| ゆらゆらと揺れるキャンドルの炎。 その優しい光に、ジョーを見つめる蒼い瞳が美しく輝いている。 『いい感じのお店でしょ？お料理はおいしいし、ワインとチーズの品揃えもかなりのものだって聞いたから、予約しておいたの。今日は解禁日だから、お客さんでいっぱいになっちゃうと思って』 暖炉にくべられた薪が、パチパチと威勢のいい音を立ている。少し落し気味の照明に、控えめなＢＧＭ。まるで山小屋のような、木のぬくもりを感じさせる店内に１０ほど並んだテーブルは、楽しげに語らい、グラスを傾けるカップルですべて埋まっていた。 『解禁日？』 『毎年、１１月の第３木曜日が、ボージョレーの新酒の解禁日なのよ。それが、ちょうど今日ってわけ』 フランソワーズの零れるような微笑に、空輸された大量のボージョレー・ヌーヴォが、成田での通関手続きを終えた、という数日前のニュースをジョーはようやく思い出した。 『今年の夏は暑かったでしょ？だからとっても出来がいいんですって。楽しみだわ』 彼女は無邪気に笑った。 『あ、でも、ごめんなさい。私だけしか飲めなくて……』 『いいよ、僕はそんなにお酒が好きじゃないし、ワインもよくわからないしね』 そこへ現れたソムリエが、大ぶりのグラスに真紅の液体をたっぷりと注ぐ。甘酸っぱい匂いが、ふんわりと２人を包んだ。 『わあ、いい香りね！じゃ、乾杯だけはしましょ！』 白い手の差し出すグラスが、ジョーの手元で、チン、と澄んだ音を立てた。フランソワーズは、目を閉じて深く息を吸い込んで香りを楽しむと、ゆっくりとワインを口に運んだ。 ヌーヴォとは思えない芳醇な味わいのワイン。それに合うように吟味された料理が、次々と供される。本当においしいわ、と何度も言って、フランソワーズはいつもよりかなり早いピッチでグラスを空けた。 『ねえ、今日の舞台、ジョーはどう思った？』 『どの場面が一番良かった？』 今まで何度も、彼女と一緒に”白鳥の湖”を観た。フランソワーズ自身がオデットを踊った舞台も観ている。だから、さすがのジョーも、この演目だけはストーリーも見所も、とりあえずは理解していた。もちろん、それは全部彼女からの受け売りだったのだけれど。 『今日のジーグフリートは、オデットとオディールを同じ人間だと思ったと思う？それとも、別人だと知っていながら惹かれてしまったと思う？』 頬を薄紅に染めて、彼女は熱心に尋ねた。 『ラストシーンはどう思った？あなたはどちらの解釈が好き？今日みたいにハッピーエンドになるのと、この世の生と引換えに永遠の愛を得る、というのと』 ２人で舞台を見た後はいつもこうだ。彼女はとても饒舌になる。 夢中になってバレエの話をするフランソワーズを見ていると、本当に幸せな気持ちになる。こんな時間は、何ものにもかえがたい至福の瞬間だと、ジョーはいつも思う。 だけど、今日は――― 「ねえ……」 僕の心は、重い。 「……どうしたの？」 もちろんそれは、僕自身のせいだ。だから君には…… 「ジョーってばっ！！！！」 突然、ドン、と柔らかいものがジョーの身体にぶつかってきた。 「あ……？」 「んもうっ！あ、じゃないでしょう？どうしてそんなにぼんやりしてるの？」 フランソワーズはジョーの両腕を掴んで軽く揺さぶり、唇を尖らせた。 「３２回数えてくれたのはいいけど、拍手もしてくれなかったじゃない！せっかくうまく踊れたと思ったのに、がっかりだわ！」 「あ、ごめん。ちょっと考え事してて……」 ジョーをじっと見上げていた星のような瞳が、たちまち曇る。 「また、考え事なの？……今日のあなたは、ずっと考えごとばかりね」 そっと両手を離すと、小さく溜息をついて彼女はうなだれた。 「退屈……だったわよね。ごめんなさい。１日、無理につき合わせて」 「フランソワーズ！そんな、そんなじゃないんだよ」 だって、とフランソワーズは悲しげに視線を湖に向け、ぽつんと言った。 「一緒にいても、あなた、ずっと心ここにあらずだったわ。お料理も、ジョーの口には合わなかったみたいだし……」 「そんなこと……」 あああ、と小さな溜息をついて、フランソワーズは天空をじっと見上げた。まるで、涙が零れるのをこらえるかのような仕草に、ジョーは慌てて彼女の腕を掴んで引き寄せた。 「フランソワーズ！」 「私といても、楽しくないのね」 月の光を受けて、彼女の頬に何かが一筋光ったように見えた。 「違うよ！フランソワーズ！そうじゃないんだ！そうじゃなくて……」 「いいのよ、ジョー。無理しなくても」 慌てるジョーに向かって寂しげに笑い、彼女は面を伏せた。 「私……ここから一人で帰るわ」 「フランソワーズ！！違うったら！」 思わず腕を掴んだ手に力がこもる。ジョーは必死になって、彼女の顔を覗き込んだ。 「なあんて、冗談よ！！」 ぱっと顔をあげたフランソワーズは、悪戯っぽく笑ってウィンクしてみせた。 「フランソワーズ……」 ぐったりと脱力するジョーの鼻を、白い人差し指が、つん、と突く。 「うふふ、ちょっとからかってみただけ。心ここにあらずのぼんやりさんの目も、これで醒めたかしら？」 「ねえ、フラ……んっ……」 突然、柔らかな唇がジョーの言葉を塞いだ。 全身を包む甘い彼女の匂い。とろけるようなワイン味の舌に、頭が痺れる。 そして、止めを刺すように、胸にぎゅっと押し付けられた柔らかな身体。 陶然となったまま、完全に思考を停止していたジョーが、ようやく我に返った時、フランソワーズの姿は目の前になかった。 「フランソワーズ？」 慌ててあたりを振り返る。彼女は、小波と戯れるように水際で楽しげに踊っていた。 ―――だめだ。 やっぱり、相当酔っ払ってる。 そして何より面倒なのは、その自覚が彼女にはないことだった。 やれやれ、とジョーは、また重い溜息をついた。 |