| Ⅰ |
| 梅雨明け間近の蒸し暑い一日が、ようやく終わる。 島村ジョーは、荒んだ目つきで階段を登っていた。 無駄な２時間だった。さっさと帰ってバイトに行くはずだったのに。あの嫌な担任に呼び出され、小言を延々と聞かされた。 結局、一言も口をきかず、とうとう相手に音を上げさせたが。 職員室から出ると、無意識にブレザーの内ポケットを探る。 （しまった！……タバコを……） ジョーは軽く舌打ちをした。 置いて帰るつもりだったカバンを取りに、３階の教室に向かう。 ４０もの机と椅子がぎゅっとつめこまれた、窮屈なだけの空間。 そこにいて、楽しいと思ったことなど一度もなかった。 勉強が嫌いなわけではない。できないわけでもない。 だが、同じ年頃のバカバカしい連中と、集団で行動することがただ苦痛だった。 （この部屋とおさらばするのも、そう遠いことじゃない） むしろ彼は、その日が早く来ることを、心のどこかで願っていたのかもしれなかった。 眩しい西日の射し込む教室。 開け放された後ろの扉から中に入ろうとして、彼は息を呑んだ。そのまま引き返そうとしたが、そうできなかった。 誰もいないはずの、その部屋にいるのが誰なのかを知って。 ―――彼女だ。 輝くような亜麻色の髪。ほっそりした肩が震えているように見えた。 窓ガラスに額を押し付けて、何かに耐えるかのように、じっと佇んでいる。 一瞬の躊躇の後、黙って中に入り、カタン、と椅子を引いた。 彼女のほうなど気にもとめない風を装って、机の中のぺしゃんこの鞄を取り出す。 だが、はっと振り返った彼女とつい目が合った。 「！？」 潤んだ蒼い瞳。なぜか怯えた表情。 ―――泣いていたのか？どうして？ ＊ 最初の謹慎が明けて登校した時、クラスメートは彼を恐れて近づこうとしなかった。 当然だ、と彼自身も思う。 入学式早々に上級生をぶちのめした不良と、「まとも」な生徒なら、関わりをもちたいと思うはずがない。それは、彼にとっても好都合だったけれど。 ―――ところが。 「あ、島村くん、おはよう！」 誰だ、こいつは？ 確か、このクラスの委員長。 教師の覚えもめでたい才色兼備の優等生で、他校の生徒にも評判の美貌の少女。 喧嘩を売ってきた上級生たちも、そういえば彼女の姿を見かけて大騒ぎしていたようだった。 だが、その彼女がなぜわざわざ自分に声をかけてくる？どんな関係があるんだ？ 委員長としての義務感からか？ 入学式の次の日から、姿を消したクラスメートを憐れんでいる？ ったく余計なお世話だ。 （お節介な奴！） 不愉快だった。前髪の隙間から、ちらりと一瞥しただけで無視した。 だが彼女は気を悪くした風でもなく、穏やかなまなざしで彼をまた見つめ、そのまま静かに自分の席へと歩いていった。 それからも、毎日のように彼女は彼に声をかけてきた。 校門のところで、風のように爽やかな足取りで彼を追い抜きながら。 次の日は生徒昇降口で。そして教室の前の廊下ですれ違いざまに―――。 その日、一番最初に彼と顔を合わせた場所で、必ず。 だが彼は、いつも長い前髪で顔を隠したまま、彼女を無視した。顔を上げようともせずに。 １週間が過ぎ、１０日たった。それでも彼女はあきらめないようだった。 「おはよう」 その日も、教室で顔を合わせた彼女は彼に微笑みかけた。 （しつこい奴だ） 短く溜息をつくと、根負けしたように、ジョーは初めて顔を上げた。 （いい加減にしろ！俺に構うな！） 睨むようにまっすぐに彼女を見返す。 その瞬間―――すべての物音が消えたように彼は思った。 透き通る象牙のような白い肌。 つややかな薄紅色の小さな唇。 吸い込まれそうなほど蒼く澄んだ瞳が、じっと彼を見つめている。 いつもと同じように、何も言わずに視線をそらした。 いや、同じじゃない。今日は何も言えなかったのだ。 けれど―――彼女の優しい微笑は一瞬凍りついたように見えた。 なぜか胸が痛む。 どうしてだ？あんな女、関係ないのに。 落ち着かない気分になった彼は、そのまま教室から出ていった。 エスケープの指定席は屋上。 寝転んでのんびりと空を眺めている。 いい天気だ。あの空の色と同じような―――蒼い瞳。 気がつくと彼女のことを考えている自分に、ジョーは憮然とした。 やがてチャイムが鳴って昼休みになると、生徒たちが運動場や中庭に散らばっていく。 彼は屋上で煙を吐きながら、それを見るとはなしに見下ろしていた。 と、彼の視界に飛び込んできたもの。 花壇の前のベンチにぽつんと座っている彼女の姿―――。 ふうっと溜息をつくと、ジョーはタバコを足でもみ消し、階段へと向かった。 「どうしたの？今日は……元気ないじゃない」 百合が心配そうにフランソワーズに声をかけた。 「え……？ううん……そんなことない……」 フランソワーズは慌てて首を振った。 今朝のことを思い出すと、泣きたい気持ちだった。 馴れ馴れしく声をかけて、きっと彼は気を悪くしたに違いない。 あの睨みつけるような冷たい視線。 ―――あんな目で見つめられるなら、ずっと無視されていたほうがよかった。 フランソワーズは溜息をついた。 彼は覚えていないのだ。あの時のこと。 （一言……お礼が言いたかったのに……） 「おい！今日はマドンナ、どうしちまったんだ？」 教室の窓から中庭の様子を眺めていたジェットが振り返った。 「さあね……」 ハインリヒは、本から顔を上げようともせずに生返事をする。 「でも憂いを帯びたあの顔も、女っぽくていいねえ」 「ったく、オマエときたら……。ちゃんと彼女がいるくせに気の多い奴だな」 「でも……あれを見たらぎゅっと抱きしめて、キスして慰めてやりたくなるぜ！」 呆れ顔でジェットを見つめたが、実際はハインリヒも同感だった。 今日の彼女はおかしい。授業中もどこかぼんやりとして、いつもの冴えがない。 中学時代は無敵の秀才だったハインリヒの前に、常に立ちはだかる強力なライバル。 頭脳・容姿・性格共に非の打ち所のない才媛。それが彼女だ。 才媛、などと言えば何にやら恐ろしげだが、実際の彼女は、可憐な乙女そのものだった。 そして素直で優しく温かい人柄。 実際のところ、ハインリヒは彼女に強く惹かれていた。 マドンナ、という言葉は彼女のためにあるようなものだ、と彼は思う。 なのに―――。 （なんであんな不安そうな顔してる？そんな君を守ってやりたいなんて……俺は何考えてんだ……） ハインリヒは、分厚い哲学書の文字をぼんやりと眺めながら、しばし物思いに耽る。 そして次の日、彼女は学校を休んだ。 ＊ 「学校を休んだのは……病気じゃなかったのね。おととい、元気なかったから心配したわ」 百合がホッとしたように言って、笑った。 「うふっ、ごめんなさい。バレエのレッスンだったのよ。有名な先生に特別に見てもらったの。昼間しか都合がつかなくて。あ、内緒にしててね」 声をひそめてそう言いながら、フランソワーズは教室を見渡した。 ―――島村くん……休んでるのね。 「あ、そうそう、島村くん、また謹慎になったのよ」 主のいない机をぼんやりと見つめていたフランソワーズの耳に、百合の声が響く。 「えっ？……またなの？」 「昨日の放課後、他の学校の生徒と派手にやらかしたらしいわ。売られた喧嘩らしいけど。それがねえ、つまんない相手なのよ。おかしいわね。彼、絶対に自分より弱そうな相手とはしないのに。まあ……人数だけは６・７人もいたそうだけど……」 「えっ？７人も相手に喧嘩したの？」 「ええ、よっぽど昨日は虫の居所が悪かったのね。こてんぱんにやっつけたらしいわよ。ホント。でも……彼、いつまで持つかしら」 「持つ……て？」 「そのうち退学になっちゃう、ってことよ。先生達も時間の問題だって言ってるみたい」 いつも教室で居心地悪そうにしている島村ジョー。 教師やクラスメートから、いつやめるのか、という目で見られていたら、来る気もしなくなるのは当然だ。 まだ、あの時のことを彼と話していないのに。それどころか、まともに言葉を交わしたこともない。 「どのくらいで出て来られるのかしら？」 「さあね……。もう２回目だもんね。１０日くらいは出て来れないんじゃないの？」 フランソワーズは思わず溜息をついた。 ＊ ―――１週間後。 朝早くに謹慎解除された島村ジョーは、まだ誰もいない教室に入っていった。 机の中にカバンを入れようとして、中のものをつかみ出す。 休んでいた間に配られた、山のようなプリント類。次々に無造作に投げ込まれて、ただのゴミのようになっている。 彼はそれを片手でぐしゃっと丸めると、屑箱めがけて放り投げた。 「おはよ……きゃああっ」 紙のボールはグットタイミングで教室に入ってきた人間に命中した。しかも顔に。 「あ……」 床に落ちた紙のボールを彼女はかがんで拾いあげた。 「これ、捨ててしまうの？」 ジョーは黙ったまま彼女の手からひったくるように取り上げると、髪のボールを屑箱に投げ込み、そのまま後ろのドアから外に出た。 （島村くん……） フランソワーズはただ当惑した顔で彼の背中を見つめていた。 ＊ 「ねえ、またですってよ！」 「今度は３年生５人を一度に相手にしたって……ホント？」 ６月に入ったばかりだというのに、彼は３度目の謹慎に突入した。 今回も、罪状は「暴力行為」―――喧嘩だ。 彼の強さが評判になればなるほど、面白く思わない上級生がちょっかいを出すから悪循環。 「こんなことしてたら……ほんとに退学になっちゃうわね」 誰もがそう思っていた。彼が『進路変更』する日もそう遠くはあるまい、と。 ジョーが１０日間の停学を終え、久しぶりに教室に入ると、何か雰囲気が以前と違っている。 「オマエん席はそこだぜ。席替えしたんだ」 さっそく声をかけてきたジェットは、一緒にいても苦痛を感じない数少ない人物の１人だ。あとは……無愛想だが余計な口出しをしない副委員長と物静かなピュンマくらいか。 ちなみにジェットは、彼に劣らず喧嘩っ早い奴だが、要領がいいから、一度も謹慎になったことはない。 「オマエ、たまにしか学校来ないくせに、超ラッキーな席だぜ！俺がかわりに座ってようかと思ったくらいだ！」 茶化すように言うジェットの真意を掴みかね、ジョーは何も言わずに席についた。 端から２列目の一番後ろ。いつものように机の中に詰め込まれたゴミを捨てようとして、彼の手がふと止まった。 「……？」 きちんと折って重ねられているプリントの束。取り出してぱらぱらとめくって見る。 丁寧な筆跡の書き込みだ。 短い溜息をつくと、彼は鞄にそれを無造作に入れた。 ＊ 梅雨の気まぐれな空は厄介だ。 朝はからりと晴れていたのに、午後になって雲行きが怪しくなった。 帰宅途中に振り出した、突然の雨。フランソワーズは、あわててカバンをかざして走り出した。 （どこか雨宿りするところ……ないかしら） 激しい降りに、髪もブラウスもびしょ濡れになっている。 ようやく公園にまでたどり着いた。その真ん中にある不思議な形をしたコンクリートの滑り台は、まるで大きなオブジェのようだ。 中はくりぬかれた大きな洞穴になっていて、複雑なトンネルと急な傾斜は、きっと冒険ごっこにはおあつらえ向きだ。 格好の雨宿り場所を見つけたフランソワーズは、慌ててそこに飛び込んだ。 下が雨で濡れていないことを確認し、ほっと息をついて床に座り込んだ。 「もう……ホントに……今日はついてないわ」 と、―――ガサっと背後で音がした。 びくっとして振り返ったフランソワーズの目に、ゆったりと寝そべった人影が映る。 「あ！」 慌てて立ち上がろうとした彼女は、その制服が見慣れたものであることに気づいた。 彼だった。 「……びっくりした！島村くんだったの……」 「何だ……またお前か……」 「またお前か……だなんて、ひどいわ！あなたの方こそ、いつも私をびっくりさせてるじゃない！」 ちょっと唇を尖らせる彼女に、ふっとジョーは表情を和らげた。 足を投げ出したまま、上半身だけ起こすと、黙って彼女の顔をめがけて何かを投げつける。 「きゃあ！……な、なにを？」 彼女は小さく悲鳴をあげた。 ところが――― 「あ……」 顔にぶつけられたはずのものは、ふわりと彼女の手に軟着陸した。 「……ありがとう。……でも、びしょぬれになっちゃうわ」 もう使わないから、と無愛想に言うと、ジョーはまたごろりと横になる。 フランソワーズはその横顔をじっと見つめていたが、やがて白いタオルで濡れた髪を拭き始めた。 激しく降り続く雨。空は真っ暗だ。もう６月だというのに冷たい風―――。 （半袖だと……寒いくらいだわ） フランソワーズの華奢な体。 抱きしめたら折れそうなくらい細い。 彼は、それを見るともなしに眺めていたが、濡れたブラウスが透けていることに気づいて、慌てて目をそらした。 「あの……島村くん……」 長い髪を、片方に束ねるようにしてぬぐいながら、彼女はこちらを振り返る。 自分の考えていたことを見透かされたような気がして、彼は急いで彼女の言葉を遮った。 「お前……ほんとにお節介だな」 照れくさいから、横を向いたまま―――。 「え？」 「プリント……わざわざ、あんなことしなくていいんだよ」 少しだけ体の向きを変える。 「わざわざだなんて……。大したことじゃないわ。隣の席なんですもの」 彼女はにっこりした。 （何で……そんな顔するんだ） 心の動揺を押し隠すかのように、わざと大きく舌打ちをし、彼は体を起こした。 「余計なことを……」 「でも……捨てないで持っててくれてるのね」 また彼を見つめて微笑む。 （ったく……なんでそんなことまで、見てんだよ） 心の中で悪態をついた。 「でも……よかった。ずっと……口聞いてくれないのかと思ってた……」 彼女は、小さな声で呟いて俯く。 ほんのり染まった横顔があでやかで、ジョーは柄にもなく、どぎまぎした。 「あの……私、ずっとあなたにお礼が言いたかったの」 面を上げて、また彼女は優しい笑みを浮かべる。 「……お礼？」 姿勢を変えずに、顔だけまっすぐにフランソワーズに向けた。 「ほら……あの時……。あなたは覚えてないかもしれないけど……」 入学式前の合格者召集。新しい制服や教科書を受け取りに行く日だった。その日も今日と同じように雨が降っていた。 ほとんどの生徒は保護者の車で来ていたが、ジョーはもちろん一人だ。濡れ鼠になって、ようやく駅にたどり着いた。 ちょうど夕方のラッシュが始まる時間で、電車はかなり混んでいた。隣の若い男が不自然にごそごそしているのが気になった。背中を睨みつけたが、その男は一向に後ろに注意を払おうとしない。 ―――と、その時。 『は……離してください！』 小さな悲鳴のような声が聞こえた。女の子だ。 （こいつ……もしかして、痴漢かよ……） その男は混雑をいいことに、女の子をすっぽりと腕の中に抱きしめるような格好をしていた。 （茶髪も……ここまで徹底すれば……大したもんだ。金色か……） セーラー服の女の子。震える長い睫毛も金色だ。 （なんだ、日本人じゃないのか……） 彼女は、自分と同じ大きな紙袋を手に提げていた。 （じゃあ……こいつ……同じ高校の……？） ジョーは思い切り男の足を踏みつけた。 『い、痛いじゃないか！』 じろりと振り返った若い男は、ジョーの凄みのある視線にたじろいだ。 『やめろ、スケベ野郎！ぶっ殺すぞ』 低い声で男の耳元で囁いた。 『な、何を……』 ちょうどその時、電車は駅に滑り込んだ。ジョーはぐいっと男の胸倉を掴んで、プラットホームに引きずり降ろした。 『な、何をする？ぼ、暴力は……』 男は後ずさりしながら慌てて逃げていく。ジョーはそのまま、男と反対方向に向かって歩き出した。 「あれ……お前だったのか」 （そういえば……） ジョーは突然、その時の鮮やかな映像をすべて思い出した。 あの髪の色。象牙のような肌。 はっきりと顔を見たわけではなかったが、相当な美人だ、ということは彼にもわかった。 「ありがとう。あの時……すぐに追いかけようとしたんだけど……扉が閉まっちゃったの」 同じ高校の袋を持っていたのだから、こうして再会するのは当然だったのだ。 「入学式で会った時に……すぐわかったわ。あなただって……」 そう言うと、彼女はまた優しい微笑を彼に向ける。 （そんな顔すんなよっ……落ち着かない……） 彼は慌てて目をそらし、彼女に背中を向けた。 フランソワーズは微笑を浮かべ、黙ったまま、また髪をタオルで拭き始めた。 もう雨は上がったようだった。 ＊ 連戦連勝の彼の武勇伝―――。 いつしか女生徒達の間で彼は注目の的になっていた。 最近では学校にもよく姿を見せる。授業中は全く普通の高校生だ。 ただし、数学の時間以外は。 「ねえ……昨日はD高校の番長をやっつけたらしいわよ。お互い、脛に傷持つ身だから表沙汰にはなってないらしいけど」 百合が、フランソワーズとメグに耳打ちをした。 「でもさあ、結構カッコいいわよね。勉強だって、ホントはすごくできるし。この間の模試、彼が３番だったって知ってる？」 メグは両手で自分の腕を抱きしめながら、黄色い声をあげた。 「ええ～！！！？ほんとお？すごい！ただの馬鹿な不良じゃないのね？……実は、私ひそかに憧れてるの。あの冷徹な目に見つめられたいなあ」 「でも彼はダメよ。女の子とは絶対しゃべらないし、顔も見ようともしないんだもの」 フランソワーズは、１時間目には空いたままだった隣の席に、淋しげな視線を送る。 「どうしたの？」 百合がフランソワーズをじっと見つめた。 「……え？あ……何でもないわ」 彼女が口元にさっと笑顔を浮かべた時、ガラッと音を立ててドアが開いた。 「あ、おはよう」 大輪の花が咲いたような笑顔で、フランソワーズが島村ジョーに声をかけた。 「ああ……」 ジョーはカバンを無造作に自分の机に放り投げ、席についた。 ちょうどその時、２時間目の始業のチャイムが鳴った。 百合とメグは顔を見合わせ、自分たちの席に戻っていった。 「ねえ、今の……聞いた？」 「ええ……。びっくりしたわね。『ああ……』だって」 メグはあたりをうかがうように、教室の後ろの隅の席を振り返る。 フランソワーズのとろけるような微笑み。 彼は片肘をついたまま、ニコリともせずに彼女の顔を見ている。 「でも……まさか？」 百合は、まだ信じられない、という表情で小さく首を振った。 「フランソワーズは……優しいから……あり得るわよ、ひょっとすると……」 メグは意味深な目つきで頷き、肩をすくめた。 「ね、体育祭の仕事、手伝ってくれない？」 「え？」 「期末考査がすんだら、準備にかからなきゃいけないの。もしよかったら……」 「……興味ない」 「そう……。でも……もし……気が向くときがあったら……お願いね」 そんな２人のやりとりを気にしているのは、メグ達だけではなかった。 「おい！何か……あそこ気になるんだよな」 ジェットは黒板に向きっきりの教師に舌を出し、ハインリヒの腕を鉛筆でつつく。 振り返った２人の目に映った光景――― 隣の席に身を乗り出して、彼のノートを覗き込むフランソワーズの姿。 「ちぇっ！アイツ、まんざらでもなさそうじゃねえか」 「まさか……。アイツ、女嫌いなんだろ？」 内心の動揺を隠し、無関心を装って答えるハインリヒだったが―――。 「ふんっ！あんな可愛い子ちゃんに微笑まれてグッとこないような奴は、男じゃねえぜ！くううう！」 ジェットは顔をしかめて悶えていたが、ハインリヒを見てにやっと笑った。 「オメエだって、一応女嫌いってことになってるが……マドンナにはメロメロなくせに！」 「お、俺は……」 「胡麻化すなって！俺様には何でもお見通しさ」 ジェットはウインクし、真っ赤になったハインリヒをからかう。ふいに教師が振り返る。 「ジェット！何をごそごそしてる？」 「ハイハイ、わかりましたよ～！」 嫌味な数学野郎。しかも、最悪なことに担任。 ジェットは要領がいいから、面と向かってたてつくようなことはしない。 だが―――通称“元帥“は島村ジョーの天敵だ。 （今日は珍しく授業に出てるが……。アイツって実はすごく不器用なんだ。あんなにあからさまに嫌ったら……） だいたいが極端なえこひいきで有名な、最低の教師なのだ。 島村ジョーという学校一の問題児をクラスに抱えて、元帥がイライラしていることは誰もが認めるところ。 「あんまり挑発すると……あとあと面倒だぜ！」 そう言ってやるのだが、ジョーは全く耳を貸そうとしない。 （ま、アイツなりの哲学ってヤツがあるんだろうが……） 妙に彼のことが気にかかる。どこか……ウマが合うのだ。性格は全く違うのに。 （しかし……だからって……マドンナを独り占めってのはよくないぜっ！） ちょっとお仕置きしてやらなきゃな、とジェットはほくそえんだ。 ＊ 「さっきまで金色だったのに……今は燃えるような茜色。綺麗だわ……」 西の空を見上げて、フランソワーズは感嘆の声をあげた。 「もう梅雨、あけたのかしらね。来週から夏休みだし……」 にっこりして傍らのジョーを見つめる。 （お前……何を隠してる？） 明るい彼女の笑顔が痛々しい。 だが、ジョーは、そんな風に考えている自分に愕然とした。 隠すも何も……。 （何で……こいつが……俺に……何でも話すみたいなこと……期待してるんだ？） 憮然として、ジョーは足を早めた。 「あ……待って！」 おいてきぼりにされそうになったフランソワーズは、慌てて彼の後を追いかけた。 なぜだ？ ジョーは何度も心の中で反芻した。 なぜ彼女は誰もいない教室で、１人で泣いていた？ 「……島村くん……」 彼女は、教室に入ってきた彼をびっくりした顔で見つめた。 そして顔を伏せた。泣いていたことを知られたくなかったようだった。 さっと指で睫毛の涙をぬぐうと、視線を窓の外に移す。 「あ……見て！とっても綺麗ね……。空が……」 何となく彼女をそのままにして立ち去れない気がした。 窓辺に近づき、並んで外を眺める。 空は西に傾いた太陽が支配する黄金の王国。眩しいほど美しくて、ジョーは思わず目を細めた。 視線をそっと隣に移す。 彼女の瞳はまだ潤んでいる。でもさっき彼が入り口から見た時よりも、ずっと表情は穏やかになっていた。 「帰るぞ……」 「え？」 怪訝な顔をするフランソワーズに背を向け、出口へ向かう。 「ぐずぐずしてると……またラッシュに巻き込まれる」 ドアのところでチラッと振り返り、ジョーはボソっと言って外へ出た。 時計の針は６時を指している。６時半頃がラッシュアワーのピークだ。 「あ……ほんとだわ！早く帰らなきゃ……間に合わないわ！」 彼女は机の中の教科書を慌ててカバンに入れ、彼の後を追って階段を駆け降りた。 住宅街を抜け、２人は駅へと足を向けた。 「あ……とってもいい匂い。ここのおうちは……今晩カレーなのね」 目をつぶり、鼻をくんくんさせたフランソワーズに、思わずジョーは吹き出しそうになる。 「お前……見かけによらず、食い意地張ってるんだな」 生徒たちの憧れのマドンナで、品行方正な模範生。近寄りがたい高嶺の花。 ジョーにとっては、最も苦手な存在のはずだった。 「だって……とってもおなかすいてるんだもん」 フランソワーズはちょっと恥ずかしそうに笑う。 「あっ！」 急に彼女が声を上げた。 「え？」 白い頬がさっと染まる。 「聞こえた？」 「何が？」 彼女を振り返った彼の耳元で小さい声で囁く。 「お・な・か・の・お・と」 「んなもん、聞こえるかよ」 よかった、とくすっと笑った。 「今日は、まだまだ晩御飯お預けなの。……辛いな」 他の連中は、彼女のこんな一面を知っているのだろうか。 今、隣にいる彼女は、高嶺の花でも何でもなかった。天真爛漫な普通の女の子。 でも……やっぱり普通じゃない。飛び切り可愛い。 （お前、何で俺なんかの前で、そんなに無邪気にしてられるんだ？） ジョーは訝しく思いながら彼女の輝くような横顔を見つめた。 あの滑り台のある公園を過ぎ、通りを右に曲がると、そこが駅だった。 閑静な住宅街の真ん中にある駅前には、洒落たカフェやブティックがいくつも並んでいる。 豪華なガラス張りのショーウインドをふと眺めたジョーは、自分の目を疑った。 そこに映っているのは、青春真っ只中の高校生カップル。 いかにも、一癖ありそうな……襟元をルーズにゆるめた自分の横に、はっとするほど美しい少女。 ほっそりしたその姿は、清楚で、可憐で……それでいて抜群のスタイルからは、なんともいえない色香が漂っている。 （何てだらしない顔してるんだ、俺は……） ふうっと溜息をついたジョーを、心配そうに彼女が見つめた。 （……そんな目で見るなよっ！） 心の動揺を振り切るように、彼は歩みを速めて駅の構内へ入っていった。 ＊ プラットホームは異常な混み様だった。 アナウンスによれば、ポイント故障で、ついさっきまで不通だったらしい。ようやく復旧したというが、まだ電車は全然姿を見せない。 背の高い彼は、周りから頭ひとつ上に出ているから、まだ周囲の様子が見渡せるが、ぼんやりしていると押しつぶされそうなくらいの人混みだった。 「ちぇっ！」 舌打ちをして、後ろを振り返る。すぐ後ろにいたはずの彼女がいない。 階段を降りたばかりのところに、亜麻色の髪がちらっと見えた。群衆の中に埋もれてしまいそうだ。 「ったく……あんなところで……ぐずぐずして……」 声に出している自分に驚きながら、また人混みをかき分け、階段のほうへ戻った。 「何やってんだ？……急いでるんだろ？」 「あ……し、島村くん！」 彼女の右手首を掴むと、ホームの真ん中へ引っ張っていく。ようやく電車が到着した。 だが、すでにぎっしりと人が詰まっている。とても乗れそうにない。 それでも、何人かが降りて出来た隙間に、ジョーは強引に体を滑り込ませた。 二人の背中を擦るようにしてドアが閉まる。しかし車内の混雑は尋常ではなかった。 電車の振動で、乗客は将棋倒しのようになりながら、あっちへ寄ったりこっちへ寄ったりしている。 その度に、あちこちから上がる悲鳴。最後に乗った二人は、こちら側に電車が傾くたびに、ものすごい圧力でドアに押し付けられる。 ジョーは、こちらを向いた彼女の肩ごしに、ドアに両手をついた。 十分な空間は取れないが、せめて、後ろから押されても自分のところで押し返そうと―――。 「大丈夫か？」 彼女の体は、すっぽりと自分の腕の中に包まれているのと同じだ。 長い睫毛。薄紅色の唇。そして……美しい蒼い瞳。 おずおずと彼の目を見上げたフランソワーズは、こくんと頷いた。 電車がカーブにさしかかって傾き、二人の身体が密着する。 柔らかな彼女のふくらみが自分の体に押し当てられる。 亜麻色の髪が彼の手にハラリとかかり、鼻腔を甘い香りが満たした。 腕の中で、かすかに震えているフランソワーズ。 ふうっとジョーは溜息をついた。 眩暈がしそうだった。 「どわああああ！！」「きゃあああ―――！！」「うわっ！」 またカーブで電車は大きく揺れ、あちこちで声があがった。 彼女はぐっと彼の体に押し付けられて、思わず顔を少しそむけた。 右頬が彼の胸に押し当てられ、かえってぴったり彼に寄り添う格好になる。 なぜか、タバコの匂いがするシャツ―――。 （こうしてると……嫌なこと、全部忘れられそう。何も怖くない……） 逞しい腕が自分を守ってくれている。 電車が揺れるたびに、もっと押されてもいいはずなのに……。 ―――ドックン……ドックン。 彼の胸の鼓動が、そのまま彼女の耳に飛び込んでくる。 フランソワーズは目を閉じて、じっとその音を聞いていた。 |