３．未来への扉

「ほんといいお天気。……小春日和、ね。もう１２月だなんて思えないわ」 　フランソワーズは眩しそうに手をかざし、空を見上げた。 　ひんやりとした風が、亜麻色の髪を優しくそよがせている。 「ジョー？」 　眼下に広がる海のように、澄んだ蒼い瞳。 　どうしたの、と言いたげに、小首を傾げ、柔らかい視線を隣に送る。　  「いや……何でもないんだ」 　俯いたまま、彼は小さく首を振った。 　遠くでゴオーッという音がした。 　銀色の翼がきらりと光り、そのあとを追うように、青いキャンバスに白い直線がまっすぐに伸びていく。 （ひこうき雲だわ……） 　上空は風が強いのだろう。雲の輪郭は、青い空に溶けてにじんでいく。 　しばらくすると、翼の残した軌跡は完全に消えてしまった。 　それを見届けてから、フランソワーズはためらいがちに声をかけた。 「あ……あの、ジョー……」 「えっ？」 　ハッと驚いたように顔を上げ、ジョーはようやく彼女を見つめた。 「ごめんなさい……わがまま言って寄り道させちゃって……」 「いや……ごめん。何でもない」 　正面の海を見つめて、彼はゆっくりと長い息を吐いた。 　地上の風はそれほど強くなく、波は穏やかだ。明るい､平和そのものの景色。 　これからまた緊張の日々が続くなんて、とても想像が出来ない。 　今は―――仲間たちが揃うまでの、つかの間の安らぎの時になるはずだった。 （私たちが一緒にいて、まだ普通の人間でいられる、ほんのわずかな時間なのよ） 　傍らで物思いに沈んでいる彼を淋しげに見つめ、フランソワーズはため息をそっと呑み込んだ。 （パリから一緒に戻って以来、ジョーはずっとこんな風に一人で……） 　声をかけるのもためらわれるほど、彼は沈んでいる。 　しぼみそうになる心を奮い立たせ、明るい声をあげた。 「―――もう、帰りましょうか？」 「…………」 　返答がない。 　胸が苦しい。 すぐ隣に座っているのに、彼との間に見えない壁があるようだった。 （何を考えてるの、ジョー？戦いのことで頭がいっぱいなの？―――私の声も聞こえないくらいに？ ） 　黙って唇を噛む。 ―――あなたのそんな辛そうな顔見てると、どうしていいのかわからなくなる。 　私には……何もできないの？ 　あなたの苦しみを……私は……分かち合うことができないの？ 　こうして、一緒にいるのに？ 　思わずそんな言葉をぶつけてしまいそうだった。 （でも……そんなことを言えば、余計にジョーは……） 　思わず目から溢れた涙が、つっと頬に伝う。　 　あわてて瞬きを繰り返し、空を見上げる。 陽射しが滲んで見えた。 　ベンチから立ち上がると、海にせり出した白い手すりにつかまり、身を乗り出して眺めた。 「あ、見て！とても綺麗な船ね。……白鳥みたいだわ。どこへいくのかしら？」 （あなたとこうしていっしょにいられるから……。だから私は……） 　だが次の瞬間、ジョーが静かに立ち上がる気配を背中で感じた。 　ゆっくりと遠ざかっていく足音。 　彼女は小さく肩を落とした。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　　 　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　 　青い空。乾いた空気。 　この街には晩秋がとてもよく似合う。 　舗道にはマロニエの落ち葉。他の季節より、ずっと空が近くに感じられる。 （一番パリらしい季節だわ。また、冬が来るのね。戻ってから２度目の冬……） 　大きなガラス窓から空を見上げ、フランソワーズはゆっくりと息を吐いた。 「ねえ、フランソワーズってば！」 　クロエが訝しげに彼女を見つめている。 「あ……ごめんなさい、何？」 　はっと我に返った。バーにつかまったまま、どのくらいぼんやりしていたんだろう。 「いったいどうしたの？」 「えっ？ううん、何でもないわ」 　慌てて微笑を浮かべ、クロエを見つめる。 「もう！バラ色の未来が開けてるっていうのに……どうしちゃったの、そんな沈んだ顔して？」 「未来――？」 　フランソワーズはまた視線を窓の外に向けた。 （未来への扉を……私は開けてしまった……） 　だんだんと、この平和な日々になじんでしまっている自分がいた。 　穏やかなこの生活を、当たり前だと思うようになっている。 　けれど遠からず、その日はやってくる。 （明日に……自分から一歩踏み出すようなことを……してはいけないとわかっていたのに） 　沈んだ表情でまた１つ溜息をついた彼女を、クロエの黒い瞳が心配そうに見つめている。 「何かあったの？」 　 ―――誰にも話せないこと。 　だからこそ、これ以上心配をかけてはいけない。 　無理に笑顔をつくって首を振る。 「ううん。ごめんなさい。最近忙しくて……ちょっと疲れただけ。大丈夫よ」 　向こうで、楽しげな声がした。屈託なく笑いさざめている４、５人の少女達。 　そのうちの一人が、こちらに近づいてきた。 「ねえ、みんなで何かおいしいもの、食べに行かない？」 　クロエは頷くと、にっこりしてフランソワーズを振り返った。 「いいわね！行きましょ、フランソワーズ」 「そうね。……でもごめんなさい。今日は……もう少し……」 　 　誰もいなくなった稽古場で深呼吸した。 　ここで過ごす一人の時間が大好きだ。とても気持ちが落ち着く。 　厳かな静けさに満ちた場所。 　踊りは一瞬の永遠。過去も未来もない。 　どんな過去があろうと、どんな未来が待っていようと、損なわれることはない。 　確かなのは、今、ここで踊っている自分がいることだけ。 　しんとしたフロアに、トゥシューズの音だけが響く。 　静けさに体を包まれることが心地良い。 　いつしか西に傾いた太陽が、彼女の頬を紅く染めた。 　カタン、と音がした。 　はっと動きを止めたフランソワーズは、フロアに伸びた長い人影をの主を目で追った。 　入り口そばのバーにもたれて、立っている一人の男。 「……カミーユ？」 「君の踊りを見てたら……チェロとハープの音が聞こえてくるような気がした」 　彼はバーから身体を離すと、その場所に立ったまま、じっとフランソワーズを見つめた。 「どうして、みんなと一緒に行かなかったの？」 　優しい鳶色の瞳。 　以前よりもずっと深味を増したように思える。 　なぜか胸の動悸が早まって、目を合わせられなくて、彼の向かい側の壁にもたれた。 「なんだかとても踊りたい気分だったの。だから……」 「……」 　彼は納得していない。 　その微笑で何を誤魔化そうとしているの、とカミーユの目は問うている。 　しばらくの沈黙の後、どうして瀕死の白鳥を、と彼は呟いた。 　どうして？ 　どうしてだろう。何も考えずに踊っていた。でも――― 　彼に心の中を覗かれたような気がした。 　動揺を隠すように、意識して明るい調子で答える。 「白鳥でも黒鳥でも道化師でも……何でもよかったわ。ただ踊りたかったの。それだけよ」 「そう……？」 　彼は滑らかな足取りで彼女に近くと、頬にそっとキスした。 「お祝いを言うのが遅くなったけど、おめでとう！」 　話題が変わり、フランソワーズはほっと胸をなでおろす。 「―――ありがとう」 （いったい何をびくびくしているのかしら、私は……） 「なんだかあまり嬉しそうじゃないね。どうしたの？」 「そんなことないわ。不安なだけ。ちゃんとやっていけるのか……心配なの」 「大丈夫さ。僕みたいな親切な先輩だっているんだし……」 　カミーユは、やっといつもの彼らしく、おどけてウインクした。 「君ならプリンシパルだってエトワールだって夢じゃないんだから。もっと自信を持てばいいのに」 　思わず微笑んだ。 彼はいつもそうやって自分を励ましてくれた。ずっと昔から―――。 「でも……ほんとにそんな心配だけ？」 「え？どういうこと？」 　鳶色の瞳が真上から見つめている。何もかも見透かされているようで怖い。 　いつの間に、こんなに背が高くなったのかしら。あんないたずら小僧だったのに。 　初めて出会った頃を懐かしく思い出す―――あの幸せな子供時代。 「なんだか君は……変わったような気がする」 　胸がきゅっと痛む。 （そうよ、私は……もう、以前の私とは違うわ）　　 　あの頃には想像もできなかった運命。 　今も、時々思う。 　あれは悪い夢だったのではないか。 　夜が明けて、目を覚ませば、元の自分に戻れるのではないか、と。 　でも、そんなことはありえない。 「この頃、いつも不安そうな顔をしてる。昔はそんなこと、なかったのに。 　留学から帰ってきてからの君は……なんだか別の人みたいだ」 　フランソワーズは一瞬返答に詰まったが、咄嗟にすねたふりをして、頬をふくらませた。 「まあ！カミーユったらひどいわ！私だっていつまでも子どもじゃないわ。いろいろと、まじめに考えることだってあるのよ」 「あ……ごめん。気を悪くするつもりはなかったんだ」 　本気で機嫌を損ねたと思ったのか、彼は慌てている。 「うふっ、自分だけオトナみたいなこと言ってるけど、あなたは……ちっとも昔と変わらないわね」 　彼の顔を見上げて、ちょっとからかうように微笑みかけた。 　これ以上、何も話すことはない。説明することなど、とてもできない秘密なのだから。 「まだ帰らないの？」 　バーにかけたタオルを取ると、フランソワーズはゆっくりと振り向く。 「ええ、もう片付けるわ。あなたは？」 「僕は……君の様子を見に来ただけだよ」 　彼の眼を見て、一瞬どきりとした。何かを必死に彼女に訴えかけようとしている。 「着替えてくるわ」 　すがるようなその視線を振り払うように、小走りにロッカールームに向かった。   　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「ごめんなさい。……待っててくれたの？」 　ツタの絡んだ古めかしい石造りの建物の１Ｆがバレエ研究所だった。 　赤から茶に変色した数枚の葉をもてあそびながら、カミーユは壁にもたれるように入り口の外で立っていた。 　その表情を見て、言いようのない重苦しい気持ちになる。 　彼は口にしようとしている。自分が答えることの出来ない、いや応えることが出来ない問いを。 （私は……もう……） 「あ、こんな時間？急いで帰らなきゃ！今日は久しぶりにお兄ちゃんが戻ってくるのに」 　気詰まりな空気を吹き飛ばすように、先に彼女が声を出した。 「じゃあ……またね。おやすみなさい」 　手を振って去ろうとする彼女の腕を、カミーユはぐいと掴む。 「……？」　 「フランソワーズ、一度、君とちゃんと話したかった」 　上からじっと見つめる強い視線。 「えっ？」 「これからは、またいっしょにいられるね。君がいなかった間に僕が先に入団しちゃったから……。一緒に踊れなくて淋しかったよ。ほんと言うと、君がオーディションを受けないんじゃないかって心配だった。あんまり乗り気じゃないみたいだったから」 　彼女は、目を伏せたまま首を振った。 「だって……とても合格できるなんて思ってなかったもの。先生がせっかく推薦してくださったから受けてみたの……」 （やっぱり、普通の生活の未来を、切り開くようなことをしてはいけなかったのよ。回りに迷惑をかけるだけ……。また突然いなくなってしまうのに） 　ましてやこれは―――ずっと憧れつづけた自分の夢だった。 　だが、いつかきっと中途半端に投げ出さなければならなくなる。 　そんないい加減なことはしたくなかった。 だから受けるだけ受けて、適当に踊って落ちればいい、そう思っていたのに。 　でもシューズを履いて、音楽を聞いたら夢中になっていた。 　オーディションとはいえ、憧れていたステージに立てて――。 「君なら、きっと合格すると思ってたよ」 　カミーユは思いつめた表情で言葉を続けた。 「将来、ソロを踊れるようになったら……また僕とパートナーを組んでくれる？」 「カミーユ、あなたはオペラ座のホープなのよ。もっと……」 　彼は彼女の細い両腕を掴んで、首を振った。 「それから……バレエだけじゃなくて……その……」 「え？」 「ずっと言おうと思ってたんだ。でもチャンスがなくて……」 　彼はフランソワーズの両腕をつかむと、ぐっと自分の胸に抱き寄せた。 「カ、カミーユ？」 「フランソワーズ！君だって……僕の気持ちには気づいてるはずだ」 「お願い、やめて。放して。……無理だわ、そんなこと」 　顔をそむけるようにしてフランソワーズは呟いた。 「フランソワーズ！ちゃんと……僕の目を見て。将来のことを……君と僕と……」 　彼女は必死で首を振る。本当のことなんて言えない。 「……だめなの。将来のことなんて……何も……考えられないわ」 「どうして？僕と一緒じゃダメなの？」 「あなただから……ダメなんじゃないの。私には……もう……そんな……」 　懸命に問い詰める彼を振り切ろうとして、彼女の目から涙が溢れた。 「私には……将来なんてないのよ、もう……」 「……どういうこと？」　 　わけがわからない､という表情で、彼は涙でいっぱいの蒼い瞳を見つめた。 「お願い……。それ以上聞かないで。……ごめんなさい」 　彼の腕を振りほどいて駆けだした。 （いつこの日常から離れなければならないのかわからないのに。将来なんて……ないのよ。私を待っているものは……） 　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　ライトアップされたセーヌ川の岸辺では、大勢の人々が散策を楽しんでいた。 　来月になればクリスマスのイルミネーションでこの街はいっそう美しくなるだろう。 　仲睦まじい恋人たち、幸せそうな家族連れ。 　こんな平和な生活に浸っていて、いいのだろうか。 　自分は……ここにいてはいけないのではないか。 （もう二度と帰れないと思ってた……。やっと戻って来られたのに、どうしてそんなことばかり考えてしまうのかしら） 　ポン・オ・シャンジェの上から川面を見つめ、深いため息をついた。 『イワンとも相談したんだがな、一度みんな、故郷に帰ってはどうじゃ？しばらく何事も起こっておらんし。もしかしたらこのまま……』 　あの時のギルモアの言葉。他のメンバーもはしゃいだ声を出す。 『ま、久しぶりに帰って骨休めをするか』 『これだけご無沙汰だと懐かしいな、あんなところでも。無性に帰りたくなってたとこだ』   　おそらく仲間たちは事前に示し合わせていたのだろう。彼女が仲間に遠慮して、躊躇しないように、と。 　そんな気遣いをさせたことが心苦しかった。 　果てしなく続いた戦いの日々。 　自分の身に何が起こったのか把握できないまま、想像さえしたことのない、血と殺戮の世界に引きずり込まれた。 　追われ､命を狙われ、そして生き延びるために、無我夢中で銃を手にした。 　最後の戦闘は、それまでで一番辛いものだった。 　自分たちと「敵」だけではなく、普通の生活をしている人たちを巻き込むものだったから。 　小さな子どもも、老人も身重の女性も、皆、戦場にいた。 　いや、戦場こそが、彼らの日常生活の場だったのだ。 （こんなところで生まれて､ここしか知らずに死んでいくなんて！） 　自分の目の前の出来事が信じられない。 （こんな戦争は間違ってるのよ！あなた達は……自分の正義のために闘っていると思っているけれど、そうじゃない。ＢＧにいいように利用されているだけなのに！） 　最新鋭の兵器。多数のサイボーグ兵士。 　それが主力の戦闘の中で、生身の彼らはあっけなく死んでいった。 　赤ん坊も母親も。あどけない顔をした子供達も。 ―――あの子たちは、いったい何のために生まれてきたの？ 　ああやって……なぶり殺しにされるために？ 　耐えられなくて、どうしても自分を抑えられなくなって、みんなの前で泣いてしまった。 　恥ずかしかった。辛いのは自分だけじゃないのに。 　でもその時は、何も見たくなかった。何も聞きたくないと思った。 　彼は泣きじゃくっている自分を、そっと抱きしめてくれた。 　しばらくあたたかい胸に顔を埋めていると、気持ちが落ち着いた。 　その優しさが嬉しくて……弱虫な自分が恥ずかしくて、また涙が止まらなくなる。 　仲間たちは決して、自分を非難したりしなかった。 　それどころか、きっと彼女の涙に心を痛めていただろう。 　特にギルモア博士は、彼女の青春を奪ってしまったと、いつも自分を責めていたのに。 　その後に訪れた、つかの間の平和な日々。 　短い間だけでも「普通の生活」を、という提案も、博士の彼女への思いやりだったはずだ。 　だが実際は……。 　時間がたつにつれ、この日常を失うことが怖くなっていく。 　いつやって来るかわからないその日―――しかし必ずやって来る。 　あんなにも望んでいた元の生活は、もう安らぎの場ではなかった。　　　　 　空に凍りついた新月。冬の星座が冷ややかに天空に並びはじめる。 　頬をつたう涙が乾いた風に吹き飛ばされていく。 　橋の欄干に両肘を突いて、顔を伏せた。 　ふっと心に浮かんだ懐かしい面影。 　この１年間、ずっと心の奥にしまっていた。でも片時も忘れられなかった。 （ああ……ジョー！どうしているの！？） 　あなたは今、どこで何をしてるの？ 　自分を優しく見つめていた茶色の瞳。 　凍えきった彼女の心が温かくなる。 ―――逢いたい。その日がいつ来るのかと怯えているより、あなたといっしょに……。

←back　　　　　　　　　　next→