| 湖面を渡る微かな風に、ふわり、とまたスカートの裾がふくらむ。 人工の灯りが全くない、この静かな湖畔にやってきてからもう１時間近くになる。 打ち寄せる小波の音をＢＧＭに、見事なグランフェッテを決めた後も、酔った舞姫はまだ踊り続けていた。 ほっそりした腕が、星空に向かって優美なカーブを描く。 すんなりと伸びた素足の白さが、夜目にも眩しい。 朦々と立ち込める土煙。 辺り一面にキツい火薬の匂いが漂う。 瓦礫の中に転がっていたのは、防護服に包まれた華奢な腕。 そして原型をとどめない黒いブーツ。 それは、まぎれもなく…… 「ねえ、ジョー、あなたは大丈夫よね？」 突然、耳元で声がした。 「あなたなら、ちゃんとわかるわよね」 はっと顔をあげたジョーを、蒼い瞳がじっと見つめている。 『どうしたの、ジョー？どうして……？！』 大きく見開かれた瞳。 信じられない、という表情で、君は首を大きく横に振った。 なのに…… 「もし、オディールみたいにニセモノの私があなたを誘惑しても」 くすっとフランソワーズが笑う。 君のニセモノ…… 『どうして？どうして撃つの？お願い、止めて！！』 それを、僕は…… 「ジョーは、ジーグフリートのように騙されたりしないでしょう？」 『あなたは私をまた殺すの？』 「あなたにはちゃんとわかるわ。それが本物の私か、そうでないか」 『ジョー……立って！ちゃんと私を見て！！』 「だから、あの間抜けな王子様みたいに、ニセモノに愛を誓ったりしないわよね」 『さあ、ジョー、構えて撃って！！』 そして、僕は撃った。 何度も、何度も。 君に、君のニセモノに向かって。 今思えば、なぜあんなに確信を持って引き金を引くことができたのか。 確信？ そんなものはなかった。 ただ、僕の中の何かが、違う、と叫んでいた。 その声を聞いた途端、僕は躊躇わずに撃った。撃って撃って、撃ち続けた。 狂ったように。 狂った―――？ 違う。あれが、僕の本当の姿だ。 君の、君のニセモノの屍を踏み越えて、僕は…… 「そうでしょう、ジョー？」 微笑が胸に鋭く突き刺さる。 僕をかばって、突き飛ばした、ニセモノ。 レーザービームに溶かされ、壁にへばりついた"君"の破片。 僕は…… 「ねえ、ジョー、どうしたの？」 柔らかな指が頬に触れ、ジョーは我に返った。 その小さなぬくもりに、自分の身体が氷のように冷たくなっていることに気づかされる。 「気分が悪いの？顔が真っ青よ。ワインも殆ど飲んでないのに、悪酔いしちゃったのかしら？」 心配そうに蒼い瞳が揺れる。 その瞳の輝きは、自分にとって何よりも大切な、かけがえのないもの。 なのに…… 「フランソワーズ……」 懸命に声を絞り出そうとするけれど、ジョーの喉から発せられたのは、震えて、掠れた哀れな波動だけだった。 「僕は……」 僕は、まだ、君に話せていない。あの時のことを。 僕が、何をしたか。 君に。 たとえ、それが君のニセモノに対してであっても。 君を、君のニセモノを、僕は、撃った。 一度引き金を引いてしまえば、後は全く躊躇いもしなかった。 なのに―――君のニセモノは、僕をかばった。 何度も。最後の最後まで。 ―――ちゃんと話すから。だから…… あの時、そう君に言ったのに、僕はまだその約束を果たせていない。 もう限界だ。 今、１度でもまばたきしたら、溢れる涙が僕の決心をきっとまた押し流してしまうだろう。 でも、今日こそ、ちゃんと話さなければ。 ジョーは唇をきつく噛みしめ、蒼い瞳をすがるように見つめた。 「フランソワーズ、僕は君に、ちゃんと話さなきゃいけないことがあるんだ……」 「話さなきゃいけないこと？」 フランソワーズは、口元に小さな微笑を浮かべると、この上なく優しい目で、ジョーを見つめ返した。 「それって―――あなたが、私を……私のニセモノを、撃ったってこと？」 「フランソワーズ……！！」 彼女の意外な言葉に、ジョーはただ息を呑んだ。 「何度も何度も撃って、あなたは私の死体を踏み越えて、また現れるニセモノをどんどん殺していった」 「ど……うして……それを……？」 なぜ、フランソワーズが知っている？誰がそれを彼女に？ じんじんと耳鳴りがした。 暗視装置がついているはずのジョーの目の前が、真っ暗になる。何も見えない。 自分の身体がぐらついているのか、大地が揺れているのか。平衡感覚が全く失われた気がした。 けれど、フランソワーズは無邪気に笑い、はしゃいだように両手を叩いた。 「あ！やっぱり図星なのね？うふふっ！！大当たり♪」 「フランソワーズ！！！！」 悲痛な叫びを上げたジョーを、フランソワーズはきょとんとした表情で見つめた。 「そのこと……誰……から……聞いたの？」 張り裂けそうな、今にも大粒の涙が溢れ出しそうに潤んだ茶色の瞳。 「誰からって……そんなの、あなたからに決まってるじゃない」 すました顔でそう言うと、フランソワーズはまた波打ち際に向かって歩き出した。 さく、さくっと、砂が彼女の歩みを優しく受け止める。 湖面には、真上から照らす月が鮮やかに映っていた。 時折、漣と一緒に、風に優しく揺れる。 その霜のような白い光に圧倒され、星々は闇空にすっかり溶けてしまっていた。 呆然と立ちすくむジョーにはお構いなしに、彼女はまたひとり、水と月光と戯れ始めた。 裸足のつま先で、ぱしゃぱしゃと音をたてて。 水しぶきが跳ね上がるたび、きゃっきゃと笑い声を上げて。 まるで小さな女の子のように。 「僕が……言ったのか？僕……が……君に？」 そんな覚えはない。 だからこそ、今日までずっと、ずしりと重い罪の十字架を背負い続けてきたのに。 なのに……僕が君に言った？いつ？ 「あなた、魘されて何度も言ってたわ！」 水際から、彼女が叫んだ。 ―――魘されていた？ 「ほんとよ。何度も何度も叫んでたの。あんまり大きい声だから、びっくりして私も目が醒めちゃった」 一番最初は研究所に帰ってきた日の夜よ、とフランソワーズは穏やかな笑顔をこちらに向けた。 「一番最初は……って、じゃあ、僕は……そんなに何度も？」 硬直した身体を引きずるように、ジョーはふらふらと波打ち際に近づいた。 「ええ、今朝も叫んでたわ。じゃあ……ジョー……全然覚えてないの？」 「フランソワーズ……」 震える腕で、柔らかな身体を背後から抱き寄せる。 「嫌！苦しいわ！」 腕の中で小さくもがき、くるりと彼女は身体を回転させた。 「大丈夫よ、ジョー」 優しい手が、大きな背中にそっと回され、ぎゅっと強く抱きしめた。 「僕……は……」 頬と頬を合わせ、亜麻色の髪に顔を埋めると、融けていく。 凍えきった鋼鉄の体と心が。 そうだ。 いつも僕はこうやって君に温められて、君からぬくもりを奪っていく。 でも、いつか、きっと…… 「大丈夫。あなたには、ちゃんとわかってたのよ」 「フランソワーズ……でも……」 どんなにまばたきをこらえても、涙はもう止まらない。 頬を伝い落ちる雫が、フランソワーズの髪を静かに濡らした。 「ちゃんとニセモノだってわかってた。だから、撃ったの」 夜のしじまに、凛と澄んだ声が響く。 「あなたは撃たなければならなかったの。だって……」 フランソワーズはゆっくりと顔を上げると、両手でジョーの頬を優しく包み込んだ。 あなたは００９だから。 そう。 あなたは誰よりも強いのよ。 強くなきゃいけないの。 私のニセモノなんて平気で撃てなきゃダメ。 じゃなきゃ、本物の私は絶対に撃てないわ。 そうでしょう、００９？ 本物の、君を、撃つ？ 「フランソワーズ……！！」 なぜ？ そんなこと、僕には…… 「ねえ、ジョー。お願い……」 フランソワーズは、ジョーの胸に頬を寄せ、ぎゅっと両手で身体を引き寄せると、甘えるような口調で言った。 「約束して欲しいことがあるの」 「……何を？」 嫌な、予感がした。 「ずっと前から考えていたことなの」 両耳を塞ぎたいと、ジョーは咄嗟に思った。 けれどフランソワーズはジョーの身体を抱きしめる腕に力をこめて、小さく呟いた。 『その時』が来たら あなたが 私を 殺して 「フランソワーズ！！」 悲鳴とも叫びともつかない声をあげたジョーの唇を、白い人差し指がそっと封じる。 彼女は微笑んで言葉を続けた。 「私、それを望んでるの。ほんとよ」 私たちは、きっと普通の死に方はできない。 普通の病気や当たり前の事故ぐらいでは死ねないから。 だから、いつか、自分より優れた力を持つものに倒されるわ。 果てしなく思える闘いの中で。 きっとそれが、私たちに約束された最期。 「だけど、だからといってＢＧに倒されるなんて癪だわ！！」 あなたもそう思わない？と彼女は真剣な表情でそう言ってから、自分の語気の強さを恥じるように笑った。 「だったら、私、あなたに殺されたいの。ずっとそう思ってた。だって……あなたは……」 「フランソワーズ！！ダメだ！！」 ジョーは激しく首を振り、細い身体を渾身の力をこめて抱き寄せた。 「ね、だからお願い。約束して！」 耳元で尚も囁く声に、ジョーは涙を流しながら首を横に振り続けた。 僕は君が望むことならなんだってする。 どんな望みでもかなえてあげたいと思うよ。僕に出来ることなら何でも。 今すぐに、この世界を粉微塵に破壊しろと君が言うなら、躊躇いなくそうする。 でも――― かなわない。 君にはやっぱりかなわない。 君のためならどんなことでもする。 君の望むことなら、何でも。 そんな僕の誓いが、如何に脆いものなのかを、君はそうやって暴いていく。 「だから、これくらいのことを気にしてちゃダメ。ニセモノの私を撃ったぐらいで毎晩魘されていたら、最強のサイボーグの名が泣くわ」 ね、とフランソワーズは優しく微笑んだ。 違う！！！ そうじゃないんだ！！ 僕は…… でも…… いや、フランソワーズは酔っ払ってる。 でなきゃ、こんなこと言うはずがない。 でも…… 君は……本当に酔っているの？ それとも、もしかしたら酔ったふりをしているのか？ だったら……まさか！！ そんなはずはない。 でなきゃ……こんな……残酷な…… 「ねえ、そんなことより」 突然、フランソワーズの口調が変わった。 腕の中でジョーを見上げる美しい顔には、さっきの微笑はもうどこにもない。 「あなたに聞きたいことがあるの。私を撃ったことなんかより、もっともっと大事なことよ」 思いつめたような、真剣な声。もっともっと、という言葉に、妙に力が篭っていた。 「もっと、大事な……こと？」 とても彼女の話の展開にはついていけない。 呆然としたまま、ただ鸚鵡返しにそう言ったジョーの頭に、不意に小さな記憶の断片が舞い降りた。 『ねえ、ジョー、それより聞きたいことがあるの。大事なことよ』 確か―――あの時も、彼女は、彼女のニセモノは、同じことを言った。 そう言って、”彼女”は、僕の腕に飛び込んできた。 そして…… 『ねえ、ジョー、お願い』 あの時、ニセモノは僕に何を言おうとしたんだろう？ 「あの時、もっと大事なことがあったの、あなた、覚えてない？」 ニコッと彼女は笑った。 それは赤い薔薇のつぼみが、朝陽を浴びて大きく開いたような、圧倒的な微笑。 「あの時……？」 首をかしげるジョーを見つめる瞳が、蒼く燃えている。 彼女の珍しく強い視線に見据えられ、ジョーは思わずたじろいだ。 |
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