RE009

iii．refuge

　その”声”が聞こえ始めたのと同じ頃、別の変化がジョーの中に起こり始めた。

　それまでは姿かたちもどこか曖昧で、離れたところからほんのりと心を照してくれる小さな灯のような存在だったトモエ。
　彼女のイメージが、明確な輪郭を伴う鮮やかな記憶として彼の心に浮かぶようになったのだ。
　意識的に誰とも話そうとせず、誰にも心を開かなかったジョーの前に、トモエは当たり前のように姿を現した。
　警戒する彼の心のガードをいとも簡単にすり抜け、ふと気づいた時、彼女はジョーの隣で微笑んでいた。

　だが、考えてみると不思議なことばかりだ。

　一日も早く、”彼の声”に従って正義を為さなければならないと思っていたのに。
　人類をやり直す計画を一刻も早く実行すべきだと強く心に決めていたのに。

　彼女の瞳が放つ柔らかな光を見ていると、ジョーの心はなぜか揺らいだ。

　これでいいのだろうか？
　世界を変えるということは、本当にすべてを破壊することなのか？
　何か、もっと別のやり方で、”彼の声”に応えられるのではないか？
　
　そんな迷いを振り切って、いよいよジョーが計画を実行しようとすると―――予定では、既に起こってしまった幾つかの自爆テロ事件よりもずっと先に、ジョーの計画は実行されているはずだった―――必ず、トモエがジョーの前に姿を現し、彼を動揺させた。

　今夜も、強い決意を胸に爆弾の入ったバッグを持ち、部屋を出てエレベーターに乗ったはずだった。
　上海に後れを取ってしまったことに、微かな焦りと罪の意識を感じつつ、ビルがドミノのように折り重なって倒れていく映像に、自分はひとりではなかったのだという奇妙な連帯感のようなものを見出していた。
　これでようやく自分も”彼の声”に従って正義を為すことができる。
　テレビの大画面に満ちていた人々の絶望的な悲しみの表情は、自分の背中を、再生のための破壊へとそっと後押ししてくれるものであるようにジョーには思えた。

　ところが１階のエレベーターホールに着いた時、突然ジョーは、広場でトモエと待ち合わせをしていたことを思い出した。
『めずらしいね、島村くんから誘ってくれるなんて。でも……あそこは、男子ひとりで行くようなところじゃないものね。定番のデートスポットだし』
　展望フロアから見る夜景ってすごく綺麗なんでしょ？と、彼女は嬉しさを抑えきれないように言った。

　あの会話は電話でだったのか、それとも……。
　まだ鮮明なはずの今夜の記憶なのに、突き詰めようとすると急に曖昧になる。

『ねえ、６時とか７時とかちょうどになったら、塔がキラキラするの見られるのかな？』
『東京タワーはそんな風に点滅しないよ。残念ながらエッフェル塔とは違うんだ……』
　そう言ってしまってから、ジョーはたまらなく不安になった。
　なぜ、繊細な鉄骨のレースの裾を優美に広げ、キラキラと眩く点滅しているあの塔のイメージを、咄嗟に浮かべてしまったのだろう。
　行ったことなどないはずなのに。
　
　最近、こんなことが頻繁に起こっていた。
　やっぱり自分の頭はおかしくなっている。
　でも、だからどうだというのだ？
　ジョーの頭がおかしくなったところで、この世界の何かが変わるわけでもないのに。

　―――どうせこの世界はもうすぐ終わる。
　そして自分は、やっとこの閉塞した場所から抜け出せるのだ。

　しかし今日はダメだ、とジョーは思い直した。
　トモエを巻き添えにすることはできない。それに上海の爆破事件直後だから、ビルのセキュリティチェックも厳しくなっているだろう。
　慎重を期すべきだ。そう考えてジョーは計画を変更し、マンションのロッカーで爆弾入りのバッグをダミーとすり替えた。

　ところが、二人が展望ホールに上った直後、事態は急変した。
　アメリカ軍のミサイルが、六本木ヒルズを攻撃したのである。

　　なぜ、アメリカ軍が？
　　そして……トモエ。
　　なぜ彼女は何も言わずに姿を消したのだろうか？

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