１８．パンドラの箱

朝のまだきに生まれ、指ばら色の女神、オケアノスの流れから出で立つ。 　やがて陽は不死の神々に光をもたらし、死すべき人間には穣りを恵む田畑を照らすべく、美わしい海面を離れ、青銅の蒼穹に昇る――― 　思わず『オデュッセイア』の一節が、口をついて出た。 　今、東の水平線が朱に染まり、群青色の天空に向かってサフランの焔が立ち始めている。 　もうすぐ夜明け。 　ぼんやりと手にしたまま、いつの間にか短くなっていた煙草を、ウィルドはゆっくりと口元に運んだ。 　軽く吸い、長い時間をかけて紫煙を吐き出す。 　胸の底に澱んでいた思いとともに。 　死すべき人間には、ただ残酷なだけの曙光。 　安らかな眠りを奪い、ようやく闇に葬ったものを、無情にも暴き出す。 　いっそのこと、明けなければいいのに。それですべて終わるのに。 　もう何年も前のこと。ずっと記憶の海の底に封印してきた。 　二度と思い出すことはない。そう思っていた。そう決めていた。 　いや、封じ込めていることすら、忘れようと。 　現に、完璧に、そう出来ていたのだ。今までは。 　なのに―――― 　連日の激しい雨に清められた空気は、透みきっている。 　久しぶりの穏やかな色の海。まもなく、その滑らかな鏡面が黄金に輝き始めるだろう。 　ふわり、と亜麻色の髪がなびいた。 　腫れぼったい瞼に、冷たい風が心地よくしみる。 　床に落とした煙草を脚で踏み消すと、両手を頭のうしろで組み、椅子の背にもたれた。 　晴れ渡った天頂は、今、淡い藤色に染まっている。 　ふと、視界に入った西の空。 　浅紫から鴇色に変化する空の緞帳が、水平線近くの蒼い舞台へゆっくりと降りていく。 　緩やかなカーブを描く境界―――それが地球影。 　日の出前のほんの一瞬だけ、空に映るこの星の翳。 　実際に見たのは初めてだった。 　しばし見とれる。神々しい大気の演出。 　心が、自然と解けていくような優しい光。 　空をこんなにゆっくり見たのは、いつ以来だろう。 　ずっと、窓もろくにないような場所に閉じこもっていたから。 「空か……」 　ぐっと上体を後にそらし、天空と正面に向き合う。 　その晴れやかな眩しさに、目を細めた。 　だが次の瞬間、心は黒い雲に重く覆われた。 　―――なぜ、あのままにしておかなかった？ 　いつもの自分なら、絶対に見て見ぬふりをしていた。 　なのに、なぜ？ 　僕は何を考えている？ 　歯車が、軋んだ音をたてて動き始めた。何かが狂ったまま。 　望まぬ事態に巻き込まれようとしている。 　あの時、あのまま見過ごさなかったばかりに。 　望まぬ事態？ 　では僕は何かを望んでいるのか？ 　ウィルドは小さく首を振った。 　今までと違う。僕は、どこかいつもと違ってる。 　違う？何が違うんだ？ 　僕は、一体何を考えている？ 　何も考えてなんかいない。 　疲れているのか？ 　そうかもしれない。ようやく大きな仕事にけりをつけることができたばかりだから。 　これからはもう面倒なことに煩わされることはない。 　でも、もし……疲れていたとしても……だからどうなんだ？ 　もう僕には……。 　なのに僕は怯えているのか？怖れているのか？ 　―――違う。 　思わず声が出た。 　怯えてなどいない。怖れてなどいない。 　この僕に、何を怖れる必要がある？ 　今さら―――失うものなど、何もないのに。 「しばらく……ちゃんと寝ていないせいだ」 　声に出して自分に言い聞かせる。 　だが、目はしっかりと冴えていた。とても眠れそうにない。 　こんな時は……。 　ウィルドは憔悴しきった表情でデッキから立ち上がり、背後のドアを開けた。 　暖炉とテーブル、ソファ、そして本棚。 　必要最小限度の調度品が設えられただけの簡素な空間。 　格子窓を通して淡い光が射し込む部屋の隅に、ゆっくりと近づいた。 　背もたれの高い椅子に寄りかかっている飴色のボディを、無造作に抱えあげる。 　つんと鼻につくオイルの匂い。長い時間の調べに磨き上げられた、美しい木地の輝き。 　いつも思う。 　この滑らかな曲線は、ヒトの肉体の美しさそのものだ、と。 　いや、それだけじゃない。言葉にならない思いに、共鳴してくれる。 　何も言わなくても。 　ただ、愛撫するように、優しく、激しく弓で擦るだけで。 　言葉にならない思い？ 　どんな思いが今、僕の中にある？ 　そんなものはありはしない。 　僕がこれを弾くのは、虚ろな心の空を満たすためだけなのに。 　チェロを抱えて弓を持ち、ウィルドは再びデッキに出ようとドアを開けた。 　一瞬、中を振り返る。目に映ったのは、奥の部屋へと続く入り口。 　視線が一瞬留まる。 （まだ……しばらくは……） 　重い息をひとつ吐き出すと、外に向き直る。後ろ手に静かにドアを閉めた。 　麗しき玉座にいます曙の女神、神と人とに光をもたらすべく姿を現す――― 　わずか数分の時間が、外の光景を劇的に変えていた。 　陽はすでにその姿を海上に現し、神々しい黄金の矢を無数に放っている。 　呆然と立ったまま、太陽を見つめた。 　また、今日という日が始まる。 　だがこの新しい一日が、何かをもたらしてくれるとは思えない。 　昨日の繰り返し。 　そして繰り返すたび、僕は磨り減っていく。少しずつ、確実に。 　 　椅子を引きずるように前に動かすと、彼は腰をおろして楽器を構えた。 　１７３９年製のモンタニャーナ。 　クレモナのストラディヴァリに比肩するヴェネツィア工房の傑作。 ”Sleeping Beauty”の愛称を持つ、演奏家垂涎の名器。 　それを、こんな直射日光と潮風に曝すなんて、正気の沙汰とは思えない。 　だがどうしても弾かずにはいられなかった。今―――ここで。この場所で。 　この気持ちを鎮めるために。いつもの自分を取り戻すために。 　気持ち？いつもの自分？ 　どんな気持ちだ？何を鎮める？ 　―――まただ。 　今日の……この頃の僕は、どうかしている。 　思考を断ち切るように何度も頭を振ると、弓を張って調弦を始めた。 　演奏前には欠かせない、厳かな儀式。 　Ａの音を鳴らす。暗く沈んだ響き。 　微妙な音色の違いで、ピッチの狂いがわかる。 　Ａ線からＤ線、そしてＧ線からＣ線へ。 　完全に調和した開放弦の明るい響きが、周囲にふわりと広がった。 　目をつぶり、深く息を吸う。 　この曲を弾けば、必ず心が落ち着く。 　深い深い闇の帳の中に舞い戻れる。暗く冷たい地の底へ。 　一瞬の溜めの後、Ｃ線とＤ線にしっかりと弓を載せると、ウィルドは弾きなれたプレリュードを奏で始めた。 　重いＣ音のユニゾンで始まる荘厳な前奏曲。 　暗闇の中から、少しずつ少しずつ上昇するスケール。 　まるで、光射す出口を求めるように。 　苦闘―――希望への苦闘。 　　　　いつの日か　われ去り逝くとき 　　　　わがもとをば　去りたもうな 　なぜだ？なぜこんな言葉が頭に浮かぶ？ 　言葉、だけじゃない。なぜ……こんなことを？ ―――最期は、あんなふうに苦しんだのか？ 　胸に蘇る、焼けつくような痛み。 　その時、そばにいられなかった自分。 　瓦礫の山。もうもうと立ち込める煙。夥しい血と亡骸。 　夜のうちに国境を強行突破した僕が、暁の光の中で見たもの。 　　　　われ　まさに死に向き合うその時 　　　　汝立ちいでて　わが楯となりたまえ 　なぜ自分は生きている？生きて、ここに立っている？ 　すべてが遅すぎた。 　何もかも終わった後だった。なすすべもなく、ただ呆然と立っていた。 　そして―――僕は、結局そこから逃げた。 　ひたすら逃げて、とうとう、こんなところにまで来てしまった。 　本当は、あそこが、あの廃墟が、僕の死に場所だったのに。 　拍子が４分の４から８分の３に変わる。 　そこまでして、なぜ生きねばならない？ 　そんな場所に希望はあるのか？ 　それでも人は救いを求めるのか？ 　その罪深さ故に？ 　だが、僕に希望などない。救いも要らない。 　ウィルドは固く目をつぶり、ひたすらテンポを上げた。 　開け放たれた記憶の箱から、次々に飛び出しす断片。 　それが彼に纏わりつくのを、必死で振り払おうとするかのように。 　　　　恐怖と不安の闇 　　　　わが心を囲み閉ざさんとするとき 　　　　われをば　この怖しき淵より引き上げたまえ 　　　　汝のこうむりし不安と責め苦の支えによりて 　彼女は激しく喘ぎながら、ずっと誰かの名を呼んでいた。 　苦しげに肩で大きく息をして。 　まるで……。 「ウィルド！……ウィルド！助けて！私を助けて！」 　君の声だ。 　悲しみに顔をゆがめて……絶望の涙を流している君と重なる。 　なぜ、思い出させる？ずっと、ずっと……封じ込めてきたのに。 　やめてくれ！僕に助けを求めないでくれ。 　顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。 　思い出させないでくれ！もう……二度と。 　僕は……助けたりしない。助けることなんか出来ない。 　君さえも救えなかったのに。 　ましてや……。 「……・・づい……て」 　突然、聞こえたかすかな呟きに、ウィルドはそらした視線をはっと戻した。 「あぶ……ない……・逃げて……」 　この娘は何を言っている？ 「おねがい……」 　苦痛に美しい眉を寄せながら、必死で呼びかけていた。 「……気……づいて…………」 　はあ、はあっと喘ぎながら、白い手をすがるように伸ばす。 「ああ…………あ……ぶな……い……」 　こんなになってまで、一体何を？ 　生きていることさえも、信じられないような状態なのに。 　何が言いたいんだ？誰に、何を伝えたいの？ 　思わず、その手を握り締めていた。 　凍えきった冷たい指。 　微かに握り返す反応を感じた時、荒い息を吐きながら、彼女はゆっくりと瞼を開いた。 ―――この瞳は……！！ 「……ジョー……？」 　宙を彷徨う虚ろなまなざし。視線が定まらないまま、彼をすり抜けていく。 　だが、彼女はふっと表情を緩めた。 「よかっ……た……」 　蒼い瞳から涙が零れ、すうっと目尻を伝い落ちた。 「無事……だったの……ね……」 　ジョー？ 　ずっと呼んでいたのは、その名前か？ 　無事？ 　息を呑んで見つめる自分の手を握り締めたまま、消え入るような声で、よかった、と繰り返し呟く。 　とめどなく溢れる涙。 　やがて静かに目を閉じ、彼女は上半身全体で何度か大きく息を吐いた。 　するりと細い手が滑り落ちる。急に静かになる呼吸。 　青白い顔からは、先程までの苦悶の表情は全く消え失せていた。 　口元には、穏やかな微笑さえ浮かんでいる。 　まだあどけなさの残る端麗な顔立ちに、ウィルドは、心を奪われたようにじっと見とれていた。 　涙の粒が留まる長い睫。血の気を失った白い肌。青ざめた唇。 ―――こんな娘が、なぜ？どうしてこんな……。 　しばらく見つめているうちに、ようやくウィルドは異変に気づいた。 　静か過ぎる。 　本当に楽になったのか？ 　あわてて心臓の鼓動を確かめ、表情を強張らせた。 ―――まさか！ 　懸命に張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。そんな感じだった。 　このままでは……。 　逡巡し続けていた心が、ようやく決まった。 　それが、分かれ目だった。 　もう、引き返せない。 　引き返す？どこへ？ 　引き返したところで何がある？ 　これ以上、失うものも壊れるものも、ありはしないのに。 　 　僕は、一体何を考えている？ 　こうやってチェロを弾いていれば、何も考えないですんだ。いつもは――― 　考えないために、空っぽの頭を音符で埋めるために、こうしているのに。 　なのに―――なぜ？ 　なぜこんなに苦しい？ 　叩きつけるように移弦し、アッチェルランドをかける。力任せに最後のダブルストップを弾こうとした、その時。 　バチン、という不快な音とともにＤ線がぷつりと切れた。 　解決しないままの終止和音。 ―――閉ざされた、希望への扉。まるで、僕と同じ。 　腕から力が抜け、弓がぱたりと音を立てて床に落ちた。 　ウィルドは覆い被さるようにチェロを抱き寄せた。 　君は――― 　君も、最期に何か伝えようとしたの？ 「ミリアム……」 　声にならない呻き。 　だんだん強くなる陽射しに曝されたまま、身動き一つしないウィルドの喉から、押し殺した嗚咽が漏れた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「出発する、ですって？」 　００９の口にした意外な言葉に、マリアは息を呑んだ。 「どうして？どうして……そんな……」 　信じられない。 「いつ……？」 　震える声で尋ねる。今すぐだ、と彼は静かな声で言った。 　全身の血が逆流し、思わず叫んでいた。 「だめよ！そんなの、だめ！見捨てるの？彼女を……見捨てて行くの？！」 　激しく詰め寄り、腕を掴んで揺さぶる。 「マリア、落ち着いて。今、僕たちに出来る最善のことは」 　冷静に言う００９が憎らしかった。こんな人だと思わなかった。 　何が最善よ！と大声で叫んだ。 「仲間を見捨てるのが最善なの？そんなの、そんなのおかしいわ！！嫌よ！絶対に嫌！！もっと、ちゃんと探してから……」 　後は嗚咽で言葉にならない。 　コックピットは重い沈黙に包まれた。 　あの時の００３の微笑。単なる同情じゃなかった。彼女はわかってくれた。 　わかろうとしてくれた。私の苦しみを、共に感じようとしてくれたのよ。 　温かい白い手。まるで、まるで……。 　あの人を見捨てて行くなんて！どうしてそんなこと、できるの？ 　思いに言葉がついていかない。言いたいことは山ほどあるのに。 　００９、どうしてあなたがそんなこと言うの？ 　あなたがそんなこと言ったら……彼女は……。 　あなたって人がわからない。わからないわ！ 　マリアは泣きじゃくりながら、心の中で叫んだ。 「君の気持ちはよくわかる。だけど、いつまでもここにいて、敵に襲われるのを待っているわけにはいかないんだ。もうすぐ……００１が目覚める。そうすれば、００３を探すのももっと容易になるだろう。それに、その間に……」 「嫌よ！！」 　涙でいっぱいの目で、マリアは００９を睨みつけた。 「まずは君を安全なところへ―――いや、安全な状態にするのが最優先だ。でないと……」 　００４がちらりと首をかしげ、００９を見つめた。 「そんな事……今でなくてもいいじゃない！絶対に、絶対に教えない！！教えないわ！」 「でも……そこなら、あの少年のことも、ちゃんと調べられるだろう？今のままにしておくわけにはいかないんだよ。」 　だからどうなのよ！ 　あのままなら、彼女は死んでしまう。 　今ここを離れたら、見殺しにすることになるのよ！ 　そう叫ぼうとして、また００９を睨みつけ、マリアはハッと口を閉じた。 　静かな茶色の瞳。 　今、涙さえも浮かべていない。 　でもその奥に揺らいでいるのは、さっきのあの時と同じ翳り。 ―――私のせい、ね。 　彼にこんな目をさせているのは私だ、とマリアは唇を噛んだ。 　言えば言うほど、彼を傷つけている。 　今、ここを離れることが何を意味するかなんて、００９には、みんなにはわかりきったことなのに。 　私のせいで、この人たちにとんでもない犠牲を強いようとしてる。 　それが辛くて、それが苦しくて、こうやって叫んでいるだけ。 　私が簡単に流している涙を、彼は、彼らは流せないのに。 ―――私がいるから。私を責める事になるから。 　もう、耐えられないわ。どれだけ、みんなに迷惑をかければいいの？ 　パパの馬鹿！！全部あなたのせいよ！あなたがあんなものをつくるから……。 　あなたが私をかばって死んだせいで、こうなったのよ！ 　あの時、私が死んでれば、こんなことにはならなかった。 　パパの残酷な計画通りになんか、ならなかったのに。 　作るだけ作って、勝手に死ぬなんて！後始末も何もしないで！！ 　いったいあなたは……何のために……？ 　そんなものに何の意味があるの？ 　死んでしまいたい。もう……今すぐここで……。自分の存在を消してしまいたい。 　憎むわ、パパのこと。ずっと。絶対に赦さないから！！ 　マリアの激しい嗚咽だけが、コックピットに響く。 　他のメンバーたちは、何も言わず、２人のやり取りを静かに見つめていた。 「マリア、すまない。君に辛い思いをさせて」 　柔らかな声。彼の意外な言葉に、マリアは驚いて顔をあげた。 　両の目に溢れる優しい光に、激しく胸を突かれる。 　もう、あの翳りはどこにも見られない。 　なぜ……あなたが謝るの？ 　どうして、今、そんな風に私を見ることができるの？ 　何も言えない。 　そう、私には何も言う資格なんてない。でも……。 「……・・彼女は……００３だ。だから……」 　だから？ 　だから何なの？ 　そんな事、関係ないわ！ 　彼女は……そうよ。００３で……そして……。 「嫌よ！！行きたくない！教えないわ！絶対に……」 　顔を覆って再び激しく泣きじゃくり始めたマリアの肩を、００９はそっと抱いた。 　温かく力強い手。 ―――わかっている。彼らはすでにそう決めている、と。 　でも……彼女は……。００９、あなただって……。 「教えてくれるね。クルツ博士の秘密研究所の場所を……」 　００９の言葉に、マリアは何度も大きく頭を振り、彼を押しのけるようにして、コックピットから飛び出して行った。 「相当、興奮してるようだな。無理もないが……。俺が行こうか？」 　マリアのあとを追おうとした００９に、００４が声をかけた。 「いや……。もう一度ちゃんと話すよ」 「しばらく一人にしてやりなさい。すぐには……飲み込めんじゃろうから」 「……博士？」 　こちらに背を向けたまま、ポツリと呟いたギルモアを、２人はハッと振り返った。 　いつも以上に皺枯れた声。前かがみになった背中からは老醜がにじみ出ている。 「あのコもわかっておるよ、きっと。だが……」 　もう少し時間をやってくれ、と、まるで自分自身に言い聞かせるように低い声で呻いた。 「博士、大丈夫ですか？」 　気遣わしげに声をかけた００８に、力なく頷く。 　だが、連日の襲撃と、そして……こんな事態になって、肉体的にも精神的にも、生身の博士の疲労は頂点に達している。 　よりによって―――。 　搾り出すような博士の言葉。全く同じ思いが、皆の中にある。 　コックピットを満たす重苦しい空気。皆うなだれて沈黙したまま、時が過ぎていく。 　と、突然、それを吹き飛ばすように、００２が大声を出した。 「ホントに……いいのか？」 「ジェット？」 　００４が咎めるように、鋭く名を呼ぶ。 　今、自分たちに出来る選択はそれしかない。そう皆が納得したはずだった。 　だが、マリアの言うとおりだ。今ここを離れるということは……。 　本当にそれでいいのか？ 　さっきの議論を蒸し返すだけだとはわかっていた。だが言わずにいられなかった。 　いいのか？本当に？ 　ここを立ち去る、ということは、もう彼女のことをあきらめた、ということにならないのか？ 　怪我をして、意識を失ってどこかを漂っているとしたら？ 　すぐ近くで、動けなくなって、必死に助けを求めていたとしたら？ 　それとも、まさかもう……本当に？ 　絶対にそんなはずはないと思いたい。だが、どうしてそう言い切れる？ 　こんなあやふやな状態で、ここから立ち去っていいのか？ 　頭ではわかっている。００９の言うことは正しい。俺たちはそういう仲間だと。 　もし自分がその立場だったら、いつまでもこんなところでもたもたするな、と仲間の躊躇を歯痒く思っていたに違いない。 　だが、他のメンバーならともかく、よりによって……。 「ほんとに……いいのか……おまえ……それで……」 　このままでは何の進展もないのはわかっている。 　だが、考えたくなかった。どうすべきか、を。 　答えは―――たった１つしかないから。 　だからこそ、彼が口火を切ったのだ。他の誰にも出来ない提案。 　全部わかっている。わかっているけれど、でも……やりきれなかった。 　あの目を見ればわかる。 　苦渋の選択。一番辛い思いをしているのは彼だ、と。 　だが――― 　その思いを押し殺すことで、お前は―――もっと強くなっていくのか？ 　その比類のない強靭な肉体とつりあうだけの、鋼の心を手に入れるのか？ 　だが、強くなって……それでどうなる？ 　何のために強くなる？何を守るんだ？ 　俺たちは……何のために戦ってる？ 　仲間を……大切な仲間を犠牲にしてまで？ 「ジェット！！」 　また００４に名を呼ばれ、ふっと我に返る。 ―――わかってるぜ、ハインリヒ。お前の言いたいことは。 　喉まででかかった言葉を飲み込み、顔をあげ、じっと茶色の瞳を見つめた。 「……まずは、俺が行って来ればいいんだな」 　００９は黙って頷く。君に任せた、とその目は言っていた。 「じゃあ、準備して待ってな。すぐに戻ってくるから。向こうに着いたら連絡する」 　ちらりと００４に目配せをし、００９の肩をポンと叩いて、００２はドアに向かう。 ―――ジェット、気をつけて……。 　空耳だとわかっている。だが振り返らずにいられなかった。 　操縦席の横の席。 　いつもそうだった。 　静かな笑顔を浮かべて、彼女は頷いてくれていたのに。 　だが……もう……。 　思いを振り切るようにキッと前に向き直ると、００２は大股に歩いてコックピットを出て行った。 　その後ろ姿をじっと見送っていた００９は、ギルモアに声をかけた。 「博士……。少し休んで下さい」 　いや、と首を振るギルモアの腕を００８が取り、言葉を続ける。 「これから、博士も忙しくなるんです。今のうちに……」 　ふうっと重い息を吐いてうなだれた博士を、抱きかかえるように００８はキャビンに向かった。 「マリアより……博士のほうが心配だな。」 　博士のおぼつかない足取りを、痛ましげに見ていた００７が、肩を落として呟いた。 　年齢が年齢だけに仕方がない。体力的には相当キツイはずだ。 　ましてや……。 　だが、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。 　こうしている間にも敵の襲撃を受けるかもしれないのだ。 「もうそろそろ、起きてもいいんじゃないのか？」 　００４の呟きに、００９は頷いた。 　この事態を打破するには――００１の力が不可欠だ。 　彼が目覚めるのを待つしかない。だから、それまでにできることを……。 「もうすぐ目覚めるだろう。眠りの時間に入る前の状態で、多少の誤差はあるけど、今回は……大丈夫なはずだ。」 　パリから戻ったフランソワーズを待っていたかのように、その腕に抱かれると、イワンはすやすやと眠りについた。 　柔らかな笑顔を浮かべて、安心しきった寝顔をじっと見つめていたフランソワーズ。 　なのに……。 「どうかしたか？」 　怪訝な表情で問う００４に、００９はあわてて首を振った。 「いや……何でもない。」 　今は何も考えるべきではない。 「これでイワンが目覚めなかったりしたら……エライことだな。万事休す、だ。」 　まさかそんなことはあるまいが、と呟き、００４は心の中で心配性な自分を嘲笑う。 　自分でも時々嫌になる疑い深い性格。これも一つの武器ではあるのだが。 　ところで、と改まった表情で、００４は００９を振り返った。 「例の件なんだが……そろそろ、ちゃんと説明してもらおうか？クルツの研究所に行く前に……」 　００９は黙ったまま、しばらく彼の顔を見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。

←back　　　　　　　　　next→