| ぼんやりと煙るように瞬く街の灯 無言のまま、ただ歩いた 音の魔法に包まれた時空の断片 確かに君と共鳴していたとの思い 口を開けば、すべて泡のように消えてしまいそうで もう少しだけ、もうしばらくの間だけ この心地よい残響に身をゆだねていたい ――うたかたの夢、と知りつつも 「悪かったな。遅くまでつき合わせて･･･」 傍らを歩く君が、じっと俺を見上げる。 「ううん、とても楽しかった。素敵なコンサートだったわね」 「でも・・・アイツは・・・今ごろ、きっと心配してるだろうな」 所在なげに、リビングのソファに座っているアイツの顔が目に浮かぶ。 「心配？―――どうして？」 心底びっくりした顔。 「あなたと一緒なのに？・・・大丈夫よ」 それに、とクスッと微笑う。 「今日はジョーもジェットと出かけてるわ。同じでしょう？」 それは違う。 同じでも、大丈夫でもないさ。でも―――そう思うのは・・・俺だけ､か。 心の中で苦笑する。 「朝帰りになるかもしれないんですって」 亜麻色の髪を優しく揺らし、小さく肩をすくめる。 「ジェットったら･･･どうしてもジョーを連れて行きたいところがある、なんて急に言いだして･･･。 おかしな人ね。とても凄い場所に『勉強』しに行くんですって。・・・あの２人・・・大丈夫かしら」 声をひそめて囁く。けれど言葉とは裏腹に、君は少しも心配そうな顔なんかしてない。 ほんの一瞬、ふっと遠くを見つめる、そのまなざし。 また―――あの目だ。 『ふうん、２枚か。で、もう誘ったのか？』 『誘う？・・・誰を？』 『しらばっくれるなって。最初からそのつもりだったんだろう？ま、いいじゃねえか。 いつもアイツに独り占めさせなくてもさ。あとは俺に任せとけよ！呼んで来てやるから』 意味ありげにウインクすると、ジェットは姿を消した。 俺は何も任せたつもりなどない。余計なお世話だ！ そう言おうとした時には、足音は勢い込んで、階段を駆け下りていた。 たく、お節介な奴め。 俺はふうっと溜息をついた。 机の上に無造作に放り出された２枚の紙切れ。 さっき、ふらりと部屋に入ってきたジェットが目ざとく見つけたチケット。 そっと手にとり、きちんと並べて置き直す。 ―――９月１９日 秋の訪れとともに始まる音楽シーズン。 毎年俺たちの初日は、この日と決めていた。 そのチケットがキミからのプレゼントだったから。 ２人で少しお洒落して出かけた。 そのあとはゆっくりとおしゃべりしながらディナーを楽しんで。 本当にささやかな幸せだった。 ふと目に止まった街角のポスター。 ”最後”の年と同じプログラム。日付は９月１９日。 あまりに残酷な偶然。雷に打たれたように、俺は呆然と立ちすくんだ。 もちろん最初から行くつもりなどなかった。隣にキミがいないのに。 あの同じ曲目を、生で一人で聴けるほど、俺はまだ、ちゃんとキミの死を受け入れられていない。 なのに―――俺は気がつくと、２枚のチケットを握り締めていた。 もうあれから何年になるだろう。 キミなしでは生きられないはずの俺が、なぜ一人ここにいる？ だが時の流れは、俺の意思など全く無視して、無理矢理その痛みを変質させていく。 キミへの思いは少しも変わらないのに。 そして、いつしか俺は――― 明日は机に花を飾って、ワインでも開けよう。 部屋の灯りを消して、そっとこのチケットに火をつける。 くるくると巻きながら燃えていく、その小さなあたたかい光を見つめて、俺は一人でキミを思うよ。 心の中をキミだけで一杯にして・・・あの時の思い出に、２人きりで乾杯しよう。 な、ヒルダ。 それで許してくれるかい？ 明日は２人で静かに過ごそう。 そう決めていたのに。 「あなたが教えてくれたアガーテのテーマ。”ラ・ソラシミ”って、ちゃんと聞き取ることができたわ！」 瞳を輝かせ、君は小さな声で覚えたてのメロディーを口ずさんだ。 「今夜は夢の中にも、この旋律が浮かんできそうよ」 遠くの船のあかりを見つめ、うっとりと囁く。 「恋人の名前をメロディーにするなんて・・・ほんとにロマンチックね」 手すりにもたれた俺は、黙って頷きながら、君の白い横顔を盗み見た。 夜の風が、亜麻色の髪をふわりとなびかせる。 瞬きするたび、優しく揺れる長い睫。 満ちたりた吐息をつきながら、君はまたあの目で、暗い海をぼんやりと見つめている。 ふと俺の視線に気づいたのか、小首をかしげ、ゆっくりとこちらを振り返った。 「・・・アルベルト？」 ―――ＡＧＡＴＨＥ アガーテ。 彼女に捧げられたブラームスの弦楽六重奏。 彼は、恋人の名をそのまま音名にして、メロディーのモチーフにした。 でも・・・結局は実らなかった恋。 彼には密かに思いを寄せる女性が別にいた―――生涯愛し続けた女性、が。 「考えようによっちゃ、すごいプログラムだったな。ブラームスには残酷な・・・」 君は不思議そうに俺を見た。 「残酷？―――どうして？」 「２曲目のピアノトリオは・・・クララ・シューマンが結婚記念日に夫のロベルトへ贈ったものだ」 妻から夫への、愛のプレゼント。 だからキミは、はしゃいでこのチケットを渡してくれた。 『あなたのお誕生日に、ふさわしいプログラムでしょ？』 『じゃあ・・・いっそのこと俺達も、この日を結婚記念日にしてしまおうか』 『まあ、アルベルトったら。それって・・・プロポーズのつもり？』 そう言って、２人で笑ったのに。 「結婚記念日の贈り物？」 君は目を輝かせた。 「優しい曲だったわね。幸せが溢れてて・・・あたたかくて。彼女の人柄が想像できるわ」 「それに刺激されて、ロベルトもクララの誕生日にピアノ三重奏を贈ったんだ。なかなかいい曲だ。 シューマンの代表作の１つだよ」 「素敵だわ・・・。そんなふうに・・・美しいものを通して心が繋がってるなんて、うらやましいわね」 君はぽつりと呟いた。 ともに生き ともに死なん そは きみに会いしわが最後の言葉なりし そは この世の別れの如くあり・・・ きみ したわしき眼にて われを見・・・ ただひたすらに・・・ ともに生き ともに死なん ああ 至福に満ちし言葉 いつの日か きみ死なば、もろともに 暗き冥界へと 降りてゆかん さらば、きみ 黄泉の国の人となりて 神の御姿を 罪に悩みしわれに 示すらん * こんな愛の言葉を、それ以上にたくさんの美しい音楽を、シューマンは妻に贈り続けた。 だが、２人を待ちうけていたのは、信じられないような悲劇だった 次第に精神のバランスを崩したロベルトは、ある冬の朝、凍りつくようなラインに身を投げた。 彼女は身篭っていたのに。 ２年後に狂死するまで、彼は入院先の病院で、最愛の妻に会うことも許されず、ただ一人暮らした。 やっと会えたのは・・・死の前日。 その間も、そしてその後も変わらず、クララを支えたブラームス。 だが、ロベルトの死にもかかわらず、２人の仲はそれ以上に発展しなかった。 「バカな男だな」 「・・・え？」 「優柔不断もいいところだ」 誰かさんより・・・うわ手をいってる。 「赤面するような内容の、ものすごい量のラブレターを送っておいて。 まわりの誰もが２人は結婚するって思っていたのに」 だがそうはならなかった。 ４０年間思い続けて。 彼女が亡くなったその翌年、後を追うように男も死んだ。 重い汽笛。霧の中に船がゆっくりと動き出していく。 「彼女は、ずっと―――亡くなった人を思いつづけてたのね」 そして――― 「彼はきっと・・・ロベルトのためにあんな素敵な曲を作るクララを・・・ 愛に溢れた目で夫を見つめる彼女を・・・愛していたんじゃないかしら。だから・・・」 夫を見つめる目？ 「大切な思い出を踏みにじりたくなかったのよ。きっと・・・。 その思い出を彼女がどれほど大事にしてるか・・・彼が一番よくわかってたんだわ」 だから４０年間も思い続けて、支え続けて・・・。 「哀しいけれど・・・それはとても強い愛ね」 その言葉の一つ一つが、俺の胸に突き刺さる。 俺が先か、アイツが先か。ずっとそう思っていた。 強い体を持てばこそ 誰よりも「死」に近い場所にいるから 俺なら―――いつでもかまわない。どうせ死にそこなったんだ。 でも・・・何度ヒヤヒヤしただろう アイツが彼女を残して逝くんじゃないかと 何も言わないうちに。何も確かめ合わないうちに。 もしそうなったら俺は・・・ 妙な予感と覚悟が、いつしか俺の中に生まれていた。 だが、運命の歯車は、時に大きく軌道を外れる。 俺のセンチメンタルな予感など、あっけなく吹き飛ばしてしまった。 自分やアイツが先に逝くことは、当たり前のこととして受け止めていたのに。 君を失うなんて―――俺には、とてもそんな覚悟は出来ていなかった。 正義も、闘う意味も・・・何もかも虚しかった。 生きる気力さえ無くしてしまいそうなほどに。 でもアイツは違った。 君を失ったと思えばこそ、闘い続けた。 闘えば闘うほど、君は遠くなるとわかっていても。 苦しみもがきながら、空っぽになるまで闘うことが、まるで君への唯一の愛の証であるかのように。 その果てに、幸せなどないとわかっていながら。 なあ、ヒルダ 俺達は幸せになりたくて キミと２人で幸せになりたくて懸命だった。 愛し合ってるからこそ、幸せになりたいと思ったんだ。 他には何もいらなかった。キミさえいれば――― 何を壊しても、他の誰を傷つけてもかまわない。 キミとの愛のためなら。 それだけの価値のある愛だと信じていたから。 この世の何と引き換えにしても、俺達の愛を守りたくて そして･･･国も故郷も、何もかも捨てようとした。 キミと一緒に生き、そして共に死ぬのだと決めていた。 ２人の愛以外に守りたいものなど何もなかった。 そう思えることが、躊躇なくそうできることこそが、俺達の絆の強さだと信じて疑わなかった。 だけど――― 「アルベルト？」 ―――何か思い出していたの？ そう言いたげに、君はじっと俺を見つめる。 思い出してた。いろいろとな。 だけど・・・それを今、君に言うわけにはいかない。 「この曲は・・・２人で一緒に聞いた・・・最後の曲だった」 そう言えば、君は十分納得するだろう。 それも嘘じゃないから。 「彼女は・・・ピアノが好きでね。特にシューマンがお気に入りだったんだ」 シューマン―――そのピアノ曲のほとんどすべてを、妻に捧げるために書いた男。 君は黙ったまま、小さく頷くと、じっと俺を見上げた。 悲しいまでに澄んだ瞳。 なぜ君はそんなに強い？ 何もかも受け入れて、そうやって静かに微笑むことが出来るんだ？ 「半袖じゃ、寒くないか？」 「ううん・・・大丈夫よ」 だが潮風は、思いのほか冷たい。 俺はジャケットを脱ぎ、華奢な肩にそっと羽織らせた。 「あ・・・ありがとう」 柔らかな君の微笑。 これくらいは―――許されるだろう？ それからしばらく黙ったまま、２人で暗い海を眺め続けた。 なあ、ヒルダ 俺達は２人で幸せになろうと必死だったんだ。 これ以上ない愛のために 愛し合っていたからこそ、守りたかった。 命がけで自分の愛するものを守ることこそが、何よりも深い愛だと思っていた。 なのに――― 俺は不様に生き残り、キミは死んだ。 アイツがすべてを捨てて闘い続けることも 静かに受け容れられる君の強さ。 傷つくことも失うことも・・・すべて許して 自分を犠牲にするだけでなく、お互いを犠牲にすることさえも そして、それに伴う辛さも痛みも、すべて受け容れ合えるなんて――― なぜ、そんなことができる？なぜそんなに強くなれる？ それでは幸せになんかなれないのに。 共に生き、共に死ぬことさえも望めない運命。 でも―――だからこそ、深く強くなる愛。 その前には、俺達の美しい思い出が、色褪せてさえ見える。 暖かいランプの灯。 かすかにかすかに揺れている。 楽しげな人々のさざめき。 小さなバーの椅子に座り、俺はなぜか、ホッとしていた。 あのまま、あそこにいたら・・・俺は何を言い出していたか、自分でも自信がなかったから。 君はそっとグラスを持ち上げると、そっと俺の方に差し出した。 「・・・間違ってたら・・・ごめんなさい」 「・・・？」 咄嗟に、俺も君の仕草を真似る。 琥珀色の光を湛えたクリスタルが、チン、と澄んだ音をたてた。 「お誕生日おめでとう！」 「フランソワーズ！？どうして・・・？」 呆然とする俺を、君はあの目でじっと見つめた。 いつも、アイツを見つめる時だけに見せる、深い瞳の色が、今ここにある。 ―――天上の青 「ごめんなさい・・・余計なこと言って・・・」 いいや、と俺は首を振り、一気にグラスを空けた。 「Danke schön！」 研究所のガレージに車を入れると、待ちかねていたように玄関の扉が開いた。 「ジョー！もう帰ってたの？」 笑顔で駆け寄る君の姿に、俺はこっそり溜息をつく。 〜 Traume sind Schaume 〜 だが、そんなこと、はじめからわかっていたはずだろう？ 「お帰り、フランソワーズ。・・・楽しかった？」 明らかにホッとした表情を浮かべ、アイツは君に笑顔を向けた。 「ええ。とっても素晴らしい演奏会だったわ。楽しかった！」 アイツを見つめる君の瞳に、胸がずきりと痛む。 あの一瞬、同じだと思ったのは、俺の錯覚、か。 「その格好じゃ・・・寒くなかった？」 「ううん、大丈夫。でも―――ずいぶん早いのね？ジェットは？」 「う・・・ん。一緒に出かけたんだけど・・・」 ジョーは言葉を濁した。 偶然ジェットの知り合いの女の子に会って、２人は、そのままどこかへ姿を消したという。 「まあ！ジョーったら、フラレちゃったのね？」 「街の真ん中で・・・置いてきぼりにされて。今日はさんざんだったよ」 「そうだったの・・・。大変だったわね。でも、よかった」 心配して損しちゃったわ、と君は笑った。 「心配？何を？」 「うふふ、何でもないわ。あ・・・お土産があるの。みんなで食べましょ」 君は、白い箱をジョーに手渡した。 「ケーキ？」 「そう！とっても綺麗で、おいしそうなのよ。コーヒー、入れるわ。ジョーも手伝ってくれる？」 ２人は静かな笑みを交わすと、キッチンに向かった。 ゆっくりとその姿を目で追う。 そう。 俺が見ていたいと思うのは、お前を見つめる彼女の、その優しく強い眼差しだ。 結局のところ、俺は――― 「はい、アルベルト。君はブラックだったよね？」 ジョーが、コーヒーの入ったカップを差し出す。 ―――お前にはかなわない。 「え？・・・何？」 ジョーは怪訝な表情を浮かべて、俺を見た。 だめだ。 そんな子供みたいな無邪気な顔をしても、俺は騙されないぞ。 他の誰が、彼女にあんな目をさせられる？ 彼女の強さと優しさを支えているのは、お前だから。 「お前には・・・かなわないって言ったんだよ」 「どういうこと？」 ジョーはますます不思議そうに、首を傾げた。 もしこの先、そんな日が来るとしても―――そう、いつか必ず来ると俺達は知っている。 でもいいか。忘れるな。順番は俺が先だ。 俺のささやかな幸せを奪うことは、許さない。 だから・・・・・・ |
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| * ローベルト＆クララ・シューマン 「愛の手紙」 国際文化出版社 |