９．冷光

カーテンの隙間から、細く差し込む月光。 　少しずつ角度を変え、今は彼女の蒼ざめた頬を照らしている。 　手の中の冷たい白い指。 　時折、何かに怯えるように、ぴくっと腕を震わせる。 『私……どうなってしまうの？どうしたらいいの？』 『―――怖いの。……１人にしないで……』　 　頭の中で、何度もこだまする彼女の言葉。 　フランソワーズの耳元で囁く。 「君は……今までそんな弱音を一度も吐いたこと、なかったね」 　いつも懸命に耐えていた。今度だって、たった一人で、どれだけの―――。 　ジョーはこらえきれずに彼女の手を握りしめ、涙をこぼした。 「もう、もう……そんなに……我慢しなくていいんだよ。もう……何も……」 　君は、ちっとも楽になんかなってない。 　落ち着いてきたように見えるのは、必死に自分の中に封じ込めようとしているだけだ。 　―――強烈な恐怖と、混乱を。 （僕は、こうやって……君の手を握っていることしか出来ないのか……） 　ジョーは涙を流しながら呻いた。 　突然、ノックの音がし、隣室の灯りが一筋流れ込んだ。 「ジョー、ちょっとよいかの？」 　博士が、何かを手にもって呼んでいる。 （フランソワーズ、ずっとここにいるって言ったのに。ごめん。すぐ戻るから） 　彼は、そっと手を離して立ち上がった。 「……薬？」 「そうじゃ。まあ簡単に言えば、自白強要剤だ」 　博士はパイプの煙をふうっと吐き出した。 「この間、ロンドンでハイヤーム博士に分析を依頼しておいたんじゃ。彼はその手の世界的な権威での」 「自白……強要剤……？」 　コーヒーカップを手にしたジョーは、低い声で呟く。 「イスラーム世界では、伝統的に強力なハッシシと呼ばれる、いわゆる麻薬が使われておったが、おそらく、それをもとに科学的に合成したものだ、ということじゃ。彼はイラン出身じゃから、特にその筋については詳しい」 　博士はファックスで送られてきた分析結果を、淡々と読み上げた。 　だが､そんなものは無意味な数字の羅列だ。 「そ……れは……」 　どうやって使うのか、と問いかけるジョーの視線を受け、博士は口篭もった。 「普通は―――いや、昔は……薬を……飲ませ、そして、そのぅ……」 　報告書からチラッと目を上げ、ジョーの表情を覗う。 「博士？」 　ギルモアの躊躇を見て取り、続けてください、と彼は強い視線で促した。 「精神的……肉体的……苦痛を与えて……暗示にかける。そして……また繰り返し、薬を……」 　予想していた言葉。だが、それは彼の胸を激しくえぐる。 　ガチャン、とカップがテーブルに投げ出されるように置かれた。 　彼はゆっくりと長い息を吐き、目を閉じた。 「苦痛が強ければ強いほど……本人がそうしてはいけない……そうなってはいけないと、思えば思うほどかかりやすくなる」 　博士の言葉が、彼の周りを彷徨う。 （フランソワーズ！君は……） 　ジョーはテーブルに両肘をつき、頭を抱えた。 　しばしの沈黙の後、博士は再び口を開く。 「だがな……ジョー。わしの思うところでは……彼女の場合は……」 　顔を上げたジョーの目を見て、ギルモアは絶句した。 ―――お前は浅はかな老人だ。今更、気休めを言って何になる？ 　彼の鋭い目は、そう言っている。本当のことを、ごまかさずに話してくれ、と。 　博士は立ち上がり、彼に近づいて、そっと肩に手を置いた。 「ジョー、どんなにお前さんが辛いと思っても……フランソワーズ以上に、辛い思いは出来ん」 「……博士？」 「かわりも出来んのじゃ。どんなにかわってやりたいと思ってもな。今のお前さんにできることは……」 　そんなことはわかっている。本当は何が言いたいのだ、と、思いつめた瞳が詰問している。 　ギルモアは、深呼吸して言葉を続けた。 「ハイヤーム君の話では、クスリそのものの後遺症は、幸いにして少ないそうだ。だから……離脱症状については心配いらん。だが……」 　ジョーの眉がぴくりと動いた。 「……このクスリのせいで……記憶を失ったりすることはない。むしろ､薬が効いている間のことは、鮮明に覚えているということじゃ」 「記憶が……はっきりしている？」 　いっそう厳しい顔で博士は頷いた。 「何が起こって……何をされて、自分が何をしゃべったか……ほとんど全部覚えている。意識を朦朧とさせるよりは､むしろ恐怖心や苦痛の感覚を増幅させる作用がある。ＢＧの科学力を持ってすれば、彼女から何か我々についての情報を手に入れるためだけになら、こんな薬を使う必要はない」 　ということは―――？ 　何てことだ、とジョーは呻き、天井を仰いだ。 「今、彼女は一時的な記憶喪失になっている。だが、それは薬のせいではない。おそらく、何かの拍子に、突然記憶は戻る。一度に全部戻るかどうかはわからん。とにかくいつかは戻るはずじゃ。それはいい。だが―――そうなった時に……」 「戻った時に？」 「今以上に……辛い思いをするじゃろう。おそらく……記憶を失っているのは―――」 　ギルモアはやりきれない思いで溜息をつく。 　ゆっくりと窓辺に近づき、空を見上げた。 「それで……精一杯……彼女は自分を……」 　冷たく輝く月。 　じっと見上げるギルモアの背後で、グシャリ、という音がした。 　陶器の破片を握りしめたジョーに、博士は言葉を失う。 ―――あの目。 　初めて彼に会った時と同じだ。 　鋭く凍りついた瞳。何もかも拒絶する､冷たい視線。 　一切の同情も憐れみも受け入れるまいと、頑なに閉ざされている目。 　こんな目をした少年がサイボーグになれば､どれだけ恐ろしい殺戮兵器になるだろう。 　たくさんの検体の中から選ばれただけのことはある。 　そう考えて､背筋が寒くなったことを思い出す。 　だが―――久しぶりだった。彼のそんな眼差しを見たのは。 　肩で一つ､ゆっくりと大きく息を吐き、ギルモアはぼそりと言った。 「今度は、お前さんの番じゃ」 「え？」 　急に穏やかになったギルモアの声に、ジョーは訝しげな顔を向けた。 「ただ受けとめるんじゃ。黙ってそばにいて、ありのままの彼女を受け入れる」 「博士……」 「焦ってはいかん。何も返ってこなくても、たとえ拒絶されても……」 　ジョーは息を呑んだ。 「自分の気持ちを押し付けてはいかん。以前の彼女にとらわれるな。今､目の前にいるあの子を、そのまま受け入れる。無条件に、な。それしかない」 　温かい優しい目が、ジョーを包み込むように見つめている。 「自分の痛みを乗り越えないと、それは出来んぞ」 　こみ上げる思いをぐっと飲み込むように、博士は一瞬口をつぐんだ。 「今までずっと……いつも…………」 　涙で言葉が途切れる。 「ジョー、今度は……」 　ジョーはじっとギルモアを見つめ返し、そしてゆっくりと頷いた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「もう､目が覚めたのかい？おはよう、フランソワーズ」 　ジョーがしばらく部屋の外に出ていた間に、彼女はベッドの上に起き上がっていた。 　ゆっくりと面を上げて声を捜すフランソワーズに微笑みかけながら、ジョーは窓辺に向かい、カーテンを開けた。 「今日は……とてもいい天気だよ」 　朝の新しい空気を入れようと、窓を開け放つ。 　新しい季節の使者のように、明るく差し込む黄金の光。 　フランソワーズは、少し目を細めて瞬きした。 「久しぶりだな、こうやってゆっくり空を見るのは……」 　ジョーは窓の外に身を乗り出し､天を仰ぐ。 　ぴんとした朝の緊張感。ところどころに、薄い綿の切れ端が残る青い空。 　まだまだ遠いはずの春を予感させる、穏やかな陽光。潮騒の音までが優しく響く。 「あ……ひこうき雲だ……」 　独り言のように呟く。 「今日は風がないから、まだしばらくは……消えないだろうな」 「―――ひこうき……ぐも……？」 　彼女の声に驚いて振り返る。 「フランソワーズ？」 　見えない目を、懸命に彼に向けている。 （君が……僕の言葉に……反応した―――？） 　逸る心を抑えて、穏やかに言葉を続ける。 「そうだ、真っ直ぐなひこうき雲……。綺麗だよ。君にも見せてあげたい」 「見たわ……」 　大きく目を見開いた、蒼白な顔が痛々しい。その瞳からぽとりと涙がこぼれた。 「フランソワーズ？」 　ジョーはベッドに腰をおろし、震える肩をそっと抱きしめる。 　一瞬身体を強ばらせながらも、彼女は抗おうとはしなかった。 「―――わからない。でも……どこかで見たわ。どこかで……」 「フランソワーズ！」 「でも……でも……何も思い出せないの」 　両手で顔を覆った彼女を、優しく胸に抱き寄せる。 「フランソワーズ……あせらなくていい……少しずつでいいんだから」 「だめ……思い出せない。どうして……？」 　幼い子供のように、しくしくと泣きじゃくっている姿。 ―――苦しいよ、そんな君を見ているのは、とジョーは心の中で呟いた。 「無理しなくていいんだ。ね……。そのうち……思い出せるから。その時が来たら、でいい。」 　その言葉に、彼女ははっと顔を上げた。 「……思い出せる？―――思い出さなければいけない？いつ……その時が来るの？」 　小さく首を振り、体を震わせる。　　 「いやっ！……こわい……・」 「フランソワーズ！いいんだ……思い出さなくたっていいから……」 　涙で濡れた冷たい頬を、ジョーは両手で包んだ。 　ごめん、君を責めるつもりじゃなかったんだ、とジョーは小さな声で呟く。 「でも……きっと……もうすぐ……私……」 　震える手を、頬を包む彼の手に重ねようとした。と､次の瞬間、彼女はその手を引っ込め、じっと俯く。 「卑怯だわ……思い出したくないなんて……」 「フランソワーズ？」 （君は……どうしてそんなに……自分を……責めるの？） 「そんなことない。君が卑怯だったら……僕は……」 「ああ……思い出したら……きっと……私……もう……」 　急に、フランソワーズの体から力が抜けた。 　瞳を閉じ、ぐったりともたれかかる彼女の体を、ジョーは、たまらずに強く抱きしめる。 　その身体のか細さに、彼は愕然とした。 　ますます細くなって……痛々しすぎる。 　僕が力をこめたら本当に折れてしまいそうだ、とジョーは溜息をついた。 　ギルモア博士によれば、彼女の生体部分の機能は極端に低下しているという。 　無理もない。生きているだけでも……奇跡だと思わなければ。 （そうだ。こうして……君がいてくれるだけで……僕は……） 　生きてさえいてくれれば、それだけでいいんだ、とジョーは心の中で呟く。 　フランソワーズの頬を、彼の涙が伝い落ちた。 　ふわりとカーテンが膨らんだ。窓からひんやりした風が吹き込む。 　彼女がふっと目を開け､ポツリと呟いた。 「違うわ……」 　そう、何かが違う。さっきまでの彼女とは。 （君は、いったいどこを彷徨ってるんだ？） 　彼女は遠くをぼんやり見つめ、そして目を閉じた。じっと何かに耐えているその姿。 　どうしたの、とジョーは優しい声で尋ねた。 「違うわ！」 　突然、激しい口調でフランソワーズは叫んだ。 「違う！彼は……そんな人じゃない！信じないっ！」 「フランソワーズ？」 　何が起こった？彼女はいったい―――？ 　ジョーは動揺する心を抑えつつ、ゆっくりと彼女を抱きしめた。 「違うわ！違う！ああ……ジョー！お願い……！！」 「フランソワーズ！僕がわかるの？」 　ジョーは驚愕し、思わず細い両肩を掴んだ。 　しかし、彼女は激しく怯え、彼の体を離そうと必死にもがく。 「いやっ！離して！！」 「僕だよ、ジョーだ！僕だよ！」 （僕はここにいる、だからわかってくれ！） 　ジョーは無我夢中で抱きしめた。僕はここだ、と。 　だが――― 「いやっ！離して！助けて……ジョー！」 　悲鳴のような小さく鋭い叫びをあげると、フランソワーズは、彼の腕の中でそのまま気を失った。

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