チリン・・・チリン・・・チリリン。
ベランダにつるされた小さな風鈴が楽しげに踊る。
ついさっきまでの夕凪が嘘のようだ。
一日中燃え盛っていた太陽もすでに沈み、西の空にかすかにその残照が浮かぶだけ。
ようやく穏やかな夜が訪れつつあった。
「おや？フランソワーズはどうしたんじゃ？もうそろそろ時間じゃろ？」
手すりにもたれて、ぼんやりと海を見ているジョーに、リビングからギルモア博士が声をかけた。
涼しげな風が、長い前髪をふわりとなびかせる。
「ええ・・・今、着替えてるはずなんですが。さっきからずっと、部屋に篭りっきりで・・・」
「お姫さまのお支度には時間がかかるもんじゃろうて。しかし、ジョーも案外、似合うじゃないか」
「案外って・・・酷いなあ、博士！」
フフ、と声に出してギルモアは笑った。
「いやいや。なかなかの男っぷりだ。さすがフランソワーズの見立てじゃな」
おどけた口調でそう言いながら、博士は慈しむような目で彼を見つめた。
――親父さん。
仲間たちは博士をそう呼ぶ。
皮肉なものだ、とジョーは心の中で呟いた。
生身の体と引き換えに、彼が得たもの。
血のつながった家族以上の「仲間」。
そして・・・。

ポン！
ポポン！
乾いた音が響く。
少し遅れてドーンと重い地鳴りのような音が聞こえた。
もう始まったのか。
背伸びして岬の向こうをうかがうけれど、何も見えない。
その時、軽やかな足音が背後に近づいた。
「ごめんなさい、遅くなって・・・。帯を結ぶのに時間がかかっちゃったの」
ゆっくりと振り返り、ジョーは思わず息を呑んだ。
呆然とする彼を、怪訝な顔で見つめるフランソワーズが纏っているのは、珊瑚色の浴衣。
白い肌がいっそう輝やいて見える。
清楚な花模様が彼女にぴったりだ。だが彼女は小首をかしげ、ふと表情を曇らせた。
「・・・やっぱりどこかおかしい？習ったときは、ちゃんとできたんだけど・・・」
「え？」
あわてて首を振って打ち消した。
「い、いや・・・」

とってもよく似合ってる。びっくりしたよ。
君はいつもだってとても綺麗だけど・・・今夜は別人みたいだ。
まるで、空から舞い降りてきた天女のようで。

そんな言葉を、すらすらと口に出せたらどんなに良いだろう。
でも、その濡れたように輝く蒼い瞳に見つめられると、僕は何も言えなくなってしまう。
「だ、大丈夫だよ・・・・・・」
ポン！！
ポポン！ポン！
ドーン！ドーン！
彼の言葉をさえぎるように、また先ほどの音が聞こえた。
「あ・・・もう始まっちゃったのね？」
ベランダから身を乗り出すようにして、フランソワーズは岬の向こうを見つめた。
「ここからだとほんとに見えないわね。音はすぐ近くに聞こえるのに・・・」
片側に寄せて編んだ髪。後れ毛のなびく白い襟足。
ほっそりした首筋に目を奪われる。
振り返ったフランソワーズと目が合い、ジョーはあわてて唾を飲み込んだ。
「・・・じゃあ、そろそろ行こうか？」
「ええ」
頷きながら、またフランソワーズは心配そうな顔をする。
「ほんとに変じゃない？髪も・・・これじゃ、おかしいかしら？」
ふう、とジョーは息を吐き出すと、強くかぶりを振った。

変なわけないじゃないか。
さっき・・・振り返って君を見たとき、僕は心臓が止まるかと思った。
その髪型だって・・・艶かしくて、ゾクゾク身震いがするほどなのに。
ただ・・・口に出してうまく言えないだけ。
でも恥ずかしがってる場合じゃない。
彼女は、はじめて自分で浴衣を着て外出するんだ。
うまく着られるか心配して、今日のために、何度も何度も練習してた。
僕には一度も見せてくれなかったけど。
でも、我慢して待ってた甲斐があったよ。
こんなに綺麗な浴衣姿の女性は・・・初めて見た。
そう言いたいのに・・・。

「・・・とってもよく似合ってる。えっと・・・すごく・・・」
ポポン！！ポポポン！！ポン！！
ドーン！！ドドーーン！！
――すごく綺麗だ。
ジョーの呟きが花火の音にまぎれた。
「そう・・・。よかった・・・」
フランソワーズは頬を染めながら微笑んだ。
「ジョーもとっても素敵よ。さあ、行きましょ」


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　★


１ヶ月ほど前のことだった。
「ジョー・・・ちょっと・・・いいかしら？」
突然、耳元で声がした。
「な、何？」
背中に寄り添うようにフランソワーズが立っている。
どきり、と胸が大きな音を立てた。
あわてて振り向こうとした彼の肩に、優しい手がそっと触れる。
「あ！そのまま前を向いてて！・・・手を４５度に開いてちょうだい」
彼女は・・・何をしようとしてるんだ？
「いったい・・・何を・・・」
「いいから！じっとしてて、お願い」
どうやら彼の体に巻尺をあてて、寸法を測っているらしい。
彼女の指がジョーの首に触れ、あたたかい吐息がかかる。
くらくらと眩暈がした。
気持ちを落ち着かせようと大きく息を吐く。だが――。
「う、うわっ！！フ、フランソワーズ！！ちょっと・・・待って！！」
背後から抱きつくようにしていきなり腰周りを測りはじめた彼女に、ジョーは悲鳴をあげて飛び上がった。
前にまわったフランソワーズは、申し訳なさそうに彼の顔を覗き込む。
「あ・・・くすぐったかった？ごめんなさい」
「い、いや・・・そうじゃなくて・・・」
何が何だかわからないけど、でも彼女が一生懸命なのは確かだ。
自分が何に驚いたかなんて・・・とても恥ずかしくて・・・言えない。
ましてや、自分が考えていることを彼女が知ったら・・・・。
ジョーは慌てて頭を振った。
「今度は壁にくっついてくれる？そう、そうやって頭のてっぺんに定規をあてて。ジョーの身長計るの、大変だわ。私の背じゃ、全然とどかないもの」
「これでいいかい？」
持ってきた椅子の上に立ち、フランソワーズは壁に薄く鉛筆でしるしを入れた。
「ええ。あとは・・・この高さを測るだけだわ」
ジョーが手を伸ばして巻尺の端をしるしに合わせると、フランソワーズは反対側を引っ張り、かがみこんで床までの距離を測る。
――君はいったい何をしようとしてるの？・・・どうしてそんなに夢中になってるの？
測った数値をメモする真剣な表情に、ジョーは思わず笑みを漏らした。
まるで、遊びに熱中する小さな女の子みたいだ。
「これで・・・完了だわ！ありがとう、ジョー！さ、出かけてこなきゃ！！」
「え？」
ぼんやりと白い横顔を眺めていたジョーが我に返り、どこへ行くの、と問いかけたときには、彼女の姿はもうそこにはなかった。
はあ、とため息をつき、ジョーはぐったりとソファーに座り込む。
今のは一体なんだったんだろう。
まだ、心臓の鼓動は早鐘のように打っているし、頬も火照ったままなのに。
「参ったな・・・」
もしあの場面を、仲間の誰かに見られていたら、きっとまた派手に冷やかされていたに違いない。
「ふうう・・・」
長く息を吐く。
まだかすかな甘い匂いがその場に立ち込めているようだ。
背中に感じた彼女の柔らかい感触を思い出し、またため息をつく。
あれから一年、か。
もうすぐまた夏祭りの季節がやってくる。
そう。あの時・・・初めて・・・。
記憶の海にひとり浸っているうち、ジョーは先ほどの出来事などすっかり忘れてしまっていた。


「はい、これ・・・ジョーに・・・」
２週間ほどして、フランソワーズが、はにかみながら包みを差し出したことで、ようやくその謎は解けた。
「何だい？」
「開けてみて！」
中には和紙で出来た畳紙が入っている。
「・・・浴衣？」
「そうなの。来週のお祭り、浴衣で行くって・・・ほら・・・前に約束したでしょ？でも私だけじゃなくて、あなたも一緒に着てくれたらいいな、って思って・・・」
フランソワーズ・・・。
覚えててくれたの？
胸がきゅんと苦しくなる。
僕だって、あの時、その時のことを思い出してたのに。
まさか僕の浴衣を作るためにサイズを測ってたなんて、想像もしてなかった。
「ありがとう。すごいな・・・」
すぐに手にとってみる。さらりとした肌触りのよい木綿。
「旅館の浴衣しか着たことないから・・・嬉しいよ」
「あ・・・でも、もちろん私が縫ったんじゃないのよ。布を買ったお店でちゃんと仕立ててくれたの」
合わせてみて、という彼女の言葉に頷き、ジョーは広げて肩に当てた。
「とても涼しそうな色だね」
「でしょう？うふっ・・・私のと合わせて選んだの。見た感じは全然ちがうんだけど・・・」
「君のは・・・まだ出来上がってないの？」
「ううん・・・もう、あるんだけど・・・」
フランソワーズは一瞬口ごもり、肩をすくめるといたずらっぽく笑った。
「でも・・・当日まで秘密よ！ジョーが気に入ってくれると嬉しいんだけど。・・・私、着物はもちろん、浴衣だって初めて着るから・・・緊張しちゃうわ」
白い頬を少し紅潮させながら、ジョーの目をじっと見つめて彼女は言葉を続けた。
「お店の人がね、着付けを教えてくれるんですって。練習用の浴衣も貸してもらえるの。でも何回か教えてもらうだけで・・・ホントにちゃんとひとりで着られるようになるかしら？」
愛しくてたまらなかった。
あの些細な約束を守るために、君がそんなに一生懸命になってるなんて。
「フランソワーズ・・・」
床に座り込んで、浴衣を大切そうに畳んでいた彼女は、不意の呼びかけにはっと顔を上げた。
ジョーは跪くと、そっと細い体を引き寄せる。
「ありがとう・・・」
耳元で囁くように言うと、彼女をすっぽりと腕の中に抱きしめた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　★　


夏休み中の土曜日とあって、たいそうな人出だ。
駐車場はもういっぱい。花火のよく見える港からは、かなり離れた場所に車を停めた。
「下駄・・・大丈夫？」
「ええ。今のところは、ね」
痛くなったら、ジョーにおんぶしてもらうもの、と微笑う。
土手をブラブラと歩いていると、川風が心地よく頬をなでていく。
会場周辺は提灯がともされ、たくさんの露店が並び、まるで昼間のような明るさだ。
ポン、ポポン、ポン！！
ドーン！！ドドーン！！！
「あ・・・ここからでもよく見えるわね。わあっ！！綺麗・・・」
火の花がぱっと開いた。
キラキラと輝く星が、花の中心から尾を引くようにふわっと丸く広がる。
消えた、と思った瞬間、再びピカピカと強烈な光を放った。
「見て！！すごいわっ！！」
はしゃいだ声を上げるフランソワーズを見つめて、ジョーはくすりと笑う。
「なあに？・・・どうかしたの？」
「今年は、花火に見とれて迷子にならないようにしなくちゃね」
もうっ、と口を尖らせて、甘えるように傍らの彼を見上げると、わざと拗ねたように言った。
「あなたが・・・ちゃんと手をつないでてくれたら・・・迷子になんかならなかったのに」
ジョーは照れながら、そっと白い手を握り締めた。



去年のこの日。
風のない、とても蒸し暑い夜だった。
初めての長い「休暇」――研究所で過ごす最初の夏。
ポポン！！ポン！ド―――ン！
突然、開け放った窓から飛び込んできた音。
「花火じゃな。岬の向こうの港で、夏祭りをやるとは聞いとったが・・・今夜だったのか」
「・・・花火・・・だったのね」
ギルモア博士の声に、フランソワーズは笑顔で相槌を打った。
でも――。
ジョーは気づいていた。
音が聞こえたその瞬間、彼女の顔に一瞬怯えの色が走ったことを。

無理もない。
ついこの間まで、僕たちは爆音が始終鳴り響いている場所にいた。
花火の音で、そのことを思い出したとしても不思議じゃない。
激しい閃光と炸裂音は同じだもの。
でも――。

「音だけとは残念じゃな。日本の花火の技術は世界一だというから・・・」
３人でベランダに出て、音のする方角の空を眺めた。
たが、手前の山が邪魔になって見えない。
「そんなに綺麗なの？」
フランソワーズはじっとジョーの顔を覗き込む。
「うん・・・技術についてはよく知らないけど・・・でも夏になるとあちこちで花火大会があって・・・確かに綺麗だと思うよ。いろんな色や形があって・・・」
「せっかくだから行ってきたらどうじゃ？イワンの面倒はワシが見るから」
博士の言葉に甘えて、２人は出かけることにした。


ポン、ポン、と遠くで威勢良く花火が上がる中、露店をひやかしながら港に向けて歩く。
白いスリップドレスを着た彼女は、いつもより大人っぽく見える。
「あ・・・あれは・・・なあに？」
「ん・・・いい匂いね。何を焼いてるの？」
「あの人たち、何を投げてるの？何してるの？」
目にするものすべてが珍しいのか、次々と質問をジョーに浴びせかける。
「ねえ、今日はどうしてみんな着物着てるの？」
「え？・・・あれはね、浴衣だよ」
「ゆかた？」
着物じゃないの？と、不思議そうな顔をしたフランソワーズに、ジョーはどう説明してよいか途方にくれる。
「いや・・・着物なんだけど・・・もともとは寝巻きというか、そう、バスローブなんだ」
「バスローブ？バスローブで外を歩くの？」
「今はね、夏の夜のカジュアルな外出着になってるんだよ」
「そうなの。とっても可愛いわね。いろんな模様があって・・・綺麗ね」
そう言いながら、彼女はうっとりと周りの女の子たちを眺めている。
確かに、浴衣を着ている女の子は、ふだんよりもずっと可愛く見えるような気がする。
フランソワーズの浴衣姿・・・。どんなだろう。
「あ・・・ジョーったら、可愛い女の子に見とれてるのね！！」
ぼんやりと考えていたジョーに、彼女は唇を尖らせた。
「そうじゃないよ！・・・君が・・・もし・・・浴衣を着たらどんなに・・・」
誤解を解こうとして、あわて、つい口が滑る。
自分が何を言おうとしたかに気づき、顔から火が出そうになった。
「い・・・や・・・その・・・君も・・・浴衣を着ればいいのに」
「え？私が浴衣を着るの？似合わないわ」
「どうして？」
「だって・・・着たことないもの。着物って着るの難しいんでしょ？」
ウフフ、とフランソワーズは笑った。
「そんなことないよ。見てみたいよ。きっと君なら・・・」
そう言いかけて、またジョーは焦る。
僕はどうしたんだろう。いつもならとても言えないようなことを、平気で言おうとしてる。
「じゃあ・・・もし・・・似合ってなくても笑ったりしないって約束してくれる？」
「うん。でも、そんなこと、心配しなくても大丈夫だよ。きっと・・・」
「じゃあ、来年のこのお祭りにね」
１年先の小さな約束。
それ自体は他愛もないことだ。
でも僕たちにとって・・・１年先はとてつもなく遠い。
来年の今ごろ、僕たちはどうしてるだろうか。
ふっと気持ちが暗くなるのを、彼女の明るい声が吹き飛ばした。
「あ・・・ジョー！ねえ、これは何？」
親子連れが集まっている金魚すくいのコーナーで、ふと足をとめる。
「ここは何を売ってるの？」
「金魚をたくさんすくったら、もらえるんだよ。でも・・・網が紙で出来てるからすぐふやけて破れてしまうんだ」
「そうなの・・・。ね、ジョーもやってみて！」
ジョーの隣に寄り添うようにしゃがみこむと、自分の膝に肘をついて、じっと彼の手元を見つめた。
「うまいわね！あ・・・今度はその・・・黒い模様がついたのがいいな」
「よし！じゃあ・・・それを・・・」
たかが金魚すくい。
だが、ジョーは妙に真剣になって、瞬く間に獲物を追い詰めていく。
コーナーで一気にすくい上げる。
ぽちゃん・・・。
黒い斑点のついた大ぶりな赤い金魚は、すすっと水槽の向こうに泳いでいってしまった。
「あ〜あ・・・逃げられちゃった。もうちょっとだったのにな！」
悔しがるジョーを見つめ、フランソワーズは声を上げて笑う。
「うふふ・・・惜しかったわね。でも・・・紙が破れちゃったら仕方ないわ」
自然に、とても自然に、今こうやって寄り添っている。
まるで――僕たちは・・・。
じっと自分を見下ろしているジョーの視線に気づき、フランソワーズはさっと頬を染めた。

チリン・・・チリリン・・・チリン・・・チリン・・・。
ようやく吹き始めた夜風に乗って、涼しげな音が響く。

「あら・・・？・・・何の音かしら？」
「あれは風鈴、っていうんだよ。夏の間、家の軒下に吊るして・・・風が吹くたびに音が鳴って・・・」
「素敵ね。ほんと・・・涼しげな音だわ」
人の波を掻き分けるようにして、音の源らしい露店に近づく。
チリン・・・チロリン・・・チリンチリン・・・・。
大きさも、形もまちまちの風鈴たちの大合奏。
「いろんな種類があって・・・音も一つ一つ違うのね」
「博士にお土産に買って帰ろうか？」
「ええ、それがいいわね。ベランダに吊るしましょ」
青い桔梗模様の短冊がついた小さな風鈴に、そっと白い手を伸ばす。
チリン・・・チリン・・・。
とりわけ高く澄んだ音が響いた。


ポン、ポポン・・・ポンポン・・・ポン！！
ピュ――――！！
次々と威勢良く上がる花火。
絶好のビューポイントとなる広場は、人でいっぱいだった。
「わあ・・・綺麗！！」
大きく開いた花が、すうっと地上すれすれまで垂れて消える。
二重、三重に開き、チカチカと色が変化する星のような光。
「すごいわ！！こんなの見るの、初めてよ！！」
光の饗宴に、フランソワーズは歓声を上げる。
ジョーも久しぶりに見る花火に心を奪われていた。
前にこうやって花火を見たのはいつだろう。
思い出せないくらい昔のこと。
こんな人ごみの中じゃなくて、きっと、遠くから一人で眺めていた。
そう、ひとりぼっちで。
だけど、今は――。
花火が輝くたびに浮かび上がる、白い横顔をそっと見つめる。
こうやって・・・君がそばにいてくれて・・・。
だから僕は・・・。

僕は初めて海岸で会ったとき、びっくりした。
イワンを抱えて、僕を優しい目でじっと見ていた君は、その場面には似つかわしくないほど美しかったから。
どうしてこんな女の子が？不思議でたまらなかった。
でも、君はとても気丈で勇敢で・・・僕なんかよりよっぽどしっかりしてた。
緊張と恐怖の連続の中、みなが顔を引きつらせて頑なになってしまう時も、君はいつもそのしなやかな優しさを失わなくて。
誰よりも、争いや殺し合いを嫌っているのに。
誰よりもその澄み切った心を痛めていたのに。
でも傷つきながらも、君は僕みたいに決して弱音を吐いたりしない。
いつからだろう。そんな君を守りたい、って思ったのは。
僕が、仲間の中で一番優れた力を与えられたのが運命なら、僕が君を守る、と。
そう決めていた。
だけど・・・本当は僕の方が、ずっと君に支えられてきたんだ。
その笑顔で、あたたかく僕を包んでくれた・・・。
サイボーグになって、生身の体と引き換えに、僕が得たもの。
それは・・・。

後ろから人に押されて、ジョーははっと我に返った。
さっきから大変な混雑。ぼんやりしていると、はぐれてしまいそうだ。
「フランソワーズ・・・」
手を取ろうと傍らを見やり、ぎくっとした。見も知らぬ中年の女性。彼女の姿は、ない。
人ごみは少しずつ移動しているから、どこかに流されていったのか？
「フランソワーズ！！」
声に出して呼んでみる。
だが、花火が終わってしまうとあたりは真っ暗。
とにかく人が多すぎてどうしようもない状態だった。
「まずいな・・・」
焦ってじたばたしても仕方ないとわかっている。
あたりを見回しながら、彼女を捜す。あちこちから子供の名を呼ぶ母親の叫び声が聞こえる。
彼女のことだから心配しなくても大丈夫。そう思う。
だけど・・・。
ふと、爆音に怯えたあの時の彼女の表情が浮かんだ。
ずっと気になってた。
――君のあんな顔、今まで見たことなかったから。
いつも、辛い思いをじっと一人で抱えていたの？その優しい笑顔の下に。


「ジョー！！」
どん、と柔らかいものが背中にぶつかり、すがりついてきた。
「フランソワーズ！！」
振り返ったジョーの胸に飛び込んできた彼女を、慌てて受け止める。
「よかった・・・。はぐれちゃったかと思って・・・心配したよ」
返答はない。剥き出しの白い肩が、彼の腕の中で小刻みに揺れている。
「どうしたんだい？そんな・・・」
防護服姿でない君をこんなふうに・・・抱き寄せるなんて初めてだ。
震えている華奢な体。
こんなに細かったなんて。折れてしまいそうなくらいだ。
「もう・・・心配ないよ。こわかった？」
ううん、と彼女は小さく首を振り、涙に濡れた頬をそっと彼の胸に寄せる。
ジョーはたまらずに、腕に力をこめて抱きしめた。


――私・・・
消え入るような声。
チリン、チリリン、と吊り下げたばかりの風鈴が鳴る。
「私・・・あなたを探すのに『目』を使ってしまったの。無意識のうちに・・・」
「フランソワーズ？」
すすり泣きながら彼女は言葉を続けた。
「私・・・私・・・もうやっぱり普通の人間じゃないって・・・思い知らされた。こうして・・・こんなに平和なのに。ここは戦場じゃないってわかってるのに。サイボーグでない自分でいられるはずの・・・このときにまで、『能力』を当たり前のように使ってしまうなんて。嫌だわ。こんな自分が・・・嫌い。でも・・・」
体を震わせて、またぽろぽろと涙を流す。
「そんな風に思って泣いてる自分がもっと嫌い」
「フランソワーズ！！」
ごめんなさい、と体を離そうとした彼女の両腕を、ジョーは優しく掴む。
「僕は・・・いつだって加速装置くらい使うよ。君の・・・ため・・・だったら」
そう言いながら、腕の中にまた抱きしめる。
「君が・・・自分のこと嫌いでも・・・僕は・・・」
「ジョー・・・？」
何か言おうとする彼女の言葉を封じるように、ジョーはそっと唇を重ねた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　★


「すごい人ね。去年より、多いみたい」
そうだね、と頷きながらジョーはそっと彼女の体を引き寄せる。
こういう場面なら、照れる必要もない。
パパン！パン！！！
仕掛花火に次々と火がつけられる。
キラキラと流れ落ちる滝の豪華さに、群集はいっせいに息を呑む。
高く高く吹き上がる光のシャワー。
そして、ここからがいよいよクライマックス。
何百発の花火が連続して打ち上げられる。
ポン、ポン、ポポン。ポンポンポン・・・ドーンドーン・・・。
青、緑、赤、紫、黄金色・・・。いくつもの花が同時に夜空に開き、星になっていく。
一番最後の大きな花火が、キラキラと輝きながら姿を消すと、人々はぞろぞろと動き始めた。
人ごみに押されて、つないでいた手が離れてしまった。
「フランソワーズ！そっち行っちゃだめだよ。・・・またはぐれちゃうよ」
「うふ・・・。大丈夫よ。それに、もしはぐれても・・・」
彼女はどんどん押されて流されていく。
慌てて追いかけようとした、その時。
ジョーの足元で、くすんくすんと鼻をすすり上げる音がした。
無理やりスペースを作ってしゃがみこみ、泣きべそをかく小さな女の子を抱き上げる。
「どうしたの？迷子になったのかい？」
「ママ・・・ママ！ママああ！！」
見ず知らずの男に抱き上げられて、その子はいっそう激しく泣きじゃくり始めた。
――参ったな。
しかたない。肩車して、親が見つけてくれるのを待とう。これじゃまるで・・・誘拐犯だ。
「リナ！！」
鋭い悲鳴のような叫び声。わが子を見失って動転していた母親が必死の形相で人ごみを掻き分け、近づいてくる。
やれやれ。頭を下げる母親に子どもを手渡して、ほっと一息つく。
「フランソワーズ？？」
まただ。
また今年もはぐれてしまった。
焦っても仕方がない。深呼吸して、冷静になろうとする。
だが、なぜだか不安で不安でたまらなかった。
「フランソワーズ！！」
彼の大声に周りの人間がいっせいに振り向いた。
しかし彼女の姿はどこにもない。
ここで彼女を見失ってしまったら・・・もう二度と会えないかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
そんなはずはないのに。そんなことはありえないのに。
ずっと、ずっと求めても得られなかったもの。
生身の体と引き換えに僕が得たもの。
失いたくない。
そう思えば思うほど、不安は強くなるばかりだった。
このあたたかさに慣れてしまった今、・・・それを失ったりしたら。
――きっと僕は耐えられない。
こんなにも・・・彼女のことを・・・思っている自分がいる。
ずっと誰のことも好きになれなかった。
そんな自分がもっと好きになれなかった。
なのに・・・彼女はそんな自分の前に、天女のように舞い降りてきた。
でも、いつか、天女は空に帰ってしまう。僕を地上においたまま。


息苦しい。
人の波に溺れそうだ。
ジョーはその波をかき分けるようにして、懸命に彼女の姿を探し続けた。
と、前方で、きらり、と亜麻色の髪が輝いた。
「フランソワーズ！！」
「ジョー！そこにいたのね？」
ニコッとして振り返った彼女に飛びついて、抱きしめる。
「ど・・・どうしたの？苦しいわ・・・」
フランソワーズが真っ赤になるのにも、全くかまわずに。
「・・・心配・・・した」
「ジョー！どうしたの？そんなに・・・」
「離さない・・・」
亜麻色の髪に顔を埋めて、彼はぼそりと呟く。
「どこにも・・・行かせない・・・」
「ジョー・・・？」
フランソワーズは黙ったまま、そっと彼の背中を抱きしめた。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　★


チリン・・・チリリン・・・。
涼やかな風鈴の音。
ベランダの手すりにもたれながら、ジョーは囁くように言った。
「不安で不安でたまらなかったんだ。君に・・・もう・・・」
会えないかもしれない、なんて。
「どうして？だって・・・私はちゃんとあなたを探すし、あなたも私を探してくれるでしょう？だったら・・・絶対に会えないはずないじゃない」
彼女はじっと彼を見つめると、まじめな顔で言葉を続けた。
「でも・・・・ほんと言うとね、去年、私も・・・同じこと考えてたのよ」
「去年？」
「あなたとはぐれて・・・もうこのままずっと・・・会えなくなってしまうんじゃないかって。そう思ったら、悲しくて・・・」
「フランソワーズ・・・」
「それに、迷子にならないように、なんて言ってたくせに、ジョーったら手もつないでくれなかったでしょ？」
「そ、そうだったっけ・・・」
「ええ。『目』を使ったことより・・・ずっと・・・悲しかったわ」
「ほんとに？」
まさか。彼女が泣いていたのは、そのせいだったのか？
「ううん、嘘。冗談よ」
「なんだ・・・一瞬、信じたじゃないか」
２人は顔を見合わせて吹き出した。
「でも・・・このままあなたに会えなかったらどうしよう、って思ったのはほんとよ」
「フランソワーズ・・・」
「でも今は・・・そんな風には思わないわ。だって・・・」
ねえジョー、とフランソワーズは甘えるように肩にもたれかかると、じっと彼の目を見上げた。
「私は・・・どこにも行かないわ」
「え？」
「ずっと・・・あなたのそばにいる」
僕はいったい何を不安がってたんだろう。
君がこんな目で、僕を見つめてくれてるのに。
そう。僕もずっと君のそばにいる。だから・・・。

「いいこと思い出した」
細い肩を引き寄せて抱きしめる。
「なあに？」
「天女を空に帰さない方法」
「天女？・・・何のこと？」
「いや・・・いいんだ。何でもない」
――僕はいったい何を言おうとしたんだろう。
とてもじゃないけど、そんなこと、口に出せない。
自分の言葉に真っ赤になっているジョーを、フランソワーズは不思議そうに見つめた。

チリリン、チリン・・・チリン。
彼の心の中を見透かしたかのように、風鈴が笑った。



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