躊躇いながら開けたドアの向こう。ベッドサイドに小さな灯りがともっていた。 手に持っていた赤いスリッパをそっと床に置き、ベッドの横に跪く。 柔らかな息づかいを聞きながら、ジョーはじっと寝顔を見つめた。 まだ少し蒼白い顔。小さな薔薇のような唇。 時々不安げに、長い睫毛が動く。 「フランソワーズ・・・」 今、君はどんな夢を見ているの？ 『ったく、２人して、同時に、同じような夢を見るなんて』 仲がいいのも大概にしろ、とアルベルトは呆れ果てた顔で言った。 あの日、僕は夢を見た。 僕のせいで君を死なせてしまう夢。 君は僕を助けようとして、敵の中に飛び込んだ。止めようとしたのに間に合わなかった。 気がつくと、腕の中で君は冷たくなっていた。 抱きしめれば抱きしめるほど、凍えていく。 僕は必死に叫んでいた。 フランソワーズ！！僕をおいていかないで！ 思わず腕に力をこめた瞬間、君は粉々に砕け散った。 目覚めた僕は、激しい胸の動悸を君や仲間に聞かれたくなくて、ひとり洞窟を出た。 東の空。まだほの暗い空の裾が、赤く染まり始めていた。 まるで、血の色。 夜明けを見て、そんな不吉なことを考えたことはなかったのに。 あれはただの夢だ。 でも明け方に見る夢は正夢になる。 そんな迷信を思い出し、僕は怯えた。 絶対にそうはさせない。 どんなことがあっても君を守らなければ。 そのために、僕はこの体を与えられたのだから。 でも・・・ その日の午後のことだった。 絶妙のタイミングで、君は敵の中へ飛び出していった。 その動きに本能的に反応し、人質を助け出した僕を、君は一瞬振り返った。 ホッとしたように表情を和らげて。唇には微笑さえ浮かべて。 危ないっ！！ 僕が叫ぶと同時に、背後からあのサイボーグが切りつけた。 その後――――僕は、自分が何をどうしたのか、全く覚えていない。 気づいた時には君を抱きしめていた。 あの夢のようにはさせない、と叫びながら。 滴り落ちる血。マフラーを、僕の手を、そして地面を真っ赤に染めていく。 まだぬくもりはそこにあった。 けれど、君は息をしていなかった。 君を抱きしめたら、きっとまた思い出してしまう。 心がばらばらに砕けてしまったあとの真空の世界を。 空っぽの世界で、呆然と立ち尽くしていた僕自身を。 けれど、いつかまた、同じ事が起こる。 今度こそ本当に君を失ってしまう。 夢と現実それぞれに味わった絶望に、また僕は向き合わなければならないのか？ こんなに大切なのに こんなに愛してるのに 僕には君を守れない。 守れないどころか、僕は君を壊してしまうかもしれない。 さっきみたいに。 強引に腕を掴んだら、床に崩れてしまった君。 僕は、僕の腕は、君を抱きしめるには強すぎる。 いつかきっと、僕は君を本当に粉々にしてしまう。あのハートのチョコレートみたいに。 君なしに、僕は生きていくことなんかできないのに。 僕はどうすればいい？ 『お前も、いい加減わかってるだろ？』 窓の外を見つめたままの僕の背中に、アルベルトは静かに語りかけた。 『彼女はお前に守ってもらおうなんて、これっぽちも思ってない』 きっと、彼女は何度でも同じ事をする。 命とひきかえなら、自分にもお前を助けることが出来ると信じてる。 お前がいくら止めたって無駄さ。 そんなことはお前が一番よくわかってるくせに。 『その度ごとにお前が動揺してちゃ、そのうち愛想つかされるぜ。彼女はただのカワイコちゃんじゃないんだから』 ちゃんと愛せる時に愛しておけ。アルベルトの灰色の目は、いつもそう言ってる。 その静かな強い視線を、動揺している今の僕には受け止める自信がない。 僕の心を見透かしたように彼は言った。 『それくらいの覚悟はしろよ。もっとも・・・そんな彼女が、お前の手に余るなら、俺がいつでも・・・』 びっくりして振り返った僕に、彼はニヤリと笑った。 『やっと、こっちを向いたな』 『え？』 『人の話は、ちゃんと目を見て聞くもんだ』 『・・・？』 『・・・冗談だよ、馬鹿！』 会話は、そこで一旦途切れた。

君が見た夢。 あの時――― 「もし、あなたが・・・あんな風に・・・あの夢みたいに・・・私の目の前で・・・」 うわごとのように呟いたかと思うと、君は激しい口調で叫んだ。 「そんなの・・・嫌よっ！！」 何を言っているのかわからなかった。 それまで、君は一人で楽しそうにチョコレートを作っていたから。 僕が苦しんでいたのと同じように、いやそれ以上に、君もその夢に怯えていたはずなのに。 それに気づかずに、僕は独りで辛がっていた。自分の痛みだけにとらわれていた。 君の苦しみを、少しもわかろうとしないで。 「ん・・・」 フランソワーズが眉を寄せ、小さく呻いた。 苦しげな息。 また見ているのだろうか？辛い夢を？ 君は現実には怯えない。どんな時もちゃんと向き合おうとする。僕のように逃げたりしないで。 なのに、なんて残酷なんだろう。 つかの間の安らぎであるはずの眠りの中でさえ、君はそうやって闘っていなければならないんて。 せめて夢くらい、幸せなものであって欲しいのに。 だから。 こうして朝までそばにいる。 君がもしまたあんな夢を見ても、それは現実ではないと、すぐに伝えられるように。 ジョーはそっと頬に右手を伸ばした。 指が触れた途端、長い睫毛がゆっくりと動いた。 フランソワーズは静かに目を開けた。 「ジョー・・・？」 「ごめん、起こしちゃったね」 「ずっと・・・そこにいてくれたの？」 「今、来たところ」 首を振るジョーの右手に自分の手を重ね、フランソワーズはそっと頬に押し当てた。 「うそばっかり。こんなに冷たくなってるのに・・・」 ジョーはもう一方の手で、柔らかな亜麻色の髪を優しく梳いた。 見詰め合って微笑むだけで、こんなに優しい気持ちになれる。 ただ一緒にいるだけで。 迷うことも、怖れることも必要ないのに。 「ね・・・起こして」 「だめだよ、寝てなきゃ」 とりあえず、そう言ってみる。でも本当は、今、どうしてもこの胸に抱きしめたかった。 ジョーはベッドに腰をおろすと、起き上がろうとする彼女を支えた。 そっと体を引き寄せ、額と額をくっつける。 「フランソワーズ、ごめん・・・」 「ううん、私こそ・・・ごめんなさい。心配かけて」 腕の中にある柔らかなぬくもり。 彼女はそっとジョーの胸に顔を埋めた。 「フランソワーズ・・・？」 「もうしばらく・・・こうしてて」 トクン・・・トクン・・・。 規則正しい胸の鼓動が耳に響く。 「よかった・・・。ちゃんと聞こえるわ」 あの夢とは違う。 「あなたは・・・ここにいる」 そして―――君もちゃんとここにいる。僕の腕の中に。 涙の雫が頬を伝った。 ジョーは細い体を優しく抱きしめた。 「あ・・・それ・・・？」 ジョーがポケットから取り出したものを見て、フランソワーズは声を上げた。 透明なラップに包まれた、茶色い塊。 「ちゃんと拾ってくれたのね？」 笑顔でジョーを見つめる。 「今日がヴァレンタインだってこと、昨日知ったのよ。だから・・・」 何もプレゼントするものがない。こんな、砕けたチョコレートのかけらしか。 彼女は小さくため息をついた。 「十分だよ」 君がこうして、いてくれるなら。 だけど、君の思いのつまったチョコレートを、僕は壊してしまった。 「ごめん・・・フランソワーズ。チョコレート、割ってしまって」 あなたのせいじゃないわ、とフランソワーズは首を振った。 「じゃあ、せめて、もう１度ちゃんと渡すわね。今度は・・・要らないなんて言わないで、受け取ってくれる？」 フランソワーズが差し出した両手ごと、ジョーはそっと自分の手に包み込んだ。 じっと見つめ合う。ジョーはなかなかその手を放そうとしない。 「駄目よ、そんなことしてると、せっかくのチョコレートが溶けちゃうわ」 彼女はくすくす笑った。 「ね、食べてみて！」 うん、とジョーはフランソワーズの手の上のチョコのかけらをひとつ取り、口に入れた。 と・・・一瞬、浮かんだ当惑した表情。 「どうしたの？」 蒼い瞳が心配そうに見つめる。 ジョーは慌てて微笑を浮かべた。 「美味しくない？」 「ううん、おいしいよ。でも、予想と違ってて、びっくりしたんだ。・・・ちょっと大人の味だね」 「え？・・・大人の味？どういうこと？」 首をかしげながら、フランソワーズは記憶をたどった。 （まさか・・・？！） そう言えば・・・砂糖を・・・入れなかった？！ 溶かしたのは、ブラックチョコレートだったのに。 バレンタインに苦いチョコなんて。 慌ててたから失敗しちゃったわ、とフランソワーズは肩を落とした。 「いいよ。チョコレートは苦いほうが」 ジョーは笑った。 「どうして？今日だけは、甘くなければ意味がないわ」 「大丈夫」 チョコが苦ければ苦いほど、そのあとのキスが甘くなるから。 ジョーの囁きにフランソワーズは頬を染めた。 ようやく唇を離すと、ジョーは彼女の瞳をじっと覗きこんで尋ねた。 「寒くない？」 「ううん、大丈夫。でも・・・あなたは？」 後ろから抱きかかえるように座り直す。彼女の胸までそっと毛布をひっぱりあげた。 「ね・・・フランソワーズ」 「なあに？」 耳元で囁くジョーを肩越しに振り返る。 「・・・あっ・・・な、何するの？」 「チョコレートより、君のほうがいい」 「え？あ・・・だめよ、ジョー！嫌ッ」 「どうして？」 細い肩から、するりと布が滑り落ちた。剥き出しになる肌。 「お願い。今は・・・嫌っ！！」 泣き出しそうな顔でフランソワーズはジョーを睨んだ。 「いいから・・・」 「よくないわっ！ちゃんと・・・治るまで・・・イヤなの」 傷だらけの背中。醜い大きな傷跡。 なくならないにしても、せめてもう少し目立たなくなるまで。 見られたくない。 あなたにだけは・・・。 「酷いわ・・・ジョー・・・」 青い瞳から涙が溢れた。 ―――意地悪！！ どうして、わかってくれないの？ 俯いて両手で顔を覆った、その時。 「あっ・・・！」 フランソワーズは思わず小さな叫び声をあげた。 おまじない、とジョーは囁いた。 早く傷が治るように。 「こうしたら・・・きっと早く治るから」 傷跡をたどるように、優しく唇が触れていく。 「どうして・・・そんなに・・・聞き分けがないの？」 かすれた声が甘く震える。 「もう・・・キライ・・・」 白い肌が、ほんのりと薄紅色に染まりはじめた。

「とても・・・とても悲しい夢を見たの」 ジョーの胸に顔を埋めて、フランソワーズは呟いた。 その柔らかい体を、ジョーは無言で抱きしめた。 しばらくしてジョーもぽつりと言った。 「僕も・・・見たんだ。とても悲しい夢だった」 フランソワーズは黙ったまま頷き、つないだ手をそっと握りしめた。 今、腕の中で、フランソワーズは幼子のように眠っている。静かな微笑を口元に浮かべて。 もう大丈夫、とジョーは優しく耳元で囁いた。 二度とあんな夢を、君に見せたりしない。 これからは、いつもこうやって、お互いの胸の鼓動を聞きながら、眠りにつくから。 そうすれば、一人の時には襲ってくる夢魔も、決して手出しは出来ない。 柔らかな寝息。そしてぬくもり。確かな命の音。 優しい愛の子守唄が、僕たちの夜を守ってくれる。 2人に定められた、最後のその時が来るまで。

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Conte