サイボーグ００９ 短編小説
| School excursion |
| （１） （あああ……行きたくないよぅ） じんじん痛む右頬をおさえながら、真弓は溜息をついた。だが引率教師が、歯痛で修学旅行に参加できないなんて笑い話にもならない。這ってでも行くしかないのだ。元気な時でさえ旅行後はボロ布のようになるというのに。 （もう最悪！この先が思いやられるわ。ましてや「あの子たち」だもんなあ） 彼女が担任する９組は、帰国子女や外国人生徒を優先的に受け入れている国際科だった。バラエティー豊かといえば聞こえはいいが、ある意味ぶっ飛んだクラスなのだ。 たとえば……１７才のくせにアルコールの匂いをぷんぷんさせているイギリス人や、昼休みに教室にカセットコンロを持ち込みチンジャオロースーを作って火災報知器を鳴らす中国人の生徒。ドイツ人のハインリヒは秀才の誉れ高く、カントやヘーゲルが愛読書で、時々真弓に議論を吹っかけてくる。喧嘩っ早くて陽気なジェットは女癖も口も悪いが、憎めないアメリカ人。……と、個性のない金太郎飴みたいな普通科とは大違い。何をやっても大騒ぎの超問題クラスだった。 そして、一番の問題児が、島村ジョー。「元帥」を「殴った」子だ。家庭環境が複雑だから非行に走る、という図式はあまりに短絡的だが、彼の場合は周りからそのように解釈されるだけの要素が揃いすぎていた。 ―――札付きのワル。 入学式の日に上級生に目をつけられ、派手な喧嘩をやらかして早々に謹慎処分になった。この学校始まって以来のとんでもない新入生。その後も校内外で喧嘩を繰り返し、１年間で何回謹慎になっただろう。ある生徒が彼に「手出し」をして完璧にのされた時、その子が言った言葉を忘れられない。 「とにかく……あの目が気にいらねえんだ」 「目が気に入らないからって……何で殴るのよ！別に彼が何か言ったりしたわけじゃないんでしょ？」 しかもどう見たって君じゃ勝てないでしょ、と真弓は心の中で呟いた。 「とにかくムカツクんだよお！あの目を見てると……背筋が……・」 確かに彼の目は―――授業中にはほとんど伏せられているが―――研ぎ澄まされたナイフのように冷たく光ることがあった。投げやりで、周りのことに無関心で、それでいてどこか淋しげな目。誰にも心を許そうとしない閉ざされた茶色の瞳。同じ年頃の子には、そこに湛えられた底知れぬ孤独や寂寥感という、自分達の日常とは異質なものに、本能的に恐怖をおぼえるのだろうか。 （お姉さんには、そういう目はたまらないんだけどなあ。母性本能くすぐられちゃう） 実際、蛮行には不釣合いな甘いマスクと、数々の武勇伝で彼は密かに女子生徒の人気の的だという。 確かに１７才にしては、ずいぶんいろいろなものを背負っている子だ。だが、「本当にどうしようもない子」ではない、と真弓は感じていた。 その彼が、１年生も終わりに近づいたある日、授業中に当時の担任の「元帥」を殴った。問題演習をさせて机間巡視していた「元帥」に、いきなり殴りかかったのだ。意外だった。自分から人を殴るような子じゃないと思っていた。ましてや教師に手を出すようなバカなことをするなんて。 「元帥」の本名は田中平八郎。数学教師。３５歳独身。 可愛い女子生徒だけ「○○ちゃん」と名前で呼ぶような、えこひいきは日常茶飯事。成績のいいクラスしか持とうとせず、本当は気が小さいくせに限りなく横柄な奴。その元帥が目の敵にしていたのが彼で、何とか早く学校をやめさせようと画策しているふしがあった。他の教師には無関心な彼も、元帥にだけはあからさまに反抗的だった。実力テストでは満点に近いのに、定期考査の数学の答案はいつも白紙で出す。それがまた元帥の怒りを買った。 だが、なぜあの日彼は突然元帥を殴ったのか。 彼はひとことも言い訳しなかったから、真相は闇の中だ。担任のくせに元帥は生徒指導委員会で彼の退学処分を主張したが、実は先に手を出したのは元帥の方だった。クラスの生徒たちは全員、なおも殴りかかろうとする元帥を島村ジョーが突き飛ばしたのだ、と証言した。 結局、事なかれ主義の管理職の意向で、彼は「リーチ」となった。あと１回何かやらかせば退学。しかし、それも時間の問題だと誰もが思っていた。 元帥は島村ジョーのいるクラスを放り出して普通科の担任にかわり、その尻拭いを真弓がすることになったというわけだった。 （……たく、何で私が……） ところが２年生になって、島村ジョーはめっきりおとなしくなった。もはや校内には、彼に喧嘩を吹っかけるような命知らずがいないこともあっただろう。担任の真弓とは、必要最低限の一方通行の会話しか交わさなかったし、教師の目の届かないところでは何をやっているかわかったものではない。だが、表面上は拍子抜けするほど、何事もなく月日が過ぎていった。 他の教師が茶化すように言う。 「小林先生は怒ると、この学校で一番怖いですからねえ」 「島村ジョーは典型的な愛情不足だから、肝っ玉母さんのような先生のもとで更生したってわけですね」 （子どもどころか……夫だっていない花の独身に向かって失礼な！） 担任が変わってそこまで生徒が変わる、ということが全くないわけではないが、この変化に有頂天になるほど真弓はオメデタクはない。 （何かあるはずだわ。きっと、他に理由が……） （２） ９組の委員長のフランソワーズは成績優秀・スポーツ万能･品行方正、と模範生を絵に描いたような美少女で、この高校のマドンナだった。素直で優しい性格の彼女は、休みがちな生徒に、さりげなくノートを貸したりプリントを届けたりするような、細やかな心配りのできる子だった。 「先生が担任でよかった……」 亜麻色の髪に空色の瞳。あの美しい笑顔を向けられると同性の真弓でさえどきまぎした。彼女は近頃ますます綺麗になったと評判だった。 （お年頃だものね。副委員長のハインリヒとホントにつきあってるのかしら？） そんな生徒の噂話にうつつを抜かす余裕があるなんて思ってもいなかった平穏な日々。 だが、とうとう事件は起こった。 修学旅行の１ヶ月前。またもや数学の授業中だった。 突然、彼はあの元帥にむかって暴言を吐いた。 「まだ懲りないのか！」 怯える元帥に掴みかかろうと彼が立ち上がったとき、彼女が叫んだ。 「やめて！島村君！」 フランソワーズの声に、ハインリヒが彼を羽交い絞めにして事なきを得たらしい。この件も指導委員会にかけられそうになったが、真弓が平身低頭してどうにか元帥を丸め込み、政治的に解決した。 （くそおお！こんな奴に頭下げるなんて……！） さんざん元帥の嫌味を聞かされた後、指導室で彼と向き合いながら真弓は溜息をついた。 「島村君、暴力も暴言もだめよ。気の合わない先生がいるのは仕方ないけど……」 「…………」 彼のだんまり作戦は去年から有名。何時間でもこの調子で黙っている。 「何か言いたいことがあるんなら、時と場所をわきまえて、ちゃんと話をしなさい。授業中は絶対ダメ。いつまでもこんなことしてるとホントに退学処分になっちゃうわよ」 「…………」 （む、空しい……） お決まりの反省文をとりあえず書かせるため、彼を部屋に残し、また溜息をつきながら廊下に出ると、柱の陰に誰かが佇んでいるのに気がついた。 「あら？フランソワーズ、どうしたの？下校時間はとっくに過ぎてるのに」 彼女は俯いて小さな声で、さよなら、と言い、生徒玄関のほうへ歩いていった。 とにかく、そんな生徒４０人を抱えての北海道４日間の旅が、壮絶なものになることは必至だった。行く前から、他のクラスでは当たり前のことを、いちいち説明しなければならない。たとえば、旅行のしおりの「生徒心得」。外国人の彼らには全く意味不明なのだ。 「ええ〜！せっかくネグリジェ新調したのにぃ〜♪何で体操服じゃなきゃいけないのお」 クラスで一番色っぽいシンディは、ジェットの彼女だった。 「名札なんかつけたら誘拐されちゃうわ！制服なんてダサいのにぃ！」 アメリカの大企業の社長令嬢メグもブイブイ言う。 「５分前集合って、何で集合時間より早く行かなきゃいけなんだよ、意味ないじゃん」 「日本の修学旅行っていうのはそういうもんなの。遊びじゃないのよ。『集団行動を通して人間関係を緊密にするとともに・・・云々』ってしおりの最初に書いてあるでしょ！」 「そんなもん無くったって俺たち十分緊密だよなあ、ハニー！」 「ねえ、ジェット♪」 （ああああ……もう！） 彼はちゃんと参加するだろうか。他の教師たち、特に元帥は、当日彼が欠席することを期待しているようだった。こうなったら意地でも連れて行くぞ、と真弓はいろいろと作戦を練る。札幌での１日フリータイムの班別行動は男女混合の６人グループだ。一匹狼の彼をどの班に入れるか。委員長と副委員長といっしょにしておけば何とかなるだろう。それに気のいいジェットも。彼らが一緒となると、今度は他校の生徒との喧嘩が心配だったが、女の子たちがいれば自重するにちがいない。 （部屋もハインリヒと一緒、ということにして……） 肝心の彼は、旅行に特に興味があるようでも露骨に無関心を装うでもなく、ただ淡々としていた。あまりに普通な高校生の彼の姿。真弓は拍子抜けしつつも、一抹の不安を感じていた。 （３） そんな、あれやこれやの心労のせいか、旅行の２・３日前から奥歯が疼くようになった。痛みのあまり、結局一睡もできないまま、真弓は集合場所へ向かう。次々と集まってくる生徒たちの中に、彼の姿を認めてホッと胸をなでおろした。 「先生、張君がまだ来てません」 点呼したフランソワーズの報告に、あわてて張々湖の家に電話する。 『もひもひ……』 『もひもひ、じゃないでしょ！！なんでまだ家にいるの！集合時間過ぎてるのよ！』 すぐに空港へ直接向うように指示し、真弓はぐったりとバスの座席に倒れこんだ。車中はすぐに大カラオケ大会と化し、１時間近い音の拷問の末、ようやく空港までたどり着いた。搭乗手続き寸前に、どうにか張々湖も滑り込み、５００人近い一団は無事ジャンボに乗り込む。 （個人旅行でこんな集団と乗り合わせそうになったら、私、絶対１便遅らせるわ！） 機内では、出席順の座席が気に入らない生徒たちが、席を替わろうと大騒ぎだ。 『皆さんがちゃんとお席にお着きにならないと、飛行機は離陸できません！！』 キャビンアテンダントの絶叫が何度も繰り返される。 「とりあえず、シートベルトのサインが消えるまでその席にいなさい！！」 （非常事態だ。これは体罰じゃないぞ！） 立ち上がろうとする生徒たちの頭を、もぐらたたきのようにボカスカ叩いて座らせる。 ようやく飛行機は飛び立ち、飲み物が配られる頃には、真弓はぐったりと座席に倒れこみ、泥のように眠っていた。 ――パシャ！！ 「先生が寝てる顔、写真に取ったぞ！」 （ああそうかそうか。……もう勝手にしろ〜！） 朦朧とする頭を振って機内を見渡した真弓の目に、意外な光景が飛び込む。 （へえ……あの子のあんな顔、はじめて見たわ） 彼は、後ろの隅の席にフランソワーズと一緒に座っていた。 （彼女は……ほんとに優しい子ね。彼と一緒にいてくれるなんて） 明るい陽ざしを浴びた穏やかな横顔。教室では絶対に見られない表情だ。 行事の時には、みんな、普段と違う顔をみせる。授業中には掴みきれない人間関係、特に男女関係は泊つきの旅行をすれば一目瞭然だ。あそこにもそこにもここにもラブラブカップル。 （あああ……みんな青春してるわね……） 真弓はズキズキする頬をおさえて溜息をついた。 １日目の宿泊先は温泉地での超豪華ホテルだ。 「あれ？もう一人は……ピュンマ君はどうしたの？」 「ハニーは今シャワーをつかってるよ」 「もう消灯時間すぎてるんだから！今頃シャワーなんか使ってないで早く寝なさい！ジェット、そんな格好で寝てると風邪ひくわよ！ちゃんと服を着なさい！」 「ちぇッ！おかあちゃんじゃあるまいし、そんなに怒ってばっかだと皺が増えるぜ！」 （ああもう！……やっと半分終わった。次は女子の階ね） 「あら？エリカ、シンディーは？」 「今、おふろ入ってますぅ！」 「何時だと思ってるのよ！消灯までに入りなさいって言ったでしょ！」 「だってえ、時間なかったんだもん〜」 「明日はちゃんと時間どおりに起きるのよ！ごそごそしないで早く寝なさい！」 「今日、先生ってば、チョー機嫌悪い？」 「悪い悪い！もういい加減にして、早く寝かせてよ！」 「誰も起きててって頼んでないのにぃ〜！早く寝れば？」 （ああもう！修学旅行なんて畳とふすまの旅館の時代の遺物だわ！カードキーでオートロックの２人部屋をどうしろっていうの。しめしあわせて入れ替わられたら……） ３０畳の雑魚寝が懐かしい。ツインルーム２０部屋分を点呼するなんてとんでもない労力。廊下をよたよたと歩きながら真弓はハタとあることに気づいた。 （……ん？ジェットとシンディー……ハニー……ピュンマとエリカ？） ひょいと頭に浮かんだ妄想を必死で振り払う。 その日真弓がベッドに入ったのは１時半を過ぎていた。 翌朝、集合時間になっても全員は揃わなかった。 「バスで８時３０分に点呼って言ったのに！朝ご飯のとき、彼らを見た？」 ３８人が首を横に振る。あわててフロントから内線をかけるが応答がない。部屋の前で激しくノックしても反応がない。仕方なくマスターキーで開けてもらった。 （はあ……） ドアを開けた途端、鼻についた匂いですべてを理解した。轟々と響く高鼾。 「グレート！張々湖！早く起きなさい！」 空ビンが散乱した部屋に踏み込むと、毛布を引っつかんで２人をたたき起こす。手当たり次第に荷物を鞄に詰め込み、寝ぼけ眼の２人を引きずって、バスに乗せた。 （もう〜先が思いやられるよお） ２日目にして、すでに疲労はピークに達している。 その日の教師の打ち合わせで、昨夜のことがいろいろと取り上げられた。閉まっていたはずの非常階段の鍵が開いていたとか、内線電話も携帯も鳴り放題だったとか。 （だから……どうしろって言うのよ！廊下で寝ろってか？） 結局、夜中の見回りを１回増やすことになった。 （無駄だと思うけどな。あああ……今日は２時半に寝られればいい方だ・・・） ましてや明日は班別自由行動。どうせカップルに分かれて好き放題するに決まってる。 いろいろと計画を立てるのに忙しいらしく、騒がしい声が夜遅くまで廊下にまで響いていた。 朝食が済むと生徒たちは嬉々としてホテルを出て行き、教師にとってつかの間の安らぎの時間がやってきた。今日は１日楽勝だ。昼下がり、真弓は歯医者に向かう。旅行社に無理を言って紹介してもらったのだ。 （腕のいい歯医者さんだって聞いたけど、結構凄いところにあるよなあ。ススキノってラーメン横丁だけじゃないのね。こんなところで生徒に出会ったら……大変だわ！） 治療を終え、数日ぶりに真弓の思考は正常に戻り、目の前の景色がようやくはっきり見えるようになった。 ――と、その時。 （ん？あれは……まさか？） さっと目の前を横切った寄り添う２つの影。見慣れた制服だったような気がした。 （まさか、まさか！！あそこから出て来たんじゃないわよね？） しかもあの女の子の髪の色は、そんじょそこらにある色ではない。亜麻色の髪……？まさか？！！ （ありえないっ！！疲れてるんだわ！この３日間ほとんど寝てないもの。見間違いよ！） 真弓は気持ちを落ち着かせようと１０秒間ほど目をつぶる。その後、あたりを見回してもそれらしき姿はなかった。 （夢だった……幻覚だったのよ。アブナイ妄想だわ。よりによって……絶対にそんなはずないもの） 何度も自分に言い聞かせて、忘れることにした。 （４） その夜もむなしい作業を繰り返し、真弓が自室に戻ったのは２時を過ぎていた。歯痛から解放され、今日こそは安眠できそうだった。 （ホテルの中にいるのなら、もう何でも好きにやってちょうだい） 旅行の最終日の夜に何も無いわけが無い。だが、外にさえ出なければ良しとしよう。 （やっと寝られる……） ベッドにもぐりこんだ途端、電話が鳴った。 「小林先生！警察から連絡があって、先生のクラスのあの子が……街で乱闘……」 （うぎゃああ！何でよおお！今まであんなにおとなしかったのに！しかも……彼女まで一緒だなんて、もう何がどうなってるんだか） 真弓は学年主任と共に、あわててタクシーに乗り警察署に向かった。事情聴取を受けている島村ジョーは主任にまかせ、しくしくと泣いているフランソワーズを抱きかかえるようにして、ホテルに戻る。ミーティングルームに彼女を連れて行き、事情を聞くことにした。 「ほんとに・・・あなたには怪我がなくてよかった。寿命が縮んだわ。どうしてこんなことになったのか、説明してちょうだい」 そこへあの元帥が飛び込んできた。彼は可愛い子が大好きなのだ。 「フランソワーズ！大丈夫かい！」 （あんたは引っ込んでてよね！ややこしいだけなんだから！） 「どうやって呼び出されたの？アイツに脅されたの？」 （あの子が女の子を脅すようなことするわけないじゃない！バッカじゃないの……） 彼女は元帥のほうには一瞥もくれず、真弓の顔を真っ直ぐ見て言った。 「私が……島村君を誘って外へ行きました」 教師達は呆然と彼女を見つめた。 「え？！」 「怖がらなくていいんだ。あんな奴は、退学にすればいいんだからね。君がホントのことしゃべったからって仕返しなんてできないようにするから」 「ね、フランソワーズ。きちんと説明して」 「アイツに呼び出されたんだろ？」 「違います。私が行こうって言ったんです。昨日もおとといも私が誘って、夜中ずっと一緒にいました」 いつもの彼女とはまるで違っていた。まるでこちらを挑発するかのようなきっぱりとした口調と強いまなざし。 （う、美しい！） 思わず真弓は見惚れてしまった。 「ず、ずっと……い、い、一緒にいたって……ど、ど、どこに」 元帥は、蒼くなったり赤くなったりしている。 「おとといは非常階段のところに一晩中いました」 はあっと、真弓は溜息をついた。 「信じられないわ。外で夜明かしするなんて……」 「でもホントです。先生達が見回りにきて、鍵を閉めちゃったから……」 「寒かったでしょうに……」 彼女はパッと頬を染めて俯き、首を横に振った。 （あああ……野暮なこと聞いちゃった。２人で１枚のコートにくるまって、膝にはもう１枚のコートをかけて……。うらやま……） 勝手な妄想にふけりそうになって、真弓は慌てて頭を振った。 「じゃあ昨日と今日はどうして？」 「だって先生達が非常口のところで見張ってたから……。昨日は河原の公園まで行きました。今日も、最後の夜だからどうしても一緒にいたくて……」 一同は顔を見合わせた。まさかホントに……模範生の彼女が？しかも相手は――。 「携帯で連絡とって……誘ったんです。彼は絶対だめだって言ったけど……私が先に外に出て、あの時計台のところまで行ってまた電話しました。そしたら……話してる最中に……昼間の自由行動の時に……ジェット達と喧嘩になりかけた他の学校の子に会って……からまれて。その子たちが私の携帯を取りあげて彼を呼び出しました」 「それで……？」 「その子たちが……たくさん仲間を呼んで……その中の子が……私を……。そしたらジョーが助けにきてくれて……それで……」 彼女の瞳からぽろぽろと涙が零れた。 顔を覆って俯く。 「あのね、もう１回で退学だからってそんなに庇うことないんだよ。あんな奴なんか退学になって当然なんだから」 元帥は擦り寄るように近づき、彼女の肩に手を置いた。 と、俯いていたフランソワーズはきっと顔を上げ、その手を振り払うと激しい口調で叫んだ。 「触らないで！！先生なんか、大っ嫌い！」 静まり返った部屋に、フランソワーズの嗚咽だけが響く。元帥は真っ青になって固まっていた。しばらく机に突っ伏したまま、彼女は泣きじゃくっていた。 と、突然フランソワーズが顔を上げた。 同時にドアが開き、事情聴取を終えた島村ジョーを主任が連れて入って来る。フランソワーズは弾かれたように立ち上がると、駆け寄って彼にすがりついた。 「ジョー！ごめんなさい……私のせいでこんな……ホントに……ごめんなさい」 彼は一瞬困ったような顔をしながら、包帯をしていない方の手で彼女の髪をくしゃっと掴むと、そのままぐっと自分の胸に抱き寄せた。 「もう……泣くな」 びっくりするほど優しい声だった。フランソワーズはまた嗚咽を漏らしながら、小さく頷く。彼女を見下ろす柔らかな茶色の瞳。オトナたちはただ呆然と２人の姿を見つめていた。 学年主任がようやく口を開く。 「もう遅いから部屋に戻りなさい。今日のことは学校に帰ってからだ。明日一日、きちんと団体行動をするように」 ２人は素直に頷き、真弓に促されて外に出ようとした。と、島村ジョーがドアのところでふっと部屋の中へ向き直った。思わず耳を疑う。彼の、低いがはっきりとした声。 「迷惑かけて……すみませんでした。いろいろお世話になりました」 （え？） 一同はあっけに取られて立ち尽くす。 「ジョー？」 フランソワーズも目を見開いて彼の顔を見上げ、また瞳を潤ませた。 （５） 「先生、ごめんなさい」 エレベータの中で頭を下げたフランソワーズに、真弓は黙ったまま頷いた。もう神経はズタズタ、体はくたくた。口を開く元気もなかった。女子の泊まっている階で一度２人を降ろし、彼にはエレベーターの前で待つように言い、彼女を部屋に連れて行こうとした。 一瞬、２人が視線を交わす。フランソワーズの青い瞳からひとしずく涙が零れた。真弓は自分が織女と牽牛を無理やり引き離す無慈悲な天帝のような気がした。彼女を部屋に入らせ、おとなしく待っていた彼と再びエレベーターに乗り込み、真弓はちょっと厳しい顔で彼を見つめる。 「お世話になりましたって、あなた学校やめるつもりなの？最初から……そのつもりで、そのために旅行に来たのね？」 彼はちょっと不思議そうな顔をして真弓を見返したが、壁にもたれるとエレベーターの天井を仰いだ。 「旅行中にあの先生を……夜中にでも呼び出して殴ってさっさとやめてしまうつもりだったんでしょ？」 彼は黙って天井を見つめたまま、ゆっくりと栗色の髪をかきあげた。 「言葉で止めても、あなたが考えを変えたりしないって彼女にはわかってたのね。だからあんな無茶して……一晩中一緒にいようとしたのは……あなたがそんなことをしないようにって彼女は一生懸命……毎晩……一晩中」 しゃべっているうちに真弓の頭にどんどん血が上る。 「あなたはハンコ捺すだけかもしれないけど、こっちは退学願の副申書、すごく詳しく書かなきゃいけないんだから！言っとくけど、先生は当分そんな暇ないわよ！」 フランソワーズの気持ちを考えると涙が出そうだった。 （彼女、ついさっきだって泣いてたじゃないの。なんていじらしい！） 「あんなに心配してくれる人がいるのに……あなたのことかばってくれる人がいるのに、どうしてそんなバカなこと考えるのよ！！」 ポケットに片手を突っ込み、壁にもたれたまま、彼は真弓をじっと見つめると、低い声で呟いた。 「先生も……相当思い込みが激しくて……心配性だな。想像力、逞しすぎる」 なぜか彼の目は笑っているようだった。 「……？」 「俺たちが一緒にいたのは……ただ一緒にいたかったから。それだけ」 「え？」 さあっと興奮が冷めていく。 「殴ってやりたいのはヤマヤマだけど……また泣かれると困るから」 チン、と音がしてエレベーターのドアが開いた。 「クビになるまでいるよ」 どっと疲労が押し寄せてくる。 「ったく……」 オトナを馬鹿にするんじゃないわよ……と言いかけたが、そのまま言葉を呑みこみ、黙って彼の後ろを歩いた。 ふいに彼が真弓を振り返る。 「先生。歯、痛いの……直ったんだ」 「えっ？」 彼が自分から真弓に話しかけたのはこれが初めてだ。 だが、そんなことに驚いている場合ではない。 「歯医者に行ってたんだろ？」 「じゃ、じゃあ……まさか……昼間のは……」 顔面蒼白になった真弓をからかうように、島村ジョーはふっと笑った。 （うわああ！何てカワユイ顔するのよお！……なんて言ってる場合じゃないのよっ！） 「ま、まさか……あなたたち……」 「……だったらどうします？」 「ど、ど、どうするって……そ、そ、そんな……」 「あははは！」 つられて一緒に笑ってしまいそうな屈託ない笑顔だった。 （あははは？……この子が声をあげて笑うなんて……） 「じゃあ……オヤスミナサイ」 呆然とする真弓の前でドアがバタンと閉まった。 （６） 例によって例のごとく、今回の旅行も『全員元気で無事に帰宅。何事もなし』と職員会議で報告された。だが教師の間では、件の話でもちきりだった。麗しのマドンナと学校一の不良のカップル。とてもありえない組み合わせ。しかも、修学旅行先で何があったことやら。 だが生徒たちはそんな下世話なオトナたちを冷めた目で見ていた。どうやら２人のことを知らないのは、教師だけだったらしい。 （ハインリヒはカムフラージュだったわけ？班分けとかいろいろ苦心したのはいったい何だったの？バカみたい） 彼が元帥を殴った理由もみんなとっくに知っていた。どの女の子も迷惑をこうむっていたのだ。机間巡視をしながら、さりげなく体に触れたりする下劣な奴。無神経なその手のセクハラほど始末の悪いものはない。キライじゃない相手なら、気にもならない行為だから。あの２月の事件以来、女生徒たちの間で、彼の株は上がりっぱなしだったらしい。 「アイツが授業中になれなれしくフランソワーズの髪を触ったのよ。そしたら彼がいきなりぶっ飛ばしたらしいの。俺の女に手を出すな、みたいで超カッコいい！」 「その頃はまだ２人はつきあってなかったと思うんだけど……でも言葉で告白されるよりずっと嬉しいわよねえ」 「退学になるかもしれないのに、自分のことなんかそっちのけで守ってくれるなんて、さすがよね！正義の味方みたいじゃん」 「なのにあのバカッたら……懲りずにまだやってるのよ。私も触られそうになって、足を踏んづけてやったわ！」 「でもこの間、彼はよく我慢したわよね。今度、殴ったらさすがに退学だもんね」 「そりゃあ彼女が悲しむからよ。でもアイツは、みんなが嫌がってること、まだ全然わかってないんじゃないの？あんな奴には天誅を加えるべきよ！」 憤懣やるかたない女の子たちの声を聞きながら、真弓はあの時の島村ジョーの笑顔を思い出していた。 （「……また泣かれると困るから」なんて、高校生のくせに生意気すぎるわ！） とにかく、主任や管理職に女生徒の苦情を告げ口し、秘密交渉の結果、何とか彼のリーチを解除することに成功した。さすがに元帥はこっぴどく搾られたらしい。 「ざまあみろだわ！これでも改まらなかったら教育委員会に匿名で電話して……新聞社の友人に……」 思わず口に出して悪態をついている自分に気がつき、背筋が寒くなった。 （ずっと教師やってると、どんどん性格が悪くなていく気がするわ……） 自己嫌悪に陥りながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。あれから代休もとれず沈没寸前の真弓の目に、まっ赤な夕日がしみる。 （あああ……修学旅行はこりごりだ。……もう二度と行きたくない） 校庭には、肩を寄せ合って歩く例の２人の影法師が長く伸びていた。 〜 fin 〜 |