| vii．retrospection 「君を見つけたら―――すぐに思い出す。そうしたら、まずこうして君を抱きしめて、キスするから」 記憶を封印する直前、ジョーは毎回そう言った。 「それが記憶を取り戻したというサインだ。わかりやすいだろう？」 ジョーは微笑って、フランソワーズを優しく抱きしめた。 「心配いらないよ。今度も必ず思い出すから。記憶が消えても、絶対に君のことを忘れたりしない」 フランソワーズは涙をこらえ、懸命に微笑みを浮かべて頷いた。 固く抱き合い、指を絡め、唇を重ねたまま、フランソワーズはジョーの脳の記憶領域のメインブロックへのアクセスを遮断した。 そして新たな架空の生活の設定データを、一気に送り込む。 その後は、ダイブギアを通して「日常生活」を続けるためのプログラムとデータを、脳波通信として送り続けた。 プログラムは、３年が過ぎる頃、自動的に終了するよう設定してあった。 時が来ると、ジョーが目にしていたはずの虚構の生活が靄に包まれていく。 現と幻の狭間で呆然とするジョーの前に、フランソワーズが姿を現し、封印していた本来のジョーの記憶を元に戻す。 そして架空の記憶の痕跡を、完全に封印する。 その作業を、彼女は何度も繰り返してきた。 初めてジョーの記憶を元に戻す時期が近づいた時、タイミング悪く、イワンは夜の時間に入ってしまった。 本当に自分ひとりだけの力で、彼の記憶を取り戻せるだろうか。 今までのことを――自分とのことはともかく、００９としての記憶を、ジョーはちゃんと取り戻すことができるだろうか。 もし、うまくいかなかったら……。 雑踏の中を流されるように歩いて来るジョーを、フランソワーズは通りのずっと先から見つめていた。 まだ空には太陽が茜色の名残りをとどめていたが、次々と点灯していく街灯の黄金の光が、石畳を美しく照らし始めた。 やっと……逢えた。 嬉しくてたまらないはずなのに、今は只々不安で、身体の震えが止まらない。 本当は、今すぐにあの胸に飛び込みたいのに。 高校生らしき女の子たちが幾人も、すれ違う学生服姿の彼の横顔を振り返っていた。 けれどジョーは周囲の反応には全く関心を示さず、俯き加減のまま歩みを進めていた。 今までずっと、あんな顔をして……ひとりで過ごしてきたのね。 あの時と同じように。 モニターで見ているせいだと思っていた。 けれど本当のジョーは、画面よりももっと生気のない無表情な顔で近づいてくる。 その姿が涙で滲んだ。 「ジョー……」 フランソワーズの呟きが聞こえたかのように、ジョーがハッと顔を上げた。 まだずいぶん距離があるのに、虚ろに宙を彷徨っていた視線が確かに彼女を捉えた。 だがフランソワーズは咄嗟に目を伏せ、角を曲がって小さな裏路地に駆け込んだ。 気持ちを落ち着かせようと、祈るように胸に両手を重ね、深く息を吸い込む。 湿った土の匂いとともに、どこからか微かに春の花の香りがした。 今、急に記憶を戻したりして、本当に大丈夫なのだろうか。 自分から声をかけたりしたら、また混乱させてしまうのではないか。 あの時のように。 あの時―――姿を見せるつもりは勿論なかった。 遠くから、ほんの一瞬でいいから、画面越しではない彼の姿を、その表情を確かめたかった。 離れ離れの生活が始まってから、まだ１年もたっていない。あと少なくとも２年。その後も何年、何十年続くかわからない。 このくらいで弱音を吐いていては、ジョーとの約束を守ることはできない。 でもモニターには、彼の暗く不安げな表情ばかり映っている。 ここ何日か、ジョーの心は極端に不安定な数値を示していた。仮想設定に対する反応の鈍さも、想定をかなり下回っている。 通信傍受室に籠りきりのフランソワーズを見るに見かねたのか、イワンが博士には内緒で助け舟を出した。 『そんなに心配なら、一度行ってみるかい？』 イワンは、まだ本当には現実を受け止めきれていなかった彼女の心を、少しでも早く納得させようと考えていたのだろう。 記憶を消されているジョーの前に、違う時間を生きなければならないフランソワーズが姿を見せれば、どんなことが起こるか。 それを目の当たりにすれば、きっと諦めがつくだろう、と。 来なければよかった……。 来てはいけなかった。 そう後悔しても遅い。 声をかけたわけでもない。ただ遠くから姿を見ただけなのに。 ジョーは、明らかに何かを感じ取っていた。 慌てて人の波に紛れ込んだ。 一刻も早く、イワンとの約束の場所に戻らなければ。焦るフランソワーズの目の前に、突然ジョーが姿を現した。 『待って！僕は………君のことを……本当はよく知っているよね？』 躊躇いがちに声をかけ、さらに近づいてくるジョーを、フランソワーズは息を呑んで見つめた。 思いつめた表情。縋るような眼差しに、ただ言葉を失う。 フランソワーズだとわかったわけではない。でも……。 『君は……僕のことを………』 ジョーの伸ばした手が、フランソワーズの指に触れた。 『あ……』 その手の温もりを感じるよりも早くフランソワーズは反射的に一歩下がった。ジョーはハッとしたように視線を和らげると、ばつの悪い表情を浮かべて言った。 『……ごめん。急に呼び止めて。びっくりさせるつもりはなかったんだ』 フランソワーズを見つめる瞳の優しさは、全く以前と変わらない。 ずっと願っていた。こうして直にその目で見つめてほしい、と。 だけど……。 もうこれ以上、視線を受け止め続けることが苦しい。 顔を背けるように俯き、身体を震わせているフランソワーズを見て、ジョーは肩を落とし、雪雲が垂れこめる灰色の空を見上げた。 『なぜなんだろう。……大切なことなのに……。自分でも変だと思うんだ。大事なことが思い出せない』 （お願い、イワン！早く……戻して！） これ以上ここにいたら、もっとジョーの記憶を混乱させることをしてしまいそうだった。 （イワン、お願いだから、早く！！） 小さく溜息をつき、ジョーは哀しげな視線を彼女に戻した。 何か……言わなければ。このまま姿を消したら、彼をひどく傷つけてしまう。 『Je ne comprends pas japonais』 やっとの思いで絞り出した言葉。 『……え？』 ジョーの瞳に、ほんの僅かだけ生気が戻る。 『Je ne comprends pas japonais』 『日本語……わからないの？』 俯いたまま微かに頷くと、フランソワーズは顔を覆って駆け出した。 『記憶は消せるけど、感覚はそうはいかない。気配とか、感触とか、第六感とか……。そういうのは数字で割り切れるものじゃないからね。記憶だって本当は全部封じ込められているわけじゃない。強い記憶は、その本体が隠されても、翳や残照のような形で心に残っている』 揺り籠に乗ったままダイブギアに近づくと、項垂れているフランソワーズに、イワンは慰めるように声をかけた。 『君たちが自覚している以上に、君たちの心は呼び合って共鳴し合っている。残念だけど、君がずっとそばにいたら、いくら消してもジョーはすぐに元の記憶を取り戻してしまうだろう。でも、だからこそ―――君はジョーの記憶のカギになれるんだ。フランソワーズ、辛いと思うけど……』 『ええ、わかってるわ。……ありがとう、イワン。でも……』 『ジョーは大丈夫だ。あの後は少し混乱していたけど、今はちゃんと受け入れられている。君が自分を責めることはないよ』 どうすれば、ジョーの心に負担をかけずに記憶を戻せるか。 あの時以来、ずっとそればかりを考えていた。 そして――― 「あ……？」 気づいた時には、すぐ目の前にジョーの姿があった。 あの時と同じ。まるで加速装置を使ったように、彼は突然現れた。 記憶はまだ戻っていない。だから能力を使えるはずがない。 いったいどうやって？ ここまで走ってきたの？ でも、彼は息ひとつ乱していない。 茶の瞳が真っ直ぐにフランソワーズを見つめている。 「僕は………君のことを……本当はよく知っているよね？」 あの時と同じ言葉。 「君は……僕のことを………？」 大きく見開かれた瞳が少し不安げに揺れる。フランソワーズは迷いを振り切るように小さく息をつき、そして柔らかな微笑を返した。 「僕が誰なのか、君にはわかるの？」 ジョーの表情は、ゆっくりと薄日が差してくるように微かに明るくなった。 「ええ、わかるわ」 優しく頷くと、フランソワーズはジョーの左手をそっと取り、両手で包み込んだ。 「ジョー……」 「君は……」 まだ不思議そうな顔でジョーはフランソワーズを見つめた。 ２人の手は、どちらも凍えたように冷たい。 けれど掌と指を通して次第に伝わってくる、確かな温もり……。 思い出して、ジョー。 あなたはゼロゼロナインよ。 本当のあなたの記憶を取り戻して。 繋いだ手とまなざしに想いを込める。 しばらくして、優しく、そして力強くその手が握り返された。 「ジョー？」 フランソワーズは右手を伸ばし、ジョーの前髪をすくいあげると、露わになった瞳を覗き込んだ。 ２人を包むように広がる空は、蒼味がかった闇の衣を纏い始めている。 街灯のない狭い路地は、人の顔を見分けることができないほど暗くなっていた。 けれどフランソワーズの目には、ジョーの瞳の輝きが増すのがはっきりと見てとれた。 「フランソワーズ……」 「記憶……戻ったのね」 瞳を潤ませるフランソワーズを見つめ、ジョーは優しく頷いた。 ３年ぶりにジョーが見せる、柔らかな微笑。 「ジョー……」 温もりを確かめるように、フランソワーズの手がジョーの頬をゆっくりと撫でた。 細い腰にそっと腕を回すと、ジョーはまだ微かに震えている身体を胸に抱き寄せた。 |
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