７．苦い夜

「これでよし、と。……何とか直ったようだ。深刻なトラブルでなくてよかった」 　額の汗をぬぐいながら、ピュンマが立ち上がる。 「さすがだな。”休暇”中、メカの勉強をしてたのか？」 「いつまでもオヤジさんばかりにさせるわけにはいかないと思ってね。どうせこの１年、暇をもてあましてたんだ」 「俺もそうさ……。ボーっと過ごしちまった。何をしても落ち着かなくてな」 　ピュンマとハインリヒは、ふっと笑みを交わした。 　目の前には青い空と紺碧の海。それは穏やかで平和な景色。 　しかし――― 「あっ！！……いけない！！」 　周囲の様子を監視していたフランソワーズが、突然、叫び声をあげた。 ”ジョー！ジェット！大変だわ！また……今度はさっきよりずっとたくさん……爆撃機が数十機も！急いで戻って！” ”やっぱり追ってきたか……。わかった。すぐ戻る” 　コックピットに緊張が走る。ハインリヒが厳しい声で叫んだ。 「ピュンマ、あいつらが戻ってきたらすぐに出発だ！今は……逃げるしかない」 すぐにドルフィン号に戻ったジョーに、フランソワーズが慌てて駈寄った。 「ジョー！マリアがいないの！一緒じゃなかったのね？」 「え？」 「さっきから姿が見えないのよ」 「そういやあ……オマエのことを探してたぜ。まさか……」 　ハインリヒの言葉に、ジョーは顔色を変えた。 「ま、まさか！外に行ったっていうのか？」 「俺は……見かけなかったが……」 　ジェットは首をかしげる。 「とにかく……探してくる。あとを頼む！」 「ジョー！！」 　気をつけて、とフランソワーズが声をかける間もなく、彼はドルフィン号を飛び出していった。   　BGの爆撃機は森を焼き尽くし、大地を大きくえぐる。 　真上から、次々と落とされる爆弾に、為す術もなくドルフィン号はその場に留まっている。 　敵機の攻撃を避けようにも、あの２人が戻って来なければ飛び立つことができない。 ―――早く、早く戻って！ 　フランソワーズは両手を祈るように組み、コックピットの外に目を凝らした。 「遅すぎる！ちょっと俺も様子を見てくる！」 　しびれを切らせたジェットが席を立ったとき、フランソワーズが叫び声を上げた。 「あ！ジョーだわ！……ああっ！大変！」 　真っ青になって弾かれたようにコックピットを飛び出した彼女のあとを、他の仲間が慌てて追う。 　　 　ハッチを開けてドルフィン号に入ってきたジョーは、ぐったりとして意識を失ったマリアを抱えていた。 「ジョー！大丈夫？しっかりして！！」 　フランソワーズは半狂乱になって、土気色の顔で額から血を流している彼の腕を支える。 「マ、マリアを……」 　ジェットにマリアを預けた途端、彼の体は、その場にどさりと音を立てて崩れた。 「お、おい、ジョー！」 「ジョー！！……ああ……ジョー！！しっかりして！」 　フランソワーズの悲痛な声。 「お願い……。ジョー！目を開けて！」 　両腕で必死に彼を抱き起こそうとする彼女に、ハインリヒが声をかけた。 「フランソワーズ、俺にまかせろ！」 　軽々とジョーの体を抱き上げ、キャビンへと運びながら、コクピットへ指示を送る。 ”グレート！すぐに……離陸させろ！” 　２人を収容したドルフィン号は、満身創痍で辛くも島を脱出した。 ―――ジョー！どうして……どうしてこんなことに？お願い、目を開けて！ジョー！ 　ずっと名前を呼び続けていないと、彼が目の前から消えてしまいそうな気がした。 　ベッドに横たわる彼の姿が涙で滲んで見える。 　マリアを診察し終えたギルモア博士が、キャビンに入ってきたことにも気づかなかった。 「さあ、フランソワーズ……」 　声をかけられて、はっと顔を上げ、ようやく枕元を離れる。 　治療するギルモアの傍らで、彼女は祈るように彼を見つめていた。 ―――ジョー！死なないで。私を一人にしないで！あなたがいなくなったら……私……どうしたらいいのかわからない。 　何度も心の中で呟く。 　真っ青な顔で唇を震わせているフランソワーズを、ギルモアは痛ましげな目つきで振り返る。 「……もう大丈夫じゃ。少し熱が出るかもしれんから、今晩は注意して様子を見て……」 「私、ここにいます。ずっと……」 「何かあったらすぐ呼ぶんじゃ。いいね？」 　　 　遠ざかっていくギルモアの足音を聞きながら、フランソワーズはジョーの枕もとに跪いた。 　栗色の髪をそっとかきあげ、汗ばんだ額をタオルでそっとぬぐう。 ―――柔らかいあなたの髪。 　こんなふうに……はじめてあなたの髪に触れたのは……あの時ね。 　もうずっと前。その時も、あなたは危険を顧みずに私のことを助けてくれたわ。 　私のせいで、意気地なしの私のせいで、あなたに怪我をさせて……申し訳なくて……あなたのそばで、ただ泣いていた。 　でも今は……その時とは……違うわ。こんなにも……あなたのことが好きなの。 　どうしようもないくらい……あなたが好き。それがはっきりわかったの。 　ううん、ずっとわかってた。でも…… 　お願い。あなたを失ったら……生きていけない――― 　フランソワーズは彼の手を握りしめ、その手に頬を寄せ、唇に押し当てた。 　涙の雫が彼の手を濡らす。 ―――だから……死なないで、お願い。 　あなたは私のこと……仲間としか思ってくれてなくても、それでもいい。 　仲間としてでも、そばにいたいの。 　あなたと一緒にいたいから……だから私は……ここにいるの。一緒にいたいの。 　だから……死んだりしないで。私をおいていかないで！ 　　 　慣れていたはずなのに。 　こうやって敵の攻撃を受けて、傷つくことにも。 　これまで何度も命の危険に晒されてきた。 　それが私たちのいる場所だった。 　でも……今回は……。 「……み…………」 　眉間に皺を寄せて、彼が何か呻いた。 「なあに？ジョー？どこか苦しいの？」 「み……ず……」 　苦しげに眉根を寄せ、激しい息づかいの中でうわごとのように呟く。 「水？……お水が飲みたいのね？」 　ベッドサイドのグラスを取り上げて氷水を口に含み、そっと唇を重ねた。 　熱く乾いた唇を湿らせるように、ゆっくりと水を口移しで含ませる。 　彼の唇が、その雫を求めるように小さく開いた。 　何度も水を口に含むと、彼の口に少しずつ水を流し込む。 　ごくんと喉を鳴らし、彼がそれを飲み込む様子に、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。 「ジョー……」 　青白い顔。 　濃茶色の眉。 　かたくつむった瞼。 　フランソワーズは彼の頬をそっと両手で包むと、静かに目を閉じた。 　亜麻色の髪が、はらりと彼の顔にかかる。 　密やかなキス―――。   　ジョーの瞼がぴくりと動いたのに驚いて、彼女ははっと唇を離した。 「マ……リア……」 「……ジョー？」 　身体中の血が凍りつき、そしてパリンと砕けた。 ―――マリア？……私のこと……マリアだと思ったの？ 　そんなにも彼女のことを？ 　やっぱりそうなの、ジョー？ 　フランソワーズは俯き、両手を握り締めて、必死に嗚咽をこらえた。 　涙で彼の顔が見えない。全身が震えるのを抑えることができなかった。 ――でも、それでもいい……。 　あなたが生きてさえいてくれたら……。 　あなたがそこにいてくれるのなら……私はそれでいいわ。だから――。 「マリアは無事よ。ちゃんとあなたが自分を盾にして……守ったんですもの。かすり傷だわ。安心して」 　彼の耳元に口を近づけ、フランソワーズは優しく囁いた。 「あなたが元気になってくれないと……私……」 　青い瞳から溢れた涙が、ジョーの頬を濡らす。 　まだ苦しげな寝顔をじっと見つめ、フランソワーズは毛布の下の彼の手をそっと握った。 ―――もう少しだけここにいさせて。あなたのそばに……。 　あなたが目を覚ますまでの間だけでいいから。 　今だけ、こうしていさせて、と、冷たくなった頬に自分の頬を寄せて呟いた。 　次第に彼の息づかいは穏やかになり、いつしか深い眠りに落ちていったようだ。 （ああ、ずっと朝までこうしていたい。そうしたら私、もう……あなたのことを……きっと……） 　フランソワーズは手を握ったまま床に跪き、瞳を潤ませながら、青白い頬を見つめていた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「００９！」 　突然、勢いよくドアが開いた。 「マリア！あなた……大丈夫？」 　不意を突かれたフランソワーズは慌てて立ち上がり、入り口に茫然と立ち尽くすマリアの腕をそっと取る。 　と、弾かれたようにマリアは叫んだ。 「ああっ！私のせいで……００９が……どうしたらいいの？！」 「マリア、落ち着いて。心配いらないわ」 　気を動転させているマリアは、ベッドに駈寄り、ジョーにすがりついた。 「でも……でも……ああ！！どうしよう……」 「今、やっと少し呼吸が楽になって眠ってるの。もう少し……休ませてあげて……」 「でも……でも……私……どうしたらいいの？私のせいで、こんな……」 　マリアは、涙をいっぱい浮かべてフランソワーズを振り返る。　 「マリア……」 　思いつめた彼女の表情に胸を打たれた。 （マリアも……そしてジョーも……） 　そうなのだ。２人は…… 「私……ここにいるわ。彼の意識が戻るまで」 「マリア……」 「私のせいでこんな怪我を……。だから彼についているわ」 　フランソワーズは、優しくマリアを見つめた。 「……そうね。そうしてあげて」 ―――ここは、私のいる場所じゃない。 　振り返りたい気持ちを必死に抑え、そのまま黙って部屋を出た。 　あと１時間ほどで……日の出。 　東の一角だけが、ほんの少し白んでいるが、まだ空全体は濃い紺色に覆われている。 　はれぼったい瞼を冷やしたくて、コックピットのガラスに顔を押し付けた。 　今からしばらくは、闇も光も支配しない不思議な時間。 　すべてのものが、影を持たずに存在できる静謐な世界。 　まもなく、地平線に薔薇色の光が射すだろう。 　少しずつ、闇と紅のバランスが変化する。 　そして神々しい金色の矢が放たれると、新しい青空が姿を現す。 『僕も……夕焼けよりも、この空のほうが好きだな』 『この光を見てると……とても幸せな気持ちになるの。空も自分も……生まれ変わるような気がしない？』 　そんな話を彼としたのは、いつのことだったか。 　なぜ、マリアに言えなかったんだろう。彼はあなたの名前を呼んでいた、と。 　それを知ったら、どれだけマリアが喜ぶかわかっているのに。 ―――卑怯だわ、私……。でも、どうしても言えなかった。 　フランソワーズは瞳を固く瞑り、血の気が引くほど両手を握りしめた。

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