ぷつん、と賑やかな笑い声が突然止んだ。
テレビのリモコンをテーブルの上に放り投げ、００２はソファにどさりと身を横たえた。
向かい側のロッキングチェアで本を読んでいた００４が、静かに顔を上げる。
「あ〜あ、戻ってくるんじゃなかったぜ。退屈で死にそうだ！」
フッと００４は薄く笑い、大きなガラス窓の外に目をやった。
穏やかな陽ざしをあびて、青い海がキラキラと輝いている。
季節はめぐり、また春が近づいてきた。
風はまだ冷たい。けれど、日に日に光は明るく優しくなっていく。
「いい天気じゃないか。こんな日に、お前は何をそんなにイライラしてるんだ？」
意外なほどのんびりした００４の声。
００２は天井を睨みつけたまま、ますます不機嫌そうに言った。
「イライラ？別にイラついてるわけじゃないぜ。ただ、退屈なだけさ。こんな風に、まったりと毎日を過ごすのは、俺の性にあってねえんだ」
ゆっくりと本を閉じ、サイドテーブルに置く。かわりにカップを取り上げ、冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、００４は唇の端に小さな微笑を浮かべ、あらためて００２を見つめた。
「お前が、何でイライラしてるか、当ててやろうか？」
「イライラなんてしてないって言ってるだろ！」
「してるさ」
００４はおもむろに背後を振り返った。
００２は姿勢を変えず、そんな００４にちらりと視線だけを送る。
「あのせいだろ？」
「あのせい？」
今度はしっかりと顔をこちらに向けた００２に、００４は顎をしゃくってみせた。
「あれ、だよ」

カウンターの向こうから、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「これでいいかな？」
鍋から少しスープをすくって小皿に取り、００９は００３に渡した。
味見する彼女の真剣な表情。
―――と、次の瞬間、花のような笑みが零れた。
「すごくおいしい！これならきっと、００６にも合格点がもらえるわ」
立ち込める湯気のせいだろうか？
キッチンのその一角だけが、柔らかな光に包まれているように見えるのは。

００４の視線を追った００２は、つまらなさそうに肩をすくめた。
「ヘン・・・オママゴトか？ま、いいじゃねえか。昼は００６の店が忙しいし、他の誰かが飯を作らなきゃいけないんだからよ」
「まあ、そうだがな。でも・・・」
００４は意味ありげに言葉を切った。
しばしの沈黙。
我慢しきれなくなった赤毛の頭がピクリと反応する。
「でも？・・・何が言いたい？」
むっくりと体を起こすと、００２はじっと００４を睨みつけた。
「そうムキになるなよ。ま、違うんなら、それはそれでいいが・・・」
茶化すように００４は肩をすくめた。灰色の目が愉快げに踊っている。
「むかつく言い方するな、アンタ。その言い方じゃあ、まるで俺が・・・あの女に・・・」
しっ、と００４は唇に指を当てた。
「大きな声出すと、聞こえるぜ。小さくても、彼女には筒抜けかも知れんが。でも・・・違うのか？俺はてっきり・・・」
「まさかっ！！」
００２は大声をあげ、あわてて首をすくめ声をひそめた。
「見た目はともかく、あんな気の強い女、俺はごめんだぜ」

さっきやり込められたばかりだったのだ。
自分としては褒め言葉のつもりだったのに、彼女はケンもホロロに切り捨てた。
『どういうこと？なぜあなたが知ってるの？まさか・・・００７が喋ったのね？！』
美しい眉がつり上がる。
『いいじゃねえか、もう１回くらい。減るもんじゃないしさ。みんな似合ってたって言ってたぜ。俺だけじゃない。００４だって見たがってたんだから！』
『００４までそんなことを？！！何を考えてるの？！！いやよっ！！絶対に嫌っ！！私は着せ替え人形じゃないわっ！！』
ぴしゃっと目の前で閉められたドア。
『・・・たく、可愛げのない女だぜ！』
取りつくしまもない彼女の剣幕に、思わず００７と顔を見合わせた。

今、その彼女は、柔らかな微笑を浮かべて、かたわらの００９を見つめている。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳が優しく揺れて。
綺麗だった。
実際、その気の強さだって、彼女の魅力のひとつだと思う。
野郎ばかりの中で、こうやって毅然としていられるなんて大したものだ。
けれど・・・
「おいっ！！ちょっと待て！！お前、００３にそんなことを言ったのか？」
００４の憤慨した声に、００２はハッと我に返った。
「俺はチャイナ服姿が見たいなんて、一言も言ってないぜ！勝手に共犯にするなよっ！」
日ごろ冷静な００４が、それこそムキになっている。
「見られなくて残念だったって、ちゃんと顔に書いてあったぜ！しらばっくれなくてもいいんだよ」
形勢逆転、と００２はにやりと笑った。
「・・・たく、余計なことを！」
憮然とする００４をリビングに残し、００２はキッチン脇の通路から廊下に出ようとした。
自然と耳に入ってくる会話。
「ジョー、それ、取ってくれる？」
「これ？・・・あ！鍋が噴いてるよ」
「ほんとだわ！あ、熱っ！！」
「フランソワーズ！大丈夫？やけど・・・しなかった？」
「ええ、大丈夫よ」
何気ない言葉が、ちくりと胸を刺す。
ジョー。
そして。
フランソワーズ、か。
ちぇっ、と舌打ちをすると、００２は階段をゆっくり上り始めた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


窓から吹き込む柔らかな風に、カーテンがゆらゆらと揺れている。
ベッドに横たわり、天井の木目をじっと見つめた。
さっきの００４の言葉。
（イライラしてる、だと？この俺が？）
しかも、あのせい、で？
まさか、と声に出し、００２は鼻で笑った。
(何で俺が、そんなことでイライラしなきゃいけない？）
それは００４の考えすぎだ。ということは―――
（なんだよ、自分のことを棚に上げやがって！彼女に関心があるのは、００４の方じゃないのか？）
でも、確かに気にはなっていた。
戻ってきてすぐに、何かが違うと感じた。
ずっと一緒にいたのなら、わからなかったかもしれない。しばらく離れていたからこそ見えてくる、かすかな変化の積み重ね。
記憶をたどっていけば、思い当たるふしはたくさんあった。
その時々は、大して気にも留めなかったことばかりなのだけれど。
(俺が、はっきりと「それ」を感じたのは―――あの時、だ）
あの夜。
いったい何があった？
聖夜のパリで。

００３と連絡がつかない、と００９が知らせてきてから、かなりの時間が過ぎていた。
日付はすでに変わり、皆が本気で心配し始めた頃、ようやく通信が入り、しばらくしてポーパスが戻ってきた。
「たく、何やってたんだよ、アイツらは！」
ホッとして、つい声を荒げた。
（だから、彼女を一人で行かせるなんて危険だって言ったんだ)
パリに行きたい、と彼女が言い出した時、博士をはじめ仲間達は躊躇した。
どこからＢＧが襲撃してくるかわからないのだ。単独行動にはあまり賛成できない、というのがその場の雰囲気だった。
だが。
彼女なら大丈夫。それに送り迎えは僕がするから、と００９はひとり００３の肩を持った。
結局、００９に押し切られる格好で、皆は心配しつつも、彼女のパリ行きを認めた。
１日だけの里帰り。
そして―――心配は杞憂に終わらなかった。
何かが起こった。では、いったい何があった？
事情を聴こうと皆が待ち構えているのに、２人はなかなか姿を見せない。
そして数分後。００９がひとりでコックピットに現れた。
「遅いじゃねえか！」
「・・・すまない。遅くなって」
「００３は？」
「疲れてたようだから・・・寝かせてきた」
「寝かせてきた、だと？」
変なことしなかっただろうな、という言葉が喉まで出かかった時、ギルモア博士が心配そうに尋ねた。
「具合が悪いのか？」
「いえ、大丈夫だと思います。ただ、かなり消耗しているみたいで・・・」
ポーパスに乗り込んだ途端、ホッとしたように眠ってしまった。
最初は気を失ったのかと思って焦ったけど、と００９は瞳に柔らかな光を浮かべて言った。
（時々、コイツはこんな目をする）
００２は、じっと００９の茶色の瞳を見つめた。
何なのだろう、あの光。
アイツの目に宿る、あの優しい光は。
（俺には、逆立ちしたって、あんな目は出来ない）
あの光は、いつも―――
（・・・なるほどね。そういうことか・・・）
なぜか溜息が出そうになる。それを抑えようと、００２はおどけた声を出した。
「ったく暢気なやつだな。みんながこれだけ心配してたっていうのに、ぐっすりおねんねとは・・・図太いというか、何というか」
ちら、と００４が投げかけた刺すような視線に、思わず口をつぐむ。
「よほど・・・気を張り詰めてたネ・・・。可哀想に・・・」
００６がしんみりと言った。
コックピットの空気が沈む。
―――気を張り詰めていた？
彼女が？
「久しぶりの故郷だ。無理もないさ」
００４の言葉が、００２の胸に重くのしかかる。
久しぶり？
そんな生易しいもんじゃない。数十年ぶりだ。
街も、人も変わった。
なのに自分達の姿は、あの時のまま。
時の流れから取り残されて、こうしてここにいる。
いや、違う。あの時のままなら、まだいい。
もう、元の自分ではない。まともな人間でさえない。
だから。
そこへ行っても、辛いだけだとわかっていたのに。
そこにはもう自分の居場所がない。
帰る場所はもう何処にもない、と思い知らされるだけなのに。
わかっていながら、彼女はそのことを確かめるために一人でパリへ行った。
そして、そんな彼女を支えようとしたのは、アイツだった。
(俺でも・・・００４でもなく）
ただのセンチメンタルジャーニーにはなりえない。
自分や００４には、そのことが痛いほどわかっているのに。
なぜだ？
（なぜ、お前にわかる？）
いつもは優柔不断な、こんな甘ちゃん野郎に。
００２はじっと００９を見つめた。
俯き加減の横顔。穏やかな茶色の目。
ふと、さっきの瞳の光を思い出す。
(フッ・・・なぜもへちまもないってわけか）
あの目で、彼はいつも彼女を見ている。だから・・・ちゃんと・・・
思わずため息が漏れた。
それにしても。
(いったい・・・何があったっていうんだ？）
痺れを切らして尋ねようとした時、みなの気持ちを代弁するようにギルモア博士が口を開いた。
「いったい何があったんじゃ？」
「ええ。・・・それが・・・」
ゆっくりと言葉を選びながら、００９は話し始めた。

約束の時間になっても、彼女は姿を現さなかった。
何の連絡もないままなんておかしい。嫌な予感がした。
満月のイブ。妖しく輝く大きな月。その光を見ていると、なぜか焦りが増した。
パリ中を探し回る。
一見、街には何の異常もなかった。
しかし、彼女の居場所はわからない。
そんな時。突然、視界に飛び込んできた不審な複葉機。
今ではもう、博物館でしかお目にかかれないような、旧式のものだった。
複葉機は、まるで何か伝えたいことがあるかのように、不思議な飛び方をした。
「なぜ、あの複葉機のあとをついていこうと思ったのか、今考えてもわからないんだけど・・・」
まるで導かれるようにたどり着いたのは、朽ちかかった古い教会だった。
その薔薇窓の下、月の光を浴びて、彼女は一人で踊っていた。
「踊っていた？」
とても幸せそうに踊っていた。
崩壊しかかったバルコニーを、ステージだと思い込んで。
驚いて必死に呼びかける００９にも全く気づかず、彼女は狂ったように踊り続けた。
そのとき―――ちょうど日付が変わった。
真夜中の花火。その合図で魔法が解けたみたいに、突然彼女は正気に返った。

「博士、これはなんでしょう？」
いつの間にか、彼女の首についていたという小さなボタン。
「これは・・・」
手にとって、しばらく調べていたギルモア博士が低く唸った。

彼女が混乱したのは、その機械のせいだろう。
だが、００９が見つけたとき、すでにそのマシンは壊れていたはずだ、と博士は言った。
きっかけは何にせよ、彼女が見続けていたいと思った幻影。
それはどんな幻だったのか？
幸せな頃を思い出していたのか？それとも―――
どんな思いで、俺達のところへ戻ってきたのだろう？
今、どんな夢を見て眠ってる？
また・・・必死で涙を堪えているのだろうか、あの時のように。
胸がきりきりと痛む。
そして―――もう１つ。
どこか納得がいかなかった。
（アイツは・・・００９は、何か肝心なことを隠している）
そんな気がしてならなかった。

けれどその後。
００９も彼女も、あの時のことについては全く触れようとはしない。
今となっては、あれ以上の真相は闇の中。
でも・・・

「００２、ご飯よ！」
部屋のすぐ外で響いた彼女の明るい声に、現実に引き戻される。
どのぐらい物思いに耽っていたのだろう？
「ああ、今行く」
ゆっくりと起き上がり、ドアをあけた。
―――思わず、ドキリと胸が鳴る。
とっくに下へ降りていっているものと思った彼女の笑顔を、そこに認めて。
「なあに？どうしたの？」
自分の眩しげな視線に気づいたのか、００３は一瞬、怪訝な顔をした。
「いや、何でもない。で、昼飯、ちゃんとまともなもん、食わせてくれるんだろうな？」
「大丈夫よ！あなたとは違って、００９も私も、ちゃんと００６からお料理習ってたもの。ずいぶん私たちの腕も上達したのよ！」
ふうん、と疑わしそうに肩をすくめる００２に、彼女は唇を尖らせた。
「もうっ！信じてないのね？食べればわかるわ！さ、はやくっ！」
００３は先に立って階段を下り始めた。
（私たち、か）
自分でもびっくりするほど、しぼんでいく心。
(何考えてんだ、俺は）
小さく呟き、００２は彼女のあとを追ってダイニングへと向かった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next

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