２１．氷夢

低い地鳴りのような海の轟き。白く曇った窓越しに、じっと目を凝らす。外を覗いたところで、何も見えるわけではない。海も空も、今は１つに溶け合って、闇の中でじっと息を潜めているのだから。 　なのに、咄嗟にガラスについた細かな水滴を拭い、視界を確保しようとした。 　その瞬間。キキッ、と皮膚を逆なでするような不快な金属音が響いた。紛れもなく自分の指が立てたその音に、ハインリヒは眉をひそめた。 　一点の光の瞬きもなかった。今夜は、月も星も姿を隠している。黒一色に塗りつぶされた空間。自分は、この世界の何ものとも繋がっていない。そう思わせるほど深い闇。救いがたい孤独。 （光のない世界は、こんなふうに……君を脅かしているのか？） 　思わず唇を噛み締める。 　何が出来る？俺達に。彼女の孤独な闘いを、こうして見ていることしか出来ないのか？ 　どうすれば――― 「ずいぶん……冷えてきたな」 　突然、背後から近づいてきた足音に、ハインリヒは黙ったまま頷いた。 「少しは……落ち着いたんだろうか？」 　ジェットはそう言いながら、ハインリヒの横に立つと、同じように窓の曇りを指で拭った。 「ああ。部屋に戻ってから、もうずいぶんになるな……」 　ガラスに映る、１枚の扉。今は静かに閉じられている。 　２人は前を向いたまま、しばらくじっとそれを見つめていた。 　空になったコーヒーカップを、ジェットは爪ではじきながら、所在なげに弄んでいる。 　そして、何か言いかけては躊躇って、口をつぐむ。 　さっきから何度もその動作を繰り返していることに、ハインリヒは気づいていた。 「何だ、ジェット……？」 「昨日お前が言ってた……『今はまだいい』ってのは、どういうことなんだ？まさか……」 　ハインリヒは目を伏せると、テーブルの上に組んだ自分の両手をじっと見つめた。無言の溜息。 　ジェットは忌々しげな舌打ちでそれに応える。 （一体、いつまでこんなことが続くんだ？もう十分じゃないか！） 　ジョーの白いシャツを握りしめていた細い指を思い出す。 　俺が名前を呼んだだけで―――あんなにも怯えて。 　痛々しすぎる。自分を取り巻くものへの恐怖に、懸命に耐えようとしている姿が。 　いったい何に怯えてるんだ？なぜこんなに苦しまなければならない？ 　もう、闘いは終わったというのに――― 「いいや、ジェット。終わっちゃいない。まだ、何も終わってないんだ。これからだ、何もかも」 「ハインリヒ……」 　いつもは、ちらりとも感情を表に出さないアイスグレーの瞳。だが―――今、そこにあるのは、絶望に近い悲しみの色。 「本当に辛いのは、本当の闘いはこれからだよ、彼女にとっては。だから、俺達だって……」 　今までは、自分のおかれている状況がつかめなくて、それを飲み込むことが出来なくて混乱していたのだと思う。記憶を失い、自分が誰で、なぜここにいるのかさえもわからない。 　まして―――目も見えないのだから。 　確かに、強烈な記憶の照り返しのような、おぼろげな夢に脅かされてもいる。 「でも……記憶を失ってるからこそ、あの程度で済んでるような気がするんだ。これからいろいろ思い出したら……」 　本当に全部思い出したら、この程度では済むまい。 　いや、何もかもすべて一度に思い出せれば、まだいいかもしれない。 　もし、時間のつながりも何もなく、断片的な記憶を無秩序に取り戻したら、どうなるだろう？ 　ずっと昔の、きっとまだ幸せだった頃のこと。 　サイボーグになってからの日常とはかけ離れた生活。 　戦闘。破壊。目を覆いたくなるような惨状にも、何度も遭遇してきた。 　俺達は、もうそんなものに自分を慣らしてしまった―――ありふれた悲劇に、いちいち心を動かされていたら、気が狂ってしまう、とばかりに。 「でも、そんなことを、自分がサイボーグであるとわからないまま、ばらばらに思い出したとしたら？」 　押し黙って聞いているジェットの顔が、次第に青ざめていく。 「俺たちは、そんな彼女の支えになれるんだろうか。むしろ……記憶を取り戻した時に、俺達がそばにいることで、余計に彼女を苦しめるんじゃないかって……」 「ハインリヒ！！」 「今は……まだ、ああやって……ジョーのことを……」 　でも、本当にこのまま、ジョーの差し出す手に、彼女はすがっていられるだろうか？ 　最初の頃の、ジョーに対する異常なまでの怯え。あれは一体何だったのだろう？ 　まさか、とは思う。でも、もしかしたら――― 　たたみかけるようなハインリヒの言葉に、ジェットは頭を抱え込んだ。 　あの時―――彼女が生きていたとわかった時、俺は神に感謝した。 　ようやく苦しみが終わった、と。 　彼女がこうして俺たちのところに戻ってきた。もうそれだけで何もいらない。そう思った。たとえ記憶を失くしていても、フランソワーズがフランソワーズであることに、変わりはないのだから。 　あとは……少しずつ、傷ついた心と体を癒せばいい。たとえ、どれだけ時間がかかろうと。 　もうこれ以上、悪くなることはない。 　そして―――記憶の断層を越えて、怯えながらも、懸命にジョーを探していたフランソワーズ。まともに起き上がることも出来ない体で……ああやって手探りで……。 『……そばにいて。お願い……ひとりにしないで……』 『フランソワーズ！僕はどこにも行かない。君のそばにいるから』 　胸が締めつけられた。 　おそらく、２人が抱き合う姿など仲間達が目にすることはなかっただろう―――こんなことにでもならなければ。 　馬鹿だよ、お前らは。なぜ、こんなになるまで……。 　でも。それでも―――間に合ったんだ。それだけが、せめてもの救いだと思った。 　なのに……どうして？ 　ハインリヒは何を言おうとしてる？ 　俺達が傍にいることで、余計に彼女が苦しむ、だと？ 　ジョーにさえ、すがれなくなる？なぜだ？今の彼女にとって、ジョーは自分と周りの世界をつなぐ、唯一の糸のはずなのに。 　握り締めた拳が、ぶるぶると震える。 （神サマとやら、今の俺はあんたに感謝するどころか、呪ってやりたいくらいだ！） 　なぜ……なぜ……こんな……辛い思いをしなければならない？ 　大体、俺は神なんか信じちゃいなかった、とジェットは吐き捨てるように呟いた。 「お前はなぜだと思う？―――なぜ、彼女はあんなに怯えてるんだと思う？」 　唐突に、ハインリヒが問い掛けた。 「それは……俺たちのことがわからないから、じゃないのか？ジョーのことだって覚えてないんだから」 「いや、俺は逆だと思うな」 　まさか、とジェットは首をすくめた。 「俺たちのことをわかっているって言うのか？」 「彼女は―――俺たちが普通じゃないことに勘づいてる。俺はそんな気がする」 「ハ、ハインリヒ？どういう意味だ？俺達が生身の人間じゃないから、怖がっているって言うのか？！」 　思わず大声を出したジェットに向かって、ハインリヒは、後ろの扉を目で指し示し、声を一段落とした。 「いや……サイボーグだってわかってるわけじゃないだろう。でも……」 昨日のジョーとのやり取り。 「あれを見て……お前、何か感じなかったか？」 　ハインリヒの問いに、ジェットも頷く。 「確かに……ヒヤヒヤしたな。あまりに鋭いところを突いてきたから、どうしようかと思ったぜ」 「だろう？今、彼女は自分の周囲にとても敏感になってる。何もわからないはずなのに、まわりの空気を……とても正確に感じ取ってると思う」 　そういえば、ジョーも言っていた。言葉にしなくても、自分の心の動揺が全部伝わってしまってるような気がして、どうしていいかわからなくなることがある、と。 『……彼女は、自分のせいで……僕が辛い思いをしてると……思い込んでるみたいだ』 　憔悴しきった顔。懸命に平静さを装っているジョーが、ちらりとそう洩らした。 　今までの記憶を失っているだけではない。助け出されてから後の出来事さえ、時間的にうまく繋いで思い出すことができないのに。 　まるで目が見えない分、それ以外の感覚が研ぎ澄まされているかのように思える。 　だからこそ―――彼女にはわかる。 　知らず知らずのうちに、自分たちに染み込んでしまった、闘いと血の匂い。 　身に纏っている殺気。 　この忌まわしい体を満たす、破壊と殺戮のエネルギー。 　そんなものが、彼女にはわかる。 　今いるところは安心できる場所。そう彼女が思えない何か―――彼女を怯えさせる何かが、俺達にある。 「結局のところ……俺達は……アイツらと同じ匂いを醸し出してるんじゃないかって……」 　俺達が？彼女を、これだけ辛い目にあわせたアイツらと同じ？？ 　ジェットは思わず天井を仰いだ。 「それに……」 「もういい！！止めてくれ！！」 　大声でハインリヒの言葉を遮ると、ジェットは、やりきれないぜ、と悲痛な声で呟いた。 ―――俺たちとＢＧの匂いが同じだと？ 　なぜだ？なぜ、そんなことになる？ 　だが、ハインリヒの言うとおりかもしれない。 　俺たちも、命あるものを数々葬ってきたのだ。たとえ相手が「悪」といえども。 　今まで、どれだけ多くの血を流し、破壊してきただろう。 　何のために？ 　それは―――平和をこの手に握るための、不可避な犠牲だと言えるのか？ 　本当に？ 　そんな思いが、ずっと心のどこかにあった。 　戦いが終わるたび、それは大きくなり、俺を苛んだ。 　敵が強ければ強いほど、より多くの敵を倒せば倒すほど、心は軋み、悲鳴をあげた。 　傷つかない体からは流せない血。それが、心から迸る。 　俺だけじゃない。戦いが終わるたび、皆が疲れきっていたのはそのせいだ。 　強い体を持つものほど、体では感じることの出来ない疲労が、心に重くのしかかった。 　心は、心までは機械じゃないから。 　その一方で、俺はずっと、あることに怯えていた。 　人間の行動をセーブする、心と体の痛み。だが俺達は、肉体の痛みを普通の人間ほどは感じない。 　そもそも、その目的で作られたのだ。人間の限界を超えるサイボーグとして。 　でも―――そんな体の強さにひきずられて、俺の心はどんどん鈍感になっているのではないか。 　いつか本当に、傷つけることに、傷つくことに、何の痛みも恐怖も感じなくなる日が来る。 　闘うことに馴れて……ただの殺戮兵器に成り下がるのではないか。 　いや、もしかしたら―――すでに、そうなってしまっている？ 　そんな思いに捉われそうになった時、俺はいつも振り返っていた。 　あの眼を。 　そう。そして彼女も、俺達をじっと見つめていた。 　微かな……哀しい微笑を浮かべて。 　透き通った瞳がいっそう蒼く、深く優しい色を湛えていた。 ―――そこから逃げてはいけない。 　その怖れを持たなくなってしまったら……私たちは人間ではなくなる。 　それは、人の心を持ち続けるが故に、味わう痛みだから。 　辛いけれど―――この辛さこそが、私たちが人間である証。だから――― 　私は、信じている。みんなを信じている。その苦しみを分かち合える仲間を。 　彼女の瞳はそう言っていた。 　心も肉体も、俺達の中で一番敏感にその痛みを感じる彼女が、まっすぐに俺たちを見ていてくれる。 　あの優しく繊細な心が、迷わずに信じてくれている。 　それが俺達の心の拠り所だった。 　その彼女が―――今、俺たちに怯えてる。俺たちが怯えさせてるだと？ 　そんな馬鹿なことがあっていいのか？ 　今まで、一体何のために闘ってきたんだ、俺達は？ （だめだ。……今の俺は、闘うことなどできない。こんな気持ちのままじゃ、もう……二度と……） 　ジェットはがっくりとテーブルに突っ伏した。 （そうだよ、ジェット。やりきれないさ。でも―――それが、俺達の現実なんだ） 　殺気。 　血の匂い。 　破壊のエネルギー。 　闘えば闘うほど、強くなればなるほど、その反吐が出そうな空気が体に染みついていく。 　なぜなら俺達は、憎しみと恐怖の渦の真ん中に、いつもＢＧと共に向き合って立っていたのだから。 　そんな俺達が纏う『死』の気配。それを彼女は敏感に感じ取って、怯えてる。 　だから―――ジョーにさえ、いや、彼が００９だからこそ、あんなにも激しい拒絶反応を示したのではないか。もしそうだとしたら……。 　ハインリヒは唇を強く噛みしめた。 ―――あの時。 　俺はあの男に言った。 　何と言われようと、お前たちと俺達は違う、と。 　だが、今になって、あの男の嘲う声が耳について離れない。 『貴様らがどうあがこうと、所詮は我々の一部なのだ。その事実を消すことなどできぬ』 　漆黒の瞳が鋭く睨みつける。 『―――どこが違う？貴様らも、結局は傷つけ、奪い、殺し、破壊しただけだ。そんな奴等が正義を振りかざすなど、笑止千万！！』 　違う。そうじゃない。 　たとえ、何もかも失って、一番大切なものを傷つけられても―――でも、それでも俺達は闘い続けねばならない。 　これからもずっと。 　この痛みを持ったまま。 　でなければあの男の言葉を認めたことになる。 「―――それに、何だ？」 　不意に顔をあげ、ジェットは低い声で問うた。 「ジェット？」 『それに、まだある。もっと心配なことが……』 　そう言おうとした。 　杞憂であって欲しい。そうでなければならない。 　もう、これ以上―――彼女が苦しむのを見ていられない。 　そう思えば思うほど、不安は確信に近くなっていく。 　それだけに、こうして打ちひしがれているジェットに、追い討ちをかけるようなことを言うのはやめよう。そう思っていた。 「さっきお前が言いかけたのは……」 　ジェットの声が震えている。 「もしかして……マリア……のことか？」 　言葉に詰まるハインリヒを、じっと見据える強い視線。やはり誤魔化せなかったか。 「彼女は……例のこと、どのくらい知ってたんだ？まさか詳しいことも全部……？」 「…………さあ、な」 わからない、とハインリヒは首を振った。だが、その一瞬の躊躇が、肯定の返答となって、ジェットの胸を突き刺した。 　Ave, gratia plena,　Dominus tecum 「残酷な……パスワードだな、全く……」 ハインリヒが呟く。 長く、重い沈黙が２人を包み込んだ。 ＊ 　 苦しい。 　息が出来ない。 　どうしてこんなに苦しいの？ここはどこ？ 　私……どこにいるの？なぜ、なぜここは、こんなに真っ暗なの？ 　怖い。助けて！誰か、助けて！ 　震えが止まらない。 　私は―――どうなってしまうの？私は一体誰なの？ 　ずっとこのまま？何もわからないまま……こうやって…… 　激しくなる動悸。肌があわ立つ。震えが止まらない。 　何かが迫ってくる。怖い。助けて！ 　私……このまま……狂ってしまうの？いや！そんなのいや！ 　でも―――その方がいいのかもしれない。 　いっそのこと、何もわからなくなってしまえば……もっと…… 『そうだ。ここへおいで』 ―――あなたは誰？ 　さあ、この腕に抱かれればいい。限りなく柔らかくお前を包もう。 　優しく抱擁し、口づけて……ひとつになりさえすれば、私は永遠にお前の味方。 　そこを踏み越えさえすればいいのだ。 　ここには痛みも苦しみもない。もう何も怖くなくなる。 　お前が守ろうとしているものなど、ほんの小さな、些細なことなのだから。 　さっさとその細い肩から降ろしてしまうがいい。楽になれる。何の苦痛もなくなる。 　ただ、お前はお前でなくなるけれど。 　だが、それにどれほどの意味がある？ 　お前がお前でなくなったところで、何も変わりはしないのだ。 　世界が滅びるわけでもない。誰もお前のことで悲しんだりしない。 　お前はもう一人だ。そう、あの時、確かにお前は…… ―――私は？ 　もうあきらめるがいい。 　さあ、力を抜いて……ここへおいで。 　ここは生よりも甘く、死よりもあたたかい永遠だ。 　何も怖れることはない。 　ここでは、もうお前は何も失わない。何にも傷つかないのだ。 　お前がお前でなくなりさえすれば…… ―――いやよっ！！触らないで！！ 　なぜだ？ 　そこにいても苦しいだけだろう？そこにいる限り、お前は苦しまねばならない。 　今よりも、もっともっと苦しむことになる。 　だが結局、お前はそれに耐えられはしまい。あの時と同じように。 　ならば抗うだけ無駄なことだ。さあ……この手を取るだけでいい。 『だめだ！行っちゃだめだ！！フランソワーズ！』 ―――誰？ 『戻って！さあ、こっちへ……この手につかまって！』 　何を躊躇している？さあ、ここへ来るのだ。 　そこにいては幸せにはなれない。 　おいで。お前のいる世界はここだ。 『フランソワーズ！！』 　まだわからないのか？あの男が、お前を苦しめている張本人だということが。 ―――苦しめている？私を？ 　お前は怖れている。 　あの男に傷つけられることを。 　……あの男の傍では、お前は決して幸せにはなれない。 　さあ、忘れてしまえ。その手を離せ！ ―――幸せ？ 『君は、自分が幸せになりたいとは……思わないのか？』 　私は幸せにはなれないわ。 　きっとなれない。 　でも……たとえ幸せになれなくても、私は……私でいたい。 　だから、お願い！いやっ……！行きたくないの！ 　流されたくない。そう思うのに、体が引きずられていく。 『だめだ！あきらめちゃだめだよ！』 　あきらめたくない……。でも……波に押し戻されるように……またあの闇へ――― 『君は……ちゃんと帰らなきゃ。ここは……君のいるところじゃない』 『フランソワーズ！！』 ―――誰？ 「フランソワーズ！」 　強い呼びかけの声に、ぷつりと眠りが途切れた。 「ああ……よかった。……気がついて……」 　この声は？ 　ここはどこ？私の手を握っているのは……誰？ 　ここも……やっぱり真っ暗なのね？何も見えない。 「まだ……痛むかい？」 　どこも痛くはない。ただ頭が痺れたようにぼんやりとしているだけ。 　ひんやりと冷たい手が、そっと優しく額に触れた。 「もう……熱も下がった。ほんとに……よかった……」 　あなたは誰？ 　ホッとした様子で、声を詰まらせて…………泣いていたの？どうして？ 　前にもこんなことがあったわ。ずいぶん昔。でも確かに……。 　いったい……いつのことだったのかしら？ 　それとも私は長い夢を見てた？ 「あなたは……誰？」 「フランソワーズ？……わからないかい？」 　とても聞き覚えのある、柔らかな声。でも、この声は――― 「……ウィルド？」 　思わず口をついて出た名前。傍にいる男が、はっと息を呑んだ。 　ウィルド？誰だろう。それが誰なのか、自分でもわからない。なぜ私はその名前を知っているの？ 「……フランソワーズ……」 　絞り出すような声で男が尋ねる。 「ほんとに……僕が……わからない？」 　わからなければいけない人なの？でもわからない。わからないの。 　―――どうして？あなたは誰？ 「じゃあ……ウィルド……のことは……わかる？」 　どうしてそんなに哀しそうに聞くの？ 　あなたは……誰？ 「あなたが……ウィルドなの？」 　いいや違うよ、と優しく言うと、男は握り締めた手にそっと力をこめた。 「いいんだ。……もう何も心配しなくていいから。博士を呼んでくる。しばらく一人でも大丈夫？」 　一人でも大丈夫？ 　どういう意味だろう。わからないまま頷くと、男はそっと手を離して、立ち上がった。 　遠ざかる足音。扉がパタンと閉まる。 　今のは……誰？ここはどこなの？ 　頭の中が真っ白になったみたいで何もわからない。 　今の人は誰？ 　私……なぜここにいるの？ここは……なぜこんなに暗いの？ 　なぜ？ 　やっぱり……私は……もう……私じゃなくなってしまった？ 　同じところをぐるぐる回っている気がする。 　いいえ、同じところじゃない。螺旋のように回りながら、だんだん沈んでいる。 　もう……そこから抜けられないの？このままずっと？ 　怖い。 　私は……一体何が怖いの？ 　何かを失うから？ 　でも、これ以上何を？ 　今の私には、もう何もないのに。 　自分が……自分なのかさえもわからないのに……。 　これは夢？それとも現実？ 　あの声は、確か――― 　再び扉が開いた。 　心臓がどきりと鳴る。 　少し引きずるような足音。誰？さっきの人とは違う。 「どうじゃ？まだ、痛みがあるかの？」 　皺がれた声。かなり年配で、小柄な男のようだ。 　痛み？ないわ。どこも痛くない。黙って首を振ると、胸が苦しいか、とその男は尋ねた。 「いいえ……」 「そうか。それはよかった。やはり、な」 　一人納得したように頷くと、男はベッドサイドの椅子に腰を下ろした。 「これを……飲みなさい。さあ……」 　男がそっと体を抱え起こし、グラスを手渡した。とろりとした液体が、喉を落ちていく。 　こんなことが……前にもあった？ 「もう……何も心配しなくていいんじゃ。みんながついておる」 　穏やかな、慈しむような声。 「みんな？」 　この人は、私のことをよく知っているの？いったい誰なんだろう。……わからない。 「そうじゃ。ジョーも……みんなも、大事なお前さんが、こうしてここにいてくれるだけで、それだけでいいんじゃ。だから……」 「……大事？」 　ここにいるだけでいい？ 『こうやって……君が僕のそばにいてくれるだけで……それだけで……僕は……もう何もいらない』 　誰かが……そう言っていた。そして―――優しく……抱きしめてくれた。 　あれは、誰だったの？いつのこと？ 　わからない。わからないわ！　 「……ジョーって……誰……？」 「わからんか？さっきまで、お前さんの傍にいたのが、ジョーじゃ」 　傍にいた人？あの人が―――ジョー？ 「気にせんでいい。無理もない。あれだけ痛い思いをして……まだ、意識もぼんやりしておるのじゃろう。なに、ゆっくり休んで落ち着いたら、すぐに思い出せる」 　優しく男はそう言った。 「私の……よく……知っている……人？」 「そうじゃ。お前さんのことを……とても……誰よりも大事に思っておる。だから安心して……何も心配せずにな。信じるんじゃよ。何があっても、ジョーもわしらもついておるから」 ―――大事に思ってる？私のことを？信じる？……彼を？ 　そんな人なのに、どうしてわからないのだろう。私は一体どうなってしまったの？ 　怖い……。思わず自分の体を抱きしめる。 「焦ってはいかん。時間はかかるが、必ずわかるようになる。それまでに……体をもっと元気にしておかねばな。そろそろ、ちゃんと口から栄養をとったほうがいい。明日は、頑張って、何か食べるようにするんじゃ。いいな」 　まるで父親のよう。優しく諭すように言うこの人は……いったい誰なの？ 　食べる？ 　そう。何度か食べようとした。 　誰かが……優しく食べさせてくれようとした。 　だけど口に含んだだけで、吐いてしまった―――確かにそんなことがあった。 　でも、あれは……いつのこと？ 「なにせ、うちには料理の名人がおるでの。向こうから大人が戻ってきたから……きっとおいしいものを作ってくれる」 　大人？それは誰？ここには一体、どれだけの人がいるの？ 　あの……名前の人も？そう―――確か…… 「ウィルド……は？」 「―――ん？ウィルド？その名前は……覚えておるのか？」 「わからない……わ……。その人も……ここに……いるの？」 　いや、と男は言葉を濁した。 「さあ、もうしばらく眠りなさい。ジョーもちょっと休ませてやらねば……。ずっとつきっきりだったからのう」 　ずっとつきっきり？私に？ 『一人でも大丈夫？』 　彼はそう言っていた。ということは、ずっと……あの人が傍にいてくれたの？ 　なのに私は、どうしてその人のことがわからないのかしら？ 「少し強めに配合しておいたから……朝までぐっすり眠れるはずじゃ」 　男の声が急速に遠くなっていく。 「安心して……おやすみ。きっと……目が覚めたら……」 　その言葉を聞き終わらないうちに、フランソワーズの意識はすっと途切れた。 ＊ 　無言のまま、ただ向き合って座っていた２人の向こうで、静かにドアが開いた。 「ジョー！」 　ちら、とハインリヒに目をやって頷くと、ジョーはそのままギルモア博士の書斎へと向かう。 「どうしたんだろう？また……」 ジェットが心配そうに声をひそめた。 「大丈夫だろう。あの様子なら……」 　疲れ果てたジョーの表情。しかし、そこには切迫したものは見られない。 ほどなく博士を連れてジョーが戻ってきた。前かがみに歩く背中が、彼女の部屋に消えてから、ようやくジョーは空いた席に腰をおろした。 「さあ、一杯飲んで……休めよ」 　ジェットが差し出したカップを、ジョーはありがとう、と言って両手で受け取った。 　熱いコーヒーから立ち上る湯気。ふうっと吹いて冷ますふりをしながら、ジョーはかすかに溜息をついた。 「どうだ？」 　躊躇いがちにジェットが声をかける。 「うん。今、意識が戻ったんだ……」 「何があった？……また、酷く魘されてたのか？」 「あ……ごめん。……バタバタして……起こしてしまって……」 「何を言ってる？仲間が苦しんでる時に、のんびり眠ってなんかいられるかよ」 「お前こそ、いつからちゃんと寝てない？」 　ハインリヒはじっとジョーを見つめて言った。 「いや……」 　ジョーは俯いたまま小さく首を振った。 「彼女が眠ってる時は、僕も横でうつらうつらしてる。だから……疲れてないよ。大丈夫だ」 　はあっと、とあきれたようにジェットは息を吐いた。 「馬〜鹿！大丈夫なもんか」 「ジョー、今更俺が言うまでもないが、これは長期戦だぜ。今までのどの戦いより、長くて辛いが……。だが、どうあっても負けるわけにはいかない。この勝負だけは、な」 「ハインリヒ……」 「だから無理するな」 　ありがとう、大丈夫だとジョーは微笑ってみせた。 　その表情に胸を突かれる。 （お前は……いつからそんな……） 　思わずこみ上げそうになった涙をこらえ、ジェットはさらりと尋ねた。 「で、何があったんだ？」 「うん……。昨日は起きている間にいろいろと興奮したから。やっと眠ったと思ったら……また、何かに魘されて……。突然、苦しみだしたから、びっくりしてしまって……。熱も少し高かったしね」 「苦しみだした？」 　ハインリヒとジェットは顔を見合わせた。 　真っ青な顔をして、脂汗を浮かべていたフランソワーズ。あの美しい顔が、苦痛に歪んでいた。 （見ているのが、見ていることしか出来ないのが……辛くて……） 　ジョーは唇を噛み締めた。 「どこか……急に具合が悪くなったのか？」 「もう……怪我はほとんど治ってるんだろう？まさか、オヤジさんが見逃した傷でもあったってのか？」 「いいや、どこにも傷や損傷はない」 ―――でも。 「何だって？！人工肺が取り替えられていた？―――どういうことだ？」 　ジェットは思わず声を上げ、ハインリヒはただ息を呑む。 「肩から胸のあたりを押さえて、あまりに痛がってたから……博士も、何か見落としたことがあるんじゃないかって調べ直したんだ。そしたら……」 「どういうことだ？誰が……取り替えたんだ？一体、何のために？！」 「じゃあ……その肺がちゃんと動いてないのか？」 　ハインリヒの問いに、ジョーは首を横に振った。 「違う。人工肺はちゃんと機能してる。博士が作ったものと、大きさや重量も……そっくり同じ。だから彼女の体にかかる負荷は変わらないそうだ。材質なんかはむしろずっと優れている、と博士は驚嘆してた」 　ギルモア博士でさえ、よほど注意して見なければわからないほどの優れた人工臓器だと？ 「どういう……こと……だ？じゃあ……博士以上の腕を……持った奴が……彼女を……？」 　しどろもどろになって呟きながら、ジェットはふと以前のことを思い出した。 （確か、あの時……） 『よほどの腕の持ち主と見えるな』 　彼女の傷を縫合した技術。痕跡さえほとんど残らないほどの腕前に、博士が舌を巻いていたことを。 （当然、ソイツは……） 　だが、そんな人間がなぜ、何の目的で、彼女を……『助けた』？ 「一体どういうことなんだよ。もっとよくわかるように説明してくれ！」 　それは僕にもわからない、とジョーは苦笑して言った。 「でも博士は、目ももう一度ちゃんと調べ直すと言ってた。まさか、こんなふうに……誰かがきちんと手を入れたりしてるとは、夢にも思ってなかったみたいで」 　そりゃそうだろう、とハインリヒは頷いた。 「つまりは、誰かが……本気で治そうとしたってことだな」 　でも、一体、誰が？何のために？ 「肺の具合が悪くないのなら……何だってそんな痛い思いをしたんだ？」 　ジェットの問いに、ジョーは辛そうに答えた。 「……どこかの時点で彼女は、肺を取り替えなければならないほどの重傷を負った」 　その時に感じていた痛みが、突然、蘇った。 「思い出し始めた……のかも知れない、と博士は言ってた」 「思い出し始めた？！」 「じゃあ……記憶を……取り戻したのか？！」 「いや、まだとてもそこまでいかない。何かを思い出しているのかもしれないけれど、自分ではそれを覚えていないと思う。でも、さっきは突然、記憶の中の感覚だけが蘇ったんじゃないかって……」 「何があったのかわからないのに、その時の痛みだけは感じるっていうのか？」 　なんてことだ、とジェットはまた頭を抱え込んだ。 「これから……こんなことが多くなるかもしれない」 　問題は、彼女が相当な苦痛を感じているという点だ。実際にそれを体験した時と同じように。 「見ていられないほど……痛がってたから……また消耗するんじゃないかと思うと……」 　ジョーは言葉を濁した。 「ついさっき……薬が切れて目を覚ました時、ほとんど何も思い出せなくなってた。昨日の夜、寝るときには、ずいぶん……しっかりしてて……。ちゃんと話も出来たんだけど」 　テーブルの上に組んだ手が、ぎゅっと握り締められる。 「また……わからなくなった？」 　ハインリヒのかすれた声。ジェットが小さく呻いた。 「……僕のことも……」 　ジョーはかすかに肩を落とした。ハインリヒとジェットは痛ましげに目配せを交わす。 「でも、おまえが誰かは思い出せなくても、フランソワーズはちゃんとわかってるじゃねえか。お前のことを信頼して……。俺達にはあんなに怯えてたけど……」 「いいや、そうじゃない」 　力なくジョーは首を振った。 「それは……ずっと僕がそばにいたからだよ。慣れただけだ。でも……やっぱり彼女は僕を怖がってる。あの最初の時と……根本的には何も変わってない」 　あの廃墟で―――蒼い瞳に湛えられていた恐怖の色。 『い、いやっ！……お願い……さ……さわらないで！……誰？どうして……』 『お願い……離して……一人に……して』 　腕の中で必死にもがき、離して、と哀願を繰り返していた君。 『いやっ！……いやよ！離して！―――触らないで！』 　あの時の鋭い叫び声が、まだ耳から離れない。 「こうして……彼女のそばにいることも……結局は、僕の自己満足なんだ……」 　 　ずっと一人で辛い思いをして、まだその闇から抜け出せない君をひとりに出来なくて。 　僕のせいで、君をこんな目に合わせたんだ。もう、これ以上君のそばから離れたくない。 　そして―――君はそんな僕の気持ちに気がついてる。 　僕が、君を求めていることを感じ取ってる。 　だから……可哀想なくらい無理をして……僕が胸に抱き寄せている時も、懸命にこらえている。 　僕を傷つけまいと。 　でも君は、本当は……とても僕に怯えている。まだ。あの時と同じように。僕が傍にいるから、余計に君に辛い思いをさせている。 　もし他の仲間が……たとえばピュンマやジェロニモがずっとそばについていたら、君はこんなに苦しまなかったんじゃないか。そう思わずにはいられない。 　もうわかっている。 　君が僕に怯える理由。本当は僕を拒絶したがってる訳が――― 「ジョー？」 「あ…………ごめん」 　ハインリヒの声に、はっと顔をあげたジョーの背中を、ジェットは平手でドンと叩いた。 「ったく、お前って奴は……。いつまでも一人で、いいカッコすんなよな」 「ジェット……」 　茶の瞳が微かに潤んだ。 「もっと……弱音を吐いちまえよ！大丈夫だ。フランソワーズには、内緒にしておいてやるからさ」 　ウィンクを１つ送り、今度は肩を軽くひとつ叩く。 　あたたかい仲間の思いやり。無理に張り詰めていた力が、すうっと抜けていく。 「ありがとう、ジェット……」 　ジョーは微かな笑顔を浮かべ頷いた。 （やっぱり……さっきのことが、僕には相当堪えている。自業自得だけど……） 「ジョー……。あの選択は間違ってなかった」 　唐突にハインリヒは言った。怪訝な顔をするジョーに、さらに言葉を続ける。 「あの時も言ったが……」 　あそこでぐずぐずしてるようなお前だったら、とハインリヒはニヤッと笑って見せた。 ―――俺は、お前に愛想を尽かしてた。 「それに……あれは、俺たちの選択だ。お前だけが決めたわけじゃない。そのことを忘れるな」 「ハインリヒ……」 「あの場面では、ああすべきだった。その道を選んだのは……『俺たち』だ。もちろん、フランソワーズも含めて、な」 　俺たちは―――そういう仲間だろう？じっとジョーはハインリヒを見つめ返した。 「もちろん、こんなこと言ってもお前の心がちっとも軽くならないことはわかってる。お前が苦しんでるのは、そんなことじゃないってことも……。でもお前のそういう辛さを、一番よくわかっていたのが彼女じゃないのか？」 「ありがとう、ハインリヒ。……わかっている」 わかってるんだ。００９としての選択は間違ってない。でも――― 「イワン……は？」 　ジョーは、ふと思い出したように呟いた。 「ああ、大丈夫だ。ただ……ひたすら眠ってる。眠るのが回復への一番の近道だからな」 「そうだ、お前も少し休め」 　ジェットが言った時、ドアが開き、ギルモア博士が姿を現した。 「なんじゃ、まだ起きておったのか？休んでおれと言ったじゃろう？」 少し厳しい声でジョーにそう言うと、ハインリヒが差し出した椅子にどっかりと腰をおろした。 「フランソワーズは？」 　心配げなジョーの問いに、コーヒーカップを口元に運びながら、博士は頷いた。 「ああ、大丈夫じゃ。あまり頻繁に薬を使うのは感心せんが、今は無理にでも眠らせたほうがいいと思ってな。しばらくぐっすり眠るじゃろう。だから、今日は自分の部屋で休め。いいな、ジョー」 「ええ……でも……」 「お前さんが先に参ったら、元も子もない。正念場はこれからじゃぞ。今のうちにちゃんと休んでおくんじゃ」 「わかっています……でも……」 「でも、じゃない。どんなに強靭な体を持っていても、心は疲労する。心が疲労すれば、余裕がなくなる。焦ってはいかんのじゃ」 　ジェットは立ち上がると、ジョーを促す。 「さてと、じゃあ俺達も寝るとするか。行こう、ジョー」 「今夜は、俺がここにいるから。もし何かあったら知らせる。だから少しでも休むんだ」 「そうじゃ。早く行きなさい」 　ハインリヒと博士の追い立てるような言葉に、ジョーはしぶしぶ席を立った。 　それでも―――まだ、その扉を振り返ってじっと見つめている姿に、ジェットは心を鬼にして言う。 「何ぐずぐずしてんだ！行くぜっ！」 　ジェットに引きずられるようにジョーが姿を消すのを見届けると、ハインリヒは声を落として尋ねた。 「博士、どういうことですか？」 「ん？何のことじゃ？」 「人工肺が取り替えられていたって……」 　ああ、そのことか、とギルモアはパイプに火をつけ、紫煙をくゆらせながら頷いた。 「ワシも驚いたよ。いや……もっと早く……傷口があれだけ見事に縫合されていたんじゃから、そのくらい思いつくべきじゃった」 　機能検査の数値が、正常値と全く変わらなかったから、肺には異常がないと思っていた。 　一見しただけでは全くわからなかった。まさか丸ごと入れ替えられていたなんて。想像もしていなかった、と博士は言った。 「でも……前に博士が言っていたように……うまく『調整』するのはそう簡単なことではないんでしょう？ましてや他人が改造したサイボーグに手を入れて、直して、それで『負荷が同じ』って……」 　ふむ、としばらくギルモアは考え込んでから、言葉を続けた。 「……じゃが。あれだけのサイボーグを作る力がＢＧにはあった。ある意味、世界の頭脳が集まっておるんじゃ。彼らにすれば技術的には少しも難しいことではない。ただ……」 「ただ？」 「いや……これはわしの考えすぎじゃろうが……」 　ギルモアは深くパイプを吸うと、ゆっくりと煙を吐き出し、そのまま黙り込んでしまった。 ＊ 　久しぶりに、入る自分の部屋。 　澱んだ空気を入れ替えようと窓を開け、ジョーは外の闇をじっと見つめた。 　まだ夜明けまでは時間がある。だが、空は微かに青味を帯び始めていた。 （君は……ちゃんと眠ってるんだろうか） 　薬の力を借りて、ぐっすり眠って―――目を覚ました時、君は僕のことを思い出してくれるだろうか？ 『私たちは……恋人同士だったの？』 　何を犠牲にしても、何と引き換えにしても、君を守る。それが出来なかった僕に答える資格はない。 　いや、出来なかったんじゃない。僕はそうしなかったんだ。 『フランソワーズ！僕は……君に……』 　たくさん話さなきゃいけないことがある。全部、君に話してから。でなければ――― 　そう言いたかった。言わなければならなかった。なのに、ただ抱きしめることしか出来なくて。 　なのに、君は…… 『ありがとう……ジョー』 　君の髪に顔を埋めて泣いていた僕の沈黙をすくい取るように、優しくそう言った。 『お願い……横にならせて。ちょっと……辛いの』 　慌てて僕は、君をベッドにそっと横にならせた。 『ごめん、今日はいろいろあって……疲れたのに。ずっと起きてちゃだめだって言ったのは僕だったのにね』 　ううん、と小さく首を振り、声をたどるように君は僕を探した。そっと手を握り締めると、ありがとう、と繰り返し呟いて、ゆっくりと目を閉じた。 　どのくらい時間がたっただろう。てっきりもう眠っているのだと思っていた。 　ベッドの横の床に座り込んで、ぼんやりしていた僕の耳に、突然飛び込んできた微かな声。 『ジョー……私……』 　慌てて顔を覗き込む。 『……どうしたの？眠れないのかい？』 『もう……大丈夫よ』 『え？』 『もう、一人でも……大丈夫』 　僕は耳を疑った。 『フランソワーズ？どうして？僕が……ここにいちゃダメかい？』 『え？あ……そういう意味じゃないわ。でも……』 　口ごもる彼女の手を、僕は思わず握り締めていた。 『ずっとここにいたら、他の事、何も出来ないでしょう？私と一緒にいても……何も……』 『フランソワーズ！どうしてそんなこと言うの？』 　辛そうに彼女は息を吐いた。 『だって……あなたを……これ以上……』 『ここにいたいんだ。ダメかい？』 　微かに首を横に振る。 『いてくれたら……嬉しいわ。でも……そうしたら私……きっと……』 青白い頬を、涙が伝い落ちた。 　僕はただ、ここで見守っていることしか出来ない。今の君に僕が出来ることは、それだけなのに。君は……それさえも……しなくていいと言うの？ 　だが君は、僕の手をそっと握り返した。まるで優しく許しを与えるように。 　そのまましばらく時間が過ぎ―――ようやく小さな寝息が聞こえた。 　相変わらず浅い眠り。眉を寄せて、何度も苦しそうに喘いでいた。 　どんな夢をみているのだろう。美しい顔が、時々辛そうに歪む。 『いやっ…………お願い、いや……』 『フランソワーズ？どうしたの？』 　首を激しく振って必死に何かを打ち消そうとする君の手を、思わず強く握った。 『ああ……だめ………。ウィルド……やめて……お願い……』 　ウィルド？ 『……ごめん……なさい……』 『フランソワーズ！！』 　頭を激しく殴られたような衝撃。 　ぽろぽろと涙をこぼす君を、打ちのめされた僕は、ただ呆然と見つめていた。 　突然、君は呻き声をあげ、激しく身を捩って苦しみだした。 『どうした？痛むの？……どこが苦しい？』 『あ………い、息が……苦しいの……ああ……』 　荒い息遣い。真っ青な顔。 『痛い……ううっ…………助けて……お願い……ウィルド……』 ―――ウィルド 　君はあの時もその名前を口にした。僕の頬を伝う涙を拭いながら。 　それは―――君と同じ髪をしたあの男？ 　廃墟と化した基地のはずれ。 　瓦礫の山の中、あの男は、君の細い体を抱きしめたまま死んでいた。 　穏やかな死に顔。満足げな微笑を浮かべているようにさえ見えた。 『返せ！フランソワーズを……返せ！』 　僕はそう叫びながら、無理やり彼から君をもぎとろうとした。硬直した体の、無言の抵抗。 ―――今更、何を言う？お前が見殺しにしたのだ。だから……。 　男が嘲う。 　だが、僕は力任せに引き剥がした。冷たく凍えきった体を。 　僕の心臓はあの時、確かに一瞬止まった。 　どんなことがあっても君を連れて帰らなければ。たとえどんな姿になっていても。そんなことを考えたせいで、本当に君は……こんなに冷たくなってしまった。だから、抱きしめて、少しでも温めたいと思って抱き続けた。 　もうそれが手遅れだと知っていながら。 　だが、君の瞼から涙が零れ落ちた。その時僕は、初めて微かな鼓動に気づいた。 「フランソワーズ！！！」 　強く抱きしめる僕に、君は酷く怯えた。激しく僕を拒絶して、気を失った。 ―――君だけじゃなかった。辛い記憶を封印していたのは。 （僕はこのことを、ずっと……無理に思い出さないようにしていた） 　ジョーはため息をついて窓辺を離れると、机の引き出しを開け、中からそっと何かを取り出した。 　このロザリオ。 　２人の傍に落ちていた、鎖のちぎれた銀の十字架。月の光を浴びて、青白く輝いていた。その裏に刻まれた文字。 『われ　まさに死に向き合うその時　汝立ちいでて　わが楯となりたまえ』 　僕はそれを握り締めたまま、しばらく呆然と立ちすくんだ。 　それから、僕は男を葬ろうとした。このまま陽に晒され、雨に打たれて朽ちていく骸を思うと、やりきれなかったから。 　すぐ傍の、爆発で出来た小さな窪みに彼の体を横たえた。この十字架を、胸の上に組んだ手に持たせようとした。と、その時――― 　瓦礫の上に寝かせていた君が、小さく呻いた。 　結局、僕は、君のスーパーガンを一緒に埋めた。その腕からもぎ取った、君の代わりに。 　今から思うと、なぜあんなに急いで、あの男を埋めたのだろう。 　みんなのところに君を連れて行ってから、また引き返してきてもよかったのに。 　そうだ。僕は、一刻も早く引き離したかった。君を、彼から。 　何もかも終わったあとに、まるで横取りするように、君を取り戻した僕なのに。 　でも、あの男は持っていってしまった。 　君の記憶を。おそらく、彼と一緒にいた間の記憶を。 　そして彼は嘲っていたのだろう。 『体は返してやる。だが、彼女の心はもうそこにはない。お前が……それを壊したのだから』 　苦しげな寝顔を僕はじっと見つめていた。ただ手を握って、名前を呼び続けることしか出来ずに。 　でも君は、夢の中でずっと彼を探していた。 　そして―――意識を取り戻した君は、また僕のことがわからなくなっていた。 「彼」の名前は思い出せたのに。 　彼は君に何をした？ 　いつから……君と一緒にいた？ 　肺を取り替えたのも彼なのか？ 　なぜ、あの男は君をかばって死んだ？ 　全身がカッと熱くなる。思わず握り締めた拳が、怒りに震える。 　怒り？いや、違う。僕は彼に嫉妬している。 　自分の命を投げ出して、君を守って死んだ男に。 　僕が出来なかったことを―――しようとしなかったことを、やってのけた彼に。 　まして彼は―――生身の人間だった。 　なぜだ？ 　なぜ、僕にはそれができなかった？ 　何よりも大切だと思っていたのに。 　今、自分の命と引き換えにしろといわれたら、喜んでそうできるのに。 　でも―――あの時、僕は君を見殺しにし、彼は君を守った。 　君はそのことに気づいている。 　こんな僕に、君は怯えてる。平然と君を切り捨てた、冷酷な僕に。 　あの後も、僕は当たり前のように呼吸をし、冷静に判断し、作戦を立てて実行した。 　目の前の敵を倒すことだけを考えていた。 　闘うことを運命づけられた機械の体。そう。運命のせいにするのは簡単なことだ。 　だが―――実際に闘っているのは、僕自身の意志。 　なぜ僕が、とずっと思っていた。なぜ僕が００９でなければならない？ 　だけど、今ならわかる。僕は、選ばれるべくして選ばれた。 　僕は非情な殺戮兵器になるのにふさわしい人間だ。もともと―――そうなんだ。 　目の前から敵が姿を消して初めて、僕は心を取り戻せる。 　闘いのためにそこまで非情になれる僕の冷たさ――本質的に僕の中にあるその冷酷さ。 　君は、それをきっと敏感に感じ取っている。 　いまさら、僕がどうやって温めようと、どれだけ抱きしめようと……かわいそうに君は凍えていくだけだ。 　でも―――それでも…… 『お願い……。私のこと……教えて欲しいの。あなたの……知っていることを』 　思い出せないと、私は私でいられない、と君は言った。 　話さなければならない。僕が。 　僕たちがどうして出会って、今まで何をしてきたかということを。 　博士が言っていた。無理に封じ込めた記憶は、そのままにしておくと、いつか内側から人の心を壊していく、と。 　でも自分が００３だとわからない君に、どれだけのことが話せるだろう。思い出すのは辛いことばかりなのに。こんなに傷ついて怯えている君に、どう話せばいい？ 　―――いや、そうじゃない。僕が怖れているのは。 　君に話さなければならないからだ。 　僕が君を傷つけて……そして……見殺しにした。あの時、あそこを離れることが何を意味していたのか、分かっていたのに。 　でも、そのことは、僕が君に話さなければならない。 　僕にそれが出来ない限り、君は……記憶を取り戻せない。僕は、彼から君の記憶を取り返すことは出来ない。 　銀のロザリオを手にしたまま、ジョーはまた窓辺に近づいた。 　もう夜明けだ。 　だが、弱々しい冬の太陽は、厚い雲に覆われて、その姿を現していない。 　あれから何度見ただろう。一人で、夜明けを。この景色を見るたびに君を思った。 　いや、夜明けだけじゃない。 　空も……星も……何を見ても、本当は……ずっと君を思い出していた。 　そして、君の言葉を。 　どんな絶望にも希望はある。夜明けの来ない夜はない。 　そう思いたい。 　でも―――本当に、朝は来るのだろうか。 　あの時の、君の微笑み。それを僕は取り戻せるだろうか。 　思わず握り締めた手の中の、鎖が鈍い音を立てた。 　ウィルド―――君を守って死んだ男。 　ふと思う。 　もしかしたら……彼は、君のために、彼と一緒にいた間の辛い記憶を持っていったのだろうか？ 　その記憶で君が苦しまないように。 　だとしたら……死んでまで？ 　なのに、僕は、何を弱音を吐いているんだろう？ 　君はこうして、ここにいるのに。 ―――辛いことがあっても、朝が来ればまた力が湧いてくる。 　君はそう言った。その君の強さを信じなくてどうする？ 　いや、そうじゃない。僕が強くならなきゃいけないだけだ。 　君のその辛い記憶を、ちゃんと一緒に受け止められるほどに。 　ロザリオを引き出しにしまうと、ジョーはゆっくりと部屋を後にした。 ＊ 「なんじゃ、お前さんは結局、ほとんど眠らずか？」 　ちょうどフランソワーズの部屋から出てきたギルモア博士は、ジョーの姿に顔をしかめた。 「フランソワーズは？」 「今、起きたところじゃ。今朝はずいぶん落ちついとる」 「よかった……」 　そう呟いたジョーの表情を、博士はじっと見つめていたが、やがてぽつりと言った。 「……何か、彼女に言うことがあるんじゃな？」 　ジョーは黙って頷いた。 「早く……行ってやりなさい。今なら、大丈夫じゃろう」 　ジョーはまた頷くと、ドアに向き直り、小さくノックした。 　カーテンの開けられた部屋に、薄日が差し込んでいる。わずかな雲の切れ目から、太陽が柔らかな光を放っていた。 「おはよう、フランソワーズ」 　彼女はベットの上に起き上がり、彼の足音を見えない瞳で懸命に追っている。 「……ジョー……？」 　ジョーは寄り添うように、ベッドにそっと腰をおろした。 「僕が……わかる？―――思い出してくれたの？」 　彼女は小さく首を傾げた。 「なんだか……前のことがよくわからないの。頭が……ぼんやりしてて……思い出せないわ……」 「大丈夫。心配要らない。少し疲れてたんだよ」 「私……」 　フランソワーズは心配そうに呟いた。 「あなたに……また……酷いことを言った？」 「酷いこと？」 　そんなことないよ、とジョーは微笑った。 「でも―――どうしてそんな風に思ったんだい？」 「どうしてかわからないけど……そんな気がしたの」 　そっと手を握りしめながら、ジョーは首を振った。 「大丈夫だよ。それより……僕は……君に、たくさん話さなきゃいけないことがあるんだ」 「……話さなきゃいけないこと？」 　ぴくりと細い体がこわばる。 「それは……私のこと？」 　フランソワーズはじっとジョーを見上げた。 　まるで、ちゃんと瞳にその姿が映っているかのように。 　澄んだ蒼。あまりに透明で、哀しい。 「君のことも……僕のことも、みんなのことも……全部」 「みんな？―――全部？」 　そうだよ、とジョーは頷いた。 「とても長い話で、一度では話しきれないんだ。でもね……端折ることなんてできない」 　そっと細い両肩を抱き、大きく見開かれた青い瞳を見つめながら、言葉を続ける。 「もう少し時間をくれるかい？必ず話すから。ちゃんと……整理して、最初から全部話したい。だから、その間に……君にも……少しでも元気になって欲しいんだ」 　せめて、１日中起き上がっていられるくらい、元気になったら。 　彼女は小さく頷いた。 「ありがとう……ジョー……」 　口元がゆっくりとほころび、春の陽射しのような柔らかな微笑が浮かんだ。 「フランソワーズ！！」 （今、君は確かに……確かに―――！） 　君の微笑み。それが、今まで僕を支えてきた。 （それがやっと……） 　急に抱きしめられたフランソワーズは、はっと身を固くした。 「……どうしたの？」 　不安げな、怯えた声。 「いったい……何が……」 　ジョーは亜麻色の髪に顔を埋め、耳元で囁いた。 「ごめん。びっくりさせて。でも―――嬉しかったんだ……」 「嬉しい？どうして？……何が……あったの？」 　彼女は、まだ少し震える声で尋ねた。 「君が……笑ってくれたから」 　わたしが？と目を丸くする。 「笑ったくらいで……どうして……そんなに……嬉しいの？」 「それは―――今はまだ……秘密」 「秘密？どんな……秘密？」 「だから……まだ……秘密だよ……」 　フランソワーズが、くすっと笑った。 「そう……秘密なのね。わかったわ」 　ジョーは必死に涙をこらえ、またそっと彼女を抱きしめた。 ＊ 「へえ、さすが大人！プロの料理人の面目躍如ってとこだな」 　グレートの言葉に、張々湖は胸を張った。 「昨日と今日は、まだスープだけアルけど……次はお粥にするアル！腕によりをかけて栄養満点のもの、作るアルね！！」 「ちぇっ。いいよな、大人は。彼女のために何か出来ることがあって」 　グレートがぼやくように言う。 「見えないんじゃ、百面相して笑わせるってわけにもいかんし……」 「バーカ！いい年したオッサンが、子供みたいなこと言うなよ。みんな、それぞれ出来ることをしてるんだから」 　ジェットが笑った。久しぶりに明るい空気が仲間たちを包んでいる。 「とにかく、食べられるようになってよかった……」 　ピュンマがほっとしたように呟いた。 「そうだ。……このまま、少しずつでも……元気になってくれたらな……」 　また、あの笑顔が見られるなら―――グレートの、珍しくしみじみとした言葉に、皆は黙って頷いた。 「今、どうしてるんだ？」 　彼女の部屋へと続くドアを見やりながら、ジェットはピュンマに尋ねた。 「よく眠っているらしいよ」 「ジョーは？」 「博士と研究室にいる」 「ま、これでジョーも少しは休めるさ。口惜しいが、俺達に……アイツの代わりは出来ないからな」 　会話を弾ませる仲間たちの輪から離れ、ハインリヒは、ひとり窓辺に立っていた。 （本当に、このまま―――？） 　もちろんそうあって欲しい。いや、そうでないにしても、もうしばらくの間だけでもこの時間が続いてくれることを、俺だって心から願ってる。 ―――もうしばらくの間だけでも？ （何だって俺は……こんなに悲観的なんだ） 　自分でもつくづく嫌になる。だが――― 　ガラスに額を押し付けるようにして、外を眺める。 　空が急に曇り始めた。灰色の雲が無気味に広がりつつある。朝はよく晴れていたのに。時折、突風が吹きつけ、ガタガタと窓硝子を激しく鳴らす。白く砕ける波頭。 　遠くから、かすかに雷鳴が聞こえる。 　急に胸騒ぎがした。 　考えすぎだと思う。だが、この景色を見ていると、たまらなく不安になる。 　近づいてくる雷の音に、ハインリヒは、唇を噛みしめた。 ＊ 　さっきから、遠くでゴロゴロと音がしていたのには気づいていた。 　確かに、嫌な予感はあった。 　彼女の様子を見に行こうとして、研究室を出た瞬間―――耳を劈くような、凄まじい雷鳴が轟いた。 　小さな悲鳴。 　ジョーは階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。 「フランソワーズ？！」 　彼女はベッドの隅に体を縮めるようにして、全身を激しく震わせて泣いていた。 「大丈夫。あの音に驚いたんだね？でも……もう大丈夫だよ」 　蒼白な顔。やはり、パニックを起こした？ （とにかく……落ち着かせなければ） 　ジョーは慌てて近づこうとした。 「だめっ！！……来ないで！！」 「フランソワーズ？」 　鋭い叫び声に、ジョーは一瞬ひるんだ。 「だめよ……知られたくないわ……。いやよ！でも……あなたを……」 　騙せない、と彼女は泣きながら言った。 「フランソワーズ……？君は……何も騙してなんかないよ。落ち着いて！」 「ちがうの……違うのよ！！でも……もう……私……ここにはいられない」 　怯えて、興奮しきって―――恐怖に顔が歪んでいる。 「どうしたの？君は、ここにいるんだよ。どこにも……どこにも行かなくていいんだ」 　そっと声をかけながら、近づく。痙攣かと思うほど、激しく震える体を抱きしめる。 「だめ……だわ……。わたし……」 　何があった？何か……思い出したのか？ 「落ち着いて。何があったとしても……大丈夫だから」 「わたし……」 　ピカッ！！！ 「わたし……ひと……を……」 　カーテンの開いた窓の向こうで、鋭い稲妻が空を切り裂き、青ざめた彼女の顔を、白く浮き上がらせた。 「……ころ……した……わ」 　グワッシャアアアアアアンン！！！ 　音のエネルギーが衝撃波となって伝わるほどの雷鳴。 「フ……フランソワーズ？！」 　ジョーは、ただ息を呑んだ。 「……殺したの。撃ったの。撃ち殺したのよ」 　再び、目を眩ます閃光が空を駆け巡る。 　まるで、爆音のような轟音が耳を劈く。 「たくさん……たくさん死んでるわ。みんな……私が殺したの？見て、この手！……あなたには見える？真っ赤でしょ？汚れてるわ……血で……」 「フランソワーズ！……違う。夢だよ。夢を……見たんだ」 「夢なんかじゃないわ。あれは……夢じゃない！私……いったい何者なの？」 　震えながら、両手で自分の体を抱きしめて、彼女は激しく頭を振った。 「落ち着いて、フランソワーズ！！違う、違うんだよ」 「違う？どう違うの？……何が……」 　ピカッツ！！ドカアアアアン！！！ 　ほとんど光と同時に振り落とされる音。 「……思い出したわ！たくさん……すごくたくさんの人が死んでるの。……そんな中で私は……手に……銃を握り締めて……。たくさんの死体……煙……壊れた建物……どうして？」 「フランソワーズ！！」 「血だわ！ここは……どこ？……ジャングル？どうして？どうして私……そんなところで……何が…… 」 　石畳。青黒く光る壁。 　誰かの悲鳴が耳を劈く。 　十字架？ 　手首を掴む強い力。全身を貫く電流のような衝撃。 　金髪の男。 「何？今のは……何なの？……わたし……一体……」 　耳元で轟く銃声―――そして、この手の衝撃。 「そうだわ。撃ったのよ。わたしが……撃ったの」 「落ち着いて！違うんだ。大丈夫だから」 　ぎくり、と一瞬、彼女の動きが止まった。 「ジョー……」 　静かな、でも、絶望的な声。 「あなた……どうして……驚かないの？」 　―――バリバリバリ！！！ 　間断なく稲光と雷鳴が続く。 「私……人を撃ったのよ！人殺しなの。なのに……どうして……そんなに落ち着いていられるの？」 　咄嗟にジョーは言葉に詰まった。 「まさか……あなた……知ってたの？この手が血まみれだって。私が……そういう人間だってこと……わかってたのね？最初からわかってたの？だから……だから……何も教えてくれなかったの？」 「フランソワーズ！！」 　必死に抱きしめるジョーの腕を、フランソワーズは激しく振り解こうとした。 「どうして？どうして言ってくれなかったの？いやっ！！離して！！離して！！」 「フランソワーズ！！お願いだから……落ち着いて！」 「ああ……もう……わたし……」 　何度か大きく肩で息をついて喘ぐと、フランソワーズはジョーの腕の中で気を失った。 「フランソワーズ！！違う……。君に……人の撃ち方を教えたのは僕だ。僕が……」 　ジョーの悲痛な叫びを、激しい雷鳴がかき消した。

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