| iv．refrainment そこまで考えて、ジョーは我に返った。 鏡の中からじっとこちらを見つめている自分は、右手を頬にあてたままだった。 まだ１センチほどしか水の溜まっていない洗面ボウルの底に、蛇口から伝い落ちる水滴が、照明を反射して蒼い漣のような翳を落としていた。 高校生活そのものが虚構だったのだから、同級生のトモエが存在するはずはない。 そう考えるのが自然なのに、なぜか今のジョーには、その事実を簡単に受け入れてしまうことができなかった。 こんなにも鮮明に覚えているのに。 あの明るい笑顔も、展望台でこの頬に触れた温もりも、自分が頭の中に願望として生み出したものだったのか。 彼女のことを―――ずっとずっと前から知っていた気がするのに。 それとも……彼女の存在すら、実体のない虚構の生活を取り繕うため、誰かの思惑によって作られたものなのか？ だとしたら、自分はもう何も信じることができないような気がした。 彼女の存在を否定することは、自分の根幹に関わるもっと大切な何か―――それが何であるのかは、記憶を取り戻しつつある今の彼にもわからなかったが―――を否定してしまうような気がして、ジョーは鏡の中の自分に向かって何度も首を横に振った。 今の僕は、どうやって僕が僕自身であることを確かめればいいんだろう……。 深い溜息をいつものように静かに呑みこんだ時、背後で鋼鉄製の扉が閉まる重い音がした。 そこに人の気配を感じて反射的に振り返ったジョーの眼に、前に進むことを躊躇うように面を伏せて立ちつくすフランソワーズの姿が映った。 ジョーの視線に気づいた彼女は、深い愁いの色を帯びた瞳で彼をじっと見つめ返した。 なぜ、そんな哀しい顔をして僕を見るの？ 声をかけようとした。だが、現実には何も言葉にできないまま、ジョーは吸い込まれるようにフランソワーズの美しい瞳を見つめていた。 ―――まだ、思い出せていないのね？ 潤んだ瞳は確かにそう語りかけ、切なげに揺れた。 薄紅色に輝く艶やかな唇が微かに開き、そのまま小さく震えた。 一瞬ののち、当惑した表情を浮かべたまま黙っているジョーからゆっくりと視線を床に落とすと、フランソワーズは通路を曲がって仮眠室の中に姿を消した。 ジョーは、静かに閉じられた扉を、しばらく呆然と見つめていた。 ―――思い出せていない？ そうだ、僕はとても大切なことを思い出せていない、とジョーは正面の鏡に向き直り、そこに佇む自分の姿を見つめた。 それが何なのか、今の僕にはわからない……。 でも、まずは今日の出来事を頭の中で順番に整理しなくては。少しずつ記憶の氾濫を収束させていくしかない。 重く湿った前髪をかきあげようとして、その右手が黒く汚れていることに再び気づく。 ボウルに溜めていた水に右手を浸し、左手の指で軽くこすると、樹脂が付着したような汚れは簡単に落ちた。 レバーを戻して栓を抜き、蛇口を閉める。渦を巻いて流れていく水を見つめながら、ジョーは、雨の降る森タワーの屋上で無意識のうちに加速装置を使った時のことを思い出した。 加速装置……。 サイボーグ００９としての僕の能力。この能力を封印するため、僕の記憶も封印された。 ―――国際社会の平和及び安全に対する明白な脅威となる通常兵器を、「安全な状態」で凍結させるために必要な措置として。 思い出した。 あの時のことを。 短い英文がタイピングされた白いレター。 ひとりの人間の人生―――ある意味では世界の運命を左右する、重大な内容を通告する文書としては、あまりに薄く簡素な一枚の紙切れだった。 あれからいったい何年たったのだろう？ あの日から、サイボーグ００９だったジョーの人生は、また大きく変わってしまった。 皮肉なことに、加速装置を持っているジョーの時間だけが、あの時以来止まったままになった。 でも――― ジョーは鏡の中の茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。 これは自分も進んで受け入れたことだった。 いつかこうなることを、自分自身が心のどこかで待ち望んでいたのだ。 だから誰かを責めたり、何かのせいにしたりすることじゃない。 だけど……。 突然、胸が締めつけられるように苦しくなった。 心が急にざわめき始める。 ―――だけど？ 言葉はそれ以上続かなかった。 簡単には呑み下せない大きな塊が、喉を塞ぎ、何かが強く心を揺さぶった。 それはこの３年間一度もジョーが感じたことのない感情だった。 なぜなら―――それは、ジョー自身の中だけで完結する想いではなかったからだ。 自分の決断によって、どれほど辛い思いをさせてしまったのだろう。 こんなにも長い時間にわたって。 ―――辛い思いをさせる？ 誰に―――？ ジョーが混濁する記憶を懸命に手繰り寄せようとしたその時、背後で静かにドアが開き、ハイヒールの音がゆっくりと近づいた。 |
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