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しんと静まり返った夜更けの湖畔に、小波の音だけが響いている。 満天の星。その蒼い光を浴びて、微かに羽を震わせた白鳥が、ひらりと宙を舞った。 重力も、時の流れさえも、今の彼女の前では全く無力だ。 永遠の命を得た妖精のように、フランソワーズは踊り続けていた。 だから、きっとこの手は届かない。 どんなに懸命に差し出しても、この指は彼女の身体をすり抜けて、その向こうに広がる虚ろな闇を掴むだけ。 思わずジョーがため息をついた時、軽やかな空気の動きが、突然ぴたりと止まった。 「どうしたの、ジョー？」 怪訝な顔をしたフランソワーズが、ジョーの瞳をごく間近から覗きこんでいた。 いつの間にか魔法は解け、白鳥は美しい人間の姿に戻っていたらしい。 「どうしてそんな怖い顔してるの？」 「え…？……怖い顔してた？ごめん……」 うろたえるジョーに、彼女はくすくす笑った。 「だって……眉間に３本もしわを寄せてるし。そんな顔してちゃ、せっかくのハンサムが台無しよ」 白い指が２本、ジョーの眉間をぐっと広げる。 と、彼女の姿が消えた。 違う。 消えたんじゃなくて、急に屈みこんだんだ。 って……まさか！？と、ジョーが焦った次の瞬間、彼女はゆっくりと上半身を起こし、両手にぶら下げた何かを、ぽおんと勢いよく放り投げた。 暗闇の中に小さな放物線が伸びていく。 ぱさ、ぱさ、と１秒ほどの時差で、１ｍほど離れて砂に刺さったのは、彼女のお気に入りの白いパンプス。 そして、もう１つ。何かやわらかそうなものが、すぐ手前にふわり、ふわりと落ちた。 「うふふ、やっぱり砂の上の裸足って気持ちいいわ！」 あっけにとられているジョーには全くお構い無しで、フランソワーズは髪をなびかせ、水際に駆けて行く。 ……裸足？ ……ってことは？さっきのは、やっぱり……？ 「ねえ、ジョー、そこで見てて！今から、３２回のグランフェッテするから」 「グランフェッテって、フランソワーズ……でも、君……裸足ってことは…靴も……えっと……それに……んと、あれも脱いじゃったの？」 「だって、裸足のほうが踊り易いんだもの。ストッキング履いてたら、破れちゃうでしょ？でも、脱いだのは靴とそれだけじゃないのよ」 「……えっ？！！…って、あの…まさか……？」 「うふふ、冗談よ！いやあねえ、ジョーったら。ほんとに、エッチなんだから。そんなことして回転したら、あなた鼻血出しちゃうでしょう？」 「フランソワーズ……！！」 真っ赤になって、今にも泣きそうなほど情けない顔をしたジョーに、彼女は悪戯っぽくウインクを投げた。 「えと……でも、寒くないのかい？ずいぶん冷えてきたよ。それに、今、ぐるぐる回ったりしたら……危ないと思うけど」 「大丈夫っ！そんなに心配しなくていいのよ。私だって、サイボーグなんだから！」 ３２回のグランフェッテ。 『白鳥の湖』の、ここ一番の見せ場。 「いい？私が回った回数を、あなたも一緒に数えててね！じゃないと、３２回になるまでに忘れちゃいそう。なんだか、頭がぼおっとしてるの。ちゃんと踊る自信はあるけど、数えるほうは怪しいから。あ、それから・・・さっき見たあの彼女のオディールのと私のと、どこが違うか、感想をお願いね！」 彼女の勢いに圧倒されたように、うん、と力なく頷いたジョーに、フランソワーズは天使のような微笑みを向ける。そしてゆっくりと目を閉じ、息を整えると、彼女はおもむろに踊り始めた。 怖い顔してる、か。 リズミカルに回転する彼女を見守りながら、ジョーはふうっと小さく息を吐いた。 まっすぐにこちらを見つめている蒼い瞳。 自分の美しさを誇示するかのような、挑発的なまなざし。 濡れた唇が、妖しく誘っている。 それは黒鳥そのものだった。さっきの可憐な白鳥を演じていた同じ人間とは思えない。 フレアースカートの裾が、ウエストあたりでふんわりと広がって翻っている。 闇に白く浮かぶ、彼女のすんなりとした脚。 そして……時折……ちらちらと……。 目をそらすな、といわれても、普段ならとても居たたまれなかったはずだ。 もちろん今だって心臓が破裂するんじゃないかと思うほど、ドキドキしている。 でも、今は、本当はそれどころじゃない。 話さなきゃ。 ちゃんと話さなければ、僕は、こうやって君のそばで、その笑顔を独り占めしているわけにはいかない。 時間がたてばたつほど、心の中に澱のようなものが重く沈んでいくような気がしていた。 怖い顔をしてると言われたのも、きっとそのせいだろう。 でも、最近ずっとみんなが一緒で、ゆっくり２人きりで話す時間もなくて……いや。 そうじゃない。それは言い訳にすぎない。 せっかくの君との時間をぶち壊して、嫌な思いをさせたくなかった。 だいたい、話したからといって、どうなるものでもない。 聞いて楽しい話じゃないもの。 それに起こってしまったことは、もう取り返しがつかないのだから。 ―――いいのよ、そんなこと、全然気にしてないわ。仕方ないことでしょう？ きっと彼女はそう言うだろう。 それじゃだめなんだ。 君が許してくれても、僕は……。 でも僕は、あの時、ちゃんと話す、と約束した。 だから君はきっと僕が話すのを待っている。 そう。それがどんなに君を傷つけることになっても、このままにはしておけない。 少しでも早く話さなきゃ。 今日こそ。出かけるときから、ずっとそう思ってきた。 だけど……今は……絶望的にダメだ。 だって―――フランソワーズは、酔っ払ってる。 完全に。 レストランを出た時から、ほとんど酩酊状態だったのだもの。 それなのに、今また、あんな凄い勢いでぐるぐる回ったりしたら……。 ”ねえ、ジョー！数えてくれてる？もう、私、わかんなくなっちゃった……” 甘えるような脳波通信の声。 ”…・…えっと……踵をついた回数を数えればいいんだっけ？……２０、……２１、……２２、……２３…” ジョーは、懸命に回転数を数えながら、長い前髪がふうっと浮き上がるほどの深いため息をついた。 |