| 確かに、レストランを出るまでは、全然大丈夫だった。 少々ハイピッチだったけれど、素晴らしい舞台を見て、フランソワーズの気持ちも高ぶっているのだと、あまり気にしないでいた。 それよりも、彼女がワインを飲む仕草が、あまりに綺麗だったから。 ほっそりした指。白い喉と、真紅に輝くグラスの対比の美しさに、ジョーはもちろん、いつしか店の中の客はみんな見とれていた。 そして、その見事な飲みっぷりにも。 気づいたとき、彼女はひとりで３本のボトルを空けていた。 頬には紅がさし、瞳はいつも以上に潤んでいたけれど、言葉からも表情からも、彼女はさほど酔っているようには見えなかった。 食事を終えて立ち上がった２人に―――フランソワーズには賞賛の、ジョーには羨望のまなざしが注がれる。 そんな視線の中、彼女はジョーの腕にそっとつかまり、この上なく優雅な足取りで店を出た。 だけど、問題はそのあとだった。 いつものように、先に助手席のドアを開ける。 フランソワーズはジョーの腕をそっとはずすと、『ありがと』と耳元で囁き、薔薇のように微笑んだ。あくまでも、優雅に。 ところが。 運転席側にまわってドアを開けたとき、ずるずるっと、何かがずり落ちる音がした。 何だろう？何が落ちたのか？ 『今の、何だい？』 車の中にいるフランソワーズに声をかけようとして、ジョーは慌てた。 そこにあるはずの彼女の姿がない。 『フランソワーズ？！』 助手席側のドアは開いたまま。そしてちょうど座面とほぼ同じ高さのところに、街灯を浴びてきらりと輝くのは・・・ 『フ、フランソワーズ！！！まさか？』 彼女はドアに背中をもたせかけたまま、地面にぺたりと座り込んでいた。 『大丈夫かい？フランソワーズ！！』 血相を変えて駆け寄ったジョーを、とろんと見つめる蒼い瞳。半開きの濡れた唇が、妖しいほどに色っぽい。 こんな目で見つめられたら……鋼鉄の心臓でさえ破裂してしまう。 そう、いつもなら。 だけど今はそれどころじゃない。 『ん……？……ジョー？…どうしたの？』 『どうしたの、は、僕の台詞だよ。大丈夫？気分が悪いのかい？』 ちょうど店から出てきた他の客が、びっくりした顔でこちらを見ている。 けれど彼女はニッコリと微笑むと、白い指をそっとジョーの頬に伸ばし、優しくつっとなぞった。 『大丈夫よ。全然大丈夫。ちょっとふらついただけ』 そうは言うものの、抱え起こした彼女の身体には殆ど力が入っていなかった。柔らかなぬくもりが、ぐったりとジョーにもたれかかる。そのまま抱き上げて助手席に座らせ、ジョーは急いで車を発進させた。 （まずい……） 研究所につくまでに、少しは彼女の酔いは醒めるだろうか？ このまま帰ったら、また仲間たちに冷やかされるのは目に見えている。 こんなに酔わせてどうするつもりだったんだ？とか、何か変なことしたんじゃねえだろうな、とか。誰が何を言うかも、殆ど想像がつく。 しかし、そんなジョーの心配をよそに、フランソワーズは夢見るような表情で言った。 『今日はほんとに楽しかったわ。素晴らしい舞台を見て、おいしいワインを飲んでお食事して』 『うん……』 まるで、昔に戻ったみたい、と彼女はポツリとつぶやいた。 レッスンに明け暮れて、バレエのことばかり考えていた、幸せな毎日。 憧れのダンサーたちが踊る舞台を見て、希望に胸を膨らませ、いつかはそこに自分も立つのだと思っていた。 あと少し。あと少しで、夢に手が届く。そう信じていたあの頃。 『……フランソワーズ』 『つい昨日のような気がするのにね』 胸のペンダントを手のひらにそっと乗せて、彼女はその輝きをじっと見つめた。 透明な石の放つ光の中に、過ぎ去った懐かしい日々を見出すかのように。 あれから、どのくらい時間がたっただろう。 彼女が幸せな日常を理不尽に奪われたその時に、僕たちは出会った。 出会って、望まぬ闘いの日々を共に生き抜いて、そして……。 誰よりも、何よりも大切だと思う人を、僕は何度も危険に晒してきた。 いや、それだけじゃない。 僕は…… 『あっ！！！！止めて！！』 その時、フランソワーズが鋭く叫んだ。 キキキキッ！！！とタイヤが軋み、車は急ブレーキをかけて止まった。 『ど、どうしたんだ？何か……見えたのか？』 ゴムの焦げるような匂いが鼻につく。 ギョッとした顔で助手席を振り返ったジョーに、フランソワーズはニッコリと微笑んだ。 『ううん。何にもないわ。ただここで停めて欲しかったの。前から、この湖に寄ってみたいと思ってたから』 『……湖？』 ふううう、とジョーは安堵の息を吐き、ぐったりとシートに身をあずけた。 また何か事件の始まりか、と思ってしまった自分が悲しい。 『あ、フランソワーズ？！！』 彼女は勢いよくドアをあけると、まだ少しふらつきながら、道路から湖へ続く遊歩道を降りていく。 『どこへ行くんだ？ちょっと待って！』 『大丈夫よ！ねえ、ジョー、見て！お月様がとっても綺麗！』 『コート着なきゃ、寒いだろう？』 月明かりの中、ワンピースの裾がひらひらと翻る。 『いらないわ。暑いの。う〜ん、風が冷たくて、気持ちいいわ』 組んだ両手を夜空に差し出し、大きく伸びをしたフランソワーズは、突然、湖に向かって元気よく走り出した。 『フランソワーズ！！！』 いったい、どうなってるんだ？ 今まで、こんな風にひどく酔っ払ったフランソワーズは見たことがない。 いや、こんな風も何も、彼女がジョーの前で酔っ払うのは、これが初めてだ。 『ねえ、ジョー！早く来て！！』 かなり遠くから聞こえるフランソワーズの甘えた呼び声に、ジョーは慌ててあとを追った。 |