―――あれは、波の音？ 絶え間ない海の調べが、子守唄のように、優しく夜に響く。 浜辺を吹き抜ける風も、夢見るように歌っている。 ほの暗い部屋に射し込む青白い光に、目を開けることさえ気だるくて。 あたたかな逞しい胸に頬を寄せて、私はぼんやりと外の気配に耳を傾けていた。 「大丈夫？」 時々、彼はそう言ってじっと顔を覗き込む。 さっきからずっと、大丈夫じゃないって言っているのに。 もう声に出して返事をする気力もなくて、私は目をつぶったまま、かすかに首を横に振った。 きっと心配そうに見つめてくれてるのね。あの優しい瞳で。 でも、今日のあなたは―――昨日からのあなたは、言ってることと、してることが全く違う。 まるでだだっ子みたい。 ぐったりした私を抱きしめて、「ごめん」って口では何度も言いながら、ちっとも聞き分けがない。 どうしちゃったの？ いつものあなたじゃないわ。 そう言おうとするたびに、熱い吐息が私の唇の動きを封じてしまう。 頭の中に乳色の靄がかかったようで、何も考えられなくなって。 まるで、貪り尽くされた、聖なる儀式の生け贄。 夢の世界と現実の狭間に、ぐったりと横たわる人形のような私。 そのまわりで光と闇とがせめぎあい、衝突を繰り返す。 眩いばかりの閃光に幾度も貫かれ、そして―――私の中で、何かが大きく弾けた。 私がようやく元の自分を取り戻した時、あたりはすっかり明るくなっていた。 ゆっくりと目を開ける。朝陽が痛いほど眩しい。 うつ伏せになったまま、そっと視線だけを動かした。 輝かしい金色の光が、爽やかな朝の風に揺れるカーテンの上で踊っている。 かすかな私の身じろぎに気づいたジョーは、起こしていた半身を屈めるようにして、「おはよう」と耳元で囁いた。 「ジョー・・・もう起きてたの？」 「うん、何だか早くに目が覚めちゃったんだ」 両手をついて体を起こそうとした途端、彼は私をそのまま抱きすくめた。 「ちょ、ちょっと！―――お願い、待って」 「今までずっと待ってたのに？まだこれ以上待つのかい？」 「でも・・・お願い、もう・・・」 哀願するように見つめても、今のジョーにはちっとも効果がない。 それどころか腕にいっそう力をこめて、息が出来ないほど強く抱きしめる。 「ねえ、苦しいわ。離して」 「嫌だ」 もう日付はとっくに変わったのよ。 リクエストの有効期限は切れてしまったわ。 何度私が懸命に言っても、ジョーは聞こえないふりをし続けた。 激しい波に揺さぶられ、翻弄され、その後の引き潮に攫われていく。 いったいどこまで流されるのかしら？ どうなってしまうの？ 自分と周りの世界がひとつに溶け合ってしまったような、奇妙なカオスの中で溺れてしまいそう。 何も考えられない。なのに、痺れたような頭のどこかで、ある感覚だけがどんどん研ぎ澄まされていくような気がするの。 感じる。 これは何なのかしら？ 何か、この場には異質なもの。 気になるわ。 何かがずっと私を、私たちを見つめている。 今だけじゃない。昨日からずっと。 昨日の朝から、誰かに鋭い目で見つめられているような気がしてならなかった。 この感覚は、何？ そうだわ。 音がした。 思い出した。 あの音。 あれはいったい何だったのかしら？ 初めて聞く音だった。 あれは・・・ああ、もう少しで思い出せそうなのに。 また煌く光の海が、津波のように私に襲いかかる。 逃げる暇もなく波に捕らえられ、光の真っ只中に投げ込まれて、私は再び思考を放棄した。 あれは・・・ シャッターの音・・・？ 「ねえ、あのカメラ、どうしたの？」 はずんだ息を少しずつ整えながら、私はジョーに尋ねた。 片腕に私を抱いたままサイドテーブルに手を伸ばすと、彼は私の胸の上にそっとカメラを置いた。 ずしりと重い、無機質な冷たい金属。 なのに、直接肌に触れた瞬間、とても生々しい感じがして、私はドキリとした。 「これ、どうしたの？ずいぶん古めかしいのね」 大きなボディについた、幾つかの傷。 丁寧に手入れこそされているけれど、新品でないことはすぐわかる。 「うん。５０年位前のだって」 「５０年？アンティークなの？」 どうしたんだろう。 いつこんなものを買ったのかしら？ ジョーにそんな趣味があったなんて知らなかった。 古いものを蒐集する。それは、モノへの執着がなせる行為。 ジョーくらい、そんなこととは無縁の人はいないと思っていたのに。 部屋だって、ほんとに素っ気無いくらい余計なものがない。 ジョーが撮ってくれた私の写真が何枚か本棚に飾ってある以外は、装飾品など全くおいていなかった。 そんなジョーが、どうしてこんなカメラを？ 「う・・・ん。アンティークになるのかな。でも、今でも十分使えるし、むしろ今のカメラよりすごいって、アルベルトが言ってた」 ジョーは、私の髪をくるくると自分の指に巻きつけて弄びながら、淡々と言った。 「え？アルベルトが？」 私は思わず目を丸くした。 「うん。・・・これ、アルベルトに貰ったんだ」 「アルベルトに？―――お誕生日のプレゼント？」 「そういうわけじゃないみたいだけど」 ジョーは言葉を濁した。 仲間達は、誰かの誕生日だからといって、プレゼントのやり取りをしたりはしない。 みんな、ジョーと同じで、モノになど全く執着していないから。 ただ私の誕生日だけは別。１年に一度の楽しいお遊びとして、みんなが何かしら工夫を凝らしたプレゼントを贈ってくれる。 でも、どうしてアルベルトがジョーに？ 「３日前に、突然くれたんだ」 私が両手でゆっくり持ち上げたカメラを、ジョーは軽々と片手で受け取る。一度ファインダーを覗きこんでから、無造作に自分の胸の上に置いた。 「ジョー、これって、アルベルトが大事にしてたものじゃないの？」 「いや、最近買ったんだって。昔、愛用してたのと、同じのを見つけて、つい買ってしまったって言ってた」 「せっかく同じのを見つけたのに、どうしてジョーにくれたの？」 「うん・・・」 ますます歯切れの悪い返事に、私は首をかしげ、ジョーの胸の上のカメラをあらためて見つめた。 どこか風格のあるカメラ。 有名なドイツのメーカーのもの。その名前は、私でも知ってるわ。 アンティークのカメラは、マニアの間ではとても高値で取引されていると、兄さんから聞いたことがある。 兄さんは、よく言ってた。 オートフォーカスのついたようなものは、カメラじゃない。誰でも同じように写せる今時のカメラなんて、ちっともおもしろくない、と。 そうね。 確かにアルベルトなら、カメラに凝っていたとしても、不思議じゃない気がする。 でも、それにしても、いったいどういう風の吹き回しだろう？ わざわざ買ったものを、自分が使わずに、ジョーにあげちゃうなんて。 「アルベルトがジョーにプレゼントくれるなんて、初めてじゃない？」 しかも、よりによってカメラなんて。 写真に撮られるのを、ジョーが好きでないってこと、アルベルトもよく知っているのに。 首をかしげる私に、ジョーはまた口ごもった。 「うん・・・そうかもしれないね」 「ジョーが写真撮ってるところなんて、アルベルトはほとんど見たことないはずなのに。どうしてカメラなんてプレゼントしてくれたのかしら？」 「う、うん・・・」 しどろもどろになるジョーを、私はじっと見つめた。 おかしいわ。 やっぱり、今日のジョーは変。 「ねえ、ジョー。あなた、私に何か隠してない？」 まっすぐに茶の瞳を覗き込む。 「え？ううん。そんな・・・君に隠し事なんて・・・」 でも、ほんの一瞬、ジョーは私から視線をそらした。 「そう？ほんとに？じゃあ、アルベルトは何て言って、これをあなたにくれたの？」 「う、うん・・・」 ジョーは、バツの悪そうな表情を浮かべながら、カメラをサイドテーブルに置いたアルバムの上にのせると、私を見つめてボソッと言った。 「デジカメなんて便利なだけで、カメラじゃないって言ってた」 デジカメなんてカメラじゃない？ 兄さんと同じこと言ってるわ。アルベルトらしい言葉ね。でも、どうして―――？ 私が無言でじっと見つめ返すと、ジョーはちょっと困った顔で、観念したように言葉を続けた。 「デジカメなんか使わないで、ちゃんとしたカメラで君を撮れって」 「―――私を？」 それって、どういうこと？ デジカメなんか使わないで？ まさか？？ 「ジョー・・・？・・・それって・・・どういうこと？まさか・・・見せたの？」 「え？な、何を・・・？」 「何をって、あなたが撮った写真よ！あの・・・アルバム・・・」 ジョーの腕の中で、思わず私は大きな声を出していた。 「違うよ。見せたんじゃないんだ」 「ほんとに？見せてないの？」 「うん・・・」 私の両肩を抱いて、頷くジョーの言葉にホッとした。 でも・・・ 「見せてはないんだけど、でも・・・見られちゃった・・・みたいなんだ」 「ジョー！！！それって一緒じゃないのっ！！・・・どうして？もうっ、知らない！！」 信じられないわ！あれを見られちゃったなんて！ 泣きべそをかく私を、ジョーは悲しそうに見つめて、ぎゅっと抱き寄せた。 「ごめん、フランソワーズ。怒った？」 「もう、知らない！！どうしてそんなことになるの？」 逞しい腕から逃れようと暴れる私を、両腕ですっぽり封じ込めると、ジョーは耳朶に唇を寄せた。 あれは先月の終わりごろだ。 君は、朝早くから出かけていた。公演が間近だったもの。あの頃、ずっとレッスンで忙しかったよね。 博士は学会でニューヨークに行ってたし、イワンは例によって夜の時間だった。 がらんとした研究所に、僕は１人取り残されていた。 １日中、手持ち無沙汰で。何をしても味気なくて。 ただ、ぼんやりと時間を過ごしていた。 外はいい天気なのに。穏やかな初夏の陽射しは、とても明るいのに。 何もする気がしなかった。 でも、何もしないでいると、ますます君がいないことが気になって仕方なかった。 ふと思いついて、部屋からそれを持ってきて、リビングで見てたんだ。 一人でページをめくりながら、君のことを考えていた。何度も繰り返して見てたんだ。 そうしてたら、独りぼっちじゃない気がしたから。 ふと気づくと、外は夕闇に包まれていた。 部屋の明かりをつけようと立ち上がった時、玄関のベルが鳴った。 誰だろう？ アルバムを何気なくチェストの上に置き、ドアを開けた。 外に立っていたのはアルベルトだった。 キャンセル待ちのチケットを手に入れて、予定より１日早く戻ってきたのだと彼は言った。 それから僕は、彼にコーヒーを出したり、話し相手をして過ごした。 そうしているうちに、すっかり忘れてしまったんだ。 とても大切なものを、リビングに置きっ放しにしていることを。 次の夜だった。 僕の部屋をノックする音に、ドアをあけると、アルベルトが立っていた。 『おい、ジョー！これ・・・』 『えっ？！！』 なぜ？ なぜ、彼がこれをもっている？ 『あ、あ・・・ありがとう・・・ど、どこに？』 すっかり忘れていた。今の今まで。 焦る僕に、アルベルトはあきれ果てた顔で言った。 『ったく、こんなものリビングに放っておく奴があるか。ジェットやグレートに見られたらどうするつもりだ？明日、みんな帰ってくるんだぜ！』 『う、うん。ありがとう・・・』 呆然とする僕にアルバムを手渡すと、彼はすたすたと自分の部屋に戻っていった。 何だか取りつく島もないアルベルトの背中。 僕は声をかけることも出来ずにいた。 そして、３日前の真夜中近く、またアルベルトが僕の部屋をノックした。 『これ、オマエにやるよ』 手渡された紙袋は、ずしりと重かった。 『これは・・・？』 中には、ケースなしで剥き出しのままのカメラが入っていた。 『ちょっと前に、中古カメラ市で見つけたんだ。昔、オレが愛用してたのと同じライカ。 Ｍ３だ』 彼は、僕の持った紙袋から無造作にカメラを取り出すと、唇の端を少し歪めて薄く笑った。 『いいカメラだ。ただし、これで撮るのはそう簡単じゃないぜ』 露出もピントも、当然自分で合わせる。 シャッターを押せば誰にでも写せるような冒涜的代物じゃないからな。 とりあえずまともらしく写るってことで言えば、使い捨てカメラの方がよっぽど確実だ。 『だがな、ジョーよ。デジカメみたいなつまらんもので、自分の大事なものを撮るな』 『・・・アルベルト・・・？』 『オレが言うのも変な話だが、何でも機械まかせにするな。ちゃんと自分の目で見て、ちゃんと向き合って撮ってみろ』 このカメラで写した写真を見ればわかる。 被写体にどれだけの思い入れが、撮る側にあるかが。 写るのは、レンズの向こうにあるものだけじゃない。 レンズのこちら側。撮る側の心まではっきり写ってしまう。 『写真てのは、本来そういうもんだ』 現像だって、自分でするのが当然だ。 『デジカメはそこんところが手間いらずで、オマエにはすこぶる便利なんだろうが。だが、やっぱりオレは感心しない。現像の仕方なら、オレが教えてやる』 そう言うと、アルベルトはふっと表情を緩めた。 『懐かしくて、つい買っちまったんだがな。よく考えれば―――考えるまでもなく、オレにはこのカメラで写せるものなんてないことを、すっかり忘れてた』 「アルベルトが、そんなことを？」 私は、サイドテーブルのカメラとアルバムに、そっと手を伸ばした。 ライカＭ３。 このカメラで、彼は彼女の写真を撮り続けていたのね。 もう今は、同じ世界にはいない人。 昔愛用していたのと同じカメラを偶然見つけて、彼女を思い出して、つい買ってしまったなんて。 アルベルトの気持ちを考えると、胸が苦しい。 思わず涙が零れそうになる。 彼が、決して手放さそうとしない、辛くて大切な記憶。 あのアイスグレーの瞳の奥には、いつも彼女がいる。 彼の眼差しがどんなに熱く見えても、それは所詮、心の隙間を生めるための迷いに過ぎない。 私にはわかるわ。 彼はずっとあの人を愛してきた。そして今も。これからも。 そしてジョー。 一人でいる時に、このアルバムを見て、私のことを考えてくれてたのね。 このカメラで、「本当の写真」を撮ろうとしてくれるのね？ 腹を立てていたことなどすっかり忘れて、私はジョーの胸に甘えるように頬を寄せた。 「昨日の朝、私が寝てるときにあなたが撮ったのは、このカメラだったのね？」 うん、とジョーは頷いた。 「フラッシュがないから、夜には写せないんだ。だから、まだあの２枚しか撮ってない」 もしかしたら。 誰かに見られているような気がしたのは、このカメラのレンズのせいだったのかしら？ ずっと枕もとにおいてあったもの。 「初めて使ったから、うまく写ってるかどうか怪しいんだけど」 でも、君をちゃんと写すから。 ちゃんとファインダーの向こうの君を見つめて。 君を包みこむ光も、闇も全部ちゃんと計算する。 僕にしか撮れない写真を必ず撮るから。このカメラで。 いつも限りなく優しい茶色の瞳。今、強い輝きを帯びて私を見つめている。 肩を抱き寄せながら、ジョーは「ほんとに、ごめん」と耳元で呟いた。 体を彼に預けたまま、私は無言で首を横に振った。 「フランソワーズ・・・」 ジョーの手が私の髪を優しく漉いた。 首筋に、肩にそっと触れる。 「もう・・・だめよ。今日は、もう・・・」 なのに力強い腕が、私の抵抗をがっちりと封じ込める。 「君は・・・」 お願い。もう・・・だめ。 「僕の・・・」 何か言おうとしても、言葉にならない。 また全身が溶け始める。私の力では止められない。 「・・・僕だけのものだ」 ジョー？ どうしたの？ 肌に触れる熱い唇。 同じ言葉を何度もうわごとのように呟きながら、ジョーは私を強く抱きしめた。 「そのことをちゃんと・・・」 そのこと？ 苦しいわ。そんなに強くしないで。 「わからせなくちゃ」 わからせる？ 誰に？何を？ ああ、もう何も考えられない。 「絶対に、誰にも渡さない」 何を言ってるの、ジョー？ 「ちゃんと・・・わからせるんだ」 どういうこと？まさか・・・？ 「君は・・・」 まさか・・・嘘でしょう？ 「僕だけのものだって。ちゃんとわからせなきゃ」 ああ、どういうこと？ まさか、ジョー？わざとなの？ わざと置き忘れたの？ だめよ。そんなことしたら。 だって・・・彼は・・・ まただわ。 また、誰かがじっと私を見てる。 感じるの。視線を。 どこからかしら？ 枕もと？ やっぱり、あのカメラ？ いいえ。そうじゃない。たまたま、レンズがこちらを向いているから、そんな錯覚に陥っただけ。 気のせいよ。 私、どうかしてる。 ジョー・・・お願い。もう・・・ 朦朧とする意識の中で、私は懸命にそう呟いていた。 違うわ。 気のせいなんかじゃない。 あれはただのレンズじゃない。 そして、あの音。 また、あの重いシャッター音が聞こえた。 そうよ、あれは・・・あの射竦めるような冷たい眼差し。 ああ、どうしてそんなことが？ あれは、まるで・・・・ そのことに気づいた瞬間、私は、光と闇が拮抗する空間を、真っ逆さまに堕ちていった。
	→「Album」