１１．転落

さきほどまでの夕凪が嘘のようだ。 　闇の色に変わりつつある海に、白い波頭が立っている。 　どす黒い雲が急速に空を覆い始めた。 　海を見下ろす絶壁。 　ひゅるひゅると、むせび泣くような冷たい風が纏わりつき、亜麻色の髪をなびかせる。 　目の前に広がる暗い海。 　切り立った断崖の途中に、ドルフィン号は張りつくようにとまっていた。 　敵の総攻撃から、命からがら逃げおおせたものの、絶望に近い空気が彼らを支配していた。 　あまりに多勢に無勢。行くあてなどなかった。 　密かに用意していた第２の研究所にも、迂闊に近づけない。 　今そこへ行けば、また追撃され、破壊されるだけだ。 　敵地に突っ込むか、ひたすら逃げ続けるか。だが、肝心の敵の本拠地はどこだ？ 　それすら掴めていない。 ―――どこへ逃げればいい？いったい、いつまで逃げればいい？ 　皆の顔に浮かぶ疲労と焦燥の色。 「一度……この近くの無人島に降りよう。フランソワーズ、探してくれ」 　ジョーはドルフィン号の高度を下げた。 「このあたりは、水爆実験をやったところだろ？どの島にも人なんか住んでないさ」 「フン、人がいようがいまいが、やるときはやる。国家なんてそんなもんさ。実験場だからって無人島とはかぎらないぜ」 　ジェットとハインリヒは、美しいサンゴ礁の島々を見おろしながら、肩をすくめる。 　極彩色の羽を広げる鳥たちと豊かな緑。色鮮やかな花々。 　そこはまさに南海の楽園。 　遠くで、かすかな雷鳴。今にも雨が降り出しそうな、不安定な空だった。 　くじけそうになる彼女の気持ちに喝を入れるように、鋭い稲妻が水平線に落ちる。 　両手を組み、唇に押し当てて、フランソワーズは必死に嗚咽をこらえた。 　自分にできる唯一のこと―――戦場の中でありとあらゆるものを見聞きすること。 　それが自分の闘い。そう思ってきたつもりだった。だけど……。 　あの時――― 　逃げおおせたのではなかった。敵は執拗に彼らを追ってきていた。 「ああっ、いけない！！」 「どうした？」 　ジョーが、驚いた目で振り返る。 「この……この島は……無人島なんかじゃないわ！すぐ向こうに……村があるの！」 「な、何だって？」 「ダ、ダメよ！お願い！このまま行ったら……」 ズガーンン！！ 　ドルフィン号を追撃するミサイルが村を直撃した。 「ああっ！！……」 「どうなってるんだ？しっかり、しっかり見てくれ！」 「真上からミサイルよ！ああっ！！だめだわ！」 　次々と炸裂する狙うミサイル。集落は一瞬にして破壊されていく。 ―――なぜ巻き添えにする？ 　人々の苦しみもがく表情。断末魔の叫び。 　闘うのなら自分たちだけで戦え。 　正義のためなら殺してもいいのか。 　我々の命を奪っても、それが正義なのか？ 　お前たちの正義と、BGの悪。そのどこが違う？ 　闘って破壊する行為のどこに違いがあるのか？結果は同じではないか。 　死者達の叫び―――。 　そのとおりだ。自分達のしていることは……BGとどこが違う？ 　目の前の光景が、恐ろしくて、あまりに悲惨で――思わず目を伏せ、耳をふさいだ。 （もう、いやっ！これ以上は……耐えられない……） 　その瞬間、敵の動きを見逃した。 「フランソワーズ、どうなってる？次はどっちだ？ミサイルは？」 　彼の問いかけに､咄嗟に答えられなかった。 ―――轟音と、すさまじい閃光。強烈な爆発の衝撃。 　咄嗟の彼の対応がなければ、おそらく機体は大破していただろう。 　ドルフィン号は真っ直ぐ垂直に飛び上がり、敵機に体当たりして、難を逃れた。 　そのまま進路を北東に向け、ひたすら飛び続ける。 　敵の執拗な攻撃を振り払いながら、ようやく北太平洋の孤島にたどり着いた。 　ピカッ！！ガシャーンン！！ 　突然の激しい雷鳴。まるで先ほどの戦闘のようだった。 　真っ暗な空。強い風。波もどんどん高くなる。 　ピカッ！！ 　眩しい光が、絶壁の縁で俯いている彼女の姿を浮かび上がらせた。 　あの時の彼の眼差し――― 　今まで見た事もないほど厳しい表情だった。 　大事にこそ至らなかったが、マリアは衝撃で気を失った。 「……ごめんなさい……」 「いったいどうしたんだ？！君がその眼と耳を……ちゃんと使ってくれないと」 　語気を強めたジョーを、一瞬、怯えた目で見つめ、フランソワーズは力なくうなだれた。 ―――君はここで何をしているのか。何のためにここにいるのか。 　彼のあの瞳が、自分の甘さを非難している。 「君はサイボーグなんだ。そのことを忘れるな。僕たちは……」 「ジョー！……お前、何でそんな言い方するんだ？」 　ハインリヒが、じろりと彼を睨みつけ、言葉をさえぎる。 　その視線を避けるように、ジョーは皆に背中を向けて、コックピットの外を見つめた。 「……ごめんなさい……」 　こんなところで泣いてはいけない。 　涙をこらえて、唇を噛みしめる彼女に、仲間たちが次々といたわりの言葉をかけた。 「なぜ君が謝る？フランソワーズがいなかったら、俺たちはとっくに粉微塵になってた」 「そうだ。レーダーが壊れてから、君一人で……ずっと何もかも見聞きしてたんじゃないか」 　だが、やはり自分のミスなのだ。００９の言うとおりだ。庇われると余計に辛い。 「フランソワーズ、マリアの様子を……見てきておくれ」 　博士の優しい気遣い。 　顔を伏せたまま小さく頷き、フランソワーズはコクピットを後にした。 　　　　　　　　 　戦場では一瞬の気の迷いが、躊躇が、即座に死に結びつく。 　敵に手の内を読まれている自分達。 　だから、チームワークだけが武器だった。 　それぞれが自分の能力を精一杯発揮してこそ、なのに。 　わかっている。わかっているけれど―――。 　何のために？ 　何のために戦うのだろう？ 　こうやって戦うことに、どんな意味があるのだろう？ 　何を守ろうとしているの？自分達が生き延びるため？他人を犠牲にしてまで？ ―――違うわ。今、そんなことを考えてるんじゃない。 　彼と一緒にいたいから、ただそれだけで来てしまった。 　でもここは、そんな甘い考えでいられるところじゃない。 　彼の気持ちが別のところにあると知って、逃げ出したくなっているだけだ。 　戦う意味がわからないなんて、言い訳にしか過ぎない。 　そして、何より辛いのは……。 　でも、もう何も見たくない。何も聞きたくなかった。 　顔を覆った両手の隙間から、ぽたぽたと涙が落ちる。 　一人になりたかった。 　マリアの様子を覗いた後、黙って外に出た。 　ちゃんと仲間としての役割を果たさなければ。今の自分にできることは、それしかない。 　泣いている場合ではないのだ。だけど……。 （今だけ、もう少しだけ……。そうすれば……） ―――バリバリバリ！！！ 間断なく続く稲光と雷鳴。 　まるで彼女の目を晦まし、耳を塞ごうとするかのように絶え間なく続く。 　だんだん強くなる風が髪を激しく吹き乱す。 　あふれる涙をぬぐおうともせずに、フランソワーズは暗い海をじっと見つめていた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　彼女がコックピットを出て行った後、しばらく誰も口を開こうとしなかった。 　それが何を意味しているか、ジョーにはわかりすぎるほどわかっていた。 　気詰まりな沈黙を破ってハインリヒの声が響く。 「おい、ジョー。ちょっと来い」 　強引に連れ出される彼の後ろ姿を見ながら、仲間たちは声をひそめて囁きあう。 「ちぇっ！なんでえ、アイツは……。やけに彼女に辛くあたるじゃねえか」 　憮然とした表情のジェットに、グレートは肩をすくめて相槌を打つ。 「あん時、どれだけフランソワーズがジョーのことを心配してたか、全然わかってねえんだな」 「ジョーはまだ子供アルよ。好きな女の子に意地悪をする小学生みたいアル！」 「ハハハ！上手いこというな、大人！」 　大人とグレートの軽口に、ずっと張り詰めていた空気が少し緩む。 　辛い数日間だった。 　本当に長かった。誰もが心底、疲労していた。 「急に天気が悪くなってきたぞ。稲光がしてる。―――嵐が来そうだな」 　コックピットの外を覗いたピュンマはため息をつき、来るのは嵐だけだといいけど、と小さい声で呟く。 「ったく……さすがの俺サマも、疲れてきたぜ。研究所をぶっ壊されてから、ずっとだからな」 　ジェットはどっかりと自分の席に座り込んだ。 　座席の脇に両手をだらりと垂らし、天井を仰ぐとポソリと呟く。 「彼女、相当……参ってるみたいだな」 　あの辛そうな青白い顔。 ―――なのにアイツったら……。ハインリヒでなくても、一言いってやりたくなる。 「無理もない。あれだけずっと根を詰めて目と耳を使っていたんじゃから。消耗して当然じゃ」 「博士、とにかく、早くレーダーを直しましょう。このままじゃ、フランソワーズの負担が大きすぎる」 　ピュンマの声に、博士は大きく頷いた。 「よし、すぐに始めるとするか。とにかく急がないとな。また、いつ……」 　２人があたふたと作業を開始すると、メンバー達もそれぞれ機体の整備に取り掛かった。 　一息つけるこんな時間が、長続きするわけはない。 　これ以上、気を緩めている場合ではなかった。 「お前、何を意地になってる？」 　ハインリヒは、廊下の隅で腕組みをして、じっとジョーを見つめる。 「……どういう意味だ？」 　予想をしていなかった問いに、茶の瞳が一瞬ひるんだ。 「今回は、ずっとヘンだぞ、お前」 （何が言いたい？） 　探るような目を向けるジョーを揶揄するように、ハインリヒは小さく笑った。 「お前さんのとりえは、『優しさ』だったんじゃないのか？」 　まあ、それはいいとして、と、あらためて真剣な眼差しを、ジョーに向けた。 「目や耳は……心に直結してるってことを、お前は考えたことがないのか？」 　ジョーははっと顔を上げ、ハインリヒを見つめ直した。 「俺たちのように……銃やミサイルをぶっ放してる方がよほど気楽なはずだ。四六時中……神経を張り詰めて、目を背けたくなるようなものを見て、耳をそばだてて……。俺なら気が狂うね」 　ふうっと大きく息を吐いて、一旦口をつぐむ。 「彼女が伝えてくれるのは、実際に見たり聞いたりしたものの、ほんの一部なんだぞ。俺たちは自分の倒した相手しか見えない。聞こえるのも目の前の敵の悲鳴だけだ。でも……フランソワーズには……」 　反応を確かめるようにジョーの瞳を覗き込み、彼は言葉を続けた。 「レーダーが役に立たなくなってから、丸３日間、フランソワーズが一人でその代わりをしてたんだ。彼女は疲れきってる。俺たちが交代で休んでた時にも……彼女はもちろんずっと起きてた。そりゃあ……キャビンには戻っていたさ。だが、あの顔を見れば、一睡もしてないことくらい誰だってわかる。俺達の命が､自分の目と耳にかかっている、とわかってて、彼女が眠ったりすると思うか？」 　たたみかけるようなハインリヒの言葉。その一つ一つが胸を貫く。 　黙って息を吐き、彼から目をそらした。胸が掻き毟られる思いだった。 「しかも、あの島の被害の様子―――」 　思い出しながら、ハインリヒは痛ましげに溜息をつく。 「俺たちは……空から眺めただけだ。それでも相当悲惨だったがな。彼女は……死んでいった住民の、一人一人の顔だって、はっきりと見ることができるんだ。詳しく説明しようとすればするほど、辛い思いをしてるってことぐらい……」   ―――わかっていた。そんなことは彼に言われるまでもなく。 　フランソワーズは必死に、仲間たちの目や耳になろうとしていた。 　あの凄惨な場面で、懸命に状況を伝える声が震える。 　冷静さを保とうと、何度も深呼吸して。 　痛々しかった。 　時折、救いを求めるようにこちらを振り返っていた。 　そのすがるような視線を受け止めるたび、細い肩を抱きしめてやりたいと思った。 　なぜ、そうしなかったんだろう。僕はいったい――― 「そんなこと……お前には当然わかってると思っていたが。それとも……全部わかった上で、あんな言い方しかできないのか？」 「ハインリヒ……」 　返す言葉がなかった。 　しばらくの沈黙の後、彼は突然、話題を変えた。 「ずっと俺は、不思議に思っていたんだ。なぜ､一番優れた身体をもっているお前に、他のメンバーの力をそっくりそのまま取り入れなかったのか、ってことを」 　さっきの話とどう繋がるのだろう。彼は何を言おうとしている？ 　怪訝な顔をするジョーをじっと見つめて、彼は言葉を続けた。 「一番最後に改造されたお前になら、それが出来たはずだ。だろ？」 　そう言われればそうだ。今まで、そんなことは考えてみようともしなかったが。 「だが、それは不可能なんだそうだ。オヤジさんの、あの腕をもってしても……」 　ロボットになら､いくらでも新しい装備を付け足していけばいい。 　だが、『人間』を素材としたサイボーグとなると、話は全く違う。 　人間の感覚や意志や感情を持ち続けている以上、高められる能力には限界がある。 　能力を統御するのは、人間としての『心』の部分なのだから。 　心のコントロールを超える能力をつけることはできない。 　脳も何もかも改造してしまうなら別だが、そうすれば元の人間性は失われる。 　それではただのロボットと同じだ。 「俺達は試作品だが、それぞれ、一人の『人間』が耐え切れる負荷の限界ギリギリまで､改造されている。どこまで改造に耐えられるのか、それを試すモルモットでもあったのさ」 「それは……・・」 「お前とイワン以外の７人は、それぞれ単独の能力を最大限発揮できるようにつくられている。その７人の能力を、そのままのレベルで、一人の人間に与えてしまうことは不可能なんだ。『心』にコントロールさせる限りは、な。とてもじゃないが、限界を超えている」 　００９には、それぞれの能力がバランスよく取り込まれている。 　最強のサイボーグに、加速装置以外、突出した能力がないように見えるのはそのせいだ。 　特定の装備やある限定された力においては、００９を凌ぐサイボーグなど､いくらでも作れる。 　実際にＢＧは、より優れた能力を持つサイボーグを、次々と刺客として送り込んできた。 　だが――― 「能力バランスを調整することにかけて､ギルモア博士の右に出る者はいない。アイツらが、どんなに優れた単独の『能力』を持つサイボーグを作っても、総合力ではお前が優っている。今のところは―――ＢＧの科学者が束になってかかっても、オヤジさんにはかなわない、ってことだ」 　自分達の戦いは、ギルモア博士とＢＧの科学者の戦いでもある。 　いつ彼らが追いついてくるか。それは時間の問題かもしれない。 　ハインリヒの言葉に、黙って頷きながら、ジョーにはもうひとつ合点がいかなかった。 　なぜ今、彼はそんな話をする？ 　この話のためにわざわざ自分を連れ出したわけではあるまい。 「君は……何を……」 　その問いには答えず、ハインリヒは少し彼から視線をそらした。 「逆に―――生身の部分が多いってことは、どういうことだかわかるか？」 （生身の部分？） 　ジョーは微かに首を傾げた。 「改造された部分から受ける負荷が、それだけ大きいってことだ。改造された箇所の多さに関わらず、な」 　負荷が大きい？改造された箇所の多さ？ 　正直言って、彼の話の飛躍についていけなかった。 　彼は何を言おうとしている？ 　怪訝な顔をするジョーに、ハインリヒはそらした視線を戻した。 「結局、俺達のサイボーグとしての改造度は―――単純には比べようはないが、基本的にはみんな同じレベルだ、ってことだよ。ＢＧが商売のためにやってるんだ。とことんコストパフォーマンスを追求するのは当然だろう」 　だから、と彼は少しきつい目をして、またジョーを見つめた。 「この間のような言い方はしないほうがいい。もちろん、お前に悪気があって言ったんじゃないことはわかってる。でも―――俺達が思っている以上に、自分だけが生身に近いことを、彼女は引け目に感じている」 ―――どうしてお前には、そんなこともわからない？ 　ハインリヒの顔には、はっきりとそう書いてある。 「でも、決して改造度が低いわけじゃない。俺みたいに､原爆やらミサイルやらを､単純に体にくっつけてるのとは訳が違う。改造された部分が､本来の人間としての感覚に近ければ近いほど、『心』にかかるストレスは大きいんだ。その上、生身の部分が多い分､身体への負担も重くなる。いつも、お前や俺なんかよりも、ずっと辛い思いをしてきたはずだ」 　ジョーは目を閉じ､大きく息を吐いた。 （僕は今まで君のそばにいて、いったい何を見ていたんだろう） 　戦いの最中に、時折フランソワーズが見せた辛そうな表情。 　醜い争いや殺し合いに、優しい心を痛めているだけではなかったのだ。 ―――能力を使うことで、君がそんなに苦しい思いをしていたなんて。 　なのに。 （その眼と耳をちゃんと使え、だと？僕は、何てことを……） 　どれだけ彼女は傷ついただろう。あんなに辛そうだったのに。 　必死に、懸命に見ていたじゃないか。何もかもを。 　なのに……。 　ジョーは、掠れた声で尋ねた。 「君は……いつ……その話を？」 「さあ、いつだったか……。彼女があんまり辛そうだったから、博士に聞いたことがあったんだ」 　彼女の生身の部分をもう少し改造して、全身を強化できないのか、と。 　博士は首を横に振った。 『今もっている能力を引き上げることは可能だが、新しい力をつけ加えるのはワシには無理だ。君達は、今の状態で､それぞれほぼ完成しておるんじゃから』 「その時に、お前の力のことも聞いたんだ。長年の謎が解けたって訳だ」 　さりげなく言うハインリヒの声。ジョーの頭をある思いがふっと翳める。 （ハインリヒ､君は……もしかして？） 「なあ、ジョー。自分の葛藤は､自分の中で解決しろよ。傍迷惑なだけだ。今のお前は……」 　ジョーの探るような視線に彼は一瞬目を伏せたが、すぐにもっと強い眼差しを返した。 「こうやって久しぶりに集まらなきゃいけなくなって、一番辛い思いをしているはずの彼女が吹っ切れてるのに、何でお前がそんな風なんだ。本当は気遣ってるくせに、それを無理に押さえ込んで、かえって悲しませるようなことをするな」 　自分の心など、とっくにお見通しなのだ。 　そして、おそらく彼は――― 　鋭い光を発していたハインリヒの目が、ふっと和らぐ。 「ま、しばらく間があいたからな。偉そうに言ってる俺だって、随分と勘が狂ってる。だがお前も、もっと力を抜けよ。無理するな」 　いたわるような穏やかな言葉が、かえって胸に突き刺さる。 （君は、今までずっと―――？） 　そうやって、静かに見守ってきた､というのか？　　　　　　　　　　 　コックピットへ向かう後ろ姿を見つめ、ジョーは溜息をついた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「どうして、あなたが謝るの？」 　美しい黒い瞳が、びっくりしたようにフランソワーズを見つめていた。 「私こそ、これくらいのことで気を失ったりして情けないわ。でも、もう大丈夫よ」 　真っ直ぐな漆黒の髪、濡れたように輝く瞳。 　マリアは本当に綺麗だ。 　髪と瞳の色のせいで、小柄な彼女はよく日本人に間違えられると言っていた。 　美しいだけじゃない。彼女は健気で気丈だった。 　あんな激しい戦闘を初めて目の当たりにして、きっとショックを受けているだろうに、そんなことはおくびにも出さない。 　素直で明るくて、そばにいるだけで心が和む。 （マリア、うらやましいのは私のほうなのよ）   　だが――― 「ね……。わかったでしょ？」 　知らなかった。そんなこと、想像もしていなかった。 「そのことを知ったときには……死んじゃいたかったわ。パパは……私の事なんか愛してなかったのよ」 「マリア……」 　どう言っていいのかわからなかった。 　何も知らず、彼女のことをうらやんでいた自分が恥ずかしい。 「私の事……かばって死んだのも……私のことが大事だからじゃなかったんだわ、きっと」 　そんな苦悩を、たった一人で抱えていたなんて。 　気休めの慰めなど、何の役にも立たない。 　黒い瞳をじっと見つめて、手を握りしめる。 　今、フランソワーズにできることはそれしかなかった。 「ごめんなさい……・。あなた達にも迷惑をかけて……。結局大切だったのは自分の研究だけなのよ。もう死んでしまったけれど……私、絶対にパパを許せないわ！」 　憤りに震える声。 「マリア……。迷惑だなんて、誰もそんなこと思ってないわ」 「ありがとう……。でもね……。ああ、もうやめましょう。こんな話……」 　急に声の調子を明るくして、マリアはにっこりと微笑んだ。 「でも……あなたには知ってて欲しかったの」 　彼女は、ぎゅっとフランソワーズの手を握り返した。 （マリアは強いわ。優しくて明るくて……本当に素敵な人） 　彼が惹かれるのも当然だ。 　それに引き換え、自分はここで何をしているんだろう。 　ピカッ！！！ガッシャ――ンン！！ 　目がくらむほどの閃光。再び激しい雷鳴が轟く。 ―――あの時……思ったではないか。 　彼を失ってしまうかと思ったあの晩に。 　仲間としてでも、一緒にいたい。生きてさえいてくれれば、それでいい、と。 　つまらないことでくよくよしていないで、ドルフィン号に戻ろう。 　そして仲間としての自分の責任を果たそう。 　それが今自分にできる、たったひとつのことだから……。 　気持ちを整えるように大きく深呼吸すると、海に背を向けて歩き出そうとした。   　と、その時、何かが彼女の感覚を刺激した。 ―――これは……？ 　殺気？ ―――誰かが狙っている。 　誰を？……どこから？いったい誰が？ 　物音ひとつ立てずに、その人物は歩みを進めていた。 　心臓がどきん、と鳴った。 　その音が聞こえてしまうのではないかと思うほど、すぐ近く。 　若い男―――いや、男というよりは、むしろ少年のような顔立ちだった。 　彼女には、まだ気づいていない。 　その手に握りしめられたもの―――フランソワーズの背筋に緊張が走った。 　自分たちの持っているスーパーガンよりも、ひとまわり小さいが、より高性能の銃。 　しかも―――彼はサイボーグだ。 　いったい、どこから現れたのだろう？ 　いつからそこにいたのだろう？ 　彼は、何を狙っている？ 　その男の視線の先をたどって、愕然とした。 ―――標的はドルフィン号の外に姿を現した人影だった。 （ジョー！！） 　ここからは、かなり離れている。だがあの銃なら、十分射程距離内だ。 　バリバリっと天空を裂く稲妻。 　夕闇の世界が一瞬白く光り、また闇につつまれる。 　激しい閃光に、くっきりと２人の姿が浮かび上がる。 　怯えてすがりつくマリアと、優しく抱きとめる彼。 　すべての音を掻き消すような雷の音。 　脳波通信で呼びかけようとしたフランソワーズは一瞬ひるんだ。 　と、凄まじい稲妻に、はっと我に返る。 （ああ！だめだわ！） 　とっさに男に体当たりしようとした、その瞬間――― 　突然、男がこちらを向いた。 　目を晦ませるような稲妻が光り、耳を劈く激しい雷鳴が轟く。 　同時に、赤い閃光が彼女の肩を撃ちぬいた。 「ああっ―――！」 　弾き飛ばされ、岩に叩きつけられる。 　頭に激しい衝撃を感じ、目の前が真っ暗になった。 　肩に火がついたような痛み。波のように押し寄せる苦痛に、唇を噛んで耐える。 　だが、その努力も空しく、だんだんと意識が遠のいていく。 　”ジョー……！” 　力を振り絞って彼に呼びかける。だが応答はない （なぜ……なの？あなたは……すぐそこにいるのに……どうして？） 　激しい稲妻。絶え間ない雷鳴。 （あなたには……私の声が……聞こえないの？……そんなに……気持ちが……） 　フランソワーズの全身から、一挙に力が抜けた。 　ポタッ……ポタッ……。 　仰向けに倒れた彼女の頬に、大粒の水滴が落ちた。 　突然降り出した雨。 　ぴたぴたと叩きつける冷たい雫に、彼女はうっすらと目を開けた。 　どのくらいたったのだろう。 数十秒なのか、数分なのか、それとも……。 （私……どうして……こんなところに……？） 　視界の端を横切る人影。あの男は――― 　すべてを思い出した。 ”ダメよ！ダメ！ああ……ジョー！どうして気がつかないの？危ない！” 　叫ぼうとしても声が出ない。気力を振り絞り、岩につかまるようにして体を起こした。 　震える手でスーパーガンを構える。腕から伝い落ちた血が、銃を赤く染めた。 　無我夢中だった。痛みも何も感じなかった。 　男がゆっくりと振り返る。しっかりと彼女を狙いすまして。 「このアマ……まだ生きていやがったのか！アイツを殺る前に……お前を始末してやる！」 　アイツを殺る？絶対にそんなことはさせない。狙いを定めて弾きがねに指をかけた。 （私に……撃てるかしら？……ううん、どんなことがあっても撃たなければいけない） 　激しくなる雨足。稲光と雷鳴が同時に地上に振り下ろされる。 　　 　あの時、彼が教えてくれたのだ。 『落ち着いて、ゆっくり息を吸って―――焦らないで。相手の目を見るのが怖かったら……喉を見るんだ』 　そのとおりに相手を見据える。 　バシュッという篭った音とともに、スーパーガンが火を吹いた。 「うわっ！」 　男が腕を押さえてのけぞった。と、同時に、凄まじい轟音が鳴り響く。 　ピカッ！！！ゴロゴロ……・ズガアーーーン！！ 　フランソワーズの身体を炎が貫き、衝撃にふわっと宙に投げ出される。 　手からスーパーガンがぽとりと落ちた。 　もう何の感覚もなかった。 　コマ送りのように、すべてがゆっくりと動く。すこしずつ近づいてくる地面。 　手をついて身体を支えようとして、バランスを崩した。 ”あなたは……すぐそこに……いるのに……どうして……” まっさかさまに崖を転落していく。 ”ジョー……もう……あなたに……” 　ぐんぐんと落下のスピードが増す。 　フランソワーズの意識は、真っ暗な闇の中に放り込まれていった。

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