１．　廃　墟

そこは廃墟だった。 　原形をとどめているものはおそらく何もない。ただ煙と油の匂いが立ち込めている。 　大きな夕陽が、瓦礫の向こうの地平線に、ゆっくりと沈んでいく。 　マフラーをはためかせ、彼はただ呆然と立っていた。 　なぜだ、と自問を繰り返す。なぜ、自分達が来る前にこんなことに？ 　凍りついた心臓をハンマーで叩き割られたような衝撃。すべての感覚が麻痺している。 　何も感じない。何も見えず､耳に入らない。 　風の音も、夕陽の赤さも、ただそこにあるだけ。 　ジョーは黙って、ただ唇を噛みしめた。 　一度はあきらめた。 　だが、もしかしたら、と、あの時考えてしまったばかりに、いっそう辛さが増す。 　頭ではわかっている。ここには、生きているものは何もいない、と。　 　それでも、信じたくなかった。自分の目ですべてを確かめるまでは。 　やみくもに瓦礫の中を歩き回る彼に、ハインリヒが静かに近づき、無言で肩を抱いた。 　何かが、ぷつんと音をたてて切れた。 　がっくりと膝をつき、地面に手を叩きつけて､ジョーは呻いた。 　「……ソワーズ……」 　やがて訪れた夜の静寂。 　夥しい数の骸に囲まれて、彼は身じろぎもせずに座り込んでいた。 　夜は死者の時間。 　闇の力で、身体を離れた魂が浮かび上がるかもしれない。 　確かに彼女はここにいたのだ。自分達が倒すはずだった敵と一緒に。 （君を……このまま……この瓦礫の中に置き去りになどできない） 　力を振り絞り、彼はようやく立ち上がった。 （こうなったら、一つ一つ調べてやる） 　今、できることはそれしかないから。 　まるで墓を暴いているようだ、と思いながら、ジョーはひたすら亡骸を確認し続けた。 　銀色の月が昇る。 　凍りつきそうな光を浴びて、何かがきらりと輝いた。 　―――亜麻色の髪？ 　一瞬、目の前が真っ暗になる。激しく脈打つ自らの心臓の音。 　息を呑み、震えながら近づいた。 　だが―――それは男だった。 　おそらく研究者だろう。白衣を着た、まだ３０才前くらいの若い男。 　爆発で落ちた天井の梁の下敷きになって死んでいた。 　端正な横顔。まるで眠っているようだった。 　ふうっ、と息を吐き出す。と同時に、ジョーの全身からどっと力が抜けた。 　何としても見つけなければ、と思う。 　しかし一方で、そのことを自分が本当に受けとめられるのか、自信はなかった。 　見つけさえしなければ、どこかで生きているかもしれないと思い込むことができる。 　たとえ、その可能性が限りなくゼロに近いと､わかっていても。 　だが、このままにしておくことはできない。 　せめて―――。 　刺すような風が吹き、男の髪がなびいた。 　彼女と同じ亜麻色の髪。 　あの柔らかな感触を思い出し、胸がずきりと痛む。 　だが、もう、何もかも取り返しがつかない。 　せめて―――せめて、戦闘要員でない彼くらい、人間らしく葬ってやりたい。 　そうすることで、少しは何かを償えるような気がした。 　男の死体に近づき、梁を取り除く。 　血まみれの身体を抱き起こそうとして、ジョーは眩暈を覚えた。 　風になびいていたのは―――男の髪ではなかった。 　腕の中に誰かを庇ったまま、彼は死んでいた。 「……フランソワーズ！！」 「……だれ……？」 　ジョーの腕の中で、ようやく意識を取り戻した彼女が呟いた。 「ああ！フランソワーズ！ああ……！」 　言葉にならない。 　とてつもなく長い時間だった。何度あきらめたことか。 （でもやっと……こうして……） 　思わず天を仰ぎ、大きく息を吐いた。二度と消えるまいと思っていた胸の痛みが溶け出していく。 ――見慣れぬ白い衣服をまとっているが､確かに君だ。やっと、やっと……。 　もう二度と、こんなふうに君を……。 　とめどなく流れる涙をぬぐおうともせず、ジョーは優しく胸に抱き寄せた。 　と、突然、フランソワーズは身をすくめ、鋭く叫んだ。 「いやっ！離して！！」 「フランソワーズ！？……僕だよ！僕がわからないの？」 　予想外の反応に､思わずジョーはうろたえ、細い両腕を握りしめた。 「ううっ……離して……お願い……いやっ」 　彼の胸を突き放そうと、フランソワーズは必死にもがき､顔を背ける。 「僕だよ！フランソワーズ！……僕を見て！」 （やっと、君を取り戻せたのに……） 　頬に手をあて､少し強引に彼女をこちらに向かせた。 　しかし―――。 　その怯えきった表情に、ジョーは愕然とした。 「い、いやっ！！……お願い……さ……さわらないで！……誰？どうして……」 　震える声。そして蒼い瞳に湛えられた激しい恐怖の色。 （いったい何があったんだ？君は、どんな目にあったというんだ？） 　たまらずに、彼女を力づくで抱きしめた。 「ああ……」 　フランソワーズの体からふっと力が抜けた。 　がっくりと頭を垂れる。 　絶望が、張りつめていた彼女の心の糸を断ち切ったかのように。 　やっと、恐ろしいものから逃れられたのに、また―――。 　声にならない、そんな悲痛な叫びが聞こえてきそうだった。 　だが､ジョーは腕の力を緩めず、耳元で呟き続けた。 「フランソワーズ……僕は……やっと……君を……」 　取り戻せたのに。 　生きてさえいてくれれば―――そう思っていた。 　もし､もう一度､胸に抱きしめることが出来たら。 　そうしたら……今度こそ……。 （なのに､君は……どうして……僕がわからない？） 　ジョーは濡れた頬を寄せると、激しく嗚咽を漏らした。 　もはや抗う気力も失ったように、彼女は目を閉じてただ震えている。 　亜麻色の髪が､風に流され､２人に纏わりついた。 　そのまましばらく時が止まった。 　と、ふいに彼女が頭を起こした。 「―――どうして……？」 「……フランソワーズ？」 「どうして……あなたは……泣いてるの？」 　か細い手が、おずおずとジョーの頬に触れる。 「フランソワーズ！君は……」 　ジョーは亜麻色の髪に顔を埋め、無我夢中で抱きしめた。 「フランソワーズ！！一緒に帰ろう」 「……帰る？」 　どこへ帰るの？、と震える微かな声で､彼女は呟く。 「仲間のところへ！……そうだ、みんなのところへ帰ろう！」 「……仲間？」 突然､身体が強ばる。ジョーは驚いて蒼い瞳を覗き込んだ。 「わ、私は……ああっ……」 　瞳にまた恐怖の色が走る。 　ジョーは耳元で優しく囁いた。 「君は、僕の大切な仲間だ」 　そして―――かけがえのない…………。 「……仲間？」 　絞り出すような声。 　目を固く瞑った彼女の体が小刻みに震え出す。 「そうだ……。仲間だよ」 　信じあっている仲間。 　だから君は何も心配しなくていい、怖がらなくていい、とあやすように語りかける。 　だが―――。 「……ん？」 「うぅ……いやっ……」 　突然、呻き声を上げると、フランソワーズは両手で顔を覆った。 「どうしたの？何が……」 ｢離して！！」 　ジョーを突き放した反動で、彼女は地面に倒れこんだ。両手をついて体を起こすと、激しく体を震わせ、何度も頭を振った。 「私は……ううっ……」 ―――いったい､何があった？ 　泣きじゃくる細い肩を、ジョーはしばらく呆然と見つめていた。 （何があった？どうして？どうして僕のことがわからないんだ？仲間が……どうしたんだ？） 　再び声をかけようとしたジョーに背を向けたまま、フランソワーズはゆっくりと立ち上がった。 　ふらふらと傾く身体。あわててジョーも立ち上がり、彼女に寄り添う。 「どこへ……？」 　そっと腕を支えたジョーの手を振りほどき、フランソワーズは小さく叫んだ。 「離して！もう……私にかまわないで！！」 　強い調子の声に思わず手を離した。 　いったい彼女は何をしようとしている？どこへ行こうとしているんだ？ 　フランソワーズは震える両手を前にゆっくりと差し出すと、ぎこちなく歩みを進めた。 　裾の長い衣が､折からの風になびく。 　暗闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる白い後ろ姿。 　まるで金縛りにあったように、ジョーは呆然とそれを見つめていた。 　突然、彼女の姿が消えた。 「危ない！」 　次の瞬間、ジョーは加速装置を使い、柔らかな身体を受けとめた。 　爆発で出来た大きなクレーターの底。１ｍ以上も段差があったというのに、なぜ？ ―――なぜ？まさか？ 　腕の中でぐったりしている彼女を見つめて、ジョーは震える声で呟いた。 「―――まさか？……まさか、フランソワーズ……君……？」 　ぴくり、と細い身体に緊張が走る。 　フランソワーズの視線が、懸命にジョーの声を追った。 「まさか……」 　静かに額に手をかざす。だが彼女は瞬き一つしない。 「……見えて……ない……のか？」 　蒼い瞳から涙があふれ出た。 　ジョーは言葉を失い、彼女を抱いたまま、呆然とその場に立ちつくした。

next→