１０．想いの底

「これなら……もう大丈夫だ。昨日の様子では、少々厄介なことになるかもしれんと、実は心配しておったんじゃ」 　傷口を確認しながら、ギルモアは満足そうに頷いた。 「すみません……博士。迷惑かけてしまって。いろいろとありがとうございました」 　ベッドの上に体を起こし、ジョーは頭を下げた。 「なに、ワシはちょっと手当てをしただけだ。礼なら……あのコにな。心配して、一晩中ついとったんじゃから」 「ええ、聞きました」 　頷くジョーに、そうか、と相槌を打ち、博士はゆっくりと腰を上げた。 　実は少々気になっていた。 　ジョーの意識が戻った、と博士に知らせにきた時の彼女の様子。 （あれだけ心配して、つきっきりだったから、疲れておるのじゃろう） 　蒼い瞳を覆っていた哀しげな翳りは、思い過ごしか。 「まだ２、３日は無理をしてはいかんぞ」 　優しく諭すように言う博士に、ジョーは笑顔を向けた。   　コックピットに姿を現したジョーを、メンバーたちは笑顔で迎え口々に声をかけた。 「ジョー！もう大丈夫なのか？」 「あまり無理するな」 「うん……すまない。心配かけて……」 「００９、無理しないでね」 　心配そうなマリアの声にジョーは頷き、自分の定位置の操縦席に目を向けた。 　そしてその隣―――コックピットに入った時から、自分の視線が捜していた場所。 　だが、そこは空席のままだった。 　 　あの時、思わず追い出すようなことを言ってしまった。 （君があまりに悲しそうな顔をしていて、僕はそれを見ているのが苦しくなって……） 　なぜ彼女はあんなに沈んでいたんだろう。 　とても辛そうだった。なのに、懸命に明るく振舞おうとしているのが痛々しかった。 　やっぱり……後悔しているのだろうか。 　そう思うと、無理矢理その場に引き止めているのが耐えられなかった。 　本当は―――そばにいて欲しかったのに。 　あの夢が、本当なら――― 　いや、本当でないからこそ、夢なのだけれど。 　現実の世界では、そんなふうには……なれないから。 　でもせめて、あの時だけでも―――。 　そうしたら、まるであの夢が本当だと思える気がして……。 （なのに、僕は自分から彼女を追い出した）   　やっぱり呼びに行くべきじゃなかった。連れて来るべきじゃなかった。 　ずっとその思いが頭から離れない。 　美しい瞳に涙をいっぱい浮かべて、彼女が呟いた言葉。 『私には……将来なんてないのよ、もう……』 　それがジョーの胸に、楔のように突き刺さっている。 　悲しい言葉。 　だが事実だ。 自分たちには幸せな未来など、ない。 　あるのは―――戦いとその果てにある死、だけ。 『どうせ俺たちは……闘うための道具なんだから。今更、普通の生活なんかに戻れないさ』 『あとは、いつ死ぬか、だけだな。ま、泣いてくれる人がいるわけでもないし』 　仲間たちは、時々自嘲めいたことを言い合っていた。 　だが、彼女だけは違う。 　自分達の中でただ一人、未来を信じることのできる人間だ。 　血のつながった家族がいて、約束された未来への扉を開けることができる。 　自分達の、哀しい運命に差し込む一筋の光明。 　そう思いたかった。 　博士から皆に連絡するように言われた時、迷いに迷った。 　せっかく取り戻したその平穏な日々を、また奪うなんて。 　その残酷な知らせを電話で伝えたりしたら、彼女はどんな気持ちで、たった一人日本にやって来るか。 　せめて直接会って伝えたかった。その場にいることで、痛みを少しは分かち合える気がした。 　でも――― 　（辛い思いをさせるとわかっているなら、なぜ呼びに行く？そっとしておいてやればいいじゃないか！） 　自分の中で別の自分が叫ぶ。その声を振り切るように、パリへ向かった。 　もし―――もう、行きたくないと言ったら？ 　それでもいい。むしろそう言って欲しい。 　どこかで、そんなことを考えていた自分に愕然とする。 　自分達は、 ９人でそれぞれの命を支えあっている。 　フランソワーズの能力を、誰かが補うことなどできない。 　来なくていい、なんて仲間に向かって、彼が言うべきことではないのだ。  （なぜ、僕は……そんなことを考えてる？いったい何を言おうとしてたんだ？） いつだったか、００１に言われた言葉。 「君ガ好ムト好マザルトニ関ワラズ、君ハ僕達ノりーだーニナラナキャイケナイ。ソレハ、キミガ００９ダカラダシ、キミノ持ッテイル資質ノセイデモアル」 「どうして……僕が……？」 問いには答えず、００１は一方的に言葉を続けた。 「ダカラ覚エテオイテ、００９。僕達ノ最大ノ武器ハちーむわーくダ。ソレガばらばらニナルト……絶対ニ勝チ目ハナイ。君ガ個人的ナ感情ト、立場ヲ混同シタラ、僕タチハウマクイカナクナル。残酷ナヨウダガ、キミハ、イツモりーだートシテノ判断ヲ迫ラレテイルコトヲ忘レルナ」 　その時は００１の意図がわからなかった。なぜ自分がリーダーなんだ、との思いばかりで。 　だが、彼はこう言いたかったのだろう。戦いに私情を交えるな、と。 　ハインリヒの口癖と同じことなのだ。 「ジョー、お前はなんでそんなに……『優しい』んだ？」 　優しさ―――そんなものは闘いには邪魔なだけだ。 　お前の優しさ、それは弱さだ、と。 「それが、お前さんの命取りになるぜ」 　ともすれば感情に振り回されがちな、自分の弱さ、甘さ。 　彼女に来なくていい、と言うつもりだった―――場合によっては、何も言わずに帰るつもりだった自分。 　それこそ、私情以外の何ものでもない。 （ハインリヒの言うとおりだ。僕は、甘すぎるんだ） 　凍りつくような寒空の下、フランソワーズはぼんやりと川面を眺めていた。 　亜麻色の髪が風になびき、細い肩がかすかに震えている。 　いつまでも、その場から動こうとしない彼女の後ろ姿を、黙って見守っていた。 　―――さっきのあの悲痛な言葉。 　まさか自分が聞いていたなんて､想像もしていないだろう。 　意を決して声をかけた彼を、彼女は絶句して見つめた。 「……ジョー？」 　大きく見開かれた蒼い瞳。 「いったい、どうして……ここに？」 　自分の出現がいかに意外だったかを如実に物語っている。 　それきり言葉が途切れた。お互い黙り込んだまま、時間が過ぎていく。 　俯き加減の白い横顔。 　記憶の中の彼女より、ずっと美しかった。 　なつかしい顔を間近に見て、ようやく彼は気がついた。 　迎えに行こうとしたのは―――もう一度、会いたかったからだ。ただそれだけのことだった。 　彼女は、来ないかもしれない。だとしたら、もう二度と会えない。 　だから、せめてもう一度……。 　ずっと望んでいた平和な生活。 　なのに、心に空洞があいたようなこの１年。 　それがなぜだったのか、何が足りなかったのか、今やっと、わかった。 　だが、口を突いて出た言葉は―――。 　「君にもいろいろ事情があるのはわかる。でも……僕たちは９人でお互いの命を支えあってる。私情で……わがままで、残りの仲間を危険に晒すことはできない。だから……」 　何て冷たく残酷な言い方だろう。 　でもそれが僕の役目だ、とジョーは必死に自分に言い聞かせた。 　でも……彼女の瞳を見るのが辛い。 　思わず視線をそらした彼を、フランソワーズは優しい目で見つめると、「いつ……出発すればいいの？」と静かに尋ねた。 　以前と変わらない、穏やかであたたかな蒼い瞳。 　その蔭に、どれだけの涙と犠牲が隠されているのか。 　彼女が手放さなければならなかった、平和な日常。 　自分が呼びに行かなければ―――そう思わずにはいられなかった。 　傍らで、優しく微笑んでいる彼女を見ているのが辛かった。何も言わないだけに、余計に。 　自分自身の気持ちがわからない。 　なぜこんなに混乱しているのだろう。 「それが……お前の優しさ、ってヤツか？」 　ハインリヒの呆れた声が聞こえるような気がした。 　こんな動揺を、皆に悟られてはいけない。 　自分の心に蓋をしようとして、いっそうぎこちなくなる。 　だから―――戦いが始まって、何も考える余裕がなくなって、むしろホッとしていた。 　戦場でなら、仲間として彼女を気遣うことは当たり前なのだから。 　仲間に気がねしてケガのことを何も言わない彼女を、あのままにはしておけなかった。 　そして無意識のうちに､傷ついた彼女の手をとっていた。 　自分でも驚きながら、でもそれは特別なことではない、と自分に言い聞かせて。 　だが心の中で、冷ややかな声が問いかける。 ―――お前は、何をそんなにムキになっているのだ、と。 　そしてあのマリアの言葉。 『じゃ……彼女のことは……？』 『……彼女？』 『００３のことにきまってるじゃない！』 　仲間。大事な仲間だ。それ以外にあり得ない。 　僕たちは闘うためのサイボーグだ。―――未来など、ないのに。 　ましてや、僕は……。   　なのに、あの夢。 　暗闇の中でひとり彷徨っていた時、彼女の声が聞こえた。 　あたたかく優しい手が、柔らかい唇が僕に触れて、僕を求めて泣いていた。 　その声を近くで聞きたくて、その手を握りしめたくて、僕は戻ってきた。 ―――そう、君のところへ。 　夢でまで自分の心は偽れない。 「まだ……本調子じゃなさそうだな」 　操縦席に腰をおろし、ぼんやりと前方を眺めていた彼に、ハインリヒが声をかけた。 （ダメだ。いつまでもそんな甘い考えでは……。今は戦いに集中しなければ） 　思いを振り切るように、ジョーは首を振った。 「いや、大丈夫だ」 　茶の瞳に強い光が戻る。ハインリヒは､満足げにニヤリと口元を歪めた。 「で、どうする、ジョー？逃げているばかりじゃなくて、そろそろ何とかしないとな」 「うん……そうなんだが……」 　歯切れの悪い言葉。だが、何をどうしていいのか、実のところ誰にもわかっていない。 　今まで十分に考える時間もなかった。 　ひたすら攻撃を仕掛けてくる敵になす術もなかった。 　だが、いつまでもこのままではダメだ。 「しかし、アチラさんは驚くほど正確だな。逃げても逃げても追ってくるぜ」 　たった９人で、本当に太刀打ちできるのだろうか。 　どう考えても勝目のない戦い―――このままでは。 「確かに、敵さんは相当、周到に準備してお待ちになってる、ってことだな。……で、これからどうする、ジョー？」 　ハインリヒと同じ問いを今度はジェットが繰り返した時、フランソワーズがコックピットに駆け込んできた。 「まただわ！！今度は前方から来たわ。大編隊よ。それに超大型の空母が近づいてる！！」 「何だって？また……大そうなこった！こっちはたったの９人だぜ……」 「しかも……一人はおねんね中なのに……」 「とにかく、今は逃げるしかない」 　きっぱりと言うジョーに、ハインリヒは目をむいた。 「ジョー！お前……」 「ハインリヒ、君の言いたいことはわかる。でも……今、闇雲にぶつかっても、勝てる状況にはない」 「う……」 「もし……マリアに何かあれば、取り返しのつかないことになる。それは……君もわかってるだろう？」 「しかし……」 「とにかく、今は逃げるしかない。どこまで……逃げられるか……それだって命がけだ」 「前方と、下からって……じゃあ……どっちに逃げればいいんだ？」 　仲間の視線がフランソワーズに集まる。 　じっと周囲に目を凝らしていた彼女が振り返った。 「後ろからも来たわ！ほとんど……全方向取り囲まれてる」 「ほんとうだ。レーダーにも……今、映った！」 　コックピットを包む暗い空気。 　はっと顔を上げ、彼女が前方を見つめる。 「あ……一番手薄なのは……左４５°……。すぐに高度を上げて、上から逃げるしかないわ」 「よし、そうしよう」 　グワアアアンン！！ドカーーン！！ 「きゃああ！」 「うわっ！」 　ドルフィン号めがけて、敵の第一陣が攻撃を仕掛ける。 　迎撃する間もなく、機体は大きく揺れた。 「し、しまった！！」 「どうした？」 　ジョーの声にグレートが叫ぶ。 「レ、レーダーがやられた！」 「な、なんだって？」 　しゅん……と急に暗くなった半球の液晶。 「フランソワーズ！」 　振り返ったジョーに、彼女は頷いた。 「前方上方に２機。うしろから……３機来たわ！」 「ミサイルは……３時の方向に、５秒後！」 「よし！」 「ジョー！早く高度を上げて！どんどん集まってくるわ。急いで！」 　敵の激しい攻撃にさらされながら、ドルフィン号は辛くも包囲網を突破した。

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