１３．三光星

「ねえ、００９！雨が上がって、星が綺麗よ！外で見たいわ」 コックピットから空を見上げたマリアが弾んだ声をあげ、にっこりしてジョーを見つめた。 「でも……もう夜中だよ」 「だって、また一人で勝手に行ったら叱られるでしょ？」 　数時間前の、激しい嵐が嘘のようだ。雨に洗われた空に輝く無数の星。 　なぜだろう。こんなに美しいのに。 　星々の煌きが、冷たい眼差しとなってジョーを射すくめる。 「あ、あれが冬の大三角形ね。……シリウス、べテルギウスに……プロキオン」 　潮風に長い髪をなびかせながら、マリアは楽しそうに１つ１つ星を指差した。 「研究所に小さな天文台があったのよ。いつも一人で見てたわ。パパは研究にいつも没頭してたから……」 ―――クルツ博士とマリア。 　研究熱心な父親は、明るく振舞っている娘の寂しさに気づいていたのだろうか。 　天真爛漫に見える彼女の心の隅の、底知れぬ孤独。そして絶望――― 「だから星座には詳しいの。最初に覚えたのは……ほら、あのオリオン座よ。今、ちょうど南中してるのね」 　マリアは父親に愛されていなかった、と思っている。 「あの真ん中の三ツ星が、可愛いわ。でも立派な星座よね。勇者の星だわ」 　無理もない。 　だが、そんな悲しみを表には出さず、いつも屈託ない微笑を浮かべている彼女。 　２人は……彼女たちはどこか似ている、と思いながら、ジョーはマリアの後ろ姿を見つめた。 「……知ってる？オリオンがどうして星になったか？」 　振り返った親しげな笑顔に、思わずジョーもほほえみを浮かべる。 「オリオン？……サソリに……殺された？」 「ええ、でも……どうしてサソリに刺されたか、知ってる？」 「星座の神話か……」 　そう、ギリシア神話よ、と頷いて、マリアは彼の目をじっと見つめて話し始めた。 「オリオンは美男子で有名な巨人だったの。彼はメロペーという王女を好きになったんだけど、怒った彼女のお父さんの策略で、両目をつぶされてしまったの」 　オリオン―――冬の天空の王者の悲しい物語。 「神さまたちは、美しい彼をかわいそうに思って、どうすれば目が見えるようになるか、知恵を授けたの」 ―――そうだった。確かにその話だ。 『オリュンポスの神々は……彼を哀れんで、夜明けの光を浴びれば目は見えるようになる、と神託を授けました』 「どうしたの……００９？」 　マリアは、急に黙り込んだジョーの顔を、怪訝そうに覗き込んだ。 『その神託を受けて、盲目のオリオンは懸命に東へ東へと進みました』 「……どうしたの？」 　自分の声など全く聞こえないのか、暗い海を眺めたまま、ジョーはじっと考え込んでいる。 　マリアは寂しげな微笑を浮かべ、翳りを帯びた彼の横顔を黙って見つめた。 『でも……どれだけ探しても曙に出会うことができません』 　頭上には満天の星。夜の生命の煌き。 　美しい音楽のように、君の声が耳に響く。 『仕方なく彼は、月狩の女神アルテミスの真っ暗な宮廷に仕えて暮らすことになりました』 　息が凍るほど寒いのに、心を満たす不思議なあたたかさ。 　北風が亜麻色の髪をなびかせている。 　瞳を輝かせて星を見上げていた君は、静かにこちらを振り返った。 　いつまでも黙っている僕を見つめて、少し首を傾げて微笑む。 『あの星を見ると、いつもその話を思い出すわ』 『詳しいね。君は、星座博士？』 『まあ、ジョーったら……からかってるのね？』 君はちょっと唇を尖らせた。 『ち、ちがうよ。ほんとに感心してたんだよ』 　君が気を悪くしたのかと焦る僕に、小さく声をあげて笑う。 『うふふ、博士は私じゃなくて……お兄ちゃんなの。昔から詳しくて……。よくそういうお話をしてくれたわ』 『……君には、兄さんがいるの？』 『ええ……』 　 　星たちのさざめきが、地上まで届きそうな静かな夜。 　沈黙は拒絶。無視。孤独―――ずっとそう思っていた。 　だけど、本当の安らぎには、言葉なんかいらない。 　黙って……ただ見つめ合って、微笑を交わす。 　それだけでいい。 　そんなことさえ、僕は初めて知ったんだ。 　と、君の横顔にきらりと流れ星が落ちた。 『フランソワーズ？』　 『あ……ごめんなさい。何でもないの……』 　さりげなく向けた背中が、かすかに震えている。　 　思い出していたんだね。 ―――僕はあの時、誓ったのに。 　君を、いつか元の生活に戻してあげたい。 　それまで、どんなことがあっても君を守る、と。 　その僕が、君を戦場に連れ戻した。 　醜いものを嫌というほど見て、君の心は傷つき、疲れ果てていた。 　なのに、誰よりも君の優しい心を近くに感じていたはずの僕が―――もっと君を傷つけた。 　目と耳を使うことで、どれほど君が辛い思いをしているのか、分かろうともせずに。 　悲しみに張り裂けてしまったような瞳。君にあんな目をさせたのは僕だ。 　マリアの部屋を出た君が、外へ行ったような気がして、後を追った。 　耳を劈く雷鳴と稲妻の閃光。 　ついて来たマリアが怯えるほどの凄まじさ。 　そして激しい嵐が、すべての音と光を覆い尽くした。 　何も見えず、何も聞こえなかった。 　結局、あれから一度も、君と顔を合わせていない。 　わかっている。僕は――― 「ねえ……００９！……００９ってば！いったい何をぼんやりしてるの？」 　マリアがわざとおどけた声を出した。 　彼は前を向いたまま、ごめん、と低く呟いた。 「何を考えてたの？」 　答えようがなかった。 　しばらく続いた気づまりな沈黙を破ったのは、マリアの優しい囁き。 「私ね……今、とっても幸せなの」 　唐突な言葉に、ジョーは怪訝な顔で彼女を振り返った。 「パパが死んで……ひとりぼっちになったけど……でも以前よりずっと寂しくないわ。あなた達が……あなたが一緒にいてくれるから」 　彼女は突然、ジョーの両手を握り締め、顔を近づけて囁いた。 「あなたのこと、好きよ。今まで会った人の中で一番好き！」 「マリア……」 　あっけにとられているジョーに、マリアはにっこりと微笑みかける。 「あ！冗談だと思ってるんでしょ？でも違うわ……。ほんとよ」 　今度はジョーの右腕を抱きしめるようにして、頬を寄せた。 「マ、マリア……」 　彼女は何を考えているんだろう。どうしてそんなことを簡単に口にできるのだろうか。 　赤くなった顔を思わずそむけたジョーの耳元で、マリアは囁く。 「ねえ、ジョーって呼んでいい？」 　うん、と小さく頷いたジョーの顔を見つめ、彼女は言葉を続けた。 「私……すごく嬉しかったの」 「え？」 「あなたが……意識を失ってた時に……私の名前を呼んでくれたこと」 　茶色の瞳を見上げ、マリアは少し恥ずかしそうに呟く。 「マ、マリア……」 　頬がかあっと火照った。 「そ、それは……」 　まさか、そんなこと、全然記憶にない。 「あ！ジョーったら真っ赤になってるわ！」 　からかうようなマリアの口調に、耳朶が熱く痺れる。 「ねえ、あなた……そのこと覚えてる？」 「いや……でも……君が怪我してないか……心配だったから……そうかもしれない」 　しどろもどろになって言い訳する彼を、マリアはおもしろそうに見つめた。 「そう……覚えてないのね。残念だわ。でも……」 　頬を染めて、ぽつんと呟いた。 「私も……自分の耳で、聞きたかったな」 ―――自分の耳で？ 　何気ない彼女の一言が、胸の中で、乾いたこだまになる。 　自分の耳で？ 『マリアが……一晩中……あなたのこと……とっても……心配して……』 『オマエさんのことを心配して……一晩中ついとったんじゃから』 　ジョーはゆっくりと息を吸い、そして一気に吐き出して目を閉じた。 　聞こえる。悲しげな声が。 『私を一人にしないで』 　頬をつたう涙。 『あなたを失ったら……生きていけない』 　あたたかい手が頬をつつむ。 『もう少しだけ……ここにいさせて』 　確かに聞こえた。なのに―――。 『もう、僕のことは……心配ないから……』 　全身の力が一挙に抜けていく。 「どうしたの？どうして……そんな哀しい顔するの？」 「いや……何でもないんだ」 　マリアは黙ったまま彼の腕に頬を寄せていたが、やがてそっと身体を離すと、数歩前に歩いて暗い海を見つめた。 「ねえ……ジョー。正直に答えてくれる？」 　前を向いたままマリアは問いかけた。 「私のこと……好き？」 「え？」 　ジョーは思わず息を呑んだ。 「私のこと、好きかどうかって聞いてるのよ！何度も言わせないで。恥ずかしいのに……」 　ほっそりとした後ろ姿。風になびく黒髪。 「もちろん……好きだよ」 「私のどこが好き？……どんなふうに好き？」 　振り返った強い瞳が、彼の心を見透かしている。 「どんなふうにって……それは……」 　マリアは決して視線をそらさない。 「女の子から……好きって聞かれて、好きだと答えるのがどういうことか、あなたわかってる？」 　たたみかけるように問いを重ねる。 「え？」 　言葉に詰まるジョーに、呆れたように大きなため息をついた。 「やっぱり……。全然わかってないのね。ダメだわ……全然ダメ！」 「マリア……」 　ようやく事態を飲み込んだジョーは、何と答えればいいのか、途方に暮れる。 　そんな彼に背を向けると、マリアはつかつかと絶壁の縁に近寄っていった。 「マリア、危ないよ！滑るから……」 「大丈夫！」 　そう言いながら、恐る恐る崖下を覗いて首をすくめる。 「でも……ここから落ちたりしたら……大変ね。怖いわ……」 「ダメだよ！聞き分けのない子だな……」 　ジョーはため息をついて、マリアに近づき、手を差し伸べた。 「心配してくれるの？」 　マリアは、にこっと笑うとジョーの手を取り、ようやく崖の縁から離れた。 「君は……ほんとに……」 　ふうっと大きく息を吐いたジョーに、マリアは慌てた。 「あ……ごめんなさい。怒らないで。ちょっとふざけただけ……」 「え？……違うよ。怒ってるんじゃないさ」 　ジョーは優しい目を彼女に向けた。 「君はほんとに、素敵だと思うよ。でも……」 「……でも？」 　鸚鵡返しに繰り返すと、マリアはじっと彼を見上げた。 「僕は……誰のこともそんな風に考えられない」 　かすれた声でジョーは呟く。 「誰も？……どうして？あなたが……サイボーグだから？」 「それもあるかもしれない。でも……・」 「でも？」 「……００９じゃない僕も……今まで一度もそんなふうに考えたことないんだ。ずっと一人だったから」 「ずっと一人だった？」 「正直に言うと……誰かを好きになる……ということがどういうことなのか、僕にはわかってないんだと思う。とても心がいびつなんだ、きっと」 　ジョーの両腕を掴むと、真っ直ぐに目を見て、マリアはきっぱりと言い放った。 「あなたは……こんなに強くて優しい人なのに？自分の身を省みないで、私を助けてくれたじゃない！そんなことができる人が……いびつだなんて！そんなことないわ！」 「強い？……それは違うよ」 　ジョーは頭を振った。 ―――ずっと強くなりたいと思っていた。 　誰にも頼らずに生きられるように。 　誰の手も求めずに、生きていけるように。 「もし……そう見えるとしたら……僕には……島村ジョーには失うものが何もないからだ。何も求めてない。だからだよ」 　どんなに求めても、得られないもの。 　たとえ一瞬手に入れたとしても、失う時に余計辛いだけだ。 　最初から失うものが何もなければ……傷つくこともない。 「ほんとに……ほんとに何も求めてないの？何も失うものはないの？」 「―――ないよ」 　本当に？ 　何も？ 「命を失うことも……たぶんそれほど怖れてないような気がする。サイボーグじゃなかったとしてもね……」 「ジョー……あなたは……」 　ジョーは優しくマリアの両腕を掴むと、そっと自分の腕からはずした。 「僕は、こんな人間なんだ。君の思ってる００９とは……ずいぶん違うだろ？」 　引き寄せられるように断崖に足を向ける。 「ジョー……」 　離れていく背中を見つめ、マリアは心の中で叫ぶ。 （でも、それは……嘘よ！） 「僕に……あるのは……仲間だけだ。僕は仲間と出会って……皮肉なことに、００９になって、初めて一人じゃないと思えた」 　ジョーは呟いた。 「僕は……仲間のためになら喜んで死ねる。でもそれ以外には何もない。何も望んでないし、何も求めてなんかいない」 「あなたは……」 　マリアはゆっくりとジョーに近づいた。 「あなたはちっとも正直なんかじゃないわ！」 　激しい口調に、ジョーは驚いて振り返った。 「マリア……」 「嘘ばっかり。……ほんとに嘘つきよ！」 　きらきらと輝く雫が、黒い瞳からどっと溢れる。 「マリア……」 「人を好きになるって……そんなに難しいことじゃないわ。わかるとか、わからないとかじゃないのよ」 　マリアは涙の中に優しい笑みを浮かべると、彼の横に並んで立ち、天空を仰いだ。 「あなた、今まで……誰かに会いたくてたまらないと思ったことはないの？」 　会いたいと思ったこと？ 「辛いときに……誰かにそばにいて欲しいと思ったことはない？そばにいたいと思ったことはないの？」 「……そばにいたい？」 「喜んで死ねるんじゃなくて……その人のために生きたい、って思ったことはないの？その人の微笑みを見てるだけで……幸せな気持ちになれるような……・そんな……」 　誰かのために生きる？ 　そばにいて欲しいと……思ったこと？ 「たった……それだけのことなのよ。でも……」 　哀しげに微笑むマリアを見つめ、ジョーはゆっくりと息を吐いた。 　彼女の視線をたどって空を見上げる。 　いつの間にか、オリオンは天頂を過ぎていた。 ―――と、背後に一瞬、冷気を感じた。 　鋭く振り返ったその先に満ちているものは……殺意？ 　目を凝らす彼の視界に飛び込んできた黒い人影。 「だ、誰だ？！」 　マリアを背中に庇い、ジョーは闇を睨みつけた。

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