２０．漂泊

突然、闇に薄明かりが灯った。 　小さな、微かな炎。 　虚しく宙を掴んでいた手が、そっと優しく握り締められる。 　あたたかい。 　凍てついていた体がぬくもりに満たされ、ふわりと軽く浮き上がっていく。 　あなたは、誰？ 　目を凝らすと、見慣れた姿がぼんやりと浮かび上がった。 　ジョー！！無事だったのね？ 　よかった……。それだけがずっと気がかりだった。 　そうよ、あなたが負けるはずないのに。でも、あの男は――― 　思わず、胸にすがりついていた。 　トクン……トクン。 　力強い鼓動が聞こえる。 　ああ……ここには何もない。あの痛みも、苦しみも。 　何も恐れずこうしていればいい。 　ここはどこなのかしら？私たちはどこにいるの？ 　でも、ここがどこでも、どんな場所でも、そばにあなたがいてくれるなら……。 　突然、両肩を掴まれてハッとする。その手に温もりはない。 「……ジョー？」 　彼はそっと自分の体を押しやった。 　と同時に頭のなかに閃く言葉。 ――ココハオマエノバショデハナイ 　ここは私の場所ではない？ 　そうだった。やっと思い出したわ。全部――― 　なのに私は何をしようとしたんだろう。 「彼女は仲間だよ」 　そう、大切な仲間。 　わかっている。十分わかっているわ。 　そんなこと、望んでるんじゃない。望んではいけないってわかってる。 　ただ、あなたがちゃんと生きているということがわかればそれだけでいい。 　それだけで私は……もう……何も――― 　しっかりしなきゃ。 　せめて……ちゃんと仲間でいられるようにしなければ。 　私は自分の意思でここにいる。 　誰のせいでもない。自分が決めたことなのだから。 　そう自分に言い聞かせて気持ちを奮い立たせ、前を見つめる。 　だが、そこには何もなかった。 　光はなく、音さえもない。 　徹底した無音が、痛いほど聴覚を刺激する。 　ジョー……？ 　どこへ行ったの？ 　みんなは……どこ？ 　私はここよ。どこにいるの？ 　行かないで！待って！お願い、待って！！ 　私は……一緒には行けない？ 　行く資格がない？ 　―――怖い。 　 　そう思った瞬間、ぐらり、と体が傾く。足元がどっと崩れ始める。 　突然、風を切る音。落ちていく―――どこまで？ 　重力に引き込まれて、どんどん加速する。 　スピードが頂点に達したとき、冷たい衝撃が全身を包んだ。 「気がついた？」 　闇の中に声がした。 　誰？ 　今のは……夢？ 　ずきり、と引き絞るような痛みが走る。 　肩が焼けつくようだ。 　苦しい。―――息が出来ない。 「ああ、よかった。意識を取り戻したんだね？どうなることかと思ったよ」 　柔らかに響く男の低い声がした。 　あなたは誰？ 　こんなに目を見開いているのに、ここはどうして真っ暗なの？ 　体が重い。息をするのが辛い。 「もうしばらくそうやって……休んでいるといいから」 　ここはどこ？ 　みんなは……ジョーはどこ？ 　どうしてこんなに苦しいんだろう。空気が薄いみたい。 　手も足も、ばらばらになってしまったような気がする。 　指を動かすことさえできないなんて、私どうなってしまったの？ 「本当に何も心配しなくていいんだよ。ひどいケガだったけど……」 　柔らかな響き。 　聞き覚えのない声。なのにどこか懐かしい。かすかに煙草の匂いがする。 　ここはどこ？ 　あなたは誰なの？ 　そう尋ねたいのに、かすれた吐息が漏れるだけだ。 「君を見つけてから、もう１週間近くになる。昏睡状態がずっと続いていたから……」 　一週間？ 　見つける？ 　ここはいったいどこなの？ 　なぜこんなに暗いの？ 　今は夜なのかしら？ 　いいえ。どんなに暗くても私には見えるはず。なのに、なぜ？ 　やっぱり、これはまだ夢の続き？ 「……さすがの僕も……自信がなくなってたんだ」 　男はホッとした声で、言葉を続ける。 　何を言っているのだろう、この人は。 　ひんやりした手が優しく額に触れた。 「まだ熱がかなり高いし……無理しない方がいい。今はとにかく……もう少しお休み」 　そっと腕を取ると、男は何か注射をした。 　抗おうにも、自分の意思で体を動かすことすら出来ない。なされるがままだ。 　私、どうすればいいの？ 　一体、何がおこったの？ 　ここは……どこ？ 　懸命に問いかけようとするうちに頭の中に白いもやが立ちこめ、意識が薄れていく。 　落ちていく。深い眠りの谷間に――― ―――これは何かしら？ 　遠くから不思議な音が聞こえる。 　何の音？ 　人の声？―――慟哭？ 　押し殺して押し殺して、必死に封じ込めた思いが、堰を切って迸る。そんな、悲痛な魂の叫び。 「助けて！お願い……助けて！！」 　あなたはどこにいるの？ 　どうやって助ければいい？ ―――と、唐突に音が止む。 　今度こそ……確かに、咽び泣く声がする。 　どうしたの？ 　何があったの？ 　あなたはどこにいるの？ 　何が……あなたをそんなに苦しめているの？ ―――沈黙だけの返答。 　あれは波が砕ける音？ 　潮の匂い。ここは海の近く？ 　強い風に、ガラスが揺れる音かしら。 　あの泣き声は―――慟哭だと思ったのは、荒れた海の咆哮だったのだろうか。 　いったいここはどこなんだろう？ 「気分はどう？少しは楽になった？」 　突然、柔らかな声が響いた。 　この声。夢の中で何度か聞いた。 「この間のことは覚えているかい？一度、目を覚ました時のこと……」 　頭を微かに横に振ると、無理もないな、と男は小さく呟いた。 「ケガもひどいし……熱も相当高かったからね」 　ケガ？ 　私はケガをした？ 「君、ケガした時のこと、覚えている？どこで……こんな酷いケガをしたの？」 　私はどこで……？ 「何をしていて……海に落ちたの？」 　海に落ちた？ 　私はどこにいて……何をしていた？ ―――嵐。 　雷鳴。稲妻。 　そう、私はあの崖に立っていた。 　耳を劈く轟音と目を眩ます閃光。 　絶壁。 　なぜ？―――なぜそんなところに？ 　絶壁に立って私は何をしていた？ 　そうだ。そうだわ！ 　あの時、私の目の前を黒い影が横切った……。あの男が……！ああっ！ジョー！ 「あっ……」 「だ、だめだよ！急に起き上がったりしたら……」 　全身を貫く苦痛に気を失いそうになったフランソワーズの体を、男はあわてて支えると、そっと静かにベッドに横たわらせた。 「でも……ちゃんと覚えているんだね」 　男は、ふうっと安堵のため息をついた。 「頭を打ったりはしてないわけだ。よかった。この外傷だけでも相当厄介だから……」 　羽のように軽い毛布を、彼女の胸のあたりまでそっと引き上げる。 「かなり痛むだろう？この……肩のあたりの傷がいちばん酷いな。でも他の傷も、どれも致命傷になってもおかしくないくらいだよ。本当に、満身創痍とはこのことだ」 　こんなひどい状態でよく……、と男は言葉を濁した。 ―――満身創痍？ 　どきり、と胸が鳴る。 「残念だけど、ここには十分な設備がない。傷口は一応縫ったけど、薬も痛み止めくらいしかない。内臓の状態はよくわからないし、なるべく早くちゃんとした処置のできるところで診てもらったほうがいい」 　穏やかな声ながらきっぱりと言い放った男に、フランソワーズはゆっくりと唇を動かした。 「え？僕は医者なのかって？……ああ、まあ、そんなものだな」 　男の声が優しく響く。だが、どこか哀しげな、低い声音。 　やっとの思いで指を伸ばし、フランソワーズは自分の体に触れた。 　滑らかな肌触りの布。予想通り、防護服ではない。 　ということは、彼は―――気づいている？ 　どこまで？ 　それとも、何もかも？ 　まさか、わかっていて私を助けた？ 　そんなはずはない。 　普通の医者が普通に診たくらいではわからない、とギルモア博士は言っていたもの。 　でも……。 　不安が頭の中を駆け巡る。 　不安。 　そうだ。彼のことよりも……もっと気になっていたこと。 　自分を包む、このどんよりした闇。 　なぜ？ 　いったいどうなっているの？ 　これは夢なの？ 　どうしてこんなふうに真っ暗で―――まさか？ 　胸の動悸がいっそう激しくなる。 　男の足音が、少し遠ざかっていく。 　そう、音はちゃんと聞こえる。 　これは現実だ。夢なんかじゃない。 　ということは――― 「どうかした？苦しい？」 　再び近づいてきた男は、彼女の怯えた表情に、心配げに問うた。 「痛むかい？もう薬が切れたんだろうか？」 　小刻みに震えながら喘ぐフランソワーズの額に、またそっと触れる。 「ん……熱が上がったな。口から水分を取ったほうがいい。喉がカラカラだろう？そのままじゃ、声が出せないはずだ。体を起こすと痛いだろうけど、ちょっと我慢して。そう、ゆっくり……」 　男は、壊れやすいガラスでも扱うような慎重さで、そっと彼女の上半身を抱き起こした。 「さあ、これを……」 　何？―――それはどこにあるの？ 　手をさし伸ばすのに、何も触れない。 　私……。 　私の目――― 　男が、一瞬息を飲む。 「君……もしかして…………見えていないのか？」 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　男は、ウィルドと名乗った。 　ある研究機関に勤めている医者で、今は長期の休暇でこの別荘に来ていると言った。 　彼は自分のことはそれ以上何も話さなかったし、フランソワーズにも名前を尋ねただけだった。 　　君はどこから来たの？ 　　何をしていて、こんなひどいケガをしたの？ 　必ずまた彼は聞いてくると思っていた。 　そして。 　　あの奇妙なコスチュームは何なんだ？ 　　いったい君は何者だ？ 　そう尋ねられたら、どう答えようか。 　意識を取り戻してからはそのことばかり考えていた。 　突然、こんな面倒なケガ人を抱え込む羽目になったのだから、素性を知りたいと思うのが普通だろう。 　本当のことなど、もちろん言えない。 　でも辻褄の合わないことを言うわけにもいかない。 　どう言えば、彼を納得させられるだろう？ 　だが、彼は何も尋ねようとしなかった。 　聞きたいのに我慢しているという風でもない。 　一番最初に「どうしてケガしたか覚えている？」と言ったのは、フランソワーズの記憶と意識の回復を確認しようとしただけで、身の上や素性に関心を持ったわけではなさそうだった。 　不思議な人だ、とフランソワーズは思った。 　けれど、彼は冷淡なわけではなかった。厄介なものを抱えてしまった、という素振りは微塵も見せない。言葉は淡々としていたけれど、これ以上ないほど行き届いた世話をしてくれる。傷口を消毒するために体に触れる時でも、注射を打つ時でも、彼の動作にはさりげなく優しい気配りが溢れていた。 　この１日２日、やっと意識をしっかり保っていられる時間が長くなった。声も少しずつ出せるようになっている。でも、薬が切れてくると、再び激しい痛みが襲う。胸が特に苦しくてたまらない。 　呼吸が荒くなると、ウィルドはきまって柔らかい手でそっと額に触れた。 「また少し熱くなったね。氷で冷やそうか？」 　繊細な、ほっそりした指。冷たい手のひらが、頭に澱んだ熱を吸い取ってくれるような気がする。 「ううん……。あなたの手……冷たくて……気持ちいいわ」 　この人は、どんな顔をしているのだろう？ 　年は幾つくらいの人？瞳や髪の色は何色？ 　なかなかイメージが湧かない。でも声のする位置から、かなり背の高い人だということはわかった。 　ふと、小さい頃のことを思い出す。 　よく扁桃腺を腫らして、熱を出した自分。 　そんな時、いつも兄がこんな風にそばについていてくれたことを。 　今ごろ、兄はどうしてるだろう。 　やっと戻ってきた自分を、温かく迎えてくれたのに。 『もう……どこにも行くな』 　そう言って抱きしめてくれた。 　なのに、何も言わずにまた飛び出してきてしまった。 　どうして、お兄ちゃんに何度もあんな辛い思いをさせてしまうんだろう。 　ごめんね。私は、こうやって生きるしかないって思っている。 　でもお兄ちゃんは、納得できないわよね。 　一見以前と変わらない姿の妹が、銃を持って血なまぐさい戦場で生きようとするなんて。 　しかも、無理に連れ去られた前回とは違う。 　私は自分の意思でここに来てしまった。 　大切に育ててくれたのに。 　ずっと私の幸せのことばかり考えてくれてたのに。 　兄には理解できないだろう。そして、そんな妹を理解できないことで、きっとまた苦しむはずだ。 　ごめんなさい。でも、もう私は……。 　いつの間にか、とろとろと浅い眠りに落ちていた。 　今が昼なのか夜なのかさえわからない。時間の感覚は全くなかった。 　それでも何か手がかりをつかもうと耳を澄ますと、いろいろな音が聞こえた。 　浜に打ち寄せる波。海鳥の声。ひゅうひゅうと物悲しい風。窓ガラスを叩く雨の音も、何度か聞いた。 　今は、すぐ頭の上で、風車のような何かがカラカラと乾いた音を立てて回っている。 　ここはいったいどこなんだろう。周囲に人の気配はない。 　ウィルドは、ここは絶海の孤島だと冗談のように言っていたが、本当にそうかもしれない。 　自分の耳で探っても、船が行き交う気配さえ感じられないのだから。 ―――どうしているだろう、みんなは。 　きっと、とても心配をかけてる。 　黙ってドルフィン号の外に出て、急にいなくなってしまったんだもの。 　ジョー……。大丈夫よね？ 　あなたが負けたりしないわよね？ 　そのことを考えるのが怖い。不安でたまらなくなる。 　まさか、と思う。 　でも……あの男。今まで見たことないほど、高度に改造されたサイボーグだった。 　一瞬覗き見たその男の体に驚愕した。加速装置はもちろん、ありとあらゆる装備を身につけていた。 　まるで―――そう、仲間たちみんなの能力を、一人で全部持っているみたいに見えた。 　彼女と同じ種類の目と耳で、あの場所から、じっくりと中の様子を探っていたのだ。 　どうしてもっと早く見つけなかったんだろう。 　あの島に不時着して、ほっとして、一旦スイッチを切ってしまった。 　疲れていたなんて言い訳にならない。それが自分の務めなのに。 　外に出て、あの男が傍に近づいて来るまで全く気づかなかったなんて。 　とても自分が太刀打ちできるような相手ではないとわかっていた。 　でも、撃つことに躊躇はなかった。どんなことがあっても撃たなければならないと思った。 『君もちゃんと撃てるようにならなきゃ』 　相手がどんな姿で、どんな装備を備えていようと。 『君は００３なんだ』 　銃を構える。傷の痛みも忘れていた。 　耳元で彼の声がした。 『落ち着いて―――焦らないで』 　彼の手が自分の手に添えられている―――あの時と同じように。 　手ごたえはあった。きっと相手は、まさか自分が撃ってくるとは予想もしていなかったのだろう。完全に嘗めてかかっていた。だから、加速装置も使わずに近づいてきたのに違いない。 　でも、あの男が本気になった途端、勝負はあっけなくついた。 　弾き飛ばされて、そして……。 　どうなったんだろう、その後。 　みんなに、彼に、もしものことがあったら――― 　絶対にそんなはずはない。そう信じたい。 　つい昨日のことのように思える。でも実際は、あれからもう１０日以上たっていた。 　イワンはちゃんと目覚めただろうか？ 　クルツ博士の研究所に、無事に着いただろうか？ 　マリアのことは、うまくいったかしら？ 　優しくて明るいマリア。早く彼女の気持ちを楽にしてあげたい。 　お父さんと自分をとても責めているけれど、そんな重荷はもう取り去ることが出来る。だから、少しでも早く――― 　それでもBGは、唯一の鍵を握る彼女を何とかして手に入れようとするだろう。 　でも、彼女さえ楽になれば、あとは、あとはきっと――― 　ジョー……。 　その名前を心の中で呼んだだけで、涙が出そうになる。 　あの柔らかな茶色の瞳。それを思うと……。 　だめ。もう泣かないって決めたんだから。めそめそしている場合じゃない。 　何とかしてみんなのところに戻らなければ。 　でも、どうやって？ 　自分の体さえも動かせないのに？ましてや、目が見えないのに？ 　そうだ。自分は目が使えないのだ。 ―――あの時、もう何も見たくないなんて思ってしまったから？ 「君の目は……」 　転落した時にどこかで頭を打ったのか、ケガのショックでおそらく一時的に見えなくなったのだろう、とウィルドは言った。とにかく、ちゃんと調べてみないとわからない、と。　 　いいえ、ちゃんと調べてもわからない。 　普通の医者には治せない。ギルモア博士でなければ。 　でも、どうすれば博士のいるところに帰れるのだろう？ 「……率直に言うとね、君の命があったことの方が不思議なくらいだよ。こんな酷いケガをして、海に落ちて……流されて……沈んで。助かっていることが奇跡だ。今は全身が弱ってるから……それが回復すれば、視力も戻るかもしれない。だから……」 　ウィルドはいたわるように、優しくそう言った。 　私は死んでいた。 　もう少し、ウィルドが助けてくれるのが遅かったら、きっと。 　冷たい海の底で、誰にも知られずに。 　二度と、彼にも、仲間たちに会うこともなく。 　帰りたい。 　早く帰りたい。 　でも……私、どうすればいいの？ 　ここがどこなのかさえわからない。 　どうすれば、あなたのところへ帰れる？ 　もし、もしみんなが無事でなかったら……いいえ、そんなこと、あるはずがない。 　ああ……でも、もし――― 　早く帰らなければ。何としてでも。 『君が、その目と耳をちゃんと使ってくれないと……』 　彼の声が不意に蘇った。 　だめだわ。帰れない。こんな状態で、帰ることなんてできない。 　ギルモア博士でも、今は手の施しようがないはずだ。ドルフィン号には、それだけの設備はないし、一刻の猶予もならない状況だもの。 　どうしよう。目の使えない００３なんて、仲間としての意味がない。みんなの足手まといになるだけ。 　私は……どうすればいい？ 　こうやって、この闇の中でもがいているしかないの？ 　ああ！ジョー、助けて……。 「目が覚めたのかい？気分はどう？」 　ウィルドの呼びかけに、はっと我に返った。 　起きているのか、眠っているのか。どちらの意識もないうちに、どんどん時間だけ過ぎていく。 　肌にほんのりとあたたかい刺激があった。 　これは太陽の光？ 「今は……昼間なの？」 「朝だよ。今日はめずらしく穏やかな日和だ。暖かいから、少し窓を開けようか？」 　フランソワーズが頷くと、彼は上げ下げ窓をがたんと押し上げた。 　潮の香りが部屋の中に漂う。 「少し……起きてはいけない？」 「無理しないほうがいいよ。でも、少しだけクッションを高くしようか」 　ウィルドはそっと彼女の上体を抱え起こし、ピローを２つ重ねて背中にあてた。 　頭の位置が少し高くなる。この方が息が楽だ。 　窓から入る新鮮な朝の空気が、頬をやさしく撫でる。穏やかな日和。海の音も、いつもより耳に優しく響いている。 「今日は……ずいぶん波も静かね」 「風がないからね。……ここの海は、冬はいつも荒れ狂ってる。こんないい天気になることは滅多にない」 　そう言いながら、ウィルドはベッドのそばの椅子に腰を下ろした。 「晴れたのも3日ぶりだよ。ずっと風と雨が強かったから……。そうだ、何か食べる？」 　彼女は小さく首を横に振った。 「まだ食欲がない？」 　じゃあ飲み物だけでも持ってこよう、と彼は立ち上がって部屋の外に出て行った。 　窓の外にあらためて耳をすます。 　今は、穏やかな波の音だけが響いている。 　人間はおろか、生き物の気配すら感じられない静けさだ。 　本当にここは無人島なのね、とフランソワーズはため息をついた。 　ずっと、波と風と雨の音くらいしか聞こえなかった。 　だけど、たった一度だけ、不思議な音が聞こえた。 　あれはいったい何だったのかしら？ 　フランソワーズがぼんやりと思い返していると、ウィルドの足音が戻ってきた。 「さあ、これだけは飲まなきゃだめだ。全部だよ、いい？」 　ベッドの傍に跪くと、彼女の手を包み込むようにしてグラスを持たせた。 ―――この人は、どうしてこんなに優しいの？ 　口数は多くない。余計なことは何も聞かない。とても落ち着いた人。 　でも、見ず知らずの人間に、なぜここまで親切に出来るんだろう？ 　そう考えながら、ゆっくりと冷たい液体を喉に流し込んだ。 　ほのかに甘い水。 　私は萎れているわ、とふと思う。体中の細胞が死にかかっているみたい。 　いいえ、死にかかってるのは、細胞だけじゃない。それは、きっと私そのもの。 　苦しかった。何度も、もういいと思った。一番辛かった時に、聞こえてきたあの音。 「……あれは何だったのかしら？」 　グラスを持ったまま、ぼんやりと彼女は呟いた。 「何のこと？」 　ウィルドは、ようやく空になったグラスを受け取りながら、首を傾げた。 「不思議な音が聞こえたの。夢だったかもしれないけど……音楽のようだった」 「……音楽？」 　闇の中を彷徨い歩いていた。 　少しも進めない。 　絶望。 　でも、その先に何かがある。 　もがいて苦しんで、その何かを掴もうとしている。 　なのに手は届かない。 「聞いている間は……辛くて……たまらなかったの。悲しみが……溢れてて……泣いてるようだった。でも……きっと……夢ね。おかしな……夢」 「そう……聞こえていたのか」とウィルドは呟くように言った。 　聞こえていた？ 「……夢……じゃなかったの？」 　彼の足音が、ドアとは反対の方向に向かう。 「これの……ことかな？」 　突然、低い弦楽器の音が鳴り響いた。 　フランソワーズは、はっと顔を上げて音のする方向を見つめた。 　チェロの音？ 　確かにこの曲だった。 　でも―――ずいぶん印象が違う。 　これは、厳しいけれど、とても自由で、伸びやかな音楽。 　この人は、今これを弾いてる人は、ちゃんと知っている。救いへ至る道程を。 　苦悩の果てにある灯火を、ちゃんと手にしている。でも――― 　１つ目の曲が終わると、彼はスピーカーのボリュームを下げた。 「ええ。……この音楽だったと思うわ。チェロだったのね」 「曲名を知ってる？」 　いいえ、とフランソワーズはゆっくりと首を振った。 「これはね、バッハの無伴奏の５番のプレリュード」 「バッハ……」 「そう。彼の無伴奏曲は、チェロ弾きのバイブルみたいなものなんだ」 　彼はベッドに近づくと、そっとその縁に腰を下ろした。 「今の演奏、素晴らしいだろう？」 　いつも、しんと静まり返った森の奥の湖を思わせた。時も感情も何もかも飲み込んでしまったような、哀しいほど透明な水面―――漣さえ立たない。そんな印象だったウィルドの声が、心なしか弾んでいるように聞こえる。 「ええ、そうね。とても美しいわ」 　彼女はゆっくりと相槌を打った。 「でも……ちょっと違うわ」 「違う？」 「まるで、あの時とは……別の曲みたい。弾いている人が違うのかしら？」 　ウィルドは何も答えずに、フランソワーズを見つめた。 「私は……前のほうが好きだわ。なぜなのか……わからないけど……前に聞いたほうがずっと……心の近くで響く気がしたわ」 　あの人も闇の中にいた。私と同じように。 　その中で、迷って、苦しんで、どこへ行けばいいのかわからなくて……もがいていた。 　どこにも行けず、帰ることも出来ない今の私に、とてもよく似ている。 「それと比べると、今のは……とても上手だけど……普通の綺麗な演奏みたい」 「あはは！……君は……とんでもないことを言うね」 　突然の柔らかな笑い声に、フランソワーズは頬をさっと染めた。 　とんでもないこと―――何かおかしなことを言ったのだろうか？ 「あ……よくわかってないのに……ごめんなさい」 「いや、僕こそごめん、笑ったりして。……でもね」 　この人は―――もしかしたら、まだ若い人なのかもしれない。 　今までの声の調子や、落ち着いた態度から、勝手にかなり年上だと思っていたけれど。 「きっとカザルスは、お墓の中でひっくり返ってるだろうな」 　普通の演奏か、と彼はまた小さく笑った。 「今弾いてたのは、チェロの神様なんだよ」 「神様……？」 「とても６０年以上も前の録音とは思えないだろう？特にこの版はね、バッハの神髄って言われている」 　彼の音楽の中には永遠がある。時代も場所も越える永遠が――― 　そうでなければ、バッハの音楽は本当には弾けない。バッハは…… 「僕みたいな……」 　ウィルドは不意に口ごもった。 「え？……じゃあ……あの時のは……」 　この人が弾いていたの？ 「あなたは……お医者さんじゃなくて……チェリストなの？」 　目を丸くするフランソワーズに、いいや、とウィルドは頭を振った。 「なろうと思ったことはある。でも、今はただのアマチュアさ。時間つぶしにいい加減に弾いてるだけ」 　夢うつつの状態で聞いていたから、はっきりと断言はできない。でも、とても手遊びに楽器を鳴らしているようには聞こえなかった。 ―――だって、あの音は……あの調べは……。 　まだ腑に落ちないといった表情を浮かべているフランソワーズに、ウィルドは何か言いたげだったが、黙ったままそっとベッドから腰を上げた。 「じゃあ、神様の名誉回復のために、もう１曲。これは、あまり録音の状態がよくないんだけど……」 　少し調律が狂ったピアノの音。プチプチと針が飛ぶようなノイズが耳障りだ。確かに古い録音らしく、音質は良くない。 　だが、チェロが旋律を奏で始めた途端、何もかもが一変した。 　なんて豊かな音色なんだろう。深くて、あたたかくて、力強くて。 　そよそよと風が優しく草原を渡る。広がる青い空。 　包まれているのがわかる。眩しく輝かしい光に。心がだんだんと満たされてゆく。 　この曲は――― 「知ってるかい？この曲……」 　彼の問いかけにも答えず、フランソワーズはじっと目を閉じていた。その青白い頬を伝う涙の雫に気づき、ウィルドは静かにため息をついた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　ぎりっ、ぎりっと刺しこむような痛みが襲う。 　しばらくテーブルに肘を突いて頭を抱え、じっとやり過ごそうとした。だが次第に頭痛は酷くなるばかりだ。 「またか……」 　舌打ちをして立ち上がると、部屋の隅の棚から小さなアンプルを取り出した。なれた手つきで自分の左腕に注射する。 　この薬が、あんなことに役立つとは思わなかった。多目に持ってきていてよかった、と呟きながら、ぐったりとソファに仰向けに倒れこんだ。 　それにしても――― 　やはり外傷だけではなさそうだ、とウィルドはため息をついた。 　意識もしっかりしてきたし、初めは少しずつ良くなっているように見えた。だが、そうではなかった。 　呼吸が苦しそうだ。確実に肺をやられている。他にもあれだけのケガ―――相当な痛みを感じているだろう。あの薬さえ、もう効かなくなってきている。 　まだ若い娘なのに。あの心の強さはどこから来るんだ？ 　顔色は青ざめているが、相当な美貌の持ち主だと思う。 　形の良い唇。長い睫。夢見るような大きな瞳。あどけなさの残る美しい寝顔に、思わず見とれてしまったほどだった。 　強く抱きしめたら、折れてしまいそうなほど華奢な体。寝巻き代わりに着せた自分のシャツの襟元から覗く、透けるように白い肌。だが、そこには無数の裂傷、擦過傷、打撲傷の痕。 　はじめは、目をそむけたくなるほど、痛々しかった。 　そして肩口から胸へかけての酷い傷。普通なら致命傷だ。 　今、とてもあんなふうに会話ができる状態ではないだろうに。 ―――強い。 　驚くほどの精神力だ。あの娘は泣き言ひとつ言わない。ずっと気丈に振舞っている。 　目が見えないことがわかった時でさえ、真っ青になって震えながらも、必死に唇を噛んで涙をこらえていた。 　何があっても泣かない、と固く決めているようだ。胸に抱えた深い哀しみを、完全に封じ込めてしまおうとするかのように。 　なのに――― 　母が教え給いし歌―――君が好きだったこの曲。僕はなぜこの曲を、彼女に聞かせたいと思ったんだろう。 　あの時以来一度も、聴いたことも弾いたこともなかった。 「昨日」に封印してしまったこの曲。スピーカーから流れ出た途端、やはり後悔した。じっと聞いているのがたまらなくなって、彼女に声をかけた。 　ところが―――彼女は泣いていた。あの曲を聴きながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。 　曲が終わると、かすれた声で彼女は呟いた。 「お願い……。もう一度……もう一度聞かせて……」 　何を思っているの？何を思い出したの？ 　君の「昨日」は、どんなだったの？ 　今日も明日も、僕にとっては、もう何の意味もない。 　なぜ今更、自分で穿り返したりする？薄い瘡蓋が覆っているだけの昨日を。 　ちょっと触れただけで、また真っ赤な血が流れ出すとわかっているのに。 　毎日は、ただ僕の生をすり減らして行くための、繰り返しに過ぎない。 　僕には明日など、ない。そう思っていた。 　なのに僕は自分で「明日」を口にした。 「あなたが……神様だって言った理由が、わかったような気がする」 　再び曲が終わると、彼女はそう呟いて小さく微笑んだ。もう涙はなかった。 「こんなにゆっくりのテンポだと、子守唄じゃないみたい。とてもロマンチックね」 「子守唄？」 「……違うの？私、ずっとそうだと思っていたわ。そう思って……歌ってた」 　かすかな声でそういうと、顔を上げ、ぼんやりと遠くを見つめた。 ―――今、君のその目に何が映っている？ 　淋しげな横顔を見つめながら、ウィルドは優しく言った。 「僕もこの曲は……昔、よく弾いたよ」 　彼女ははっとウィルドのほうを振り返り、ぜひあなたのチェロを聴かせて、と遠慮がちに言った。 「え？……チェロを？」 　それはいいけど、と言葉を濁したウィルドは、フランソワーズの表情を見て、首を横に振った。 　顔色が悪すぎる。これでは……。 「今日はこのくらいにしよう。こんなに長く喋ったり、音楽を聴いたりしただけでも、君は相当体力を消耗してるんだ。辛いだろう？もう休んだほうがいい。さあ……背中のクッション、はずすよ」 　大丈夫、と彼女は首を振った。だが、明らかに呼吸はさっきより荒くなっていた。 　そっと抱えてベッドに横たえようとした時、残念だわ、と耳元で呟いたその声に、ウィルドは咄嗟に応えていた。 　また明日、と。 「明日、君の調子が良かったら聴かせてあげるから」 「本当？……ありがとう……嬉しい」 　彼女は、肩で息をしながら、口元に笑みを浮かべ、安心したように目を閉じた。 　そうやって笑うと―――余計に似ている。 　無垢な微笑。 　いや、似てない。 　同じなのは瞳の色だけだ―――明るい海の色。 　髪も顔立ちも全然違う。なのに――― 『ウィルド、あなたのチェロを聞かせて』 　よく君もそう言って僕にせがんだ。 『いつもの曲を弾いて！ね、お願い』 　何度も何度も繰り返して、僕はあの曲を弾いた。 　最後に弾いたのは―――もう、思い出せないくらい昔だ。封印した過去の中。 　今の自分が弾くチェロは、あの頃とは全く違う。 　単なる物理的な弦の振動。心の隙間を誤魔化して埋めるための、虚しい音の羅列。 　なのに彼女は、僕の弾くチェロを聞いて、今の私と同じだ、と言った。 　迷って、苦しんで、どこへ行けばいいのかわからなくてもがいているみたいだと。 　なぜそんなことを言う？ 　なぜ―――わかる？ 　そうだ。確かに僕は彷徨い続けてる。この生と死の間を。 　行くあてなどないのに。 　僕の心は、もうここにはない。 　なのに、死ぬことすらできずに、ここにこうしている。 　なぜ、あの時、見過ごそうとしなかったのだろう？ 　どうして助けようなんて思ったんだろう。 　僕は、他人とは関わらないはずじゃなかったのか。 　歯車が狂ったまま動き出している。それがわかっていて、なぜ敢えて止めようとしない？ 　 　薬もそろそろ底をついてきた。 　これからどうする？ 　彼女の状態はかなり悪い。根本的に治療しなければ、そう長くはもたないだろう。 　本当はもっと早く手を打つべきだった。 　いや、いったいどんな手が打てたというんだ？ 　休暇の終わりは近づいている。 　目の見えない彼女をこんな状態でここに置き去りにするわけにはいかない。 　じゃあ連れて行くというのか？ 　まさか！　 　彼女をか？僕は本気でそんなことを考えてるのか？ 　そんなことをしたら……いったいどうなる？ 　連れていけるような場所じゃない。 　ウィルドは、頭を抱え込み、大きな溜息をついた。 　頭の痛みはすこしずつ鎮まりつつあった。しかし気分はいっそう重くなる。 　背もたれにぐったりと体を預け、天井の一角を見つめた。 ―――あと１週間。いずれにしても猶予はそれだけしかない。 　その間、彼女の体は持つだろうか？ 　どうせオペをするなら、少しでも早いほうがいいのではないか。 　オペをする？いったいどこで？ 「どうしたものか……」 　思わず声が出た。 　また長い溜息を一つ吐くと、ウィルドはゆっくりとソファから起き上がり、部屋の隅に立てかけてあったチェロに近づいた。 　楽器を手に取ろうとして、ふと立ち止まり、小さな窓の外を見上げた。 　茜色に染まった空。細い雲が黄金に輝き、薄く流れる。 　無意識にポケットから煙草を出し、口にくわえた。 ―――明日、か。 　ちらっと奥の扉を振り返る。 　ウィルドはくわえていた煙草を床に落とすと、おもむろにチェロを抱え上げ、そのまま椅子に腰を下ろした。 「張り直さなきゃ……」 　切れたままになっていたD線。その残骸を取り除き、弦を張り替え始めた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　翌日―――いつもの処置が一通り終わると、ウィルドはチェロを持って再び部屋に入ってきた。 　慎重にそれを床に置いてベッドに近づき、昨日と同じようにフランソワーズの背にクッションをあてて上体を少し起こした。 「ありがとう。このほうが……ずいぶん息が楽なの」 「で、何を……弾けばいい？」 　少しぶっきら棒に彼は尋ねた。椅子を引き寄せて座り、楽器を構える。 「何でも……あなたの好きな曲を……お願い」 　今、あのプレリュードを弾いて欲しいと言ってはいけない気がして、彼女はそう答えた。 　さっと調弦すると、ウィルドはポピュラーな小曲を３つほど、さらりと続けて弾いた。 　最後に彼が弾いたのは、サン・サーンスの「白鳥」だった。 　ふと思い出す。西陽の差し込んでいた稽古場で踊っていたあの日を。 　もう……ずっとずっと昔のような気がする。 　今、自分は全く別の世界にいるのだ、と改めて思う。 ―――戻りたい？いいえ……そうじゃない。 　でも、チェロの音ってなんて美しいのかしら。 　こんな深くつややかな響きは初めて聞いた。そう感嘆するフランソワーズに、ウィルドは小さく首を振って言った。 「この楽器は特別なんだ。めったにない……それこそ名器だもの。だからさ」 　だが彼自身の腕もアマチュアのレベルをはるかに超えていた。ソリストとして十分やっていけるくらいの技量を持っているように思えた。 　もちろんあの巨匠の演奏に比べると若々しい感じがする。でも、瑞々しくて優しい音色は、彼女の心を惹きつけた。夢の中で聞いた彼の音とはずいぶん印象が違う。 「素晴らしいわ……とても素敵だった。ありがとう……」 「返したいんだ、このチェロ……」 　唐突にウィルドはそう言った。 「返す？」 「本当は……僕なんかが持っているようなものじゃない」 　あるべき場所に返したい、とウィルドは思いつめたような声で言った。 「あるべき場所？」 「ちゃんと永遠を知っている弾き手のところに」 「永遠？」 「そう。あのカザルスみたいにね。こんな魂の抜けたような弾き方しか出来ない男には、ふさわしくない楽器だよ」 「そんな……あなたの音楽にはちゃんと魂がこもっていたわ」 　思わず力をこめて言ったフランソワーズの言葉に、ウィルドは淋しげに笑った。 「それは……ありがたい言葉だね」 　昨日の弾んだ声とは全然違う。どこか皮肉っぽくさえ聞こえた。 　そのまま彼は何も言わず、黙り込んでしまった。 「ウィルド、私……」 　その後の長い沈黙に耐えられなくなって、フランソワーズは呟くように言った。 「あなたにとても迷惑かけてしまって……ごめんなさい」 「またそのこと？もうその話はいいよ。別に……僕は大した事をしたわけじゃない」 「でも……せっかくのお休みだったのに。それに……」 　どうせ退屈してたんだ、とぽつりと彼は言った。 「ここには何もないしね。いや、何もないからこそ、この無人島にいるんだけど。ここなら他人に煩わされることもないから」 　十分煩わしい思いをさせてしまったわ、とフランソワーズはため息をついた。 「君が気にすることじゃないよ。僕が勝手にやったことなんだから」 　自嘲気味にウィルドは言葉を続けた。 「助けたのは君のためじゃないかもしれない。単なる気まぐれさ。君が可愛い女の子でなかったら、きっと助けていなかっただろう。僕は……その程度の男なんだ」 　どこまで彼は本気なんだろう。どうしてこんな風に……。 　フランソワーズは何も言えずに、唇を噛みしめた。 　またしばらく、いたたまれない沈黙が続く。 　今度はウィルドのほうから口を開いた。 「僕は人間が嫌いなんだ」 　こうして無人島にいるのも、普通の医者じゃないのも。理由は全部、人間が嫌いだからだ。 「嫌い、だなんて、そんな生易しいもんじゃないな。人間の存在そのものを憎んでいると言ったほうがいいかもしれない」 　彼は、吐き捨てるようにそう言った。その激しい口調に、フランソワーズはただ息を呑んで、声のする方向を見つめていた。 　突然、重い沈黙を突き破るかのように、低い音が鳴り響いた。 ―――あのプレリュード。 　でも、夢うつつで聴いた音楽よりも、ずっとずっと激しく厳しい。 　彼は、何かとてつもなく重いものを背負っている。それはあの時も感じた。 　でも今、彼は完全に心を閉ざしていた。何もかも拒絶している―――光も、救いを求めることも、泣くことさえも。重い十字架を背負い、その重さに押しつぶされる時が来るのを、じっと待っているかのようだった。 ―――どうして？あなたは何にそんなに苦しんでいるの？何が……あったの？ 　だが彼は、一切の同情を拒んで、ただひとり、チェロと対峙していた。 　最後の和音まで一気に弾ききると、ウィルドはふううと大きなため息をつき、弓をゆるめた。 「ごめん。余計なことを……喋りすぎたね」 　その声は、もういつもの穏やかさを取り戻していた。 　チェロをそっと床に置く音。 「さあ……もう……あとはゆっくりお休み」 　細い体を優しく抱え込んでベッドに横たえると、彼はチェロを抱えて部屋を出て行った。 　遠ざかっていく足音――― 『人間の存在そのものを憎む』 　とても彼の言葉とは思えなかった。 　ウィルドはとても疲れている。そして苛々している。 　きっと、はかばかしく回復しない自分を、どうしたらいいか悩んでいるのだろう。 　もうすぐ休暇も終わるはずだ。彼は何も言わないけれど。 　今までずっと彼の好意に甘えてきた。でもいつまでもこうしているわけにはいかない。 　じゃあ、どうすればいい？―――答えは出ない。 　考えれば考えるほど、追い詰められていく。 　なぜ、良くならないのだろう。逆にだんだん悪くなっているような気がする。 　歩くことさえ、いや、起き上がることさえままならないなんて。 　さっきからまた痛みが増していた。しばらく前にウィルドが痛み止めを注射してくれたばかりなのに。 　もしかしたら―――私はここで死ぬのかもしれない。でも、そうだとしても、仕方がない。 　ウィルドが見つけてくれていなければ、本当はもう死んでいた。あの冷たい海の底で。 　懐かしいあの瞳がふっと浮かんだ。 　……ジョー……。 　私は……今、何を？ 　ここで死ぬ？ 　どうかしてる。 　私、いったい何を考えてたんだろう。でも――― 　お願い、ジョー……。 　私……あなたのことを思っていていい？ 　今だけは、あなたのこと、ずっと考えていい？ 　でないと、私―――くじけてしまいそうなの。 　自分で何とかしなくちゃいけないってわかってる。 　でも、何も見えなくて……怖くて……苦しくて……負けてしまいそうなの。 　このまま死んでしまったほうが、ずっと楽かもしれない。そう思ってしまう。 　いいえ、どうしても帰りたい。 　みんなのところへ―――あなたのところへ。 　でも……ここからどうやって抜け出せばいいの？ 　どうしたらいいのかわからない。もうだめかもしれない。 　でも、あなたのこと考えてたら、もう少し頑張れそうな気がするの。 　だから―――今だけ。 　もう一度会えるまでの間だけ――― 「うっ………・」 　引き絞るような痛みが走る。 　もう我慢できない。何とかしてやり過ごそうとしたけれど、無駄だった。 　苦しい。肩が……全身が痛い。息が……息が出来ない！苦しい……。 　助けて……誰か……！！ ―――ジョー！！ 　無意識のうちに伸ばした手が、ベッドサイドのテーブルに当たった。 　はずみで水差しが床に落ち、ガチャンと砕け散った。 　その派手な音に、ウィルドがあわてて駆け込んできた。 「フランソワーズ！！……どうした？！！」 　苦しみもがき、体をくの字に折り曲げている彼女を見て、ウィルドは絶句した。 「なぜ……なぜもっと早く呼ばなかった？！」 「あなたに……もう……迷惑かけられない」 「何を言ってるんだ」 「……あなたが……思ってる以上に……私……。でも……あなたを……巻き込む……」 　はあっ、はあっと激しく肩で息をつきながら、フランソワーズは懸命に瞳を見開こうとした。 「せっかく……助けて……もらったのに……ごめんなさい」 　蒼白な顔。血圧が下がっている。 「でも……もう…………いい……の……」 　ウィルドは青ざめ、部屋を飛び出した。棚から例のアンプルを取って駆け戻り、急いで注射する。 「しっかりしなきゃ！！だめだろう？こんなところで……死んでしまったら！」 　あまりの苦痛に、彼女の気力はもう尽きかけている。 「しっかりするんだ！！」 　どうすれば、それを――― 「……会わなくていいのかい？」 「会……う？」 　誰に？と、彼女は荒い息をしながら尋ねた。 「ジョー……に」 　ジョー？ 　会う？ 　会いたい。帰りたい。あなたのところへ。みんなのところへ。 　でもきっと―――もう会えない……。 『フランソワーズ……』 　ジョー？ 『フランソワーズ、信じてる』 　信じてる？私を？ 『君はちゃんと戻ってくる。僕はそう信じてる』 　ジョー……そこにいてくれたのね？ 　ああ、私何を考えているんだろう。 　ちゃんと生きなきゃ。ちゃんとみんなのところへ帰らなきゃ。 　あなたのところへ……。 　額にそっと冷たい手が触れたのにフランソワーズは気づいた。 「フランソワーズ……わかるかい？」 （……ウィルド……？） 　まだ体と意識がばらばらのまま、ふわふわと浮遊しているような気がした。 「よかった。ほんとに……死んでしまったかと思ったよ。やせ我慢するから」 　痛いならちゃんと痛いって言わないと、とウィルドは呆れたように首を振った。 （……ごめんなさい……） 　唇を動かそうとするが、声にならない。 「体が弱ってるときに無理に痛みを我慢したら、それだけで体力を消耗するんだ。まったく、見かけによらず強情なお嬢さんだな」 　ぶっきらぼうな口調とはうらはらの、優しい手が両頬を包む。 　私―――まだ生きている？ 　自分でも、もうだめだと思った。 　でも、あの時、あなたがあの優しい目で頷いてくれた。だから――― 「ジョー……」 「それは……恋人の名前？」 　フランソワーズはぎくりとして、顔を声のする方に向けた。 「どうして…………？」 　自分でも声が震えるのが分かる。なぜウィルドがそんなことを？ 「ずっと……君がその名前を呼んでたから……」 　ずっと呼んでいた？ 　そう、呼んでいた。 　もうだめだと思った時。苦しかった時。私はずっと彼の名前を呼んでいた。 　でも――― 「……恋人……じゃないわ……」 　違う。私たちは……。 「大切な…………とても……大切な……仲間……」 　自分の命よりもずっと大切な仲間。 ―――だけど、私は……。 　目尻から、涙の筋がいくつも伝い落ちた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 　もう少しで死なせてしまうところだった、とウィルドはソファに腰を下ろし、頭を抱え込んだ。 　僕があんな訳のわからないことを言ったのは自分のせいだと思って、我慢して助けを呼ぼうとしなかったんだろう。今度こそ本当にだめだと思った。 　それに―――あの名前。 　意識を取り戻す前から、フランソワーズはずっと同じ名前を呼んでいた。 　だからそう思い込んでいた。それは恋人の名前だと。 　勝手に重ね合わせていたのだ。死の淵で懸命に僕の名前を呼んでいただろう君と。 　でも僕の言葉に、蒼い瞳は凍りついた。 　懸命に堪えていたものを、張りつめていたものを、僕が無神経に打ち砕いたようだった。 　恋人ではなく、仲間？ 　あんなに必死に、それこそ命がけで守ろうとしていたのに？ 　いずれにせよ、　僕のつまらないお節介は彼女をひどく傷つけた。 　それにしても最悪のタイミング。こんな時に限ってなぜだ？ 　すぐに戻って来いだなんて。休暇中に連絡が来ることなど今まで一度もなかったのに。 ―――脱走？コントロール不能だ？ 　だから？ 　そのことについて、僕にどんな責任がある？それは現場の問題じゃないか。僕には関係がない。 　しかし、猶予は全くなくなった。 　彼女の状態はますます悪化している。このままでは、数日のうちに確実に死ぬ。 　一刻も早く根本的な処置をしなければ間に合わない。 　ということは連れて行くしかない？ 　そうだ、ここに置き去りにはできない。 　では……どうやって？ 　連れて行ったとして、それからどうする？ 　そして、もし本当に「そう」なら―――？ 　最初は全く気がつかなかった。でも違和感はあった。 　それだって僕だからこそ感じたことだ。 　だが、まさか……？ 　でもそう考えると、いろいろ辻褄は合う。 　辻褄……？ 　だからどうなんだ？余計に話は面倒になるばかりだ。 　自分の研究室には、誰も入ることが出来ないにしても、オペはどうする？ 　あんな古ぼけた実習室ではろくな対応はできない。 　根本的にやるなら、HT-α1を改造した時に使ったセンタールームを使わねばなるまい。 　そうなると―――さすがの僕でも、ひとりで簡単に事を進めることはできない。 　第一、どうやってそこへ連れて行く？ 　あれだけセキュリティの厳しい場所に、彼女を連れて行くなんて正気の沙汰じゃない。 　―――何か、他の道はないのか？ 『大切な仲間』 　―――仲間。 　その仲間を探すか？ 　どうやって？ 　この場所からでは難しい。まともな無線すらないのだ。どうやって連絡を取る？ 　端末は本部との専用回線だ。他には使えない。 　僕はいったい何をやっている？ 　ひとりで、焦って、頭を悩ませて。 　どうせ人はいつかは死ぬのだ。 　遅かれ早かれ、彼女も僕も。 　どんな生き方をしても、誰にも必ず死は訪れる。 　どこでどんなふうに死のうが、死そのものの意味は変わらない。 　死は、生の単なる終わりにすぎないのだから。 　無理をして、余計に苦痛を長引かせることはない。 　そうだ、助けなければ、あんなに苦しむことはなかった。 　あんな残酷な目に合わされることはなかった。 　中途半端に助けられたから、彼女は……。 　生きてさえくれれば……そう願ったけれど、そんな甘いものじゃなかった。 　最初のあの時に、死んでいたほうがずっと幸せだったんだ。 　そのことを一番よく知っているのは、僕なのに。 　なぜこんなことをしようとしている？ 　なぜこんなに助けたいと思う？ 　うまくいくとは限らない。可能性は限りなく低い。ゼロだと言ってもいい。 　なのに、なぜ？ 　―――どちらにしても、もう時間切れだ。 　そっとドアを開けると、ウィルドはベッドに近づいた。 「痛みはどう？……まだ我慢できる？苦しいかい？」 　苦しくないはずがない。外まで荒い息遣いが聞こえてくるのだから。 　なのに彼女は瞳を閉じたまま力なく首を横に振り、ごめんなさい、と呟いた。 　額に触れる。かなり熱い。小手先だけの処置はもう本当に限界だ。 　フランソワーズは喘ぎながら、かすれた声で言った。 「お願い……体を起こして座らせて。その方が……息が……」 　ウィルドは枕元に腰を下ろすと、後ろから抱きかかえるようにして彼女の体を起こした。 「いいよ、遠慮せずにもたれればいいから」 　苦しそうに肩で息をつくと、フランソワーズはゆっくりとウィルドの胸に体を預けた。 　華奢な、でも柔らかくあたたかい身体が、今、この腕の中にある。 　こんなぬくもり……ずっと忘れていた。もうそんなものは僕にはいらない。そう思っていた。 　なのに――― 「フランソワーズ……」 　君は必死になって、いったい何を守ろうとしているの？ 　どうしてそんなに一生懸命闘ってる？なぜ……そんなに……。 　思わずウィルドは、彼女を抱きしめた。 　フランソワーズはぴくっと体を一瞬こわばらせ、怯えた目をして顔を上げた。 「お願いだ。……もう少し……もう少しだけ……こうしてて……」 　ウィルドはかすれた声でそう呟くと、亜麻色の髪に顔を埋めた。 　いつのまにか、頬をとめどなく涙が伝う。 　自分でも気づかないうちに泣いていた。 　―――なぜ……僕は……。 　彼女が微かに震えているのがわかる。 　だが、ウィルドの涙の雫が青白い頬に伝い落ちた時、フランソワーズはふっと体の力を抜いた。 　静かな、でも限りなく優しい受容――― 　なぜ？なぜ君にはわかるの？ 　―――どうして？ 　これは代償行為だ。僕は、あの時出来なかったことの罪滅ぼしをしてるつもりか？ 　全く馬鹿げてる。 　でも。なぜ……なぜ……こんな気持ちに……。 「ごめん……」 　ウィルドがそっと腕の力を緩めると、フランソワーズは、微かに首を横に振った。 　閉じられた瞳から、涙がひとすじ零れた。 「フランソワーズ、君は……どこから来たの？」 　ウィルドは耳元で囁くように優しく言った。 「君を……どうすればいい？」 　彼女は微かに瞳を開いた。 「仲間は……どこにいる？」 　そこに君を帰さなきゃ。 「帰る？」 「そうだ。仲間の居場所は……どこなの？」 「仲間……？」 ―――わからない。 「わからない？……なぜ？」 　わからないの、と彼女は喘ぎながら首を振った。 「君たちは一緒にいたんだろう？今どこにいる？君をどこへ連れて行けばいい？どこへ帰してあげればいい？」 どこ……へ？ いったい私はどこへ帰ればいいの？ 「今は…………帰れないわ。帰れない……」 「どうして？」 「だって……このままじゃ……だめなの」 「どういうこと？」 「目が……見えないと……私は……私じゃいられないの……だめ……なの」 　彼女は途切れ途切れに呟いた。 「ウィルド……お願い……・治して！」 「治す？」 「お願い、治して！私の目を……」 　何かに取り憑かれたように、フランソワーズは同じ言葉を繰り返った。 「あなたなら……治せるわ……。私を……私の目を……治して……」 「フランソワーズ？」 　―――僕なら？ 　どういうことだ？まさか、君は……？ 「だって……あなたは……」 　ウィルドは呆然と、腕の中のフランソワーズを見つめた。

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