フランソワーズを振り返ったジョーの目。彼女の予想を裏切って、そこには穏やかな光が湛えられていた。
ちょっと照れくさそうに笑い、彼はいつもの柔らかな声で言った。
「やっぱりキミには見つかっちゃったね」
「ジョー…！だって……！！」
ホッとした。
と同時に、一気に拍子抜けしてしまった。
あんなにも張り詰めていた気持ちが、２人を取り巻く闇に静かに溶けていく。
月の光を浴びて優しく輝く茶色の瞳を見つめ、フランソワーズは小さく溜息をついた。
岩に打ち寄せる波の音さえも、急に間延びして聞こえる。
勢い込んでやってきた自分。なのに肩透かしを食らわされたような気がして。
「もうっ、心配したのよ。何も言わずに急に出て行っちゃうから」
でも、何もなかったのならそれでいい。
きっとまた『君はほんとに心配性だな』と笑われてしまうだろうけど。
唇を小さく尖らせたあと、フランソワーズはくすっと肩をすくめて微笑った。
「困った人ね…」
「……ごめん。心配かけるつもりはなかったんだ。ただ…ちょっと…」
彼はバツの悪そうな顔をして、また俯いた。海からの風が、長い前髪をふんわりと揺らして吹き抜けていく。フランソワーズは黙ったまま、その横顔を見つめた。


それは、数時間前のことだった。
夕食の準備をしていると、ジョーがリビングにふらりと姿を見せた。一瞬躊躇しながらも、フランソワーズはカウンター越しに声をかけた。
『お願い、ジョー。そこの袋、取ってくれる？』
ウン、と頷いた彼は手にしていた何かを棚の上に置いて、テーブルの上の買い物袋をキッチンに持って入ってきた。
『ありがとう。そこにおいて……あっ！！』
シュワッ！！！！鍋が勢いよく噴きこぼれ、コンロの炎がオレンジに変わる。小麦粉で両手を真っ白にしていたフランソワーズを制して、ジョーは素早く鍋の蓋をとり、火を弱めた。
『ありがとう。ついでに使って悪いんだけど、その鍋、しばらくかき混ぜててくれないかしら？』
『いいよ。いつもキミにばかりさせてるから、たまにはボクも手伝わなきゃね』
そう言って彼は屈託なく笑った。
（あら？……元に戻ったの？）
おそらく他の仲間たちは気づいていない。この一週間ほど、ジョーがほんの少し、いつもと違っていたことに。
（もう大丈夫なのね？）
彼女の問いに答えるように、ジョーの肩越しでダイニングのカーテンが潮風に優しく揺れた。その向こうの小さな窓の外に広がる、毎日見慣れた景色。けれど、夕焼けの朱も、黄昏の中に溶けていく海の色も、こうして２人で眺めるとまるで美しい夢の世界の出来事のよう。
満ち足りた思いで、フランソワーズは傍らのジョーを見上げ微笑んだ。

ところが―――事件が起こったのはそのすぐあとだった。
夕食の時間になり、仲間たちがダイニングに顔を揃え始めた。
ジョーがキッチンから料理を運んでいると、そこへ店の片付けをすませた００６と００７が戻ってきた。
『ただいま〜！！』
『腹減った〜！』
『お帰りなさい！いいタイミングね！』
この皿の盛り付けが終わったら、準備は全部完了。最後の仕上げに忙しく手を動かしていたフランソワーズは、笑顔で振り返って２人に応えた。
『いい匂いアルね！今日のご馳走は……ん？何アルね、これ？』
暢気な大人の声がダイニングの入り口近くでしたかと思うと、突然、叫び声が上がった。
『うわっ！！！！！！』
（誰？そんな大声出して、何があったの？）
配膳台の上に屈みこんでいたフランソワーズが驚いて顔を上げた時、ガシャーン！！と凄まじい音を立てて何かが床に落ちて砕けた。
『ダ、ダメだっ！！！返してくれよっ！！』
『ちょ、ちょっと何するね？！！乱暴は駄目アル！！！』
ビリ、と何かが派手に裂けた。間髪を入れず、バタン！！！！とドアが、研究所中を揺るがすような大きな音を立てて強く閉まった。
『な、何なの？！いったい……どうしたの？』
慌ててキッチンを出たフランソワーズの目に、固まったまま突っ立っている仲間たちの姿が映る。
呆然としている彼らの視線の先―――ダイニングの床の大惨状。
粉々に割れたスープ皿。そして、さっきまでその中で湯気を立てていた液体が、一面に撒き散らされていた。
そして―――何だろう、これ？焦げ臭い。何かが、燃えた？たった今、ここで？
『……いったいどうしたの？どうして……？この匂い…は？』
腕によりをかけて作った料理が、目の前で無残な姿を晒していることに腹を立てるのも忘れ、フランソワーズは立ち尽くす仲間たちの顔を右から順に眺めた。
そして気づいた。
『……ジョー……は？』
そこには、すでに彼の姿はなかった。

『加速装置、か』
ジェットが肩をすくめて言った。
『加速装置ですって？！どうして？』
目を丸くして尋ねるフランソワーズに、ジェットはお手上げ、という表情で首を横に振った。
加速装置……？まさか。こんなところでジョーが加速装置を使うわけがない。
『大人、いったい何をやったんだよ？』
茫然自失状態だった張々湖が、ようやく口を開いた。
『何もしてないアル！ただワイがそこにあった、本みたいなノートみたいなものを手にとったら……いきなり……』
入り口近くの棚に小さなノートが置かれていた。見慣れないものだったから、何だろうと思って中を確かめようとした。すると突然何かに体当たりされた。張々湖は反射的に手に持ったものを握り締め、身をよけた。と、次の瞬間、それはビリッ！！と大きな音を立てて真っ二つに裂け、ボッと燃え上がった。ピシャリと閉まったドアの振動が残る中、燃えかすの灰が宙を舞い、そして床に落ちていくのを、張々湖は訳がわからないまま見つめていたという。

姿を消したジョーは、日付が変わる頃になっても戻って来なかった。
すぐに探しに行きたいという思いを押さえ、帰ってくるのをじっと待っていたフランソワーズの我慢も、もう限界だった。
彼女が研究所の玄関をそっとあけた時、背後から声をかけられた。
『どこへ行く？もう遅いぞ』
まさか誰かが起きているとは思わずにいたから、心臓がドキンと音を立てた。慌てて振り返った彼女を、灰色の瞳がじっと見つめていた。
『００４……』
『……探しに行くのか？』
彼には、嘘を言ってもきっと全部見透かされてしまう。それに別に隠すようなことじゃないもの。みんなも心配していたんだし。
『ええ…。ちょっと様子を見てくるわ。居場所はだいたい見当がつくから』
さらりとそう言ったフランソワーズに、彼はフンと皮肉っぽく笑った。
『子供じゃあるまいし。あんな奴、放っときゃいい』
『でも……』
『ったく、何考えてるのやら。どうしてキミは……』
その先を言いかけて、彼はいったん口をつぐんだ。小首をかしげるフランソワーズに、アルベルトは黙ったまま１歩、２歩と近づくと、まるでキスをするような優しい仕草で、耳元にそっと唇を近づけた。
『…え……？』
白い頬が朱に染まったのを見て、彼はまた低い声で何か囁いた。
『もう……アルベルトったら……からかわないで！』
小さく唇を尖らせ、フランソワーズは月明りの５月の夜に駆け出した。


「でもよかった。やっぱりここにいたのね」
予想した場所の中で、一番研究所から遠いところだったけれど。
「ごめんよ、フランソワーズ」
いつもの瞳でじっと彼女の目を見つめた後、またジョーは俯いた。
「君のせっかくの料理をひっくり返して……台無しにしちゃったね」
慌てていたとはいえ、あんなことになるなんて。溜息をつくジョーに、フランソワーズは優しく首を横に振った。
「仕方ないわ。わざとじゃなくてはずみなんですもの。でも確かにあの音にはびっくりしたわ。何があったのかと思って……」
「……思い出したんだ」
え？とフランソワーズは、彼の横顔をあらためて見つめた。
「人って自分に都合の悪いことはすぐ忘れちゃうんだね。僕も、さっきの音で突然思い出した」
ジョーはちら、と彼女を振り返って微笑み、抱えこんだ膝に頬杖をついて、また海に向き直った。
「今まで一度も思い出したことがなかったんだ。もう１０年以上になるんだな」
さっきの音って、お皿の割れる音のこと？
そう尋ねたほうがよかったのかもしれない。会話はそこで途切れ、ジョーは黙り込んでしまったから。
月はもう天頂を過ぎ、小さな真珠のように遠く輝いている。
潮が少しずつ満ち始め、潮溜まりが１つ、また１つと海に呑みこまれていった。
かなり長い間、２人で沈黙を共有したあと、ジョーはゆっくりと長い息を吐き、ようやく口を開いた。

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