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２２．選ばれし者（前） |
| そして、２日目の夜が明けた。 立ち込める灰色の霧の中、ドルフィン号は、切り立った絶壁の上にうずくまるように羽を休めていた。 未だ飛び立つ気配は無い。 『やっぱり、こっちに００８を連れて来るんだったぜ。飛行艇の整備に予想以上に手間取ってる。ま、俺でも何とかなるとは思うが……。ちょっと手間取りそうだ』 ００２が苛立った声で連絡してきたのは、昨夜遅くのことだった。 彼が単身向かった第２研究所―――今となっては、００ナンバーにとって唯一の砦たりうる場所。その地下に格納されている飛行艇を使い、マリアをクルツ博士の秘密研究所に連れて行く。別行動のドルフィン号は、飛行艇から敵の目をそらしながら、その本拠地を探る。マリアの「作業」が終わったら、再び合流する。作業待ちの時間のロスを、最小限に抑えるために。それが彼らの取ろうとしている作戦だった。 だが００８が懸念したとおり、１年以上放置していた飛行艇の整備には、かなりの時間がかかりそうだった。 間に合うだろうか？ 大きな賭け。 だが、こんな作戦も、所詮は小細工に過ぎないかもしれない。 これくらいのことで、敵の目を飛行艇からそらすことが出来るのだろうか？ ここ数日の不気味な静寂。あれだけ執拗に攻撃してきたＢＧが鳴りをひそめているのはどうしたことだろう。 もう既に、何もかも見抜かれているのではないか？ 装備に劣る飛行艇が追撃されたら―――おそらく、ひとたまりもない。 だが、他に道はなかった。 ドルフィン号でクルツの研究所に乗りつけるリスクは余りにも大きい。何かあった時、全く身動きが取れなくなってしまう。 いずれにしても、今は待つしかない。００２の手はずが整うのを。防戦一方だったこちらの態勢を、早急に立て直す必要がある。そのために、今、ここで、できることをしておかなければ。 ００ナンバーたちは、焦りを抑えつつ、不眠不休で機体の整備やレーダーの修理にあたっていた。 マリアは、自分のキャビンでまんじりともせず一夜を過ごした。 眠れないとわかっていた。けれど、彼女を気遣う皆に、これ以上心配をかけたくなかったから。 朝の気配にそっと起き出す。コックピットへ向かったものの、黙々と作業する彼らにかける言葉がなかった。唇を噛み締め、ひとり、キャビンに戻る。 何も出来ることがない。悔しい。でも、ここは戦場なのだ。戦闘の最中に気を失ってしまうような自分など、足手まといにしかならない。 (……足手まとい？） それ以上だわ、とマリアは深い溜息をついた。 考えれば考えるほど、何もかも、自分が蒔いた種のような気がしてくる。 （パパのせいなんかじゃない。私が……私が、あの時……あんなふうに……００９の後を追わなければ、彼女は……） 準備の合間を縫って、００３の捜索は続けられていた。だが、手がかりは全くない。出発することは、もう決まっている。たとえ、彼女が見つからなくても。誰も、その是非については口にしない。 でも見ればわかる、彼らの目を。どれほどそのことに苦悩しているか。 このまま、ここを発ってしまったら、彼女は…… （そう、あの時だって……） ００２からの連絡を受けたコックピット。 予定の遅れに、皆は口々に苛立つ言葉を発した。だがそのほんのわずか一瞬。安堵に近い空気が流れたことを、マリアは敏感に感じ取っていた。 ―――もう少し、ここに入られる。 立ち去りがたい思い。それを押し殺して、彼らは今、淡々とした表情で作業に没頭している。 （私が一緒でなければ、ちゃんと見つかるまで探すことができるのに） ベッドにうつ伏せに身を投げ出し、マリアは激しく頭を振った。 ００３はどこにいるのだろう？今、どういう状態なのだろう？ 撃たれて、あの崖から落ちて……そして……。普通なら…… 想像しただけで体が震える。 （だめよ、そんなこと、考えちゃだめ！） みんなは信じているのに。 『彼女は生きてる。そう信じているからこそ、出発するんだ』 ００９は静かにそう言った。 でも。 このキャビンで、彼女と最後に交わした言葉。あの時の、柔らかな笑顔を思い浮かべると、涙が止まらない。 『ありがとう、００３。いろいろと……つまらない話を聞いてくれて』 『ううん。聞くことくらいしか……できなくて……ごめんなさい。さあ、もうゆっくり休んで。まだ先は長いわ』 優しく握り締める、あたたかな白い手。 『大丈夫。私も、起きなきゃ』 マリアがベッドから出ようとすると、彼女は慌てて首を振った。 『まだ、だめよ。今は無理しないで』 『大したことないのよ。ぴんぴんしてるのに。あなたこそ疲れた顔してる。少しは休んだら？』 何気なく言った言葉に、００３の表情がさっと翳った。 『……やっぱり中途半端ね、私って』 ゆっくりと息を吐き、微かに呟く。 『どうせなら……』 『００３？』 『私が……もっと……』 静かに伏せられた長い睫。かすかに震えていた。 ―――なぜ？ なぜ、彼女はあんな悲しげな顔をしたのだろう？ 自分は何か余計なことを言ったのだろうか？ だが、心配そうな顔のマリアに気づくと、００３はすぐにいつもの優しい微笑を浮かべた。 『あ、ごめんなさい。何でもないの』 『００３……』 『長居してしまったわね。ごめんなさい』 ニコッとして立ち上がった彼女は、ドアの前で何かを思い出したように振り返った。澄み切った蒼い瞳。その静かな深い光が、じっと自分を見つめている。 『……お願いね、マリア』 柔らかな、かすかな微笑み。 似ている。彼女は、まるで―――。不意に、マリアの脳裡に１枚の絵が浮かんだ。 そう。よく似ている。ママが大好きだった、あの絵に。彼女は……。 『……マリア』 ００９の声に我に返った。 もう彼女の姿はキャビンから消えていた。まるで入れ替わりのように、彼がドアのところに立っていた。 『００９、来てくれたの！』 『起きてるなんて……だめだよ』 彼は、ホッとした表情を浮かべつつも、少し厳しい声で首を横に振った。 『まだ先は長いんだ。今は、ゆっくり休んでなきゃ』 『もう大丈夫よ。大げさね、あなたも００３も。ただ気を失っただけなのに』 あなたたちは全く同じことを言うのね、とマリアは微笑って首をすくめた。 『でも……大したことは無かったようで、安心した』 優しい目で彼はそう言った。 あたたかな琥珀色の瞳。 じっと見つめているだけで、胸が切なくなる。こんな優しい人に、今まで出会ったことがない。 いいえ、ただ優しいだけじゃない。 この人の、あの瞳は……何かを懸命に求めてる。探してる。 時折、ほんの一瞬見せる、暗く、淋しげな表情。 その渇いた目が、マリアが見つめていることに気づいた途端、たまらなく優しい表情に変わる。 だから―――思わずにはいられなかった。 私にも、何かあなたにあげられる？その孤独な瞳が、ずっと求めているものを。少しでもその渇きを満たすことができる？私に？ 彼を見ていると、ついそんな気持ちになってしまう。 けれど。 あの時、００９はいつもと違っていた。落ち着かない様子で、すぐにキャビンを出て行ってしまった。 衝動的に後を追う。もう少しそばにいたかった。ただ、そんな軽い気持ちからだった。 彼はコックピットには戻らず、ハッチを開け、外へ出て行った。 激しい風。近づいてくる雷鳴。暗い海が、不気味なうなり声を上げている。マフラーをはためかせながら、００９は懸命にあたりを見まわしていた。 そう、彼は何かを探していた。声をかけるのを躊躇ってしまうほど、思いつめた、どこか痛々しい表情で。 （００９、あなたは……何を……？） と、突然、すぐ目の前に稲妻が走った。 耳を劈く雷鳴。 『きゃああ！！』 両手で頭を抱え、悲鳴を上げたマリアを、驚いた顔で００９は振り返った。 『マリア？！どうしてここに？休んでなきゃだめじゃないか！』 バリッ！！！と天空が裂けた。地上に振り落とされる凄まじい音。閃光がマリアの記憶を突き刺す。 （ああ、思い出してしまう。だめ、だめだわ！怖いっ！！） 両手で頭を抱え、怯えるマリアを、彼はそっと抱き寄せた。 『だめなの……雷。怖いの……』 思わず胸にしがみついていた。 『怖いの！！……怖いのよ』 こんな嵐の夜だった。あの夜……私は……。 父のエゴのために、なぜ自分はこんなに苦しまなければならない？ なぜ？なぜ、私がこんな目に？ あの時は、本気でそう思って、父を恨んだ。 『思い出すの……』 絞り出すような声で呟くマリアを、００９はただ黙って抱きしめた。 『あの時のこと……どうしても思い出してしまうの。だから……』 打ち据えるような、激しい大粒の雨。天を駆け巡る稲妻。雷の音が何もかもかき消す。 体の震えが止まらない。 でも次第に、心は落ち着いていった。 ずっと、この温かく逞しい胸で、こうしていられたら…… しばらくして００９は、低い声で呟いた。 『少しでも早く、君の……その重荷を降ろしてあげたい』 『……００９？』 『もうこれ以上、苦しまなくていいように』 マリアを腕に抱きしめたまま、彼は微かな声で言った。 『せめて、君は……』 何も怖くない。あなたがこうしていてくれたら。このまま、時が止まればいい。そう思った。 劈くような雷鳴も、雨の音も、もうマリアの耳には入らなかった。 その同じ時。 彼女はすぐ近くにいた。 全く気づかなかった自分達をかばって、あの男に撃たれて。 ２度も！！ どんな思いで、見ていたのだろう？ 嵐に怯える自分に気を取られ、彼女に気づかなかった００９を。 そして彼女は―――そのまま、崖から落ちた。 冗談半分に覗いただけで足がすくんだ、あの断崖絶壁から。 (私が一緒でなければ、彼はちゃんと……見つけることができた……） マリアは枕に顔を押しつけ、必死に嗚咽を押し殺した。 今ならわかる。 ００９は、ずっと彼女のことを考えていた。 嵐の中でも。２人で星空を見ていたときも。ううん、その前も。ずっと。あの激しい戦闘の間中、心配そうに見つめていた。 必死になって、敵の動きを捉えようとしてた００３を。 コックピット後方の自分の席からは、何度も隣を振り返る操縦席の００９がよく見えた。 時折震える細い肩。疲労困憊して、次第に青ざめていく横顔を見つめ、彼は彼女以上に辛そうな表情をしていた。 でも、誰にも代わりは出来ない。 ここにいる仲間の命が、００３の目と耳にかかっている。 彼は、何の手助けも出来ない自分に苛立っていた。 何度も、何か言いかけては口をつぐんでいた。 （私はただ……それを呆然と見てた） 耐えがたい緊張と恐怖の連続。いつ終わるのだろう？いったいどうなってしまうのだろう？ 体も意識もばらばらになっていく。 このまま、死んでしまうの？ マリアが、生まれて初めて経験した極限の世界。けれど、彼らはずっとそんな時間の中に身を置いてきた。 ―――俺達は、死と隣り合わせにいる。 ００４はさりげなく口にしたけれど、それはとてつもなく重い言葉。 ―――その反対側にいるのが仲間だ。 だからこそ、逃げられない。どんなに辛くても。苦しくても。お互いに、仲間の命を支え合っているのだから。望むと望まざるとに関わらず、生き延びていくために戦い続けねばならない。 自分達を生み出した「悪」と。 決して降ろすことができない十字架。もう、二度と元には戻れない。もし終わりがあるとすれば……それは……。 『せめて、君は』 あの言葉に、どれだけの想いが込められていたか。 しかも。彼は、あの時、００３を探しに行こうとしていた。それを邪魔したのは、私。なのに…… 『わかって欲しいんだ、マリア』 ここに閉じこもって泣きじゃくっていた自分に、００９は静かに言った。 『僕たちが、今、何をしなければならないか、彼女はちゃんとわかってる。彼女は、００３だから』 それに、と００９は強い眼差しをマリアに向けた。 『決して彼女のことをあきらめたわけじゃない。彼女は生きてる。そう信じているからこそ、出発するんだ』 『００９……』 『僕は信じてる』 彼女は必ず僕たちのところに帰って来る。 『だから……君も、僕達を……彼女を信じて』 その真っ直ぐな視線を受け止めきれずに、マリアは思わず目を伏せた。 （信じたい。信じたいわ。でも……あなただって……本当は……） 夜が明けて、コックピットに戻ってきた００９の表情。あの男に激昂した彼とは、別人のような穏やかな顔をしていた。 だが、空いた隣の席を視線がかすめた瞬間、悲しげに揺らいだ茶色の瞳。 （一番辛い思いをしてるのは……あなたでしょう？） なのに。 『すまない。君にこんな辛い思いをさせて』 ００９、どうして？ どうしてそんなふうに……私をそんなに優しく見つめることができるの？ 怒りも、悲しみも、何もかも包み込みこんで。微笑さえ浮かべて。 なぜ？ なぜ、あなたたちはそんなに強いの？ あなたも、彼女も、他のみんなも。 そうよ。体は改造されて、普通の人間とは比べ物にならないくらい強いかもしれない。 でも……心はそのままなのに。普通の人間と同じなのに。 たとえ体は傷つかなくても、心は血の涙を流している。 なのに、どうして？ それが、あなたたちの宿命だから？ そうやって生きるしかないから？ だとしても……どうしてそんなに優しいの？ その強さと優しさの源は何なの？ 『みんなが、仲間がいてくれたから……今までやってこれたの』 『仲間のためなら、喜んで死ねる』 仲間がいるから――― その仲間を、私のせいで失ったのに。大切な、一番大切な人を。 あの微笑が目に浮かぶ。そして彼女の最後の言葉。 『お願いね、マリア』 あの時……あなたは何を言おうとしたの？私に、何を？ まるで、こうなることがわかっていたみたい。 （私は、あなたのように……みんなのように強くはなれないわ） でも、本当に今回のことに責任を感じるなら、こんなふうにめそめそなんてしてられない。 （こんな弱虫じゃ、ダメ！） 今、自分にも出来ることがあるとしたら―――これ以上、みんなに心配をかけないこと。そして……。 マリアはゆっくりとベッドから身を起こした。 （とてもあなたの代わりには、なれないけれど） 涙をぬぐうと、マリアはキャビンを出てキッチンに向かった。 ＊ そこは、しんと静まり返っていた。 中に入ろうとして、意外な先客の姿を認め、思わず歩みを止めた。 じっと壁の一角を見つめて立っていたのは００９だった。 その視線の先―――薄桃色のチューリップが一輪。 （あの花は……） 『１本だけでも、と思って、こっそり整備中に持ち込んでたの。』 残りの花は瓦礫の下に埋もれてしまったわ、と００３は小さくため息をついた。 『でも、これだけでも残ってよかった。あ、その入れ物はね、００５が作ってくれたのよ。ドルフィン号は上下反転なんてしょっちゅうなのに。私ったら、うっかりして普通のガラスの瓶に入れて、ここに置いていたの。そうしたら……』 翌日、オブジェのような木製の花入れに、そっとチューリップが挿してあったという。今と同じように、しっかりと壁に固定された状態で。 『彼はとっても器用なの。見て。口のところに工夫がしてあるでしょ？だから少々振り回しても抜けないの。でもせっかく作ってくれたのに、自分からは何も言わないなんて、彼らしいわ』 彼女は愛しげに花に手を触れながら、微笑んだ。 『あの絵も、この花も……本当はこの場所にはふさわしくないわね。あってはいけないものだわ。緊張感を殺いでしまうもの。みんな何も言わないけど、私のわがままに、きっと呆れてるはずよ』 今、柔らかな薄緑の茎はＵ字に曲がり、花は力なく頭を垂れていた。あの頃は、まだ固い拳のようだった花弁を、うつ伏せに広げながら。 入り口から見つめているマリアには全く気づかず、００９はゆっくりと半歩前に出た。躊躇いがちに伸ばした右手。人差し指が、薄桃色の花びらに触れる。 まるで――愛しい人の肌をそっと撫でるように。 恥らうように花はかすかに揺れた。 どこかぎこちない、でもとても優しい仕草。 それは……あの時と同じ。包帯をした彼女の手を、そっと彼がとった時と。 （私、ほんとは……あの時に気づいてた。２人の気持ちに。言葉なんかにしなくても……ちゃんと……伝わってるわ。なのに……） マリアは唇を噛んで、じっと００９の横顔を見つめた。 彼は、ぐったりした花を抱き起こすように、両の手のひらで包み込んで静かに持ち上げた。 けれど手を離した途端、花は自身の重みに耐えられず、器の縁にぶらりと垂れ下がった。 （００９……） かすかに肩を落とし、ため息をつく彼に、かける言葉もない。 マリアは、今、ここに来たことを激しく後悔した。 神聖な行為を盗み見しているような罪悪感。 だが、立ち去ろうとするより早く、人の気配を感じた００９がハッと振り返った。 「マリア……」 微笑みが、胸に突き刺さる。彼が何を考えていたのか、わかっているから。 でも―――マリアも懸命に笑顔を返した。 （今……私に出来ることは、それくらいしかないから） 「おはよう……００９」 「どうして、こんな早くに……？」 眠れなかったかい？と気遣う００９に、マリアは首を振った。 「いいえ。ちゃんと眠ったわ。大丈夫。でも……あなたは……」 「僕らは、少々寝なくたって大丈夫なように出来てる。でも、君や博士はそういうわけにはいかない。もうちょっと休んでなきゃ」 さりげなく彼の隣に立つ。今、初めてその花に気づいたかのように、明るい声で言った。 「あ！これ、きっとお水がないのよ。すぐ持ってくるわ」 小さなグラスに水を注ぎかけて、マリアはふと手を止めた。 「ねえ、少し、切ってもいい？」 「切る？」 そっと花を引き抜く。茎の下の部分をナイフで大きく斜めに切り、水を注いだ。 随分短くなってしまった。でも、このくらい切れば、きっと……。 「これで元気になるはずよ」 ―――お願い。このまま、萎れないで！どうか、もう一度……。 祈るような気持ちで花を見つめる。 「……マリア、ありがとう……」 眩しげな眼差し。マリアは必死で涙をこらえ、明るく言った。 「コーヒーを入れようと思ってきたの。あなたもいかが？」 「ありがとう。でも……ちょっとイワンの様子を見てくる。あとでもらうよ」 「じゃあ、戻ってきてね。おいしいの、入れておくから！」 ００９は頷くと、通路に姿を消した。 しばらくして戻ってきた彼は、随分険しい顔をしていた。 （何かあったのかしら？） そんな様子に気づかないふりをして、マリアはカップを、はい、と差し出した。 キッチンを満たす香ばしい匂い。 「騙されたと思って飲んでみて！おいしいから！あ、何だか押し売りみたいね。でも、これだけは自信があるの。パパがうるさかったのよ。ママは……コーヒーを入れるのが上手だったんですって」 表情を和らげて、００９は頷いた。 「ほんとだ。とてもおいしいよ」 よかった、とマリアはくすっと肩をすくめた。 「赤ちゃんは、どうだった？そろそろ、ミルクを用意しなくちゃいけないわね」 「まだ眠ってる。でも……いくらなんでも、もう起きなきゃいけない時間なんだが……」 おかしい。 よほどのことがない限り――サイコパワーを強力に使ったりしない限り――００１が、その睡眠のリズムを狂わせることはない。ましてや、今のように、仲間達が彼の覚醒を心待ちにしているような時に。 眠りについた時は、いつもと変わらなかった。なのに、いったいなぜ目を覚まさないのだろう？ ００１なしには、今の計画は何一つ進まない。 このままクルツ研究所に向かっても、何も出来ないことになる。 起きていれば、００１は他の仲間達全員の力をあわせたよりもずっと強力だ。だがひとたび眠りにつけば、ただの赤ん坊にすぎない。 でも、これ以上マリアを不安がらせない方がいい、と００９はため息のかわりに、かすかな笑顔を彼女に向けた。 こんな非常時に自分達と行動をともにすることが、普通の人間にとってどれほどのストレスになるか。 その上、彼女はフランソワーズが行方不明になったことにとてもショックを受けている。 まるで自分の責任のように思って苦しんでいる。蒼白い頬、目の下の隈。美しい顔がずいぶんやつれていた。肉体的にも精神的にも、マリアの疲労は限界に近づいているはずだ。 ましてや、これからの「作業」は、相当な負担になるはずなのに。 （少し……休ませなくては……。このままでは参ってしまうだろう） 「すまない、マリア。すっかり遅くなってしまったけれど、今日の夜には出発できると思うんだ」 カップをそっとテーブルに置き、００９はまっすぐにマリアを見つめた。 「そんな……。謝らなきゃいけないのは私のほうよ」 私は行きたくなんかないの、と言おうとして、マリアは口をつぐんだ。 彼らの血のにじむような犠牲を、無にするような言葉を言ってはいけない。 「前も言ったけど、とにかく君を……早く、楽にしてあげたい」 「……００９？」 「００１なら、きっと、ちゃんと『解凍』できる。そうすれば、君はもう苦しまなくていいんだ。元に戻れる」 澄んだ瞳が見つめる。 （……同じ目、ね） 同じ光。 ２人は同じ眼差しをしてる。 お互いを見るときも、それぞれが他の誰かを見つめる時も。 きっと２人は、そのことに気づいていないだろうけど。 また涙が溢れそうになるのを、マリアは必死で堪えた。 「でも、これからは君がとても大変な思いをしなくちゃいけないんだ。時間も随分かかるそうだし。今のうちにちゃんと休んで、その時に備えてほしいんだ」 「ええ、大丈夫。ギルモア博士に伺ったの。父の遺してくれたものを、ちゃんと世の中に役立てられるように私が頑張らなきゃ。だから、もう心配しないで」 マリアの明るい声に、００９は頷いた。 「『作業』が終わっても、BGにはそんな事情はわからない。奴らは君を追い続けるだろう。きっと長期戦になる。だから」 わかってる。ちゃんと休むわ、と頷こうとして、マリアはふと顔をあげた。 何かが動いた気配。さっきとは微妙に空気が違っている。 「あ……」 思わず、声を上げていた。 ゆるいカーブを描く、しなやかな茎。 薄桃色の花が、懸命に頭を持ち上げようとしていた。 「……？」 頬を紅潮させて壁を見つめるマリアに首をかしげ、００９はゆっくりと背後を振り返った。 大きく開いた花弁。 薄緑がかった花芯が小さな星のように広がる。 ―――と。 マリアは息を呑んだ。 ふわり……落ちていく。 音もなく。ゆっくりと。 （だめっ！どうして？！……お願い！！） なのに、もう１枚。さっきよりずっと早い速度で花びらは宙を舞った。 そして２枚は、殆ど同時に床に落ち、微かに震えて止まった。 （なぜ？どうして、今じゃなきゃいけないの？） 風が吹いたわけでもないのに。触ったわけでもないのに。 残りの花びらが散るのも、時間の問題だった。 放心したようにその光景を見つめていた００９の唇が、ゆっくりと動いた。 かすれた声。はっきりとは聞き取れない。でもそれは―――彼女の名前。 砕けた瞳に涙はない。泣くことさえも出来ないほど、張り裂けてしまった心。 （違うのよ！ただ、その時が来ただけ。たまたま、今が散る時だったの。それだけのことなのよ！） マリアは懸命に心の中で叫んだ。だが、声にはならない。 とうとう耐え切れなくなって、面を伏せた時、彼は立ち上がった。 ゆっくりと床に屈みこむと、散り落ちた花びらをそっと拾い上げ、静かに姿を消した。 マリアは、両手で顔を覆い、堪えていた嗚咽を迸らせた。 翌日の朝。 今から出発する、と００２から連絡があった。 「こっちもすぐに発とう。予定の場所でうまく落ち合えるように」 ００９の落ち着き払った声が、コックピットに響いた。 ちら、と００４が振り返る。 微かに首を横に振ると、００９は頭を上げ、眼前に広がる暗い海を鋭く見つめた。 突然、雨が激しくなる。強くガラスを叩く音。 誰もが無言だった。 鈍色の空に吸い込まれるように、ドルフィン号は合流点目指して、まっしぐらに飛び立った。 |
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