１４．陽光

「ジョー……？」 　ベッドに静かに横たわったまま、彼女はかすかな声で繰り返した。 「そうだよ」 　自分が名前を言えば、彼女はまた混乱するのではないか。 　そんな不安がジョーの頭をよぎる。 　だが、彼女は目を伏せて、じっと考え込んでいる。ゆっくりと、深く息を吸いながら。 「ジョー……」 　か細い記憶の糸を、そっと手繰り寄せるように、また小さく呟く。 「フランソワーズ……」 　彼女は驚いたように、顔を上げた。 「それは……私の名前？」 「あ……」 　横たわったままの彼女を見つめ、ジョーは微笑んで頷いた。 「そうか、ごめん。僕は……何も考えずにずっと呼んでたけど……」 　彼の声を、蒼い瞳が懸命に追う。 「君の名前は……そう、フランソワーズだ」 　不思議そうに瞬きを繰り返す。 ―――そう呼んだら、いつも君の笑顔が返ってきたのに。 「……しっくりこない？」 　彼女は首を小さく横に振り、わからない、と呟いた。 　青白い頬を照らす黄金の光。 　窓辺にゆらゆらとカーテンの影が躍る。 　と、彼女がゆっくりと膝を曲げ、身体の向きを変えようとした。 「起きるの？」 　頷く彼女をそっと抱え起こし、背中を包み込むようにジョーはベッドに腰をおろした。 「大丈夫？」 　フランソワーズは肩ごしにジョーを振り返って呟いた。 「私……どうしてここにいるの？」 「え？」 「あなたは……誰なの？なぜ……ここにいるの？」 「フランソワーズ……」 「私は……誰なのかしら？どうして……何にも見えないの？なぜ何もわからないの？」 　次第に張り詰めていく声。息が少しずつ荒くなる。 ―――だめだ、また興奮させては。 　博士が言っていた。 　見た目よりも、ずっと彼女は弱っている。 　身体の状態が悪くなれば、ますます心に負担がかかる。 　体力を消耗させてはいけない。 　ああやって、起き上がれるのが不思議なくらいだ、と。 「フランソワーズ、落ち着いて……」 　そっと抱きしめた肩は、小刻みに震えている。 「私は……どうしたらいいの？どうして……ここで……ううっ」 　搾り出すような声をあげて、フランソワーズは両手で顔を覆った。 「大丈夫！大丈夫だから……焦らないで、ね」 　ジョーは耳元で優しく囁く。 　はっと、彼女は顔を上げた。目にいっぱい涙をためている。 「どうして……？」 　悲痛な声に、胸を抉られるような気がした。 　いつもあんなに優しく輝いていた青い瞳なのに。 ―――君の笑顔が、いつもそこにあることを、僕は当たり前のように思っていたんだ。 「あなたは……どうして……そんなに……」 　震える声がふいに口篭もり、俯いて黙り込む。 「フランソワーズ？」 　彼女は何を言おうとしたんだろう。 （僕が、何を？） 　窓から差し込む光が、青白い頬に睫毛の翳を落とす。 （君がこうして僕の腕の中にいてくれるなら……それで……君が苦しくないなら……もう、何も思い出さなくたっていいんだ） 　ジョーは心の中で叫んだ。 　　 　と、腕の中の彼女が身じろぎし、彼からそっと離れようとした。 「フランソワーズ……」 　両手をベッドについて、少しずつ身体をずらして。 「立つのかい？……大丈夫？」 　脚を床に下ろそうとするのを見て、彼は慌てた。 ―――ずっと、こうやって横になってたのに……。博士が何て言うだろう。 　不安に思いながらも、ジョーは、白いネグリジェの肩にショールをかけてやり、向かい合って両手を優しく取った。 　彼の手につかまりながら、フランソワーズはゆっくりと立ち上がる。 「大丈夫？……歩ける？」 　小さな頷き。 　いったいどこへ行こうとしているのだろう？何も見えないのに……。 　ふらつきながら足を踏み出す彼女の手を握りしめ、ジョーは一歩ずつ後ろに下がっていく。 「外を……見たいの？」 　陽光に満ちた窓辺にたどりつくと、彼女は両手をそっとガラスに押し当てた。 　光を感じることはできるのか、眩しい陽射しにふっと見えない目を細める。 　陽光を浴び、きらきらと輝く亜麻色の髪。 「あたたかい……陽射しね。見えないけれど……わかるわ。……青空？」 　微かな声で囁く。 「今日は、とてもいい天気だ。真っ青な空……。まるで、君の瞳の色みたいだ」 「私の……瞳？……蒼いの？」 　手をかざしたまま、傍らの彼を不思議そうに振り返った。 「そう、とても澄んだ蒼い色だよ。君に初めて会ったとき……僕はびっくりした」 「……・どうして？」 「そんな綺麗な色の瞳を、見たことがなかったから……」 　口元に、かすかな微笑が浮かんだような気がした。 「あなたは……何色なの？」 「僕？僕のは……茶色かな」 「茶色……」 　ゆっくりと窓の方に向き直ると、かすかな声で呟く。 「もし……」 　ジョーは少しかがんで、顔をそっと彼女に近づけた。 「もし……あなたのその目を……見ることができたら……私、思い出せていたかしら？」 「フランソワーズ！」 「こんなに……混乱したりしないで……ちゃんと……自分のことも……わかって……」 　小さなため息をつき、彼女は瞳を閉じて額をガラスに押し当てた。 「フランソワーズ……」 　もういいんだ、と叫びたい気持ちを、ジョーは懸命に抑えた。 　彼女は必死なのだ。 　ちゃんと思い出さなければ、逆に、このことから逃れられない。 　忘れることさえも出来ない。 「お願い……」 「え？」 　思いつめた表情で、彼女は顔を上げた。 「お願い……。私のこと……教えてほしいの」 「……君のこと？」 　そう、と彼女はゆっくりと頷く。 「あなたの……知っていることを……」 「僕の知っていること？」 「どうして……私……こんなふうに……何も……」 　蒼い瞳から涙が零れた。 「ほんとは……ちゃんと……自分で思い出さなきゃいけないのはわかってる。でも……」 　だめなの、と小さく呟いた。 ―――僕の知っていること？ 　君がなぜこうなったか、ということ？ 　今、全部を話す事なんて出来ない。そんなことをしたら、君は……。 「フランソワーズ」 　ジョーは彼女の真正面に向き直り、両手をやさしく握りしめた。 ―――今、話せることだけを……。 　目を閉じて深呼吸し、そして蒼い瞳を見つめると、ジョーは口を開いた。 「君は、とてもひどい怪我をしたんだ。だから……ゆっくりと体を休めなきゃいけない」 「怪我？……どうして？」 「君はね……僕を……かばってくれたんだ」 「……あなたを？」 　瞳がいっそう大きく見開かれる。 　本当に何も見えていないなんて信じられない。僕が君のその目に映っているのに。 「そうだよ。君は……僕をかばって……そして……ひどい怪我をして……」 　ジョーは、低く呻いた。 「……崖から落ちた……」 「私が……あなたを……かばったの？」 　彼女は信じられない、という顔をして彼を見上げる。 「君は……僕を守ろうとして……」 「あなたを……？」 「そうだよ、フランソワーズ！なのに……僕は……」 　 　耳をついて離れない、あの少年の嘲り。 『今度こそオマエを……』 『……そんなことにも気づかなかったのか』 『……アイツが……邪魔したんだ』 『オマエのかわりに……・』 『ざまあみろだ！』 『……あの崖から……』 『お前らの仲間でも……助かるわけない』 ―――なぜ、気づかなかったんだろう。 　すぐ近くにいたのに。 　君の声が聞こえたような気がしたのに。 　　 「僕は……君を……助けられなかった……。守れなかったんだ」 　ジョーはたまらずに、か細い身体を強く抱きしめた。 「あ……」 　彼女は小さく息を呑んだ。 　構わず、ジョーは亜麻色の髪に顔を埋める。 　こらえきれない嗚咽。 ―――あの時、なぜ僕は……君を……。 「どうして……？」 　フランソワーズの怯えた声。 「どうして……泣くの？」 　細い身体が小刻みに震える。 「……私の……せい？」 「違うよ！」 　違うんだ、とジョーは腕に力をこめる。 「でも……」 「僕が……しっかりしていなかったから……君は……ひどい怪我をして……。とても辛い目に遭ったんだ」 「辛い目に？……どんな？」 ―――ああ、僕には……それがわからないんだよ。君がどんな辛い目に遭ったのか。どれだけ苦しんだのか。 「フランソワーズ！！僕は……君を……」 　ジョーは彼女を腕に抱いたまま、声を押し殺して泣いた。 　まざまざと蘇るあの時の胸の痛み。 ―――あの時、僕は確かに君を失った。 　あの瞬間、世界が足元から音をたてて崩れていった。 「辛いよ、……辛すぎる。僕は……」 　 　不意に、ひんやりしたものがジョーの頬に触れた。 「……フランソワーズ？」 　震える指が、ゆっくりと涙の雫をぬぐう。 「ジョー……」 「フランソワーズ！！」 ―――いつもの君だ。君はいつもそんな風に、僕の名を呼んでくれたのに。僕はどうして、こうなるまで……。 　涙に濡れた頬を、彼女の両手が優しく包む。 「私が……あなたを……悲しませてるのね？」 　ジョーは必死に頭を振った。 「そうじゃない。僕がどれだけ……君を苦しめたか……それを……」 　それを思いだすことが辛い。 「でも……あなたは…………」 　青白い肌に、きらりと涙が溢れる。 「悲しませてなんかいないよ。こうやって……君が僕のそばにいてくれるだけで……」 　ジョーは彼女の涙をそっとぬぐいとると、もう一度、両腕で細い体を抱きしめて囁いた。 「それだけで……僕は……もう何もいらない」 　薄く紅色に染まる頬。 　潤んだ瞳が、じっと彼を見上げる。 　小さな唇がかすかに開くのを封じるように、彼はそっと唇を重ねた。

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