなわないよ、まったく。」
呆れたような彼の口調だが、それが逆に妹への愛情の深さを示していた。
「あの・・・彼女が帰ってくる日を・・・教えてもらえませんか？」
思いつめたような彼の声に、ジャンは苦笑しながら答える。
「さあ・・・。たぶん、８月の２９日か３０日くらいだろうな。まだはっきり決めてないと思うけど」
「そうですか・・・」
まだ１月以上も先だ、というがっかりした表情が思わず彼の顔に浮かぶ。
「じゃあ・・・これで失礼します」
会釈して背中を向けたジョーに、ジャンが声をかけた。
「パリの住所を・・・教えようか？」
「え？」
ジャケットのポケットから手帳を出すと、ジャンはさらさらとペンを走らせ、ピリッとちぎってジョーに渡した。
「ずっと・・・そこにいるはずだから」
ぺこり、と頭を下げて去って行く彼の後ろ姿を、ジャンは複雑な思いで見つめていた。　


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