８．夢の続き
―――ジョー！
　誰が呼ぶんだろう。
　何度も何度も。
　ぼんやりと……でも、ずっと耳にあの声が響いて、僕はここに戻ってきた。
　白くあたたかい手が、優しく僕の頬に触れて……そっと髪に触れて。
　乾ききった僕の喉に甘露の雫。
　柔らかいバラの花びらのような感触は……何だったのだろう？
　このなつかしい匂い……。

―――ジョー……！私をおいて行かないで！
　大丈夫、僕はどこにも行ったりしない。ここにいるから……。
　だからそんな悲しい声を出さないで。
　頬をつたう冷たい雫は……涙？
　……泣かなくていい。大丈夫。君のそばにいるから……。
　これは夢なのか？それとも……。
 
「……００９！気がついた？！」
　うっすらと目を開けたジョーの顔を、黒い瞳が心配そうに見つめている。
「よかった……。ううっ……ホントに良かった。私のせいで……もしも……あなたが……」
　見る見るうちに涙が溢れ、彼の頬にぽたりと落ちた。
「マリア……」
「……心配で……心配で……」
「君が……ずっとそこに……いてくれたの？」
　返事の代わりの小さな嗚咽。それは次第に大きくなっていく。
「ありがとう。……もう大丈夫だ」
―――あの手は……マリアの手だったのか？
　唇の柔らかい感触は……ただの夢だったのだろうか。
　僕はいったい何を期待していたんだろう。
 
「００９、どうしたの？まだ……気分が悪い？」
　長い溜息をついた００９を、マリアは心配そうに見つめ、またぽろぽろと涙をこぼした。
「ほんとに………ごめんなさい。……私のせいで……。あなたにこんな大怪我をさせるなんて。もしも……ううっ……」
　泣きじゃくる彼女を、ジョーは優しく見つめて頭を振った。。
「君のせいじゃないよ。僕が加速装置を使うタイミングをしくじったんだ」
「００９……」
「もう大丈夫。でも……君までそんなお転婆だったなんて……」
　少し困ったように微笑んだ茶の瞳を、マリアはじっと覗きこんだ。
「何か食べる？少しでも早く……良くなってくれないと……私……」
　頷いたジョーにようやく涙混じりの笑顔を向けると、マリアは立ち上がってドアを開けた。

「あ、マリア……」
　フランソワーズは、マリアがキッチンに入ってきたのに気づき、顔を上げた。
（あんなに青い顔をして……。そうだわ、００３は……ずっと昨日から……）
　マリアの胸がちくりと痛む。
　割り込むように、自分が彼のところに行ってからも、彼女は休まずに、ここにいたのだろう。
　テーブルに肘をつき、祈るようにぎゅっと手を組んで。いや、本当に祈っていたのかもしれない。
「今、気がついたわ。何か、食べるものをお願い……」
「そう……。よかった……」
　フランソワーズの顔にほんのりと赤味がさすのを、マリアはいたたまれない気持ちで見つめた。
「スープをあたためて、すぐ持っていくわ」
　マリアはキャビンに戻ると、ぼんやりと天井を見つめていた００９に声をかけた。
「００３が持ってきてくれるわ。ほんとに起きて食べられる？」
「……大げさにしなくても、大丈夫だよ」
　ベッドの上に半身を起こそうとした彼の背に、マリアはさっとクッションと枕をあてがう。
「ありがとう……」
「でも無理しないで。あんな大怪我したのに……もう起き上がるなんて……」
「普通のケガ人じゃないからね。元に戻るのは早いんだ。心配いらないよ」
　いつもどおりの００９の笑顔にマリアは胸をなでおろし、ようやく彼女も微笑みを返した。
 
　コンコン―――。
　控えめなノックの音。
「……００３だわ」
　マリアは立ち上がり、ドア開閉のボタンを押した。
「これを………。あなたの朝ごはんも、一緒に持ってきたわ」
「ありがとう」
　トレイを渡すと、フランソワーズは部屋の中を覗こうともせずに立ち去ろうとした。
「あ、あの……００３……」
「なあに？」
　振り返った、穏やかな優しい顔。
「ううん。……何でもない」
　澄んだ蒼い瞳を見ているのが、マリアには辛かった。
　そのまま彼女は、廊下を向こうへ歩いていく。
（どうして、あんなふうにしていられるの？私なら、私にはとても……）
　後ろ姿を黙って見送る。思わず溜息が出た。
「００９、さあ、朝ご飯よ。しっかり食べて早く元気に……」
　振り返ったマリアの目に映った茶色の瞳。
（００９……）
　彼はじっと見つめていた。今、閉まったばかりの扉を。
　その哀しげな眼差しに、マリアは小さく溜息をついた。
 

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊


「フランソワーズ、ジョーの具合は？」
「ええ……さっき目が覚めて……今、朝ご飯を持って行ったわ」
「そうか。よかった……。どんな様子だった？」
　俯いて、口篭もるフランソワーズを、ハインリヒは怪訝な顔で見つめた。
「今、どうしてるんだ？」
「マリアが……ついててくれてるの」
　ふうっと彼は息を吐いた。
―――ったく……何をやってるんだか。
　イライラした顔を彼女に向けたとき、トレイを手にしたマリアがキッチンに戻ってきた。
「あら？どうしたの、マリア？」
　マリアはフランソワーズに近づき、にっこりした。
「００３……。お願い、ちょっと替わってくれる？私、ここで朝ご飯食べてもいいかしら？」
「え？」
　ちゃんと顔も洗ってないし、ゆっくりコーヒーも飲みたいのよ、と言ってマリアはテーブルにトレイを置いた。
「ええ……。わかったわ」
　そんな２人のやりとりを、ハインリヒはいつもの腕組みのポーズのまま、じっと見つめていた。
 

―――どうしたらいいかしら……。
　どんな顔して……あなたの顔を……。
　ドアの前で、躊躇する。扉を開ける勇気がない。
　このままじゃ……私……きっと―――。
　深呼吸してノックし、ドアを開けた彼女の姿を、茶色の瞳が捉える。
（お願い。そんな優しい目で見ないで……）
「あ……あの……ジョー。……気分はどう？」
「フランソワーズ……」
　さっきまでマリアが座っていた枕元の椅子に、彼女はぎこちなく腰をおろした。
「起きてて……大丈夫なの？」
「みんな大げさだな。もう大丈夫だ」
「そう……よかった」
　昨夜のような思いは、もう二度としたくない。
　こうしてまた見つめ合って、言葉を交わすことができるだけで幸せ。
　心からそう思う。
　　
　でも、彼が瀕死の床で求めていたのは自分ではなかった。
　涙が零れそうになるのを、必死でこらえる。
「マリアが……一晩中……つきっきりで看病してくれたのよ」
　これで、彼女に言えなかった言葉の償いになるだろうか。
「あなたのこと……とっても……心配して……」
　茶色の瞳が、じっと彼女の瞳の奥を見つめた。
―――ああ、ジョー！そんなふうに見つめられたら……私……。
「ね、だから早く元気になって……」
「フランソワーズ……。僕は……」
　彼の眼差しに耐え切れなくなって、視線をそらした。―――と、サイドテーブルの上の朝食が視界に入る。
「あ……まだご飯食べてないの？……冷めてしまったわね。温めてきましょうか？」
　彼が何も返事をしないうちに、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「……おかゆか何かのほうがよかった？他に何か食べたいものある？……何でも言って。作ってくるわ」
　沈黙が怖かった。
　黙っていると、彼にすがりついて、胸の中の思いを全部ぶつけてしまいそうだった。
　必死で言葉を探し、会話を途絶えさせないように努力する。
　虚しく連なっていく、よそよそしい言葉。
　もう何を言ったらいいのかわからない。
（でも言葉が途切れてしまったら、きっと、私……）
　「いや……これでいい。ありがとう」
　動揺を悟られまいと焦るフランソワーズを静かに見つめていた彼は、ぽつりとそう言うと、自分でトレイを取り上げ、スープを飲み始めた。
　しばらくして、ふと手を止める。
「もう大丈夫だから……」
「え？」
　ぼんやりと彼の仕草を眺めていたフランソワーズは、はっと茶色の瞳を見つめた。
「君もまだ食べてないんだろう？もう僕のことは……心配ないから……」
（ここにいなくていい、って言ってるのね）
　涙が零れないように、瞬きを繰り返す。
「そう……。じゃあ、何かあったら……呼んでね……。無理しないで」
　フランソワーズは力なく立ち上がり、ドアを開けて出ようとした。
　一瞬、こらえきれずに部屋の中を振り返る。
―――ジョー、私は……。
　彼は俯き、スプーンを持った手元を見つめている。
　部屋の外に出ると、フランソワーズは両手で顔を覆った。
　大声を出して泣きたかった。でもドルフィン号の中には、そんな場所はない。
　溢れる涙を拭うと、コックピットに足を向けた。

　  　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊

　　
「どうした、マリア？ぼんやりして……。君らしくないな」
　朝食を前に、スプーンを持ち上げたまま考え込んでいるマリアに、窓辺にもたれていたハインリヒが声をかけた。
「あ、００４。何でもないの。あ、あの……昨日はごめんなさい。みんなに迷惑をかけて……」
「ほんとに寿命が縮んだぜ。君は軽はずみなことできないってことを忘れるなよ。君にもいろいろと無理をさせているのはわかっているが……」
「ううん……。あなたの言うとおりね。父が……あんなことになってしまってしまったんですもの。仕方ないわ。ごめんなさい」
　健気げに頷くマリアに、ハインリヒは笑顔を向けた。
「お父さんと同じように君も、将来、科学者になるつもりなのかい？」
「え？！とんでもないわ！絶対に嫌よ。科学者なんて！！」
　ハインリヒが驚くほど激しい口調で、マリアは叫ぶように言った。
「あんな人殺しの道具を作っておいて……。なのに自分たちが世の中を発展させるなんて思ってるんだから。そんなの絶対に嫌！」
「人殺しの道具？」
「そうなんでしょう？だから父は、あんな人たちに狙われたりしたのよ！！」
　自分でも興奮したことに気がついたのか、あ、ごめんなさい、と首をすくめた。
「私ね……。美しいものを生み出す仕事をしたいの。もちろん世の中にはそうじゃないものが一杯あるわ。だからこそ、みんなが幸せな気持ちになれるようなものを作りたいの」
　ちょっとカッコよすぎる？と笑ってマリアは立ち上がり、壁にかけられた小さなリトグラフを見つめる。
「シャガールの複製ね？この深い蒼色、好きだわ」
　人懐こい笑みを浮かべてハインリヒを振り返り、食卓の上を片付け始めた。
「私、絵の勉強をしてるの。父が学会であちこち行くのについて行ったけど、向こうでは一人ぼっちだったから、いつも美術館で時間をつぶしてた。そのせいかしら……。絵が好きなのは」
「ふうん……。君は芸術家の卵か。どんな絵を描くのかい？」
「油絵よ」
　食器を手早く片付けると、椅子に腰をおろし、瞳を輝かしてハインリヒを見つめる。
「でも水彩も好き。まだいろいろ模索中なの」
「そうか。その絵は……フランソワーズのお気に入りだ」
「ええ、００３から聞いたわ。……ねえ、みんな普段は００３とか００９とかって呼ばないで、名前で呼ぶのね。私もみんなのことそう呼んでもいいかしら？」
　もちろんさ、とハインリヒは笑顔で答えた。
「まあ……俺たちだって別にどっちで呼ぼうなんて決めてるわけじゃない。００９って呼んだり、ジョーと呼んだり……適当さ」
「えっと……あなたは？」
「ハインリヒだ。アルベルト＝ハインリヒってのが元々の名前さ」
「アルベルト＝ハインリヒ……ね」
　鸚鵡返しに繰り返しながら、マリアは真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。
「ハインリヒ、私……みんなにすごく迷惑をかけてるわね。ううん、昨日のことだけじゃなくて。父のせいで……あなた達を巻き添えにして……。こんなことがなければ、あなた達だって普通の生活ができたのに……」
　普通の生活か、とハインリヒは苦笑した。
「普通の生活をしてたって、俺たちはどうせ落ち着かないんだ。一緒だよ、どこにいても」
「ハインリヒ……」
　マリアは哀しい目でしばらく彼を見つめていたが、意を決したように口を開く。
「ねえ、怒らないで聞いてくれる？あなたたちは……サイボーグなのよね。でも私には……それが、普通の人間とどう違うのかわからないの。ううん、もちろん体の中にメカを装着して、とても優れた力を身につけてるってことはわかってるわ。でも、普通の人でも……たとえば、オリンピックの選手のようにすごい能力を持ってる人もいるでしょう？ペースメーカーを埋め込んでいる人だっているし……。なのに……どうして……サイボーグだったら……」
　マリアはハインリヒに悟られないように細く長い溜息をつき、言葉を切った。
「……マリア？」
　ハインリヒは向かい側の席にゆっくりと腰を下ろし、彼女を見つめた。
「どうして……普通の人間と同じじゃだめなの？普通の生活をしてるときにも、落ち着くことができなかったり……それに……あんなふうに自分の……」
「ん？」
　マリアは視線を落とし、自分の手を見つめた。
「マリア？」
　俯いた頬に涙が一筋伝わったのを見て、ハインリヒは胸をつかれた。
「そんなの……哀しすぎるわ。……あんなに……」
「マリア、君は……」
　しばらく沈黙が続く。
　やがて自分を見下ろしている優しい視線に気づき、マリアははっと顔を上げ、はにかむように微笑んだ。
「……ごめんなさい。何だかヘンなこと言っちゃったわ。気にしないでね。あ、ハインリヒはもう朝ご飯食べたの？」
「いや、まだだ。そろそろ交代の時間だしな……。あとでゆっくりもらうよ」
　立ち上がってコックピットへ向かおうとする彼の背中に、マリアはさらに声をかけた。
「コーヒーだけでも、どう？私、とてもおいしいコーヒーを入れられるのよ」
「じゃあ、一杯もらってから行くとするか。ジェットの奴を少しくらい待たしておいてもいいだろう」
踵を返して、席につく。
「うふっ、じゃあ、すぐ入れるわね」
　もういつものように明るいマリアに戻っていた。
　無邪気で天真爛漫な笑顔に見える。
　だが―――本当の彼女は、自分達と同じような心の闇を抱えている。
　なぜそう思ったのか、根拠は何もない。
　が、ハインリヒは、確かにそう感じた。
　痛みを知るものでなければ、他者の痛みは本当にはわからない。彼女は「知っている」のだ。
（何にせよ、どっちを向いても切ないな……）
　レンジの前に立つ彼女の背中を見つめて、ハインリヒは溜息をついた。
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