「わざわざ悪かったな」
「いや、いいんだ」
どうせ暇だったから、とジョーは屈託のない笑顔を見せた。
「皆、元気か？」
「うん・・・。変わりないよ」
ギルモア博士はアメリカに行っている。
「昨日の朝、この空港まで見送りにきたんだ。最近、大人はお店が繁盛して忙しいらしくて・・・」
ちっとも研究所に顔を出さない、とジョーはハンドルを握りながら、皆の近況を話した。
「そうか・・・」
彼女は？と聞こうとして、俺は思わず躊躇した。
「あ・・・何？」
「・・・いや・・・別に。イワンは？」
「今、夜の時間の真ん中あたりだよ。あと１週間くらいはぐっすり寝てる」
「そうか」
次は彼女の名前が出るだろう、という俺の期待を裏切って、ジョーはそのまま口をつぐんだ。
会話はしばらく途絶えた。


４月初旬の夜にしてはずいぶん暖かい。
ドイツではまだ厚手のコートが手放せないのに。
花冷えどころか、どんよりと生ぬるい風が吹いていた。
これは何の匂いだろう？
日本に着いた時から気になっていた。
梔子の花のようだ。でも今はその季節じゃない。
俺の鼻腔をずっと刺激し続けていたその匂いが、だんだんと強くなっていくような気がする。
研究所まであと２０分ほどの距離まで来た時、ちょっと寄って行かないかい？とジョーが言った。
「どこへ？」
「君にも見せてあげようかと思って・・・」
「何を？」
「その場所を・・・」
ジョーは子どもみたいに嬉しそうに言った。
「その場所？」
つい俺もつりこまれて微笑んでしまうくらい、無邪気な笑顔だった。
でも、本当のところ、俺は・・・一刻も早く・・・
その心を見透かしたかのようにジョーは言った。
「早く研究所に帰りたい？」
「え？いや・・・そうじゃないが・・・」
でも、フランソワーズはいないよ、とジョーは前を向いたまま言った。
やっとその名前が出た。
でも・・・いないのなら、何故最初にそう言わない？
その言い方にどこか不自然なものを感じて、俺はジョーの端正な横顔を見つめた。
「・・・出かけてるのか？」
「うん。いないんだ」
「パリに・・・？」
「いいや、そうじゃない」
そんな場所じゃないんだ、とジョーは微笑んだ。
「いつ・・・戻ってくるんだ？」
「さあ・・・」
「さあって、どういう意味だ？お前も知らないのか？」
ジョーは、いつも彼女を見つめる時だけに浮かべる、あのとろけるような微笑を俺に向けた。
「まさか。フランソワーズのことを僕が知らないはずないだろう？君も・・・知りたい？」
背筋がゾクっとした。
コイツはどうしてこんな言い方をする？
いつものジョーじゃない。
でも・・・それは・・・まさか？
ますますあの匂いが強くなる。
甘いのに、何かが饐えたような匂い。
息苦しくなって、俺は車の窓を開けた。
頬を撫でる生暖かい風。
だが、俺の手は、氷のように冷たくなっていた。
コイツは・・・何を言おうとしている？
「彼女は、もうここには帰ってこないんだ」
ジョーは、微笑みを浮かべたままそう言った。
「ジョー？！お、お前・・・」
俺をからかっている？それとも・・・気でも狂ってるのか？
コイツが俺をからかう？なぜ？
まさか・・・コイツ？
なぜ？
俺は言葉を失い、青ざめたまま助手席で凍りついていた。
楽しそうにハンドルを握っていたジョーが、低い声でポツリと言った。
「なぜ、って？」

君が・・・余計なことをするから

「・・・ジョー？」
「君にも十分わかっていたとは思うけど」
彼女は僕だけのものだ、とジョーは静かに言った。
「今までも、そして、これからもずっとね」
もし、僕から彼女を奪おうとするものがいたら、誰であろうと絶対に許さない。
「彼女に触れることだってさせやしない。もしそんなことをする奴がいたら・・・」
僕はソイツを殺す、とジョーは明るく澄んだ目で、まっすぐに俺を見つめて言った。
「僕の力はそのために与えられたんだもの」
でも・・・
茶の瞳が少し哀しげに笑った。
君は仲間だ。
「だから・・・もう君の手の届かないところに仕舞っておくことにしたんだ」
そう言うと、ニコッと笑ってジョーは満足そうな溜息をついた。
「何より・・・彼女がそのことを望んでた」

車が突然停まった。
俺はその反動で、ヘッドレストに強く後頭部を打ちつけられた。
頭の芯がじんじんと痺れる。
「今年の桜は早かったんだ。もうみんな散ってしまった」
いつの間にか、俺達は公園の桜並木の下にいた。
おととい雨が降って風も強かったから、僅かに残っていた花もきっと全部散ってしまった、とジョーは言った。
「せめて散るところくらい、見られたら良かったのにね」
桜は散る姿が一番美しい。
「フランソワーズは、いつもそう言ってた。それを見るのが好きだった」
人も同じだね、とジョーはしみじみと言った。
だから・・・
はらはらと舞う花びらの中、彼女は神々しいばかりに美しかった。
いつにもまして。
「あの美しさは僕だけのものだ。君には見る資格がない。でも・・・その場所くらいは教えてあげるよ。ホントは２人だけの秘密なんだけど。ほら、あっちだ」
俺は両拳を握り締め、全身の激しく震えに耐えていた。
「そうだ！その前に、あの本、返さなきゃ」
明るい声で、ジョーは言った。
「あの本？」
後部座席に置いてあった、鈍色のカバーの本を手に取る。
「ほら、これ。いつか君が、フランソワーズに貸した本。彼女はとても気に入っていた。僕にも何度も見せてくれた」
でも、もういらないから返す、とジョーは俺の目を見てにっこりした。
「さあ、行こう」
ジョーは俺を促すと、車から降りた。
匂いはいっそうきつくなる。
俺は殆ど酔っ払ったようになっていた。
思考がまともに働かない。
「彼女は、あの歌が一番好きだと言ってた」
「あの歌？」
「そのページに押し花がはさんであるんだ。すぐわかるよ」
これをはさんだまま君に返した方がいいと思って、とジョーは言った。
「押し花は、僕から君へのプレゼント。ちょっと惜しい気もするんだけど」
俺は激しい悪寒に襲われていた。
がたがたと音がするのではないかと思うほど、体が震える。
「その花はね、あの時・・・偶然、フランソワーズの唇の上に落ちてきて留まったんだ。桜の木が、彼女にお別れの投げキスしたみたいに」
彼女はとても幸せそうに微笑んでいた。
固く目を瞑った、儚げな横顔。
明るい月の光を浴びたその姿は、妖しいほどに美しくて。
真っ白い肌の上に点々と散りばめられた花びらが、まるでウェディングドレスみたいだった。
「ホント言うと・・・その花だって許せない」
ポツリとジョーは呟いた。
だから・・・そうやって押し花にした。
「どうして僕がそう思うか、君にはわかるだろう、アルベルト？」
ジョーは静かな、でも強い眼差しで俺を見つめた。
俺は、自分が呼吸を忘れていることにも気づかないでいた。
「彼女の唇に触れるなんて・・・」
花びらだって、月の光だって、同じだ。
「何であれ、僕以外のものが彼女に触れることは、絶対に許さない」
そう言うと、ジョーはふっと眼差しを和らげた。
「僕はとても嫉妬深いんだ。自分でも驚くほど」
でも・・・
「それ以上に、僕は彼女を愛してる」
だから彼女の言うことには逆らえない。
彼女の望みなら、何でも、どんなことをしてでもかなえてあげたいと思う。
だから・・・彼女が望むようにした。
「フランソワーズは、僕にそうして欲しいと言ったんだ。僕じゃなきゃ出来ないって」
「ま、まさか・・・お、お前っ？！」
叫ぼうとしても声が出ない。
そんな俺に向かって、ジョーは呆れたように笑った。
「怒ってるの、アルベルト？」
でも仕方ないだろ、とジョーは肩をすくめた。
「だって・・・君があんなことをしたんだもの」
ふうっと溜息をついて静かに言った。
「これでもう２度と、君は彼女に触れられない」
それに、とジョーはちょっと困った顔で言った。
「僕が君を殺してしまったら、君はちっとも苦しまないだろう？」
俺は、ただ息を呑んで、ジョーの顔を見つめていた。
またあのとろけるような笑みを俺に向けて、ジョーは優しく言った。
「それに・・・僕が君を殺したら、彼女がとても悲しむから。君は仲間だもの」
僕は彼女を悲しませることはしたくない。だから、一番いい方法を考えた。
何より、彼女がそれを望んだ。
「僕にそうして欲しいと。僕にしか頼めないって。僕を愛しているから。そして僕が彼女を愛しているから。だから、僕はその願いをかなえた」
「お前は・・・いったい・・・？」
喉が引き攣り、声にならない。
「まだわからない？彼女の願いは・・・ほら・・・このページにあるだろう？」
ジョーは静かに言って、俺に本を手渡した。
「フランソワーズが一番好きな歌だ」
本は、俺の震える手から滑り、開いた状態で地面にばさりと落ちた。
生暖かい風が吹き、ぱらぱらとページをめくる。
蜻蛉の羽のように薄く押し延ばされた白い花が、闇に舞いながら砕けていった。
呆然と立ちすくむ俺を、ジョーの冷ややかな目がじっと見つめている。
俺は最後の力を振り絞って本を取り上げ、震える手で、開き癖のついたページを開けた。



「どうしたんだい、アルベルト？気分、悪いの？」
俺はハッと目を覚ました。
エンジンの軽快な音が響く。
夢だった―――のか？
「いや・・・大丈夫だ。ちょっと居眠りしてた」
「なんだか、酷くうなされてたけど・・・大丈夫？」
とんでもない夢だった。
俺は激しい胸の動悸を悟られないように、大きなあくびをして誤魔化そうとした。
「ああ、おかしな夢を見た。時差ぼけかな」
信じられない夢だった。
俺はなんだって、こんなとてつもない夢を見る？
本当に、夢？
俺は深呼吸して息を整えながら、そっとジョーの横顔を覗き見た。
お前がそんなことをするはずはない―――ありえない。
「え・・・何？僕が・・・何かしたの？」
目が合う。
「いや・・・何でもない」
こんな無邪気に笑うコイツが・・・まさか。
俺は何を考えてる？
いくら夢にしたって、見ていい夢とそうじゃない夢がある。
不思議なことにあの匂いはすっかり消えていた。
俺はまた大きく深呼吸した。
「あ、そうだ。よかったら、ちょっと寄って行かないかい？」
「え？」
絶句する俺を、ジョーは不思議そうに見つめた。
「どうして、そんなにびっくりするんだい？」
「い、いや・・・」
「でも、急いで研究所に戻っても誰もいないし・・・」
誰もいない？
「今年の桜は早かったんだ。もう殆ど散ってしまった。フランソワーズがとても残念がってたよ。君が戻ってくる前に花が終わってしまうって」
じっとりと脂汗が滲んでくる。
「でも・・・１本だけ、先週はまだつぼみだった木があるんだ。おととい、雨が降って風も強かったから、もう散っちゃってるかもしれないけど。見に行ってみない？」
俺は全身の震えを必死に抑えながら、無言で頷いた。

公園の桜並木。
東屋の影の、日当たりの悪い場所にある、１本の桜。
「あ・・・やっぱりもうダメだな」
フランソワーズと来た時は、まだつぼみは固かったんだよ、と残念そうに俺を振り返る。
細い月が、若々しい薄緑の葉陰から透けて見える。
葉桜、か。
「でも・・・これはこれで・・・とても綺麗だね」
ジョーの声に、ようやく気を落ち着かせた俺は、ゆっくりと頷いた。
かすかな風に何かが光った。
俺は思わず目を凝らした。
かすかな月明かりに照らされて、白く輝く花一輪。
「あ・・・残ってる！たった一輪でも、全然ないよりはましかな？」
来た甲斐があったね、とジョーはホッとしたように笑った。
「どっちかって言うと、満開の桜より、俺の趣味にはこっちの方が合うな」
「やっぱり・・・？」
そうだと思った、とジョーはニコッとした。
「だって・・・あの歌・・・。最初に読んだ時、君のことを思い浮かべたから」
あの歌？
「好きだろうなって思った。似合う気がした」
俺に似合う？
「ほら、いつか君が、彼女に貸してくれた本に載ってた歌だよ」
心臓が早鐘のように打ち始める。
「もう・・・覚えてない？あの本には、桜の歌がたくさんあるものね」
ジョーは花を見つめたまま、低い声で歌うように呟いた。

　　葉隠れに散りとどまれる花のみぞ　忍びし人に逢ふ心地する

微かな風が吹いた。
小さな花びらが誘うように揺れる。
動揺した俺は、無意識のうちに右手を伸ばしていた。
ジョーが鋭く叫んだ。
「だめだよ、アルベルト！さわっちゃ駄目だ！」
一瞬早く、黒い手袋が花びらに触れた。
その途端、５枚の薄紅が砕け落ちるように、はらはらと宙を舞った。

ジョーは優しい目で、諭すように言った。
「ほら、言ったとおりだろ？触っちゃだめなんだよ、アルベルト。見てるだけならいいけど」

見てるだけなら大丈夫。
でも、触れてはいけない。
せっかくの美しい命を散らしてしまうだろう？

細い月が、雲に隠れる。
あたりは、どんよりとしたぬるい闇に包まれた。
あの匂いだ。
また、どんどん強くなっていく。
―――まさか、この匂い？
俺は、静かな微笑を浮かべるジョーの横顔を、ただ呆然と見つめていた。

「山家集」→

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