４．白い月

「あそこは、基地というよりは研究所だったようだ」　　 　手に持ったコーヒーカップを見つめ、ハインリヒは探索の結果を､残留していた仲間に報告しはじめた。 「だが……あのとおり木っ端微塵になってたからな。完全な廃墟だ。 結局……肝心なことは……何もわからなかった」 　苦渋の表情を浮かべて呟く。 ｢そうか、手掛かりは無かったか。 おそらく……」 　沈痛な表情でギルモアがうなだれた。 「可哀相なことを……。いったい……どんなふうに……」 　誰もが同じ思いに沈んでいく。 　だが―――。 　ハインリヒはふうっと長い吐息を漏らし、しばらく次の言葉を探すように黙りこんでいたが、やがてゆっくりとジョーを見つめた。 ｢で、どうだ？少しは……落ち着いたか？」 　思いつめた表情で目に涙を浮かべていたジョーは、視線をちょっと上げ、かすかに頭を振った。 『いやっ！……いやよ！離して！―――触らないで！』 　彼女の鋭い叫び声が、まだ耳から離れない。 　だが、あの嵐のような最初の３日間が過ぎると、ほんの少しずつ彼女の興奮はおさまっていった。 　それでもジョーが近づくと、怯えて体を強ばらせる。 （なぜだ？君は……どうして僕を拒むの？） 　どんなふうに彼女に接すればよいのかわからない。 　自分がそばにいることで、余計に彼女が辛い思いをするなんて。 （支えになりたいのに、君を助けたいのに、何もできないどころか……） 　真っ暗な穴の中に、一人ぽつんと立たされているような、底なしの孤独感。 　闇の重さに押しつぶされてしまいそうだった。 （なぜ……そんなに僕が怖いの？） 　そう問わずにはいられない。でも―――。 　今、彼女は不安そうに見えない瞳を見開き、蒼ざめた顔で静かにベッドの上に体を起こして座っていた。 　目を覚ましている時は､ほとんど声も立てず、泣くこともじっと我慢しているようにみえた。 　まるで―――そう、模範的な囚人だ。 　その反動のように、眠っている間中、彼女はひどく魘されていた。 　時々､小さな悲鳴をあげ、無意識のうちに何かを掴もうと、必死になって手を伸ばしている。 　激しく肩で息をつく。 　何かを打ち消すように首を振り、両手で顔を覆ってすすり泣いて。 　それは一晩に一度や二度ではなかった。その度に優しく抱きおこす。 　だが、目を覚まし自分がジョーの腕の中にいることに気づいた彼女は、今度は彼を恐れて身体を震わせた。 「離して……。お願い、ひとりにして……」 （苦しいよ……フランソワーズ！僕が……代われるものなら代わってあげたい。こうやってただ見ているだけしか出来ないなんて）　 　悲嘆に暮れた目で、ジョーはフランソワーズを見つめた。 だが、その眼差しが彼女に届くことはない。 （いつまでもこんなことをしていたら……君は……） 　ジョーは、頭にふっと浮かんだ不吉な思いを必死で振り払う。 　だが､本当にこのままでは―――。 ＊ 　ここはどこ？ 　私はどうしてここにいるの？なぜ何もわからないの？ 　こうやって、じっと座っているだけ。 　決して明けることのない夜が続く。 　その闇の中に響き渡るのは、私を責めたてる甲高い声。 　ずっと､ずっと耳をついて離れない。どんなに両手で塞いでも。 　怖い。あの声が怖い。でも、それよりももっと怖いのは…………。 『―――どうしたの？』 　こんなに優しい声なのに。あの声とは全然違うのに。 　なのに私はこの優しい声が怖い。 　この声が聞こえなければ､私はどちらの世界にいるのか自分でもわからない。 　夢の中の重い闇なのか､それとも光のない現実の世界なのか。 　なのに自分ではどうすることも出来ないほど､怖れている。 　この人は、ずっとそばにいてくれるのに。   　なのに体が勝手に震えてしまう。無我夢中で､優しいこの手を振りほどいてしまう。 ―――どうして？ 私はどうすればいいの？ 　遠ざかっていく足音。 　彼は泣いていた。 　私が怯えるたび、彼の手を振りほどくたびに。 　その手につかまっていたいのに。そう思うのに―――。 「オマエにはそんな資格はない！」 　どこからか叫ぶ声が聞こえる。 　あなたは誰？ 　ここはどこで､私は誰なの？ 　彼は、誰？どこへ行ってしまうの？ 　あの足音……消えてしまった。 　もし……もう……戻ってこなかったら？ 　自分が拒んだから？ ―――拒む？どういうこと？彼はいったい誰なの？ 　傷つけたばっかりに、もう二度と……帰ってきてくれなかったら？ 　私は彼を傷つけた？どうして？ 　だから､彼は……？ 　わからない。 　何がどうなっているのか。わからない。 　私はいったいどうなっているの？ 　なぜこここにいるの？ 「わからない……。どうして―――」 　思わず声が出た。堰きとめていた涙がどっと溢れる。 「どうすればいいの？ああ……」 　枕に顔を押しつけ、フランソワーズは声を殺して泣いた。 　 　 　　　　　　　　 ＊ 「ジョー、ちょっと休んだほうがいい」 　焦燥の色を深める彼に、ピュンマやジェロニモが交替を申し出た。 　気持ちは嬉しい。だが今、ここを離れることはできない。 「ありがとう、でも……」 「長期戦だ。焦るな」 　心配そうに見つめる仲間たちの目。 　このままではお前も倒れてしまう。そんなことになったら…… 「休めよ、少しだけでもちゃんと眠ったほうがいい」 　だが、頑としてクビを縦に振ろうとしないジョーに、ギルモア博士は突然、ロンドンまでドルフィン号で送っていくように、と命じた。 「しかし……博士……」 　なぜこんなに急に？しかも今から、すぐだなんて。 　学会の予定など半年以上前から決まっているだろうに。 「いいから、ワシの言うことを聞きなさい」 　博士は強引だった。珍しいことだ。 　しかし向こうに着いてからも、ジョーの仕事は何もなかった。 　言いつけるのは、誰にでもできるような簡単な雑用ばかり。 （いったい――どういうつもりなんだ、博士は？）　 　ここで、こんなことをしている場合じゃない。彼女のそばを離れるわけにはいかないのに。 　苛立つ気持ちを抱えたまま、虚しい時間がただ過ぎていく。 　 　今、ジョーはドルフィン号のコックピットにぼんやりと座っていた。 （僕は、何をしていたんだろう？） 　ロンドン滞在中、博士は学会には殆んど参加せず､あちこち連絡をとることに忙しいようだった。 　お前さんはホテルから出るな、と言い残し、日付が変わってから戻ってきた夜もあった。 　高齢の博士にはハードスケジュールだったと見えて、ドルフィン号に乗り込んだ途端、「ちょっと休んでくる」とキャビンに姿を消した。 （何だったんだろう、この数日は） 　ふうっとため息をつく。 　どこにいても、何をしていても落ち着かなかった。 　自分だけが辛い場所から逃げ出して、フランソワーズを見捨ててしまったような気がした。 （……見捨てる？） 　そんな言葉は、独りよがりだとわかっている。彼女は自分を拒絶しているのに。 　でも、僕は結局、いつもこうして彼女を……見捨てている。 （今、どうしているだろう？） 　ベッドの上に座って、じっと俯いている姿が目に浮かぶ。 　もしかしたら、彼女にとってはこの方がいいのかもしれない。 （きっと、また僕を感じて、僕の声を聞いて怯えるのだろう） 　だから、ギルモア博士は……こうして？だとしたら……。 　真っ青な顔をして、身体を震わせていたフランソワーズ。 （これまで、君のそんな顔は一度も見たことがなかった） 　いっそう辛いのは、恐怖を、怯えを、彼女が必死になって封じ込めようとしていることだ。 　自分が彼を恐れていることを、悟らせまいとするかのように。 　最初の３日間のように全身で拒絶されるほうがましだ。 　たったひとりで、何もかも背負って、それを表に出すまいとして､余計に辛い思いをして……声も立てずに、ぎゅっと目をつぶって……。 ―――いったいいつまで続くのだろう、この悪夢のような日々は。 　いつかは終わるのだろうか。 　真っ白に凍りついたシベリア平原の向こうに、大きな月が昇る。 　その冷酷な光は、あの夜を思い出させる。そして自分の愚かさをくっきりと暴き出す。 　やりきれない思いで、ジョーは唇を噛みしめ、前方を睨みつけた。 　コクピットのガラスに映っている、荒みきった茶色の瞳。 　自分の顔を見て、嫌悪の溜息をつく。 　いつもそうだ。ここに座っているときは、いつも自分はこんな目をしている。 　戦いの後は特に。 　虚しさと後悔に押しつぶされそうになって、苦しくてたまらなかった。 　そこから逃げようとして、もがけばもがくほど、傷ついて。 　その痛みに耐え切れなくなった時、いつも無意識のうちに振り返っていた。 ―――この隣の席を。 　柔らかな笑みに、救いを求めるように。何度も。 　いつも、これまでずっと―――。 　身じろぎもせず、じっとその場所を見つめていたジョーは、やがて正面に向き直ると、自動操縦を解除して操縦桿を握りしめた。 　 　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　   ＊ 　夜の闇に静まりかえった研究所に戻ると、ピュンマが穏やかな顔でジョーを迎えた。 　先にドルフィン号を降りたギルモア博士は、調べたいことがあると言って自室にこもっているという。 　ピュンマが差し出したカップを受け取ると、ジョーは立ったまま彼に尋ねた。 「フランソワーズは？」 「ついさっき、やっと眠ったみたいだ。博士が、しばらくそっとしておいたほうがいいって」 　ピュンマの言葉に頷くと、ジョーは静かに椅子に腰を下ろした。 　温かく薫り高いコーヒーにこめられた仲間の気遣いが心に沁みる。 「何か変わったことは……なかったかい？」 「うん……。昨日まではずいぶん落ち着いてたんだが、今日になって……何だか……だんだん元気がなくなって、萎れていくみたいな感じでね。 昼間……時々泣いていた」 「そうか……」 　ジョーは微かな溜息をついた。 「でも……無理に気持ちを押し殺してしまうよりは、ましかもしれないね」 　ベットの上に半身を起こし、黙ったまま両手を固く握り締めていたフランソワーズ。 　ピュンマが部屋に入ると、怯えた目をしながらも、足音のする方向を懸命に目で追っていた。 　声をかけようとした、その時、彼女は急に両手で顔を覆って、しくしくと泣き出した。 （珍しいな……。最近は、昼間は殆んど混乱したりしないのに……） 「フランソワーズ、どうかしたかい？」 　優しく声をかけても彼女は反応せず、嗚咽を必死に堪えながらすすり泣いていた。 　そのあとは、と、ピュンマは痛ましげな目をジョーに向ける。 「殆んど起き上がらないで、ずっと横になってたな」 「そうか……」 「早く食べられるようになるといいんだけどね」 　少し長い溜息をついたジョーを見つめ、ピュンマは優しい声でポツリと言った。 「辛いな、ジョー。だけど、一番大変なのは彼女だから」 「わかってる……。大丈夫だ」 　―――と、ジョーは弾かれたように椅子から立ち上がった。 「あれは？」 　小さな叫び声。 　彼女だ。 　慌てて部屋に飛び込む。 「ちがう……違うわ！……そんなこと……絶対に…………」 「フランソワーズ？！どうした？」 　彼女はベッドの上に両手をついて半身を起こし、身体を震わせていた。 「大丈夫だよ。安心して……」 　寄り添うようにベッドに腰をおろす。細い腕をそっと掴むと、体を真っ直ぐに起こした。 　彼女は息を呑み、一瞬、体を強ばらせてぎゅっと目を閉じた。 　ジョーは歯を食いしばった。 （どんなに君が僕のことを拒んでも――また同じことの繰り返しでも） 　だが、そう思うそばからくじけそうになる。 （君を怖がらせているのは、僕だ） 　そんな気持ちを心の中で叱咤し、ゆっくりと話しかけた。 「大丈夫だよ。何も怖くないから……」 　彼がそう声をかけた途端、フランソワーズの膝の上にぽたぽたと涙の雫が落ちた。 「辛い思いを……したんだね。でも、もう心配ない。大丈夫」 　ジョーは、彼女の両手をそっと握りしめた。 　白く冷たい手をあたためるように何度も―― （フ、フランソワーズ？！） 　ジョーの心臓は早鐘のように打ち始めた。 （今？……もしかして……？）　 　彼女の親指が、かすかにジョーの指に触れたような気がした。 　もう一度、大切なものをそっと包み込むように、優しく握り直す。 　すると 自分の手に、ひんやりとした指がおずおずと触れた。 （ああ……フランソワーズ！） 　抱きしめてしまいたい衝動を必死に抑え、耳元で囁く。 「もう何も心配しなくていいから。さあ、おやすみ」 　彼女は小さく体を震わせ、何かに耐えるようにまた目を固く瞑る。 「こわい……」 　震えるかすかな声で彼女は呟いた。 「フランソワーズ？」 「……怖いの。真っ暗なの。私……私……」 　涙が堰を切ったように溢れ出る。 「何も見えないの。どうして？……どうしてなの？」 　すがるように彼の手を両手で握りしめ、ふいに顔を上げた。 （ああ、君がそうやって……僕の手を） 　ジョーの目からも、熱い涙が零れる。 「―――怖い。……怖いの。私……どうすればいいの？」 「大丈夫だ。心配しなくていいから……さあ……もう一度横になって」 　興奮する彼女を横たえようと、そっと肩を抱きよせた。 「あ……」 　小さな呻き声をあげて、フランソワーズは頭をジョーの胸に持たせかけた。　　 「ひとりに……しないで……。怖い……の……。どうしたらいいのか……わからない」 「フランソワーズ！」 　震えながら泣きじゃくっている細い体を、我を忘れて抱きしめる。 「私……どうなってしまうの？どうしたらいいの？……何も……」　 「心配いらない。僕が……ついてるから」 「どうして？……ああ！どうして……」 「フランソワーズ！さあ……何も心配しなくていい。ね……」 　か細い肩が小刻みに揺れる。 「ううっ……」 「怖かったんだね。……でも、もう大丈夫だから」 　ジョーは彼女の髪を優しく撫でた。　　　　   　彼の胸にしがみついて泣いていたフランソワーズが、突然ふっと顔を上げた。 　何も映っていないはずの瞳が、懸命にジョーを見上げている。 「―――行かないで」 「フランソワーズ？」 「また………」 　肩を震わせて、嗚咽を漏らしながら、彼女は必死に言葉を捜しているようだった。 「また……どこかへ……行ってしまうの？……」 「ああ！どこにも行かないよ！」 　ジョーは、彼女の頬に自分の頬を寄せると、小さく叫んだ。 （君は、僕がいないことがわかっていたのか？） 「行かないで。ひとりにしないで……」 「大丈夫。絶対に君を……おいて行ったりしないから！だから……安心して」 　ジョーは彼女の睫毛にたまった涙をぬぐうと、またそっと胸に抱きよせる。 　ずっとこのまま、こうして――― （やっと、君は……僕のことを……） 　だが､彼女は相当気持ちを高ぶらせている。これ以上、消耗させるわけにはいかない。 「さあ……おやすみ。僕はずっとここにいるから」 　彼女を横にならせると、まだ激しく上下している肩をそっと毛布で包んだ。 　小さな灯りをともしたままにして、ジョーは床に跪くと、耳元で囁く。 「ずっと……こうしてるから。僕はここにいるから。だから……安心して」　 　かすかな頷きを感じる。 「フランソワーズ……」 　毛布の中でまだ震えている冷たい手を、ジョーはそっと握りしめた。

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