頭上に高くそびえた岩の割れ目から、細い青空が覗いていた。
差し込んでくる黄金の光に向かって、しがみつくように崖をよじ登っていく。上へ行くほど傾斜は急になり、頂上の直前では、崖は完全な逆スラブ状に鋭く切れ落ちていた。
（登れるかしら・・・？）
００３が一瞬躊躇したその時、逞しい手に肘をそっと支えられた。
『・・・００９？』
彼は小さく頷くと、腕を掴んだまま崖の上まで飛び上がった。
太陽の眩しさに目の前が一瞬真っ白になる。
『大丈夫かい？』
少し心配そうに、彼女の顔を覗き込む。海風に栗色と亜麻色の髪が絡みつくようにふわりとなびいた。
『ええ、大丈夫。ありがとう』
優しく頷く茶色の瞳。それが彼の見せた最初の微笑だった。

あの日のことは、何もかも鮮明に覚えている。
（そう、私たちが出会ったあの日…）
ずぶ濡れになって海から上がってきた彼の困惑した表情。仲間たちの呼びかけに応えた、真っ直ぐな視線。
そして――２人で作戦行動をとることになった時、よろしく、と言った自分を彼がとても驚いた顔で見つめたこと。

あとになって、その時のことをジョーに尋ねてみた。
『あの時どうしてあんなにびっくりした顔をしたの？』
『あの時っていつのこと？』
『私があなたに、よろしく、って言った時よ』
『……いつのことだっけ？』
『ジョーったら、覚えてないの？』
不服そうなフランソワーズの様子に、彼は小首をかしげて無邪気に笑った。
『それだけじゃ全然わからないよ。もうちょっとヒントをくれなきゃ。でも僕はそんなに不思議そうな顔してたかい？……いつだろう？』
屈託ない笑顔がフランソワーズの胸に突き刺さった。
『もういいわ。……大したことじゃないの』
ちょっと拗ねたふりをして、さりげなく話題を変えた。
それは精一杯の強がり……。

（私は、どんな些細な会話も覚えているわ。あなたと交わした言葉の１つ１つを）
言葉だけじゃない。
その時、２人を包んでいた風の匂いも、降り注ぐ光の眩さも。波の音、踏みしめた落ち葉の色、みんな全部。
一緒に過ごしてきた時間のひとこまひとこまを、大切に胸に抱きしめている。

でも―――悲しいことに、それには必ず思い出したくない様々な辛い記憶がついてまわる。どれも血生臭く忌まわしい出来事ばかりだ。
でもどんなに辛くても、そこから目をそらせば、あの日、自分は自分でなくなったと認めてしまうことになる気がしていた。必死に生き延びてきた来た自分たち。運命へのささやかな抵抗。それをなかったことにはしたくない。だから、忘れたくない。どんな小さなことも。

……本当に、それだけ？

海に近づくにつれ、潮の香りが強くなる。月の光を受けた海面は、キラキラしていてとても穏やかだ。いつもよりずっと優しく響く波の音。今夜は、左の縁がほんの少し歪に欠けた、真っ白な十三夜の月だ。
歩いてきた岩の上に、フランソワーズ自身の影が青く細く伸びている。その影が揺れ、足音がはっきりと聞こえるぐらい近づいたのに、彼はまだ振り返ろうとはしない。

あの日―――出会ったばかりの仲間たちに、彼はほんの一瞬、暗く荒んだ視線を投げると、ぷいと背中を向けた。何もかも拒絶するように見えたその背中と、今、海を見つめている彼の姿が重なる。
あの時の彼の眼差し。いつものジョーからは想像できない。でも―――その後も何度か彼があの時と同じ目をしたことに、フランソワーズは気づいてしまった。

（だから、つい能力を使ってまであなたを探してしまうの。海を見つめているその頑なな背中に向かって、つい声をかけずにいられないの）

ひとりきりになりたいと思っている彼の時間を邪魔している、とわかっている。
（でも……苦しいの。見ているだけなのは辛いのよ、ジョー）
でも、今日はいつも以上に声をかけることが躊躇われた。
（どうしたの、フランソワーズ！いつもの私らしくないわ）
いつもと同じように名前を呼べばいい。
”ジョー！何を見てるの？”
”遠くが見える目って便利だわ。あなたがここにいるの、すぐにわかったわ”
明るくそう言えばいい。
振り返った彼の瞳が、あの時と同じように、深い悲しみと孤独の色に沈んでいることには、気づかないふりをして。
（気づいたとしても、私には何も出来ない。きっとあなたは私には何も望んでいないから）

「ジョー……」
思い切って、声をかけたつもりだった。でもその声が震えているのが自分でもわかった。
「……ここにいたのね。……探したわ」
前を向いたままの彼に、囁くようにそう言うのがやっと。
でも、とりあえず第一関門突破。胸の鼓動が暴走しそうになるのを抑え、さりげなく隣に座る。
張りつめた気持ちをさとられないように、小さく深呼吸し、彼の横顔を盗み見ようとして、フランソワーズはハッとした。
「ジョー……？」

←back next→

　Contents