５月の風は優しい。
陽の光は眩しく、木々は青々とした力に満ちている。
１年で一番爽やかな、美しい季節だと思う。
「でも昔は、この時期になるといつも憂鬱になってた」
なのに、憂鬱になっていることを認めたくなくて。
そんな自分が許せなくて、いっそう苛々していた。
「もちろん今は、そうじゃないよ。ずっと昔・・・まだ子供だった頃の話」
呟くように言って、ジョーは僅かに視線を上げた。
フランソワーズも、彼のまなざしの先をそっとたどる。
そこは海と空の果て。２つの領域は、闇の中に完全に溶け合っているように見えた。
けれどじっと目を凝らせば、密度の違いが生み出す僅かな色の濃淡がゆったりと大きな弧を描いているのがわかる。
その手前に、ぽつん、ぽつんと幾つか浮かぶ船の灯り。
月が白い輝きを増すにつれ、あたりは急に冷え込み始めた。
無遠慮に髪をなびかせる潮風が、薄いワンピースに包まれただけの体からぬくもりを奪っていく。小さく肩を震わせて膝を抱え直したフランソワーズは、また黙り込んでしまったジョーの横顔を窺い、こっそりと溜息をついた。
だが、２人を取り巻いている静けさが完全に重苦しい沈黙になってしまう前に、再びジョーが口を開いた。
「ねえ、フランソワーズ・・・」
ほっとして、思わず表情が緩む。柔らかな笑みを浮かべて、彼女は茶色の瞳を覗き込んだ。
「なあに？」
「フランスにも、母の日ってあるのかい？」
海を見つめたまま、ジョーは静かに尋ねた。
「母の日？」
予想外の質問に、思わず首を傾げる。
「ええ。もちろん、あるけど・・・」
どうして？と言いかけて、フランソワーズは慌てて口をつぐんだ。

『どうして、わざわざみんなの前であんなこと言ったの？』
脱出に成功し、ＢＧの秘密基地を爆破して、日本に向かう潜水艦１０１号の中で彼女は００１に尋ねた。
誰よりも優れた頭脳を持つ００１のことだから、きっと何か意図があったのだとは思う。
でもあの時、こちらに向けられた００９の背中は、それ以上の問いをきっぱりと拒絶していたのに。
００１は、黙り込んでしまった００９の心の中を読んで、それを暴いた。
凍りついた横顔。
やめろ！という悲痛な叫び。
誰にも知られたくない過去とわかっていて、どうしてみんなの前で・・・？
穏やかな彼女の口調の中に、無意識のうちにこめられていた非難のニュアンス。それを敏感に察知したのか、００１はわざとらしく大きな欠伸を１つしてみせた。そして、絶妙の間を一瞬おいたあと、とぼけた表情で尋ね返した。
”アンナコトッテ？”
『分かってるくせに、意地悪ね。００９が気の毒だったわ。いきなりあんな・・・言いにくいことを・・・』
苦笑いしながら、彼女は腕の中の赤ん坊をそっと抱き直した。
”言イニクイコトダカラダヨ。マサカ彼ニ自分デ言ワセルワケニハイカナイダロウ？ソレコソ気ノ毒ジャナイカ。ダカラ代ワリニ僕ガ言ッテアゲタノサ”
００１はすました顔で嘯いてみせる。
『でも・・・初対面だったのよ。もっとお互いのことがわかるようになってから、ゆっくり・・・』
”時間ガタッタカラトイッテ言エル事ジャナイダロウ？イイカイ、００３。僕タチハオ互イニ理解シ合ッテナキャ、コレカラ一緒ニハ闘エナイ。イロンナ意味デ、チャントワカリアッテナケレバダメナンダ。ユックリ、ナンテ悠長ナコトハ言ッテラレナインダ。ナゼナラ敵ハ生ヤサシイ相手ジャナイ”
『それはそうかもしれないけど、でも・・・きっと・・・』
彼は傷ついていた。
一番最後に改造されて、自分の置かれている状況も飲み込めないまま『仲間』と出会って、ただでさえ混乱していたのに。
”彼ハ大丈夫ダヨ。ソレクライノコトデ傷ツクヨウナ、やわジャナイサ。デモ・・・”
むくむくと肥えた赤ん坊が、溜息をつきながら自嘲気味に言った。
”コレカラモ、他ノミンナガ言エナイヨウナ言イニクイコトヲ言ウノガ、僕ノ役目ニナルト思ウヨ。人情家ノ君ニハ、ソノタビニ非難サレルダロウケド・・・”
人を食ったような言葉と愛らしい外見のギャップに、フランソワーズは思わず吹き出した。
『もう、００１ったら・・・。どうしてそんなこというの？私のこと、からかってるのね？』
”カラカッテナンカナイサ。ホントノコトダヨ。ソレニ・・・君ハ・・・”
『なあに？』
”イヤ・・・デモ・・・・・キット・・・”
『きっと、何？』
小さな瞳が今度は真剣に彼女を見上げている。
”イインダ・・・キニシナイデ。チョットソンナ気ガシタダケ。オヤスミ・・・”
そう言うと、００１は眠そうに何度か大きな欠伸をして、すぐに目をつぶって眠ってしまった。

国籍も分からない外国人の父と、日本人の母との間に生まれ、両親の顔を知ることもなく、ひとりぼっちで生きてきたジョー。茶色の瞳はいつも限りなく優しい光をたたえていて、誰よりも正義感にあふれた彼。でも今まで歩んできた道は決して平坦ではなかった。その頃の日本では、混血児に、ましてや孤児に世間が向ける目は、今とは比べ物にならないほど酷い偏見に満ちていたから、と００１は言った。
どれほど孤独で寂しい日々を過ごしてきたのだろう。家族の愛情に包まれて育ったフランソワーズがどんなに分かりたいと願っても、その辛さを本当に理解することはできない。
それは、言葉で簡単に伝えられるようなものではないはずだから。安易な同情で受け止められるものじゃないから。
でも、もし―――いつか彼が話したいと思ってくれたら。話すことで、過去に対する思いを少しでも望む形に変えられる、と彼が思える時が来たら。
（ねえ、ジョー。その時は、私に話して聞かせて）
時折、彼の横顔に浮かぶ寂しげな表情を見るたび、フランソワーズは心の中でそう呟いていた。
いつか、きっと。
どうか、闘いに明け暮れる自分たちに残された時間があるうちに。

そんな思いを胸にひそかに抱いていたフランソワーズは、唐突に、母、という言葉がジョーの口から飛び出したことに激しく動揺していた。
「母の日」？
それがもしかして、最近彼が沈んでいたことと関係があるのだろうか？
そして今夜のハプニングにも？
だとしたら・・・？
でも、落ち着いて考えてみれば、「母の日」の話題を出したからといって、彼が自分のお母さんの話をしようとしているとは限らないのに。
（また私の勝手な思い込みかしら？良くない癖ね。しっかりしなさい、フランソワーズ！）
もしかしたら、いつもと違っているのはジョーじゃなくて、自分なのかもしれない。この１週間、彼の表情や態度のほんの些細な変化に、過敏に反応し過ぎていただけ？
「えっと・・・そう、５月の最後の日曜よ」
途切れてしまった会話を慌ててつなぐ。そんなフランソワーズを、ジョーは屈託ない微笑で振り返った。
「そうか。やっぱり５月なんだ。でも日は違うんだね」
「日が違うのね。知らなかった。日本はいつなの？」
明るい調子の声にホッとしつつも、まだ慎重に言葉を選んでいる自分が滑稽に思えてならない。
「２週目の日曜日だよ」
「あ・・・じゃあ・・・・一昨日・・・だったの？」
一昨日？じゃあ・・・やっぱり・・・？タイミングが合いすぎているような気がして、心がまた微かに翳る。
だがジョーは「うん、そういうことになるね」と言って、両手を体の少し後ろにつき、上半身をぐっとそらして空を見上げた。
月の去った東の空には、無数の星々が明るく瞬いている。
今、１つ星が流れた。
「ほら、久しぶりに街へ買い物に行ったとき、店にカーネーションが飾ってあったのに気づかなかったかい？」
両足を無造作に投げ出した姿勢のままで、ジョーはまた穏やかな笑顔を彼女に向けた。
「そう言えば・・・そうだったかしら？」
さっきまで冷たかった風が、優しくなったような気がする。
気温は夜が更けるにつれて、確実に下がっているはずなのに。
「まだその日まで間があったから、目立たなかったかもしれないな。先週はきっとあちこちに飾ってあったはずだよ」
自分を抱きしめるように抱えこんでいた膝をそっと崩し、フランソワーズはジョーに寄り添うように横座りに体勢を変えた。
「そうだったの。でも、どうしてカーネーションなの？」
「あれ？フランスじゃ、母の日にカーネーションを贈らないの？」
「カーネーションを贈る？どうして？」
フランソワーズは目を丸くした。
「日本じゃ、決まってるんだよ。母の日にはカーネーションって」
「お花をプレゼントすることはもちろんよくあるわ。でも薔薇とか、スズランとか・・・ママンの好きな花を選ぶ人が多いと思うわ。どうして日本ではカーネーションって決まってるの？」
「さあ・・・どうしてかな。アメリカのやり方をそのまま真似したって聞いたことがあるけど・・・」
「でも、カーネーションならいろんな色があるし、長持ちするし、値段もそんなに高くないし、子供たちがお母さんにプレゼントするにはいいかもしれないわね」
定番の赤やピンクや白のカーネーション。
最近は、ベージュがかったクリーム色の花や、赤や白の縁取りのあるもの、スプレー咲きといった少し趣の変わった種類もたくさん店先に並んでいる。
そう言えば、色のついた水を吸わせてカーネーションを無理やり蒼く染めると聞いたことがある。
「でも蒼いカーネーションなんて、ちょっと変ね。不自然に人間が手を加えるなんて、おかしいわ。もとのままの色で十分綺麗なのに」
ついつい自分のことと引き比べてしまう。そんなフランソワーズの言葉には出さない気持ちに気づいたのか、ジョーはいっそう優しい目でしばらく彼女を見つめ、「そうだね」と頷いた。
「確かにいろんな色があるね。でも、母の日のカーネーションの色は決まってるんだよ」
穏やかな表情を崩さずに、彼は言葉を続けた。
「え、ほんとに？カーネーションの色まで決まってるの？」
びっくりして思わず声をあげてしまったあと、フランソワーズはくすくす笑った。
「まるで、何かの儀式みたい。お花の種類も色も決まってるなんて・・・。何色のカーネーションなの？」
「普通は・・・赤・・・だと思う」
「じゃあ、バレンタインデーに赤い薔薇を贈るのと同じね。それって、何か由来でもあるのかしら？」
だが彼の代わりに、波が海岸に打ち寄せる音が２度、３度と答えを返した。
「・・・ジョー？」
「あ・・・ごめん。ボクも詳しいことはよくわからない。だいたい、そんな日があるってことさえ、小さい頃は知らなかったし」
ジョーはそう言って、また膝をぎゅっと抱え込むと、静かな微笑を浮かべたまま真っ直ぐに海を見つめた。

←back

　Contents