Ⅱ
シャーシャーとうるさいくらいのセミの音。
じりじりと照りつける太陽。ソフトクリームのような入道雲。
「もう・・・夏本番よねえ。今年のヴァカンス、どうするの？」
窓の外に身を乗り出していたメグが、教室の中のシンディーを振り返る。
午前中短縮授業になって、生徒たちはもうすっかり夏休みムードだ。
「オキナワか、北海道に行こうかな。カレ次第だわっ！」
「どうせ来年の修学旅行、北海道なのに。私はね、フィンランドにいくの」
そう言いながら、メグは肩をすくめる。
「でもなあ・・・懇談でボロカスに言われると・・・ボツになる可能性があるのよね。元帥の奴、親に余計なこと言わなきゃいいけどさ」
その時、紺色の可愛らしいプジョーが校門を入ってきた。
車から姿を表したのは、金髪の長身の青年。
ただ車から降りてドアを閉めるだけの仕草なのに、映画のワンシーンのようだ。
「きゃあ～♪すっごいハンサム！」
メグが黄色い声をあげた。
「えっ？どれどれ？」
シンディーも慌てて窓辺に駈寄る。
「うわああ！ほんと！素敵だわ！！どういう人かしら・・・。まさか・・・誰かの親？」
「まっさか！まだあの人・・・２０代よ。高校生の子供がいるわけないじゃん！」
２人がわいわい言っているうちに、彼は校舎の中に入っていった。
「あ、もうすぐ１時だわ！アイツ、もうすぐ来るわよ。教室で・・・三者懇談するって言ってたから・・・」
　　
散らかした食べ物の屑などを２人が片付け始めた時、入り口をノックする音がした。
教室の入り口に立っていたのは先ほどの男――。
そんじょそこらのサラリーマンとは全く違う凛々しいスーツ姿。
「ああっ！！さっきの！」
「う、うっそおおお！！」
舞い上がる２人に彼は流暢な日本語で話しかけた。
「あの・・・１年９組の教室って・・・ここでいいのかな」
「え、ええ！もちろん！」
（メチャメチャカッコいい！）
シンディーとメグの興奮は頂点に達していた。
（だって、だって・・・近くで見ると、ますます素敵すぎ！）
２人が彼に近づこうとした時、背後から声がした。
「お兄ちゃん！来てくれたのね」
「お兄ちゃんですって？」
２人は声を合わせて叫んで、振り返る。
「あ、メグ、シンディー、ここにいたの？」
素っ頓狂な２人の声に、フランソワーズが目を丸くして立っていた。
「フ、フランソワーズ・・・いったい・・・」
「私、今から・・・三者懇談なの」
ということは――
「もしかして・・・あなたのお兄さん？」
「ええ」
にこっとしてフランソワーズは彼のところに駈寄った。
「ありがとう、お兄ちゃん、来てくれて」
「ギリギリ・・・間に合ったよ」
「よかった・・・。ごめんね、忙しいのに・・・」
シンディーとメグは顔を見合わせる。
　
「彼女のお兄さんだったなんて・・・」
「でも・・・納得・・・よね。フランス大使館の・・・外交官なんて・・・すっごいエリートねえ」
まだ衝撃覚めやらぬといった表情の２人。
廊下を声高に話しながら歩いていたが、前方に元帥の姿を認めて急に黙り込んだ。
俯いてやり過ごす。シンディーは後ろ姿にアカンベーをした。
「・・・やな感じよね」
「でも・・・アイツ、フランソワーズのことすっごく気に入ってるのよね」
「別に・・・アイツだけじゃないじゃない。彼女はこの学校のマドンナなんだから。
みんなファンなんだし」
「ううん、そういうお気に入りって言うんじゃなくてさ・・・なんかこう・・・イヤラシイ目で見てるのよね」
「もともとアイツって、イヤラシイ顔してるじゃん！」
「そりゃあそうだけどさ。いつも・・・一番可愛い子に手出ししようとするらしいわよ」
「ええ――っ！身の程知らずもいいとこ！」
「でしょ？そうそう、卒業した先輩から聞いたんだけど、自分が気に入った女のコに彼氏ができると、すごくヤキモチやいてね、何だかんだ言って苛めるそうよ。前のときなんか、裏でいろいろ画策して、その彼氏、学校やめさせられちゃったんですって」
「うっそおおおお！最低ね！ああ・・・・担任替わって欲しいな」
「無理よ。このクラスって、３年間持ち上がりなんだって」
「げえええ！！いやだなあ・・・あと２年以上もアイツの顔見なきゃいけないわけ？地獄・・・。それにさ・・・アイツったら・・・」
２人は場所を喫茶店に移し、ひそひそと低い声で話を続ける。
「え――！！」
「しっ！声が大きいわよ！もう・・・虫唾が走ったんだから・・・。『綺麗な髪だね』っだって！オエエエエッ！あんな奴なんかに触られたくないわ！熱湯消毒したかったわ」
「はあ・・・最低ね・・・アイツって」
「３年生の・・・あの超グラマーな先輩なんか・・・数学準備室で・・・鷲掴みにされたらしいわよ」
「えええええええ！！！何で、何で、そんな奴、ほっとくのよ！！」
「しっ！・・・何でもあの元帥って・・・教育委員会の実力者の血筋なんですって。
だから・・・誰も何もいえないのよ。だいたい先生達、全然気づいてないわよ！バッカみたい！」
「うわあ・・・・でも気をつけよっと。準備室なんか行ったら・・・何されるかわかんないわよね・・・はあ・・・」
２人は同時に大きな溜息をついた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


（チクショウ！俺は何だって、こんな――）
ジョーは自分の身体をもてあましていた。
目を閉じ、眠ろうとすればするほど、感覚が敏感になっていく。
「ふうっ・・・」
わざと声に出して大きく息を吐いてみる。だが効果はない。
チッ、チッ、チッ、チッ・・・
暗闇の中に時計の音だけが大きく響く。
ドックン、ドックンと充血していくのがわかる。

数時間前の・・・あの感触。それを思い出すと体中が火照ってしかたがなかった。
（いったい・・・俺はどうしたっていうんだ！）
あんな・・・フランス人形みたいな女。
いや、あれは女じゃない。女の子だ。まだネンネのお嬢ちゃんじゃないか。
なのに・・・。
蒼く潤んだ瞳。それに見つめられると、胸がドキドキして、苦しい。
珊瑚のような濡れた唇。真っ白なうなじ。柔らかい絹糸のような髪。甘い匂い。
目をつぶっても頭を振っても・・・ああ！だめだ。
まだ彼女が自分の腕の中にいるような感覚から逃れられない。
フ――ッ。
また溜息をついた。頭が冴えて眠るどころじゃない。頭だけじゃなくて・・・。
俺は・・・。

とどめは・・・あの柔らかい感触。驚きだった。
あんなに細いのに。彼の腕の中にすっぽりと包み込んでしまえるほど華奢なのに。
あの豊かなふくらみ。息が止まりそうだった。
ちょうどみぞおちあたりに触れた。
ふんわりとして、やわらかくて、それでいて、ずしりとした重量感。
自分の手のひらで確かめてみたい。そのまろやかなカーブをなぞってみたい。
そこまで考えて、ハッとした。
（・・・ったく・・・）
何を考えているんだ、俺は？――とんでもない欲望の虜になってる。
・・・何を怯えているんだ？そうだ！なぜ、この俺が怯えなきゃいけない？
何も失うものがないんだから・・・何も恐くない。それが俺の強さだ。
なのに――。
もしこんなことを考えてるなんて、彼女に知られたら――。
おぞましくて背筋がぞっとする。
まさか彼女は想像もしてないだろう。
自分の腕の中で少し震えていた。頬を染めて、目を閉じて・・・。
大丈夫か、と言った自分を見上げたあの表情。安心して、信頼しきった目だった。
こうしていれば何も恐くない。あの瞳はそう言っていた。
なぜだ？どうして、俺なんかをそんなに信じてるんだ？こんな俺なのに？
そして、お前に信じられて、それを幸せに思ってる俺がいる。
こんなことは、はじめてだ――何もかも。

幾つめかの駅に着いた。今度はこちらのドアが開くはず。
このまま開いたら、きっと勢いで押し出されてしまうだろう――２人とも。
ましてや彼女はドアに押し付けられるように立っている。
押されて勢い余ってころんだりしたら・・・怪我をしかねない。。
キキキ、と電車が止まった。体が慣性の法則に従い、ぐっと傾く。
「あ・・・」
柔らかい体が、また、どんっとジョーにぶつかってきた。
両手は体の脇に添うようにおろされている。二人の間を隔てるものは何もない。
ダイレクトに伝わるぬくもり。
ジョーの顎の下に、彼女の体はすっぽりとはまったようになった。
と、片手で体を引き寄せる。
フランソワーズは一瞬ぴくっと反応したが、抗わなかった。
次の瞬間、プシュっとドアが開く。
降りようとする人が、強引に彼らを突き飛ばそうとした。
「きゃ・・・」
ホームも人で一杯だ。一度降りたらもう乗れないかもしれない。
弾き飛ばされないように、ジョーはカバンを持った手も彼女の背中に回して、両腕でぐっと抱きしめた。
「あ・・・」
小さな声をあげ、彼女は少し体を固くした。またあの柔らかな感触。
ぴったりと密着した２人の身体。
ドク、ドクッと脈打っているのは、彼女の心臓の鼓動なのか、自分のものなのか、もうジョーにはわからなかった。

がたん、と電車が動き出す。
その弾みで彼の唇が、亜麻色の髪に触れた。
優しい匂い。また・・・体中を駆け巡る甘い痺れ。
「島村君・・・」
彼女がかすれた声で呟く。その甘い声がいっそう、彼を恍惚とさせる。
目の前がチカチカして動悸が激しくなってきた。
（ま、まずい！！）
勝手な体の反応。自分の意志ではどうにもならない――本能。
何でこんな時に！
まさか・・・彼女に悟られるわけにはいかない。
ジョーは慌てて体を離そうとした。しかし、さらに乗車率がアップした車内にそんなスペースはない。
しかも入り口から奥へ押し込まれて、つかまるところさえないのだ。
周りには――脂ぎったサラリーマン。オタクっぽい大学生。そしてヤル気満々の高校生。
彼女は、そんな掃き溜めの中の美しい生贄。
彼が腕の中に抱きしめていないと、たちまち野獣ドモの餌食になってしまいそうだった。
離すわけにはいかない。
（ま、まずい！が・・・もう、な、なるようになれ！）
腕の中で、彼女は小さく震えている。頬をそっと彼の胸に寄り添わせて。
自分が、固く熱くなっていることに、気づいていないのだろうか。
意識すればするほど、ドクン、ドクンと脈打つ。
気が狂いそうだ。何か、とてつもないことを叫んでしまいそうだった。

――それから電車を降りるまで、自分がどうしていたか記憶が定かでない。
「今日は・・・ちょっと行かなきゃいけないところがあるの」
そう言って彼女は先に電車を降りた。
「ホントに・・・ありがとう」
降り際にそう言った彼女は、にっこりして彼を見つめる。
（また・・・あの目だ）
彼はふうっと溜息をついた。
（あの瞳で見つめられたら・・・。俺は・・・いつもの俺でいられなくなる）
もう１０分も体を密着させていたら、どうなっていただろう。
極度の緊張による疲労。全身から力が抜けていく。彼はぐったりとドアにもたれ、天井を仰いだ。

それが・・・なぜ、また今になって？
・・・こんなに生々しく思い出すんだ？――布団に入って、眠りにつこうとしている今になって。
あの時と同じように、彼女を抱きしめたい、と思っている。
壊れるくらい滅茶苦茶に抱きしめたい。
ああっ！俺は・・・いったい何を考えてる？

あの時、浮かび上がった生々しい体の線。
濡れた白いブラウスに浮かび上がった白い下着。
ぴったりと体に張りついた布地から、彼女が見かけよりもずっとグラマラスな体型だと、気がついていた。
でも・・・今日、実際に抱きしめた時の驚きといったら・・・。
（ああ・・・もう、俺はどうなってるんだ！）
目をつぶったら、勝手な想像ばかりが生々しく浮かぶ。
（ああ、もう・・・だめだ！）
低く小さな呻き声を上げ、前髪を吹き上げるほどの長い溜息をつく。
まるで彼女を汚してしまったようで、彼は強烈な自己嫌悪に陥った。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


「ごめんね。忙しいのに・・・。わざわざ来てもらうほどのこと、なかったわね」
「普段、何もしてやれないから。これくらいのこと、しなきゃ・・・ね」
２人は階段を下り、校舎の外に出る。じりっじりっと照りつける太陽で、目がくらくらするほどだ。
「あら、ジェット！」
車に乗り込もうとしたフランソワーズに、よおっ、と彼は手を上げて近づいてきた。
「もう懇談、終わったのかい？」
「ええ・・・。ジェットも今日なの？」
授業もないのに、彼が学校に残っているなんて珍しい。だが、ジェットは首を横に振った。
「俺は・・・明日だ！今日は・・・ちょっとヤボ用でね・・・」
え？、と不思議そうにフランソワーズは首をかしげた。
「おっ！」
ジェットが声をあげ、その視線の先をたどった時、彼女はクスッと肩をすくめて笑った。
校門を入ってきた女生徒。セーラー服だ。あの制服は・・・Ａ女子高校のもの。
（ジェットったら・・・シンディーとつき合ってるんじゃなかったのかしら）
「じゃあな！」
手を振って彼は校門の女性へと小走りに近づく。
　困った人ね、とフランソワーズはしばらく彼の後ろ姿を見つめていたが、車に近づき、助手席のドアを開けた。
「あ！しまったわ！」
忘れ物しちゃった、とフランソワーズは体育館へ向かって駆け出した。
ジャンはその姿を目を細めて眺める。

今日は、本当はかなり重要な会議があった。休みを取るのに気が引けた。
だが、ちょっと気になっていることがあった。
小さいころから人形のように可愛いかった、自慢の妹。
年頃になってくると、ますますその美貌が際立ってきた。
妹は、仕事が忙しくてどんなに遅くなっても、自分が帰ってくるのを寝ないで待っている。
その日あった出来事を楽しそうに話してくれる。ワインを飲みながらそれを聞くのが、ジャンの楽しみだった。
バレエのレッスンの話はもちろん、学校での他愛もない話を。
「おもしろい子がたくさんいるのよ。毎日ラーメンたべてる子とか、変装が得意な子とか・・・」
さっきのクラスメイトについても、確か・・・口は悪いけどホントは優しい子だ、とか言っていた。

いろいろ話してくれるのに、なぜか出て来ないあの話題。
普通、学校と言えば、その話題はつきものなのに。
ほめる言葉もけなす言葉も聞かれなかった。
（妹は・・・人をけなすようなことは言わないから・・・つまりは誉めるには値しない、ってことだな）
そう勝手に納得していた。
７月に入り、学校から持って帰ってきた個人懇談のお知らせプリント。
今月は、かなり仕事が立て込んでいる。
「もし、僕が行けなかったら・・・どうなる？」
「え？・・・先生と・・・二者面談・・・に・・・なるわ」
ふっと彼女は口篭もった。
「・・・でもいいのよ。お仕事忙しいんだったら、無理しないで・・・」
気遣うように、フランソワーズは笑顔をつくる。余計に気になった。
無理をしてでも休もう、とジャンは決心した。

実際に会ってみて、彼女が何もコメントしない理由がよくわかった。
ベタベタと彼女を誉めるのがわざとらしい。嫌味だ。
つくりだけは立派な顔立ちだが全く品がない。自分ではいい男だと思い込んでいるのが笑止千万。
（要するに・・・イケスカナイ奴、だ。中身のない、つまらない男だな）
ジャンはその優雅な外見に似合わず、元帥をばっさりと切り捨てた。
　と、フランソワーズが駆け戻ってくる。
「ごめんなさい！更衣室に置きっぱなしにしてたの・・・。持って帰らなきゃ！」
小さな紙袋を抱えて車に乗り込む。
「・・・今から、またお仕事に戻るんでしょ？時間、大丈夫？」
ハンドルを握るジャンを、心配そうにのぞき込むのがいじらしかった。
「いや・・・今日はもう休むことにした」
「え！ほんとう？ずっといっしょにいられるの？」
ぱっと明るくなった表情を見て、今度はジャンが心配になる。
――将来・・・どんな美人になるだろう。
これからは、変な虫がつかないかと気を揉むことになりそうだ。
だが、兄の心中など知らず、フランソワーズは無邪気そのものだった。
「じゃあ・・・何かおいしいもの食べに行きたいわ！私、お昼まだなの。お兄ちゃんもでしょ？」
「そうだね。じゃあ・・・優秀な成績のご褒美にご馳走するか」
「ほんとに？何にしようかしら・・・迷っちゃうわ！」
はしゃぐ妹を見ていると、ジャンも幸せな気分になる。
ずっと忙しかったから、２人で外出なんて久しぶりだ。
「でもね・・・ほんとは私よりもずっと出来る子もいるのよ。その子は・・・あんまり勉強しないけど、すごく頭がいいの」
急に真剣な表情になった妹を見て、おや、っと彼は首を傾げて見つめる。
「えらく謙虚だな・・・」
ふっと・・・あることが頭に浮かんだ。
「それって、あの・・・よく学校を『休む』子かい？」
フランソワーズは大きく目を見開いて、ジャンを見つめた。
「どうしてわかるの？！」
ふふっ、と笑ってジャンはハンドルを右に切り、車を西に向けて走らせた。

「例の、ナイトだろ？」
ナイトって？、という表情でジャンの横顔を見つめる。
「２回も・・・助けてもらったんだろ？」
「え？」
怪訝そうな顔。ジャンはいたずらっぽく笑った。
「キミがいつも・・・話してる子だよ。なんて名前だったっけ、日本人の男の子・・・」
フランソワーズの頬にさっと赤みがさし、そのまま俯いた。
「そんなに・・・いつも・・・話してないわ・・・」
お兄ちゃんがからかうなんて、とちょっと憤慨して窓の外を見る。いつかの公園の近くだ。
駅前の混雑を避けるために、車は公園の前をゆっくりと左折した。
何となく・・・あのすべり台が目に入る。
「あっ！」
「ん？」
あれは肉感的美人の誉れ高いＡ女子高校のアキだ。
いつもトロンとした目つきで男の子を挑発しているセクシーギャル。
このあたりでは有名だった。ダイナマイトボディで迫られると、男の子はイチコロ。
１００発１００中らしい。当然、女生徒達からの評判は最悪。
だが、彼女が相当な美人であることは誰も否定できなかった。
（そういえば・・・さっき校門のところで・・・ジェットと・・・）
だが、一緒にいるのはジェットではなかった。ジェットと同じ制服ではあるけれど――
そのアキがまじめな顔をして、男の子と向き合っている。
真剣で、何かを訴えるような情熱的な目。
いつものなよなよした彼女とは、ずいぶん違うようだ。
そういえば、彼女が最近、そのへんの男の子達を相手にしなくなった、とか、身も心も溺れている本命の相手がいるらしい、という噂を耳にした。
　その相手―――の顔が見えた。
「ま、まさか！」
「どうしたの？」
大声で叫んだあと絶句している妹を、ジャンは怪訝な顔で振り返る。
「フランソワーズ？」
「あ・・・何でもないの・・・気にしないで」
そう言うのが精一杯。
（知らなかった・・・。そうだったのね・・・）
胸が痛い。何も考えられなかった。頭をガツンと殴られたようだ。
（どうして・・・勝手に涙が出るの？悲しいんじゃないのに・・・。私・・・）
窓の外を見るふりをして、こっそり涙をぬぐう。
（もう・・・あさってから、しばらく会えないのに）
これから１ヶ月も顔を合わせないのに。
（どうして・・・どうして・・・こんな気持ちに・・・なるの？）
ついさっきまであんなにきらきらと輝いていた夏の太陽が、しぼんでいく。
「こら、何めそめそしてるんだ！」
ジャンはフランソワーズの頭の上にそっと手をのせ、何度か揺さぶった。
「あ・・・ごめんなさい。何でもないの」
あわてて笑顔を作ろうとしたが、無駄な努力に終わる。
しょんぼりしているフランソワーズを、ジャンは優しい目で見つめ、柔らかい頬を指でつついた。
「さ、お姫様、どこへ参りますか？」
「・・・どこでもいいわ・・・」
俯いたまま、力なく答える。
さっきまでの元気はどこへいったのだろう。我が妹ながら、わかりやすい性格だ、とジャンは吹きだしそうになる。
「ずいぶんな奴だな。せっかくのデートなのに。じゃあ・・・ちょっと奮発して・・・あのレストランに行ってみる？」
気持ちを引き立たせようとあれこれ話しかけながら、ジャンは複雑な心境だった。
（あれが・・・例の子か・・・。なるほど・・・ね）
あの公園に立っていた背の高い少年。
はっきりと顔までは見えなかったが、何となく雰囲気のある子だ、と思った。
（まだまだ子供だと思ってたけど・・・）
ジャンは小さく溜息をつき、まだ俯いているフランソワーズの横顔をちょっと眩しそ
うに見つめた。
　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊
　　
翌日――１学期の終業式。
彼は姿を見せなかった。
（昨日のことと・・・関係があるのかしら）
フランソワーズは机に頬杖をついて溜息を漏らす。
ジェットがハインリヒに耳打ちするのが聞こえた。
「アイツ・・・昨日まんまと上手いことやりやがったんだろうな！今日・・・休むなんて・・・やってくれるよ！」
涙が出そうだった。
（みんな、知ってたんだわ！私ったら・・・バカみたい）
また思わず溜息が出た。ぼんやりと隣の席を見つめる。
机の上には――さっき配られたばかりの、夏休みの宿題。
誰かが届けないと、１ヶ月間ここに置かれたままになってしまうだろう。
プリントや問題集をきちんと重ねる。それを持ってジェットたちに近づいた。
「あの・・・ジェット、今日の午後あいてる？」
「今日、俺、懇談でさ、それがすんだら夕方の便で沖縄へまっしぐら！」
ジェットはニヤリとし、ぱちぱちっとウインクした。
「そう・・・。じゃあ忙しいわね。ハインリヒは？」
「俺も今日なんだ、懇談。そのあと、信州へ行くんだ。でも・・・何か用かい？」
あ、ううん、とフランソワーズは首を横に振った。
「いいの・・・。大したことじゃないわ。みんな・・・さっそくヴァカンスなのね」
キミは？、とジェットが目を向ける。
「私？・・・あさって、パリに戻るの。たぶん・・・夏休み中、むこうにいると思うわ。じゃあ、また９月にね」
フランソワーズはちょっと寂しげに笑った。

遠ざかっていく後姿を２人はじっと見つめる。
「あ～あ、姫は巴里の空の下か。沖縄よりパリのほうがよかったな！なあ、ハインリヒ！何ぼんやり見てるんだよっ！」
「い・・・いや、何でもない」
また、あんな沈んだ顔して、とハインリヒは溜息をつく。
寂しげで、不安そうで。特に今日は―――悲しげでさえあった。
前にもそんな顔してたな、と思い出す。確か、あの中庭のベンチに座っている時だ。
だが、あの時は・・・彼は学校に来ていた。
ある時、ハタと気づいたのだ。
彼女に元気がないな、と思ったときは・・・必ず・・・。
（アイツが・・・いない時に限って・・・？――まさか！）
そんなはずは・・・と思いながらも、日に日に確信は強まっていく。
（何で・・・あんなヤツに？）
みんなが言うほど悪い奴じゃない。いや、むしろ驚くほど真っ直ぐな奴だ。
真っ直ぐすぎて、不器用で・・・。
見ていてイライラさせられる。直情的というか、短絡的というか。
上手く自分をコントロールできないようだ。
なのに、彼は確かに自分にないものを持っている、と思う。
彼には一目おかねばならない気がする。
それがなぜなのか、ハインリヒ自身よくわからないでいたが。

――だが、それとこれとは話は別だ。
とても、彼が彼女にふさわしいとは思えない。
彼自身はともかく、彼を取り巻いている状況は、どう考えても彼女とは異質だ。
「・・・そんなことで胡麻化すな！お前は・・・」
どこからか、彼の声が聞こえてきたような気がした。
（そうさ、俺は・・・彼女に惚れてる。それは認めるよ。だがな・・・・・・。ま、とりあえず１ヶ月は休戦だ）
ハインリヒは、今そこにいないライバルに向かってぼそりと呟いた。　　


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