もし、時を戻すことができるなら 時計の針を逆に回すように、時を遡れるのならば 僕は、何だってする。 無邪気な、翳りのない微笑。 自分の未来を懸命に追いかける、当たり前のわがまま。 そんなものを、もう一度、君が取り戻せるのなら 僕は、どんなことでもするのに。 「あ！いけない！もうこんな時間？急がなきゃ・・・」 棚の上の時計に目をやったフランソワーズは、あわてて椅子から立ち上がった。 「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」 向かいに座って新聞を読んでいたジャンは、笑顔で頷くと、妹の後ろ姿を見送った。 バタン、と扉が閉まる音。 ふっと視線を窓の外へ移す。 厚く垂れこめた灰色の雲。今にも降り出しそうだ。 ちゃんと傘を持っていったのだろうか？ いや、きっとそんなことなど考えもしないで、夢中で駆け出していったに違いない。 ったく、わざわざ迎えに行かなくたって、どうせここに来るのに。 場所だって、もうよくわかっているだろうに。 あんなに慌てて。 でも、君は・・・昔から・・・そうだったものね。 なぜ、あの時―― 僕たちは、あんな約束をしたんだろう。 ここに帰って来れば、ちゃんと君の顔が見られるのに。 なぜ僕は、戻る予定の列車の時刻を、君に教えたりしたんだろう。 ――いいや、それは特別なことじゃなかった。 僕の休暇の始まりは、当たり前のようにそうしていたんだ。 駅でおち合って、いつもの寄り道をして帰る。 焼きたてのバゲットと季節の花を買って、とりとめのないおしゃべりをしながら。 久しぶりに戻るこの部屋は、いつものように僕を迎えたはずだった。 なのに―― なぜ、もう少し早く帰らなかったんだろう。 いや、なぜ駅まで迎えに来させたんだろう。 いったい何がいけなかったんだ？ いつものとおりだったのに。 何度、問いかけても、どこにも答えはない。 ただ苦しくて、胸が破れそうになる。 歩み続ける平凡な時の流れに、一箇所だけあいた悪夢のクレバス。 僕たちはそこにはまり込んだ。 突然、僕は君を失った。 コツ、コツ、コツ。 棚の上で時を刻む時計。鈍い金色に光っている。 あれは、君が3つか４つの頃だった。 １時少し前を指したまま、針は動かなくなっていた。 時計が死んじゃったわ、と君は悲しそうに言った。 「音がしないの。何も言わなくなっちゃった・・・。」 今にも涙があふれそうな青い瞳。 「ごめんごめん、忘れてたよ」 ゼンマイを巻けば生き返るさ、と僕は笑った。 「お兄ちゃん、すごいのね。生き返らせるの？」 君は目を丸くした。 「そうさ。僕は魔法を使えるんだから。ここをこうやって巻いて、遅れた分の時間を進めて。ほら、これでいい。今からまた時は動き出すんだ。」 「動き出す？」 「そう・・・。時はね、こんなふうに動いていくんだよ。 昔から、今まで、休まずにずんずん歩いてきたんだ。そしてこれからも・・・ずっと先まで歩いて行くんだ。」 「今も？」 「そう、今も。ほら、みてごらん。針が進んでるだろ？」 コツ、コツ、コツ、と長針が規則的に歩んでいくのを、君は不思議そうに、見つめていた。 しばらくして、僕たちがとうとう二人っきりになってしまった時。 しくしく泣いていた君が、ふと何かを思い出したように、棚を見上げた。 懸命に背伸びして時計を両手にとると、大事そうに抱えながら僕に駆け寄る。 「お兄ちゃんならできるわ！ねえ、魔法で戻して！針をバックさせて！！そしたらまた、昨日に戻れる。そうでしょ？ね、お兄ちゃん。時計を元に戻して！」 じっと見つめる信頼しきった瞳に、僕は胸を突かれた。 そうだね。そうできたらいいね。でも。 「フランソワーズ、針を逆回しにしても、もう時は戻らないんだ。」 「どうして？」 「一度過ぎてしまった時は、取り戻せないんだよ。誰にも時の流れを止めることはできない。昨日には、もう帰れないんだ。」 ずっと前に進むしかないんだよ。どんなに辛くても。 「いや・・・戻りたい。もう一度、昨日に・・・」 僕の腕の中で、泣きじゃくりながら眠ってしまった君。 その小さな体を抱きしめたのは、ついこの間のような気がするのに。 どんなに追いかけても縮まらなかった。 君との距離は広がって行くばかりだった。 誰だ？妹をどこへ連れて行く？ 叫んでも、もう届かない。 他に何一つ変わらない、穏やかなこの目の前の風景から 突然、君だけが消えてしまった。 ――時は止まる。 大切な人を失った瞬間、時は歩むのをやめてしまう。 なのに季節は残酷にも巡っていく。 僕を取り巻く世界の時間と、心の時間の深い断層。 それが、僕を引き裂いていく。 一人ぼっちになった部屋。 僕は何日も何日も、止まったままの針をぼんやりと見つめていた。 「なあに？お兄ちゃん？」 僕の視線に気づいて、君はあわてて笑顔を浮かべた。 さっきまでのあの淋しげな表情を、その微笑の下に隠して。 久しぶりに戻ってきた君は、以前とどこも変わらないように見えた。 愛おしそうに、この部屋を眺めていた視線がはっと止まる。 その先にある黄金色の時計。 「止まってるわ。ゼンマイを巻かなきゃね・・・」 君はそう呟いて、そっと時計を手にとった。 昨日に戻れたら―― 時を戻せたらいいのに。 昔、君はそういって泣いたけど、今は何も言わない。 ただ黙って、時計の針を合わせてゼンマイを巻いた。 僕も何も言わない。 君が僕の大事な妹だってことに変わりはないから。 何があったの？ 君は、君たちは何をしなければならないの？ なぜ？ なぜそんな生き方をしなければならない？ でも君はそのことを、僕にわかってほしいとは思わないんだ。 いや、わからない、と思っている。 だから、君は僕の前で泣いたりしない。 君の今の居場所に、僕はもう踏み込めないの？ 君は、昔と変わらず、僕の大切な妹なのに。 きっと、尋ねれば何でも話してくれるだろう 僕が君の身を案じすぎない程度に。 でも僕は聞かない。 君を苦しめたくないから。 お互いのその優しさが、君と僕との越えられない距離を示している。 それはもう縮められないの？ 時を遡れないのと同じように？ 現実の世界にうまくなじめないの。 おかしいでしょう？ ずっと帰りたいと思ってた。 自分のいるところは、普通じゃないって思ってたのに。 帰りたくてたまらなかったのに 帰ることが怖かった。 「以前の私」がいた場所に そこに戻ることで、今の私と「以前の私」がはっきり違うことを 認めなきゃいけなくなるから――― 音もなく降り積もる雪。 窓際に立って外を見ながら、君はポツリと呟いた。 「私はもう・・・私じゃない。元には戻れない」 彼は黙って君を抱き寄せた。 僕は気づかれないように、静かに扉を閉めた。 夏の終わりのにわか雨。 激しくガラスを打つ土砂降りの中、、君は小さな花束を抱えて、はしゃぎながら帰ってきた。 もうすっかり顔なじみになった、茶色の瞳の青年を連れて。 彼のコートを２人でかぶり、ばしゃばしゃと水溜りをはねかしながら。 「ごめんなさい、せっかくのコートが、台無しになっちゃったわね・・・」 「いいよ、君が濡れるより・・・。あ、これは何だい？いつの間に？」 コートのポケットに、多分君が無理やり突っ込んだんだろう。 細長い包みを、彼が取り出す。 「あっ！！せっかくのバケットが濡れちゃったわ！パリパリの焼きたてだったのに・・・」 ２人は、ごく自然に笑みを交わす。 「お兄ちゃん、どうしたの？」 「いや・・・何でもないよ」 「そう・・・？さっきからずっとジョーの顔を見てるけど、何かついてるの？」 いいや、と首を振る僕を見つめたあと、２人は不思議そうに顔を見合わせて、また微笑った。 もし時を戻せるなら 時計の針を逆さに回すように、時を遡れるなら 僕は何だってする。 でも・・・君はどうなの？ 僕のすべてを投げ出しても、昔の君を取り戻したいと思っていたけれど 君は今も、そう望んでいるのだろうか。 本当に、あの時以前に戻りたい？ 君のこのやわらかな微笑を見ていると、僕の心は揺らいでしまう。 時は止まらない。 誰にも止めることなどできない。 うつろう時の流れの中で、何もかも変わっていく。 君も、僕も、昔と同じじゃない。 でもずっと見つめてる。 そして、いつも願っている。 君のあたりまえの幸せを。 もう君が、それを手に入れたいと望んでいないとしても。 Tu es ma petite soeur ――僕の可愛い妹